第七話
廊下をしばらく進むと、見慣れ始めた扉が見えてきた。
クマさんの部屋だ。
昨日、今日で三回目になる。
こんな短期間で何度も来る場所になるとは思っていなかった。
律はわたしを乗せた車いすを押しながら、そっと扉を開ける。
「ん、誰だ――」
クマさんが、ゆっくり顔を上げる。
そこで言葉が止まった。
クマさんは目を丸くしたまま、わたしと律を交互に見る。
「な、何があった⁉」
椅子を大きな音を立てながら立ち上がると、クマさんは慌ててこちらへ駆け寄ってきた。
その勢いのまま、わたしの前へしゃがみ込む。
「アル、大丈夫か⁉」
わたしの腕や足を確認するように視線を動かしたあと、クマさんはゆっくり律の方を見る。
その瞬間だった。
空気が変わる。
「…これは、どういうことだ律」
低い声。
昨日と同じ、冷たい目だった。
律はそれを真正面から受けながら、めんどくさそうに頭を掻く。
「どうもこうも、見ればわかるやないですか」
いつものテンションの律。
ただその軽い返答が、逆にクマさんの眉をさらに吊り上げた。
「お前、また――」
次の瞬間。
クマさんの大きな手が律の胸元を掴み上げた。
スーツの襟元がぐしゃりと歪む。
律も驚いたのか、一瞬だけ目を見開く。
「ち、違います!」
わたしは慌ててクマさんの服を引っ張った。
全力で引っ張ってもびくともしない。
「アル、脅されたのか?」
クマさんは本気で心配そうな顔をしていた。
その目を見て、わたしは慌てて首を横へ振った。
「い、いえ」
「実は……」
わたしは今日起こったことを、できるだけ簡潔に説明した。
律を追いかけたこと。
路地裏へ入ってしまったこと。
ナイフを持った人に襲われたこと。
そして。
律が助けてくれたこと。
話している途中、クマさんの表情は真面目にこちらを向いていた。
全部を聞き終えると、クマさんはようやく律の胸元から手を離した。
「…律、すまない」
クマさんは静かに頭を下げる。
律は服を整えながら、軽く肩を回した。
「ええっすよ」
「昨日、手ぇ出したんはこっちですし」
その返事は思っていたよりずっとあっさりしていた。
クマさんは少しだけ安心したように息を吐く。
だけど。
「あ、でも条件ありますよ」
律がにやりと笑った瞬間、クマさんの顔が露骨に嫌そうになった。
初めて分かった。
律は、人の弱みにつけ込むのが好きだ。
細長い目を細めながら笑う姿は、見方によっては悪魔みたいだった。
「アルちゃんと話し合ったんですけど」
「ワイら、タッグ組むことにしたんで許可くださいな」
「…は?」
クマさんの口がぽかんと開く。
その顔は完全に固まっていた。
しばらくしてから、ゆっくりこちらを見る。
「…いいのか、こんなやつで」
戸惑ったような声だった。
わたしは少しだけ律を見る。
律はどこか得意げだった。
「はい」
「本当に?」
「はい」
わたしは、まっすぐクマさんを見返した。
しばらく沈黙が流れる。
やがてクマさんは、深いため息を吐いた。
「…わかった」
その瞬間、律が嬉しそうに笑う。
だけど、彼の笑みはそれで終わらなかった。
「それとですね」
「不審人物の件、ワイらで調べるんでよろしく」
「…は?」
今度は、わたしまで固まった。
聞いてない。
そんな話、一言も聞いていない。
というか怖い。
普通に怖い。
クマさんも完全に唖然としていた。
その隙に。
「ほな、行きましょかアルちゃん」
「え、ちょ――」
律は勝手に車いすを方向転換させると、そのまま部屋の外へ押し始める。
「おい律!」
「お前だけ後で戻ってこい!」
「不審人物の報告書も持って来いよ!」
後ろから、疲れ切ったクマさんの声が響く。
律は振り返りもせず、ひらひらと手だけ振った。
「はーい」
気の抜けた返事。
適当だった。
だけど。
気づけば、わたしは少しだけ笑っていた。
こうして、わたしには騒がしい相棒ができた。
律とタッグを組んでから、わたしたちは連日図書館内の資料室へ籠っていた。
目的は、あの不審人物の正体を探ること。
公安都市白書は、世界中から集められた貴重な書物を保管する都市。
そのため警備は異常なほど厳重。
大通り。
駅。
オフィスビル。
図書館内部。
ありとあらゆる場所に防犯カメラが設置されているらしい。
白書の人間は、家などのプライベートでない限りカメラに映る。
そんな街だった。
だからこそ、おかしかった。
映っていない。
何度記録を確認しても、あの不審人物だけが綺麗に消えている。
正確に言えば、律が追いかけたあの瞬間以外すべて。
それ以前も、それ以降も。
どの記録にも存在していない。
「…ない」
わたしはモニターを睨んだ。
資料室には、古い紙の匂いと電子機器の熱気が混ざっている。
壁一面にはここ数週間分のデータが読み込まれている。
そこへ映し出される白書の街。
映像を巻き戻し。
止め。
拡大し。
また巻き戻す。
そんな作業を、わたしたちは三日間繰り返している。
不審人物がカメラを警戒して、路地だけを移動していた可能性はある。
あるいは。
途中で変装を変えていたのかもしれない。
だけど違和感が残る。
あの時、不審人物は大通り側を背にしていた。
もし本当に路地だけを移動していたのなら。
最初に遭遇したのは、律のはずだ。
わからない。
わたしはモニターから目を離す。
長時間座り続けていたせいで、肩が重い。
「んー」
小さく身体を伸ばすと、背中の骨が伸びるとともに鳴る。
調べ始めて三日目。
未だに相手の正体も目的も分からない。
あれから、また襲われることはなかった。
だけど。
だからこそ怖い。
いつ、どこから現れるか分からない。
思い出しただけで、肩が小さく震える。
「大丈夫やで」
入口の方から声が聞こえる。
振り返ると、律が片手を振りながら部屋へ入ってきた。
どうやら外回りから戻ってきたらしい。
黒いマントを翻しながら、律は机へ腰を下ろす。
「ワイが相棒な限り、絶対守ったる」
律は笑いながらそう言った。
軽い調子。
いつものふざけた笑み。
だけど、不思議と落ち着く。
悪魔のほほえみは時に天使にもなるらしい。
「…それで」
わたしはモニターから視線を外しながら聞く。
「何か見つかったの?」
「いーや、不審人物については何も」
律は椅子へ深く座り込みながら答える。
そして。
どこか楽しそうに目を細めた。
「ただ、面白そうな事件は見つけたで」
「…事件?」
わたしは思わず律を見る。
不審人物に関する情報だろうか。
少しでも繋がりがあるなら知りたい。
そんなわたしを見ながら、律は机へ一枚の写真を放り投げた。
そこには。
喉元を大きく裂かれた白衣の男が映っていた。
わたしはびっくりして、椅子から滑り落ちた。
死体を見るのは慣れない。
ただ、一瞬見ただけだったが見覚えがあった。
路地裏で見た死体と、同じ。
「また、起きたんや」
「しかも、犯行方法は全く一緒」
律の口角が上がっている。
「なら、行って確かめて見ましょ」
そう言いながら私たちは椅子から立ち上がる。
わたしたちタッグに支給された黒いスーツ。
黒いマント。
律は壁へ立て掛けていた刀を腰へ差した。
刀の所持は法律に引っかからないのかと思ったが、警察の拳銃と同じ扱いになっているらしい。
「ほな、事件解決といこか」
そう言って。
わたしたちは、新たな事件現場へ向かった。




