第四十八話:裏切り②
まるで流れる水のように軽やかで、刃で美しい絵を描くかのようなエレナの舞に似た剣技。
あらゆる属性の魔法を自在に操るだけでなく、剣術においても圧倒的な才能を見せつけるアレン。その背後には四大精霊の一角、水の精霊ウンディーネが静かに寄り添い、戦場を支配している。
――とても、自分と同じ『人間』だとは思えなかった。
周りへ視線を巡らせれば、数千は存在していたはずの魔人軍勢が、ディーネ、クローナ、そしてアイラの三人によって文字通り壊滅させられていた。
「俺は……俺はいったい、何をやっているんだ……ッ!」
あまりの敗北感と悔しさに歯を激しく喰いしばると、口内が切れ、たらりと朱い血が唇から滴り落ちた。
◇
その夜。
五人は四天王の一角を撃破した歓喜に包まれ、野営地で盛大な祝勝会を開いていた。過酷な旅の緊張から解放された仲間たちは、珍しく羽目を外して酒を酌み交わし、やがて満足そうに眠りについていた。
ただ一人――クラウスを除いて。
クラウスは一人静かに野営地を離れると、暗闇の森で日課である剣の素振りを始めた。
だが出したノルマの半分に達したところで、彼の動きがピタリと止まる。
「……こんなことで、あいつらに追いつけるわけがないだろうが……ッ!」
叫びたい衝動を必死に抑え込み、血が滲むほど握りしめた柄に力を込め直す。自分にはこれしかないのだと、愚直に刃を振るおうとした――その時だった。
「――無理だろうな」
暗闇の深淵から、聞いたこともない声が落ちてきた。
「誰だ……!?」
クラウスは瞬時に反応し、声のした暗がりへ刃を突きつける。
森の奥から静かに現れたのは、見た目こそ十代後半ほどの若々しい青年だった。しかし、その全身には一切の隙がなく、一目でタダ者ではないと本能が警告を発していた。
「私の名はエスパス。――魔人族の王だ」
エスパスと名乗る男は、薄気味悪くにやりと口角を吊り上げた。
その瞬間、男の全身から溢れ出したドス黒い魔力が、津波となってクラウスを呑み込む。まるで氷水の中に放り込まれたかのような、強烈な寒気が全身を駆け抜けた。
先ほど倒した四天王ギランバールなど、取るに足らない小物と思えてしまうほどの絶望的な圧力。
目の前の男が、紛れもない『魔王』であると理解するには十分すぎるほどだった。
エスパス――。
低迷を極めていた魔人国ダークコンテをわずか数年で建て直し、世界を恐怖に陥れた魔人族の絶対者。歴代最凶と謳われ、前王を生後わずか十年で討ち取って王座に君臨したという怪物である。
だが、死の淵に立たされているにもかかわらず、クラウスは持ち前のプライドで正気を保ち、強気に言葉を返した。
「……ふん、魔王自らのお出ましとはな。四天王が倒されて焦ったか? 卑怯にも一人ずつ討ち取ろうという算段か」
「ほう……この威圧を前にして強がりが言えるか。見込んだ通りの男だな。――だが」
エスパスが不敵に呟いた、その刹那。
瞬きをする一瞬の間で、彼の姿がクラウスの視界から消失した。
そして次の瞬間には――すでにクラウスの目と鼻の先に立っていた。
「がっ……!?」
エスパスの指先がトン、と軽く胸に触れる。
ただそれだけの衝撃と凄まじい動揺により、クラウスは無様にその場へ尻餅をついた。圧倒的な実力差。見下ろす魔王の眼光。
あまりの次元の違いに茫然自失となり、クラウスはただ見上げるしかなかった。――死を覚悟した。
「くく、この指がナイフならお前は死んでいたな。……だが安心しろ、殺しに来たわけではない」
そう言うと、エスパスは優雅な仕草でクラウスに向かって手を差し伸べた。
予想外の言葉に耳を疑いながらも、抗えぬ威圧感の前に、クラウスは吸い寄せられるようにその手を取り、立ち上がっていた。
「ふふ、ついて来い。他の奴らに気づかれたら面倒だからな」
エスパスの後を追うと、森の空間に歪んだ黒い靄の扉が現れた。
その境目を潜り抜けた先は――黒一色で統制された、異様な雰囲気を纏う王の謁見の間だった。豪華な人間の城とは違い、僅かな明かりだけが揺らめく静寂の空間。
何も言わず、エスパスは漆黒の玉座へと深々と腰掛け、クラウスを見下ろした。
「光栄に思うといい。魔人以外の者がこの玉座の間へ踏み入ったのは、お前が初めてだ」
「……目的は何だ」
クラウスの頭の中は混乱で狂いそうだった。
ずっと追い求めていた宿敵が目の前にいる。今ここで魔王を討ち取ることができれば、夢にまで見た勇者の称号は自分のものになるはずだ。
しかし――圧倒的な力の差を見せつけられた今、それが叶わぬ夢であることなど骨の底まで理解させられていた。死すら覚悟した。
それなのに、魔王は自分を城へ招き入れ、甘美な笑みを浮かべている。
「――強くなりたいか、クラウス。今よりも、圧倒的に」
耳元で囁かれたその悪魔の誘惑に、クラウスの理性は耐えることができなかった。迷うことなく、心の底からの欲望が言葉となって溢れ出る。
「当たり前だ……! 強くなれるのなら、俺はなんだってやる……!」
エスパスは満足そうに口元を歪めた。
「では、俺と契約しろ。――お前の魂を俺に捧げよ。引き換えに、お前には莫大な力を与えてやる」
魔人との契約――。
魔人は本来、殺めた者の魂を喰らうことで自らの力とするが、得られる力はごく僅かなものに過ぎない。
しかし、人間との契約を経た魂を取り込んだ場合、魔人が得る力は数十倍へと跳ね上がる。
そして契約者にも見返りとして数倍の魔力と力が与えられるが――その代償として、契約者の寿命は半分に削られる。
魔人側にとっても、生の状態で魂を定着させねばならず、死の瞬間に立ち会う必要があるリスクを伴う代物だ。
ここで、クラウスの脳裏に一つの疑問が浮かぶ。
なぜ……なぜ俺なんだ? これほどの圧倒的な力があれば、俺どころかアレン、エレナ、クローナ、アイラの四人が束になって挑もうと、容易く捻り潰せるはずではないのか……?
その心の迷いを読み取ったかのように、エスパスが滑らかに言葉を紡ぐ。
「俺の目にはな……近い未来を見通す力がある。全てではないがな。……正直に言おう、このままでは我が軍の分が悪い。今日ギランバールが討たれたことで四天王は残り一人となり、未来の敗北のヴィジョンはより濃くなった」
クラウスは息を呑んだ。
信じられなかった。これほどの化け物が、あの四人には勝てないと言うのか?
もしそれが事実なら――自分とあの四人の間には、どれほど絶望的な開きがあるというのか。
叩きつけられた圧倒的な才能の差に、クラウスの心は完全にポッキリと折れた。
絶望に打ちひしがれ、言葉を失うクラウスに、エスパスはまるで聖母のように優しく語りかけてくる。
「……だが、お前が手を貸すことでその未来は変わる。お前が魔人の力を手に入れれば、奴らと同等……いや、それ以上の存在になれるのだよ」
エスパスは不気味な笑みをたたえ、再びクラウスに向かって手を差し伸べた。
その甘く、どこまでも残酷な誘惑に――クラウスは抗うことができなかった。
無言のまま、彼はゆっくりと魔王の手を握り返した。




