第三十五話:本当に情けないです
アレンの一撃で、エリーの燃え盛っていた怒りはすっかり霧散した。だが、彼女には一つだけ、どうしても納得のいかないことがあった。
「……ねえ、アレン。なんであいつらにお金を返しちゃったのよ。結局、私たちが損をしただけじゃない」
アレンを振り返ると、その瞳には先ほどの冷徹さはなく、いつもの穏やかで少しばかり頼りない光が戻っていた。
「ああいう輩の金なんて怪しくて使えるかよ。あんな客は相手にしないで追い返せばいいのさ」
「そんな格好つけちゃって……。ほんと、この店はいつか潰れるわよ」
「ほっとけ。それより早く戻るぞ。そろそろ料理もできている頃だ」
二人は足早にレストランへ向かった。しかし、建物の白亜の壁が見えてきたところで、エリーが急に足を止めた。
「……どうした、エリー?」
「ねえ……お金」
エリーの震える声に、アレンは雷に打たれたような衝撃を受けた。自分たちが注文したのは、超高級食材ドラゴンフィッシュのステーキ。それは、エリーが持っていたあの三人組の略奪金一千万リランを前提とした贅沢だったのだ。
「やばい! 早く戻ってキャンセルしないと!」
アレンはエリーを置き去りにして店内に飛び込んだ。
遅れてエリーが店に入った時、アレンはテーブルの前に棒立ちになっていた。そこには、嗅覚を暴力的に刺激する強烈な湯気を漂わせ、美しく盛り付けられた分厚い肉の塊が鎮座していた。
「……ねえ、アレン。こうなってしまったら仕方ないわよ。美味しい内に食べないと、それこそ損だわ。三百万円分、骨の髄まで味わいましょう。いただきます!」
エリーは覚悟を決めたようにナイフを入れた。溢れ出す黄金色の肉汁。香ばしい匂いが鼻腔を突き抜ける。アレンも観念したようにフォークを手に取り、大きく切り分けた肉を口に放り込んだ。
「「くぅぅぅぅ……ッ!!」」
二人は言葉を失った。舌の上でとろける魔物の至宝。あまりの美味さに、支払いの恐怖も、先ほどのイラつきも、全てが遠い彼方へと消し飛んだ。
しかし、至福の時間は一瞬だった。完食後、レジの方から聞こえた「ありがとうございました」という店員の聞き慣れた挨拶が、二人を無慈悲な現実へと引き戻す。
「エリー……言いにくいんだけど」
「……分かってるわよ。グランシーヌに戻れば六百万リランくらい用意できるけど、今、手元には三百万リランちょっとしかないわ。最悪、騎士団の名前を担保にツケにできないかしら」
「……そっか。大丈夫。自分の分は、なんとかするよ」
アレンは震える声で、その名を呼んだ。
「……ディーネ」
刹那、アレンの傍らに柔らかな光が集まり、ディーネが姿を現した。
「あれ? アレン、どうしたんですか? まだ早いと思うのですが……」
ディーネは辺りを見渡し、ここが馴染みのレストランであることを察した。そして、テーブルに置かれた一枚の伝票に目を留める。
じっと伝票を見つめていたディーネの手が、プルプルと痙攣し始めた。あまりの桁数に叫びそうになるのを、淑女の嗜みでグッと堪える。
「……アレン。私が呼ばれた理由は、嫌というほど理解しました」
店の金庫番であるディーネは、アレンに数万リランしか渡していない。六百万リランなど、逆立ちしても払えるわけがないのだ。
エリーが申し訳なさそうに謝罪すると、ディーネは深いため息をついて首を振った。
「エリーさんは気にしないでください。ただ、この店主が情けなくて、情けなくて……。エスコートしなさいと言ったのに、女性を財布代わりに呼び出すなんて」
右手で額を押さえて、首を横に振りながら嘆いている。
いたたまれなくなったアレンは、「用事を思い出したから先に帰る!」と捨て台詞を残して脱兎のごとく逃げ出した。
「本当に、情けなさすぎて涙が出ますわ……」
ディーネがアレンの席に腰を下ろすと、店の奥から支配人のダンが歩み寄ってきた。
「ディーネ様、お久しぶりです。何かトラブルでも?」
「いえ、大したことはありませんわ。ただ、財布として女性を呼び出す男の甲斐性のなさを嘆いていただけです」
ダンはふふっと上品に笑った。
「今日は珍しく、奮発されていましたからね」
ダンは内ポケットから万年筆を取り出すと、テーブルの伝票にサラサラと何かを記入した。二人が覗き込むと、そこには驚くべき光景があった。正規の数字が黒く塗りつぶされ、その下に――。
『二万リラン』
それは、アレンとディーネがいつも注文している、一番安いランチコースの値段だった。
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