第八話
――事件現場は、古びたアパートの一室だった。
被害者は、白書大図書館で研究員として働いていた男性。
死因は、喉元を大きく裂かれたことによる出血死。
これが、わたしたちに渡された事前情報。
そして。
これが現実...。
わたしたちは、燃え上がる現場をただ茫然と見つめていた。
「…なんやこれ」
事の始まりは二時間前。
わたしたちは、事件現場である研究員の部屋へ調査に来ていた。
被害者の死体はすでに運び出された後だったが、床や壁には大量の血痕が残されている。
赤黒く乾き始めた血。
鉄みたいな臭い。
鼻の奥へこびりつく生臭さ。
「おえぇぇぇぇぇ…」
わたしは耐え切れず、トイレへ駆け込んだ。
胃の中のものを吐き出しながら、震える手で壁を掴む。
無理だった。
何度見ても慣れない。
死体はなくても。
ここで誰かが死んだという事実だけで、胸の奥が重くなる。
「そろそろ慣れんかぁ」
律がけろっとした顔で背中をさする。
「な、慣れるわけないでしょ…」
わたしは蛇口をひねり、水で口をゆすぐ。
冷たい水が少しだけ意識を落ち着かせた。
深呼吸をしてから、改めて部屋の中を見渡す。
研究員の部屋には、無数の本が置かれていた。
床。
机。
ベッドの周囲。
さらには壁一面の本棚まで。
海外の古い言語学書。
哲学書。
歴史文献。
見たこともない文字で書かれた本まである。
研究員は、図書館から書物を借り、自室で研究することが許されている。
だから、この本のほとんどは図書館の所有物らしい。
「…なんやこれ」
律が本棚を眺めながら呟く。
わたしは律の視線を追った。
そこには、本棚の中で一か所だけ微妙に高さがズレている場所があった。
律は何かを思いついたように、本を何冊か入れ替え始める。
「ちょ、なにして――」
止める前に。
カチリ。
小さな音が鳴った。
次の瞬間。
本棚と本棚の隙間が、ゆっくり横へ開いた。
「…うわ」
わたしは思わず声を漏らす。
隠し扉だった。
律は子供みたいな顔で笑う。
「おー、空いたわ」
そして。
隙間が開くと同時に、一冊の本が床へ落ちてきた。
黒い表紙の分厚い本だった。
ただ表紙には、紫色のテープが貼られている。
わたしは触ろうとする律の手を抑えた。
図書館で調べ物をしていた時、わたしは書物のランクについて教わっていた。
白と黒は、一般公開されている本。
黄色は歴史的価値の高い文献。
赤と青は、学術的・人類学的価値を持つ危険書物。
そして。
紫。
“誰も触れてはいけない本”。
理由は知らない。
そもそも、管理職の人ですら見ることは滅多にないらしい。
そんな本が。
なぜ、研究員の部屋にあるのか。
「律…これって」
「まぁ、完全にあかんやつやろ」
律も真顔になっていた。
わたしたちは顔を見合わせる。
嫌な予感しかしない。
律はすぐに警察官を呼ぶ。
駆け付けた警察官は、白い手袋を嵌めると慎重に本を持ち上げた。
「こちらで回収します」
その声を聞きながら、わたしたちはクマさんへ報告するため部屋を出ようとする。
その時だった。
警察官が、本を開いた。
いや、本が勝手に開いたようにも見えた。
瞬間。
本が、脈打つように光り始めた。
「…っ」
淡い白色。
ページの隙間から無数の光が漏れ出していく。
風もないのに本のページは勝手に捲れ始め、文字が浮かび上がる。
黒いインクで書かれていた”文字”が、本から剥がれるように宙へ浮かび上がっていった。
無数の“文字”が、生き物みたいに空中を漂っている。
わたしは息を呑む。
あの時。
十五階で見た光と同じだった。
だけど、今度は違う。
言葉が浮かび上がっている。
それにその文字たちは、見覚えがある気がした。
警察官が後ずさる。
「な、なんだこれ…!」
「絶対やばいやつやん!」
律の声が響く。
今度は律にも見えていた。
浮かび上がった文字列が、警察官の周囲を取り囲む。
そして。
一斉に収束した。
その瞬間だった。
律がわたしを抱え上げた。
「逃げるぞ!!」
律はそのまま全力で階段を駆け下りていく。
凄まじい速度だった。
景色が流れていく。
何が起きているのか理解できない。
ただ、本能だけが叫んでいた。
“あれは危険だ”と。
律は建物の外へ飛び出す。
その直後だった。
ドゴォォォン――!!
爆発。
わたしたちがいた階が吹き飛んだ。
熱風が背中を叩く。
ガラスが砕け散る。
本のページが、雪みたいに空を舞った。
人々の悲鳴。
逃げ惑う足音。
辺りは阿鼻叫喚の嵐だった。
律はわたしを抱えたまま、さらに後方へ下がる。
「あかん、まだ近いわ!」
わたしは呆然と炎を見つめていた。
本を開いた警察官はどうなったのだろう。
あの光は、あの本はいったい何だったのか。
頭が追いつかない。
「…なんやこれ」
律も、燃え上がるアパートを見つめながら茫然。
その時。
風に乗って、一枚の紙切れがわたしの頭へ落ちてくる。
わたしはそれをそっと掴んだ。
焼け焦げた紙。
その中央に。
たった二文字だけ、読める言葉が残っていた。
『〝魔女〟』
その瞬間、背筋が凍った。
まただ。
あの時と同じ。
“魔女”という言葉を聞いた時の感覚。
身体の奥が、恐怖に満ちていく。
律はそんなわたしを見ると、静かに背を向けた。
「…帰るぞ」
わたしは小さく頷く。
その後。
律に背負われるようにして、わたしたちは燃え続ける現場を後にした。




