第13話 森の異変
この不思議な艾には、名前をつけた。
朧――おぼろ。
白みを帯びた柔らかな炎が、ぼんやりと浮かんでは消える。その様子が、なんとなく朧月を思わせたのだ。
普通の火では燃えない。気を込めた指先を近づけると、チチチッ、と小さな金色の火花を散らして淡い炎を灯す。
熱くはない。だが、身体の奥には確かに届く。
そして燃え終わると、ヒュポッ、と灰一つ残さず消えた。
自分の身体で何度か試してみたが、据える場所によって気の動き方がまるで違う。
「これは使えるのう」
こうして儂は、異世界で最初の治療道具を手に入れた。
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それから、森での生活が始まった。
朝は日の出とともに家の前へ出て、太極拳をする。まず立ち、呼吸を整え、身体を緩める。それから起勢、野馬分鬃、白鶴亮翅、摟膝拗歩と、地球で何万回も繰り返した動きをゆっくりとつないでいく。
だが、十歳の身体で行う太極拳は、以前とはまるで違った。
身体は軽く、柔らかい。そして何より、この世界の気を驚くほど素直に受け入れる。動けば巡り、止まれば沈み、呼吸すれば満ちていく。
早朝の森で、濃厚な白い気を、体いっぱいに取り入れるこのは実に気持ちよかった。
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午前中は森へ入った。
植物や木の実、果物を探し、川では魚を釣る。ときには小さな獣も捕らえた。食料を得るためであるが、それだけではない。
「ほう……こやつは地球の魚とは、骨のつき方が少し違うのう」
魚を捌けば、骨格や筋肉、内臓、血の巡りを観察する。獣を捕らえれば同じように身体を調べ、植物なら葉や茎、根、花、実まで確かめた。香りを嗅ぎ、触れ、ときには少量を煮出してみる。
もちろん、正体の分からないものをむやみに口へ入れることはしない。
「薬と毒など、量が違うだけということもあるからのう」
午後は家へ戻り、前任者殿が残した本を読んだ。
神のおかげで、この世界の文字は読める。
転生の際に、この世界の言葉を理解できるよう魂に細工を施してくれたらしい。
見たことのない文字でも、目で追えば意味が自然と浮かんでくる。
「便利なものじゃのう」
もっとも、字が読めることと、内容を理解できることは別だが。
この世界の地理、動植物、魔物、人々の暮らし、国、魔法――知らないことばかりだった。
本で知り、森で確かめる。実物を見れば新しい疑問が生まれ、また本へ戻る。そして翌日、それをもう一度確かめに行く。
実に楽しい。やめるにやめられん。
「九十二年生きても、世界が変われば一年生じゃな」
気がつけば、机の上には儂なりの覚え書きがずいぶん増えていた。
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夜は自分にお灸を据え、そして気功で一日を終える。
地球にいた頃も、合谷と足三里へのお灸を欠かしたことはなかった。
合谷は、手の甲にある親指と人差し指の骨が交わるあたりのツボ。頭や顔、首まわりの不調によく使われるほか、全身の気の巡りを整える時にも重宝する。
足三里は、膝の少し下、すねの外側にあるツボだ。胃腸を整え、身体の力を補う養生のツボとして、昔から特に大切にされてきた。
どちらも、鍼灸師として長年使い続けてきた、馴染み深いツボである。
それに今は、もう一つ目的があった。
この世界で作った異世界艾――朧。その性質を、もっとよく知っておきたい。
自分の身体ほど、確かめるのに都合のいいものはない。
儂は小さな艾炷を据え、気を込めた指先をゆっくり近づけた。
チチチッ。
小さな金色の火花が散り、そのあとに、ふわりと白い火が灯った。
灸を終えると、そのまま今度は気功へ移る。
静かに立ち、呼吸を整え、この世界の“白い地の気”を身体へ取り込み、儂の“黄色い気”と馴染ませながら丹田へ沈めていく。
それを毎日繰り返しているうちに、身体は予想していた以上の速さで変わり始めた。
最初は空の器にすぎなかった丹田に、明らかな充実を感じる。熱でも硬い塊でもない。ただ腹の底に静かな力があり、そこを中心に身体全体がまとまり始めていた。
足裏で大地を捉える感覚も変わった。呼吸は深くなり、動けば全身が以前より滑らかにつながる。
十歳の身体そのものも、よく食べ、よく眠り、よく動くことで日に日に力を増していた。そこへ、この世界の気まで加わっている。
クックックッと悪代官のような顔で笑ってしまう。
「いやあ、先が楽しみじゃのう」
まだ始まったばかりだ。それでも分かる。この身体は、地球にいた頃の儂とは違うところへ向かっている。
どこまで行くのかは、儂にも分からない。
だから面白くてやめられんのだ。
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そんな生活を続けるうちに、森の道もずいぶん覚えた。
水場の位置。果実のなる場所。魚の多い川辺。獣の通り道。朧の生えそうな草地。
毎日歩いていると、森にも表情があることが分かってくる。
朝と夕では空気が違い、晴れと雨では匂いも変わる。風向きが変われば、鳥や虫の声まで違って聞こえる。
森は、毎日同じように見えて、決して同じではない。
だからこそ、その日、儂は足を止めた。
何かがおかしい。
数歩進み、また戻る。もう一度、同じ場所を越えてみる。
やはり、そこに境目があった。
目には見えない。だが、ある場所を越えた途端、空気が変わる。
周囲を見渡す。
木が枯れているわけではない。草も生えているし、遠くでは鳥も鳴いている。一見すれば、どこにでもある森だ。
「重いのう」
空気が湿り、よどんでいる。
風がないのではない。気が流れていないのだ。
儂はしゃがみ込み、土に触れた。湿っている。昨日は雨など降っていない。
さらに奥へ進むと、鳥の声が減り、虫の羽音も遠ざかっていく。
何かがいるのか。大きな獣か。それとも――魔物か。
儂は目を閉じ、森の気を探った。
いつもの森なら、複雑ながらも気は絶えず動いている。あちらからこちらへ、こちらからあちらへと巡っている。
だが、ここは違う。
流れ込んできたものが、そのまま留まっている。
「なるほど」
まだ原因は分からない。だからこそ、診てみる必要がある。
目を開けた、その時だった。
少し離れた茂みが、がさりと揺れた。
「ん?」
もう一度、がさがさと葉が鳴る。
やがて茂みの下から、小さな生き物が這い出してきた。
四本脚に長い尻尾。灰色がかった毛並み。姿は、地球の猫によく似ている。
だが、その額には黒い宝石のような角が一本生えていた。
「猫……ではないのう」
ただの獣ということはあるまい。おそらく魔物なのだろうが、まだ何者かは分からない。
猫のような魔物は儂を見ると、すぐに逃げようとした。
だが、歩き方がおかしい。呼吸も浅く、見るからに弱っている。
そして何より、その身体を巡る気がひどく乱れていた。
二、三歩進んだところで脚がもつれ、その場に倒れる。
「おいおい」
儂はゆっくりと近づいた。
「シャーッ!」
小さな身体から、精いっぱいの威嚇が飛んでくる。可愛らしい外見ながら、なかなか迫力がある。
「大丈夫じゃ。敵ではないぞ」
言葉が通じるとは思っていない。それでも、患者を前にすれば声をかける。
そばにしゃがみ込み、その身体を静かに見た。
「ちょっと、診せてみい」
森で初めて出会った患者は、人間ではなかった。




