第14話 猫でも魔物でも、患者は患者じゃ
小さな獣は、儂を睨んでいた。
灰色の毛に尖った耳、長い尾。どう見ても猫に似ている。ただし、額には黒くて美しい角が一本生えていた。
「角以外は猫なんじゃがなあ」
シャーッと低く唸られた。
「違うのかのう」
まあ、どちらでもいい。猫であろうが魔物であろうが、弱っていることだけは確かだった。
呼吸は浅く、毛にも艶がない。何より、身体を巡る気の流れがひどく乱れている。
儂は少し離れたところにしゃがんだ。
「さて……」
人間なら脈を診るところだが、相手は猫らしき何かである。しかも、こちらをかなり警戒している。無理に近づけば逃げるか、噛まれるだろう。
鍼はない。朧なら持っているが、いきなり灸を据えるのも酷というものだ。
「まずは、触らずに診てみるか」
そこで、少し前に自分の指を傷つけた時のことを思い出した。
・・・・・・
森で植物を調べていた際、うっかり指先を切ったのだ。
ほんの小さな傷だったが、七十年以上この指で患者を診てきた儂には、それなりに堪えた。
皮膚の張り、熱、硬さ、脈。鍼を持つのも、患者に触れるのも、この指だ。
「やってしもうた……」
しばらく落ち込んだものの、傷が消えるわけではない。
ならばと、試しに丹田から気を巡らせ、傷ついた指先へ静かに集めてみた。
すると、妙なことが起きた。
血が止まり、痛みが引き、傷口が閉じていく。赤みまで薄れるのが、はっきり分かった。
「おいおい……」
地球でも、気功によって血流や緊張、自律神経などが変化することは知っていた。人間にはもともと自らを治そうとする力があり、気功はそれを助けることができる。
だが、これは明らかに早すぎた。
十歳の身体だからなのか、この世界だからなのか。それとも、森に満ちる気のためなのか。まだ結論は出せない。
ただ、一つ仮説は生まれた。
この世界では、気を調えることで、生き物が本来持つ治癒の力を地球より強く引き出せるのではないか。
・・・・・・
儂は目の前の猫の魔物へ視線を戻した。
「気功治療がいいかもしれんな」
改めて、猫らしき魔物の気を探る。
やはりおかしい。
こやつの中には、この世界を満たす白い気とも、儂の黄色い気とも違う、異質なものが混じっている。
それが本来の気とうまく噛み合わず、互いにぶつかり、流れを乱していた。
「これが原因か……?」
異質な気そのものが害なのか。
それとも、ただこの身体の気と馴染めずにいるだけなのか。
今の段階では分からない。
異質であることは確かだ。そして、それが原因で苦しんでいる可能性もある。
だが――異質だからというだけで、悪いものと決めつけるのも違うだろう。
儂は、ここで無理に追い出すべきではないと判断した。
「まずは、流してみるか」
猫の魔物が耳を伏せた。
「大丈夫じゃ。無理なことはせんよ」
儂は猫の魔物から少し離れたところに腰を下ろし、呼吸を整えた。
意識を丹田へ沈め、全身の気をゆっくりと満たしていく。
呼吸を重ねるうちに、儂の気と猫の気が少しずつ呼応し始めた。
すると、それまでぼんやりとしか感じ取れなかったものが、次第にはっきりしてくる。
「ほう……魔物にも経絡はあるのか」
身体の中を走る、幾筋もの気の流れ。
人間でいう経絡にあたるものが、儂の意識にありありと浮かび上がってきた。
そこを、この世界の白い気が巡っている。
そして、その流れの中に――白と黒がぶつかり合う一点があった。
背中の中央あたり。
人間でいえば、“霊台”というツボの近くに当たる。
霊台は、背骨の中央、左右の肩甲骨のあいだあたりにあるツボだ。
その場所に、ほんのわずかではあるが、闇を溶かしたような黒い気が滞っている。
「ここか」
儂は両手へ意識を集めた。
丹田に満ちた気を、ゆっくりと腕へ通し、両の掌へ集めていく。
それから猫の魔物の背中へ手を近づけた。触れる必要はない。両の掌を霊台へ向け、数センチほど離れたところで止める。
そのまま、じっと相手の気を感じ取った。掌の内側に、かすかな感覚が返ってくる。
温かいような、痺れるような、それでいてどちらとも少し違う。
両の掌と霊台とのあいだで、気の交流が生まれ始めた。
気というものは、互いにまったく無関係ではない。こちらの気が調えば、それに応じるように、相手の気にも変化が生まれる。
押しつけない。
引っ張らない。
流れをこちらの思い通りに変えようとしない。
この子が、少しでも楽になるように。
苦しみから解放され、また元気に歩けるように。
心から、そう願う。
余計なことはすべて手放し、意識をその願いだけで満たしていく。
相手が人であれ、動物であれ――魔物であったとしても、それは変わらない。
鍼灸師が願うのは、いつだって患者にとっての最善だ。
儂自身の気が静かに満ちていくにつれて、猫の魔物の中を巡る気にも、少しずつ力が戻り始める。
しばらくすると、猫の耳がぴくりと動いた。
「何をされとるか、分かるようじゃな」
それまで続いていた唸り声が止まった。どうやら、こやつなりに受け入れてくれたらしい。
こちらから何かを無理やり送り込む必要はない。
足りないところへ、必要なだけ。
水が高いところから低いところへ流れるように、猫自身が受け取る分だけ、そっと気を補っていく。
やがて、浅く速かった呼吸が少しずつ長くなっていった。
強張っていた身体からも、ゆっくりと余計な力が抜けていく。
「そうじゃ。それでええ」
気の流れを確かめる。
先ほどまで引っかかっていたものが、ゆっくりと動き始めていた。
異質な気は、消えていない。どこかに追い出されたわけでもない。
猫自身の白い気とともに、同じ流れの中を巡っている。
それなのに、先ほどまでのようなぶつかり合いはない。
むしろ、気の巡りそのものが、先ほどとは比べものにならないほど力強くなっている。
「ほう……。混じってもいないのか」
白と黒が混ざり合って、この猫の毛並みのような灰色になったわけではない。
二つの色は、それぞれの色を保ったまま。
まるで白と黒の糸が、互いに絡み合いながら一本の流れを作るように巡っている。
「これは……面白いのう」
俄然、興味が湧いてきた。
儂の気が何かをしたのか。
それとも、この猫自身の身体が、異質な気との付き合い方を覚え始めたのか。
もっと確かめたい。もっと診てみたい。
だが――今は患者が先だ。
しばらくして、儂はゆっくりと気を収めた。
猫は伏せたままだったが、先ほどとは明らかに違う。
呼吸は落ち着き、目にも力が戻っている。
やがて身体を起こし、一歩、二歩と歩いた。
まだ少しぎこちない。
だが、先ほどのように倒れそうな様子はない。
完全に治ったわけではなさそうだ。
だが、それでいい。
「儂が治すんじゃないからのう」
治すのは、この子の身体だ。儂は、ほんの少し手を貸すだけでいい。
猫はしばらく、じっと儂を見つめていた。
「どうじゃ?」
返事の代わりに、鼻をひくひくと動かす。
それから、トコトコとこちらへ歩いてきた。
「お?」
膝の前まで来ると、儂の匂いを確かめるように鼻を近づけ、そのまま顔を押しつけてきた。
「カカッ。そうか、よくなったか」
頭を撫でる。
すると、喉の奥から小さな音が聞こえた。
ごろごろ。
「やっぱり猫ではないか」
角は生えているが。




