第19話 老鍼灸師、良き出会いを占う
儂とグレイが森を出て、五日ほど経った。
「さて……」
儂は道端に腰を下ろし、地図を広げていた。
グレイが隣から覗き込んでいる。
「お前、地図が分かるのか?」
「ニャ」
「そうか」
たぶん分かっていない。
前任者殿の家には、この土地で暮らすために集めたと思われる資料が、いくつも残されていた。
森の周辺や国境、街道、町、近隣の国々まで記された地図。それに、この世界やこの国の歴史について書かれた本もある。
森にいる間に、それらには一通り目を通しておいた。
おかげで詳しいことまでは分からんが、少なくとも森の周辺に何があり、どの辺りに町や街道があるのかくらいは把握できている。
その中で、儂が特に気になった場所があった。
辺境都市アドヴァーン。
この国の端に位置する土地だ。
古くから魔物との争いが絶えず、何度も魔物の大移動が起こり、村が放棄されたこともあるという。
今でも騎士団が常駐し、人と魔物の小競り合いが続いているらしい。
「魔物が多いなら……」
儂の頭に浮かんだのは、あの異質な気だった。
グレイ。森。湖。そして、小さな黒龍。
これまで儂が診てきた異変には、いずれもあの気が関わっていた。
しかも影響を受けていたのは、一匹の魔物だけではない。森の気は乱れ、湖は淀み、そこに暮らす生き物たちにも変化が及んでいた。
ならば、魔物の活動が盛んな土地へ行けば、同じような異変や、その痕跡に出会う可能性も高いかもしれない。
もちろん、行けば必ず何か分かるという話ではない。だが、ここに留まって考えているだけよりは、実際にこの目で見て、気を感じて、診た方が早い。
「まずは、この辺りじゃな」
地図を指で叩く。
旅の費用にも困らない。この世界の物価からすると、かなりの額の金が残されていた。
どうやら、しばらく旅をする程度なら十分らしい。
ありがたいことである。
そうなると、次の問題は――。
「どの道を通るかじゃな」
道はいくつかあった。
儂は空を見る。太陽の位置。時刻。方位。地図でいくつかの道を比べる。
そして、背負い袋から細長い包みを取り出した。
中には、自分で作った筮竹が入っている。
森で見つけた、妙に気の強い木から削り出したものだ。
儂は筮竹を取り、問いを定める。
「この道を進むこと、いかに」
静かに筮竹を分ける。数える。戻す。また分ける。何度か繰り返す。
やがて卦が立ち、儂はしばらくそれを見つめた。
出た卦は、良い。
「出会いがあるか」
新しいものと出会う。
そして、その出会いは儂にとって良いものとなる。
「それなら、決まりじゃな」
行き先は決まった。
儂は筮竹をまとめながら、ふと手を止めた。
……しかし、やはり妙だ。
何度か使っているうちに気づいたのだが、この筮竹で卦を立てると、その意味がやけにはっきりと頭に浮かぶ。
卦そのものは普通だ。変わった形が出るわけもない。
だが、見た瞬間に、その卦が何を示しているのかが、以前よりずっと鮮明に分かる。
時には、まるで答えを補うように、映像まで頭に浮かぶことがある。
そして、それがよく当たる。
奇妙なほどに。
長年の経験によるものなのか。この世界の気のせいなのか。それとも、この筮竹の材料にした木のせいなのか。
「まあ、分からんものは仕方ない」
当たって悪いものでもないだろう。
地図を畳み、荷物をまとめ、立ち上がる。グレイも立ち上がった。
「行くぞ」
「ニャ」
辺境都市アドヴァーンに向けて、街道を歩き始めた。
・・・・・・
それからさらに数日後。
街道を歩いていると、不意に激しい金属音が響いた。
ガキィン!
「ん?」
続いて聞こえてきたのは、怒声と悲鳴。そして、獣のような唸り声。
グレイがすっと儂の前に出た。
どうやら、こやつは儂を守っているつもりらしい。耳をぴんと立て、音のした方を警戒している。
明らかに、何かが起きている。儂は歩調を速めた。
その先には――戦っている者たちがいた。
「ほう……一般人ではないな」
十人ほどの人間たちは、みな鎧を身につけている。
前任者殿の本で見た、騎士という者たちだろう。
その周囲を取り囲んでいるのは、緑色の肌をした小柄な人型の魔物たち。
ごぶりん。
たしか、そんな名前だった。
数は多い。三十……いや、四十ほどいるか。
騎士たちは円陣を組み、その中央には馬車が守られるように置かれている。
何人かは負傷しているようだ。それでも、まだ戦意は失っていない。
「なるほど。あの魔物たちに襲われておるのか」
初めて見る魔物だ。気になる。実に気になる。
身体の構造も見たい。気の巡りも診てみたい。
だが、それは後だ。
「今はまず、あの者たちじゃな」
・・・・・・
一人の騎士が斬られた。
「ぐっ!」
どうやら、かなり苦戦しているらしい。
「おい」
儂は声をかけた。
若い騎士が振り向く。
「なんだ!?」
「手伝おうか?」
「…………は?」
騎士の目が点になった。
無理もない。
向こうから見れば、儂は十歳ほどの子供。その横に、猫のような魔物のグレイがいるだけだ。
「なぜ子供がこんなところにいる!」
「いや、旅の途中でな」
「早く逃げろ!」
別の騎士が叫んだ。
「ここは危険だ!」
「しかし、おぬしら――」
「いいから逃げろ!」
一人の騎士が、儂とゴブリンたちの間へ割って入った。
自分も腕から血を流しているというのに。
「我々が時間を稼ぐ!」
「ほぉ……」
儂は、その背中を見つめた。
もう一人。さらに一人。
騎士たちが、儂を庇うようにこちらへ寄ってきた。
苦戦している。負傷者もいる。
それでも、見ず知らずの子供を逃がすために、自分たちが壁になろうとしている。
「……悪くないのう」
こういう者たちは、嫌いではない。
こんな時だというのに、儂は少し嬉しくなっていた。
九十年以上も生きていれば、人のいいところも、悪いところも、嫌というほど見る。
欲に負ける者もいる。他人を踏みつける者もいる。
だが、それでも――いるのだ。
我が身を顧みず、誰かのために動ける者が。善きことを成そうとする者たちが。
世界が変わっても、そこは同じらしい。
だから儂は、どうにも人というものを嫌いになれないのだろう。
「分かった」
「なら早く――」
「手伝おう」
「話を聞いていたのか!?」
「聞いておるよ」
そこまで耳は遠くないわ。
おっと、今は十歳だったか。
儂は背負っていた荷物を道端へ下ろした。
その横に、グレイがすっと立つ。
黒曜石のような角が、わずかに光を帯びている。
完全に戦う気らしい。
「グレイ」
「ニャ」
いつでもいけるぞ、と言っているようだが――。
「おぬしは、ここで待っておれ」
「…………ニャ?」
はぁ? とでも言いたげな声だった。
「なあに。少し身体を動かしてくるだけじゃ」
グレイの頭をひと撫でする。
「荷物を頼むぞ」
「……ニャ」
いかにも不満そうに、グレイは荷物の横へ座った。
「よし。では、ちょっと行ってくる」
儂はゴブリンたちの方へ歩き出した。




