第18話 森からの出発
森は、すっかり元気を取り戻していた。
湖の水は澄み、風が通り、鳥の声も戻った。獣たちも姿を見せるようになり、植物には以前のような瑞々しさが戻っている。
儂が様子を見に行くと、黒龍が湖から飛び出してくる。すっかり懐かられてしまったようだり
儂の暮らしも、また元の日々へ戻った。いや、むしろ前より楽しくなったくらいだ。
朝は日の出とともに太極拳を行い、ゆっくり身体を動かしながら森の気を全身へ巡らせる。終われば朝飯を食べ、グレイを連れて森へ入る。
魚を釣り、木の実や果物を集め、ときには獣を狩る。食料を確保しながら、見たことのない植物があれば持ち帰って調べる。
午後は前任者が残してくれた本を読み、この世界のことを学んだ。採ってきた植物や獣の身体を観察し、薬草らしきものがあれば薬効を確かめる。
気がつけば、いつも日が暮れている。
飯を食べ、夜は気功をして、眠る。翌朝になれば、また太極拳から始める。
こんな日が、ずっと続けばいいと思うほど楽しかった。
・・・・・・
ある日の午後。
儂は家の前へ椅子を出し、茶を飲んでいた。足元ではグレイが丸くなっている。
風が気持ちいい。
森は静かで、人はいない。誰かと話す必要もなく、食べ物は森からいただき、必要なものは自分で作る。
朝晩は身体を練り、昼は好きなだけ学ぶ。誰に急かされることもなければ、誰かと競うこともない。
説明を一段だけ噛ませて、マコト自身の価値観につなげると自然です。
「……ええ暮らしじゃのう」
心の底からそう思った。
ふと、昔の言葉を思い出す。
「賢なるかな、回や――か」
孔子が、弟子の顔回を褒めた言葉だ。
「賢なるかな、回や。一簞の食、一瓢の飲、陋巷に在り。人は其の憂いに堪えず。回や其の楽しみを改めず。賢なるかな、回や」
粗末な飯を一盛り、飲み物を一杯。それだけで、貧しい路地裏に暮らしている。普通の人なら、その苦しい暮らしには耐えられない。
それでも顔回は、自分の楽しみを失わなかった。
学ぶこと。道を求めること。
貧しくとも、それを楽しむ心は変わらなかったという。
だから孔子は、二度も繰り返して称えたのだ。
「賢なるかな、回や」と。
儂は茶をすすった。
「分かる気がするのう」
儂は、この顔回というお弟子様が昔から好きだった。
贅沢などなくてもいい。
小さな家があり、粗末ながら食べるものがあり、ひたすら己の道を学べる。
それだけで、十分に豊かではないか。
これ以上、何がいる。
そう思ってから、家を見た。
屋根はしっかりしている。寝床も悪くない。食器も調理道具もあり、前任者が残してくれた本まである。
「いや、陋巷と一緒にしては前任者殿に失礼じゃな」
一人で笑うと、足元のグレイが片目だけ開けた。
「なんでもない」
グレイはまた目を閉じた。
このままでもいい。そんな気さえした。
十歳の身体だ。時間なら、いくらでもある。
この森だけでも、調べたいことは山ほどある。植物も、動物も、魔物も、龍脈も、龍穴も、異質な気も。それに、自分の身体だってまだ変わり続けている。
十年。いや、二十年でも退屈しないだろう。
だが、儂はふと自分の手を見た。
十歳の、小さな手。
「そういうわけにもいかんか」
儂は研究することが好きだ。一人で道を深める時間も好きだ。
だが、儂は鍼灸師だ。
やはり――人を診たい。
痛みを抱えている者がいれば診たいし、困っている者がいれば、この手で力になりたい。
治せるなどとは言わない。
だが、やはり鍼灸師は、患者がいてこそなのだ。
それだけで、森を離れる理由にはなる。いつかは外へ出ることになるだろう。
問題は、いつ出るかだ。
急ぐ必要はない。
この世界に気と身体を馴染ませ、まだ森から学ぶこともある。
かといって、いつまでもここにいる理由もない。
「では――訊いてみるか」
・・・・・・
儂は家へ入り、棚から細長い包みを取り出した。
中に入っているのは、何本もの細い棒――筮竹だ。
筮竹とは、易を立てる時に使う道具である。
易というと、未来を占うものと思われがちだが、儂にとっては少し違う。
今、自分がどのような流れの中にいるのか。
何を見落としているのか。
これから進むなら、何に気をつけるべきなのか。
そうしたものを、陰と陽の組み合わせから読み取っていく。
筮竹は、本来なら細い竹の棒を五十本用いる。そのうち一本を取り分け、残りを二つに分け、数え、またまとめる。
それを何度も繰り返しながら、陰と陽を一つずつ定めていく。
そうして六つの陰陽が重なり、一つの「卦」ができる。
卦とは、陰と陽の線を六つ組み合わせ、その時の物事の状態や流れを表したものだ。
まず、その卦全体が何を示しているのかを見る。
今は進む時なのか、退く時なのか。勢いがあるのか、まだ待つべきなのか。
さらに、一番下から六つ並んだ線のうち、どこに変化が現れているのかを見る。
陰が陽へ、陽が陰へと変わろうとしている線があれば、そこには今まさに動きつつあるものがある。
そして、その変化によって次にどの卦へ移っていくのか。
今の状態と、変わろうとしている場所と、その先に現れる流れ。
それらを重ね合わせて読んでいく。
見た目だけなら、ずいぶん地味な道具かもしれん。
ただ棒を分けて、数えているだけなのだから。
だが、儂にはこれがなかなか面白い。
同じ問題を頭の中だけで考えていると、どうしても自分の考えに囚われる。
ところが、こうして卦を立ててみると、それまでとは違った角度から物事が見えることがある。
もちろん、筮竹そのものが未来を教えてくれるわけではない。
大事なのは、そこに現れた卦を、自分がどう読むかじゃ。
長く付き合ってきたせいか、儂にとっては鍼や灸と同じくらい馴染みのある道具だった。
もっとも、これは本物の竹ではない。
この森で見つけた木から、自分で削り出したものだ。
龍穴が調ってから、森の植物にも変化があった。その中で見つけた一本の木は、やたらと気が強く、触れただけで指先がじんじんするほどだった。
「占いにはちょうどよかろう」
そう思って枝を少しだけいただき、乾燥させ、削り、長さを揃えて筮竹にした。
机の上を片づけると、グレイが興味深そうに寄ってきた。
「遊びではないぞ」
「ニャ」
姿勢を正し、心を静める。
今回、易に問うのは――今、この森を出て旅に出る時なのか。
筮竹を取り、分け、数え、戻す。そして、また分ける。
急がない。
占いとは、自分に都合のいい答えをもらうためのものではない。
自分の外にある大きな流れと、その中にいる自分との関わりを読み取るものだ。
やがて、六つの陰陽が揃った。
一つの卦が立つ。
儂はその形をじっと見つめた。
出たのは――火山旅。
「カカッ。出来すぎではないか」
名前の通り、「旅」を表す卦だった。
易には六十四の卦があり、それぞれが異なる状況や流れを表している。その中で火山旅は、文字通り、旅人として見知らぬ土地を進んでいく時のあり方を示す卦である。
「旅は、小しく亨る。旅は貞にして吉――」
旅人には、自分の土地も、頼れる居場所もない。
だからこそ、大きなことを成そうと欲張らず、その場その場で身を慎み、自分の分を守って進めばよい。
儂には、そう読めた。
「旅、か」
グレイを見る。グレイも儂を見る。
「どうやら、行けと言うとるらしいぞ」
「ニャ」
「お前も来るのか?」
「ニャ!」
当たり前だ!と言っておるのだろうか。
「そうか。ならば行こう」
翌朝、いつものように太極拳をし、朝飯を食べてから、旅の支度をした。
食料、水、着替え、前任者の地図。朧を入れた小さな木箱と、手製の筮竹。
荷物は多くない。必要になれば、その時に考えればいい。
最後に家を掃除した。
床を掃き、机を拭き、寝具を整え、台所もきれいにする。窓を閉め、忘れ物がないか一つずつ確かめる。
玄関ではグレイが待っていた。
「もう少し待っとれ」
「ニャ」
戸締まりを確認する。
一度。もう一度。
「よし」
家の前に立った。
この世界で初めて暮らした、小さな家。
十歳の身体で目を覚まし、初めて異世界の気を感じ、朧を作り、この世界で最初の患者を診た場所。
短い間だった。
それでも、もう儂の家だった。
「世話になったのう」
前任者にも、この家にも、軽く頭を下げる。
「また帰ってくる」
永遠の別れではない。
ここを捨てるつもりもない。
旅をして、人に会い、知らないものを見て、診たいものを診る。そしてまた戻ってくればいい。
「さて、行くとするか」
背負い袋を担ぐと、グレイが隣へ並んだ。
森の向こうへ続く道を見る。
九十二年生きた。
そして、十歳になった。
この先に何が待っているのかは分からない。
「まあ、それも旅じゃな」
儂は一歩、森の外へ向かって歩き出した。
グレイがトコトコと横をついてくる。
こうして儂は、異世界へ来て初めて、人のいる場所を目指した。
第1章「異世界の森」はここまでです。
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明日からは第2章「辺境都市アドヴァーン」が始まります。
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