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第六話

  図書館へ戻る頃には、わたしの足取りはふらついていた。

 路地裏で転んだせいか、足首がじんじんと痛む。

 それに、気を張っていた反動なのか身体全体が重かった。

 裏口へ入った瞬間、受付嬢の女性がわたしを見るなり目を見開いた。

「だ、大丈夫ですか⁉」

 慌てたように駆け寄ってくる。

 わたしは大丈夫だと言おうとした。

 だけど、その瞬間に膝が少し崩れた。

「あっ――」

「無理しないでください」

 受付嬢は慌ててわたしの身体を支える。

 そのまま肩を貸されながら、図書館裏口のすぐ近くにある救急室へ案内された。

 白いカーテンで簡単に区切られた小さな部屋。

 アルコールの匂いが少し鼻につく。

 部屋の棚には包帯や薬が綺麗に並べられている。

「座ってくださいね」

 わたしは小さく頷きながら椅子へ腰掛ける。

 その瞬間、全身から力が抜けた。

 思っていた以上に疲れていたのかもしれない。

 受付嬢は慣れた手つきで、わたしの腕や足を確認していく。

「擦り傷がありますね…」

 言われて初めて気づいた。

 腕と膝。

 倒れた時に擦ったのかもしれない。

 細かな傷がいくつかできていた。

「痛っ…」

 傷口へ消毒液が触れた瞬間、鋭い痛みが走る。

 思わず肩が跳ねた。

「少し沁みます」

「うぅ…」

 受付嬢は丁寧に手当てを続けていく。

 その間、わたしはぼんやり天井を見つめていた。

 頭の中では、さっきの光景が何度も繰り返されている。

 振り下ろされるナイフ。

 火花。

 怒鳴り声。

 そして。

『死のうとしたやろ、自分から』

 律さんの言葉。

 胸の奥が少し痛んだ。

 やがて手当てが終わり、わたしはゆっくり立ち上がろうとする。

 その時だった。

「やめといたほうがええ」

 入口の方から声が聞こえてきた。

 特徴的な訛り。

 わたしは反射的に入口のほうを見る。

 入口には、壁へ寄りかかるようにして律さんが立っていた。

 黒いコートは少し汚れている。

 たぶん、さっきまで追いかけていたのだろう。

「さっきはあり――」

「そんな感謝はいらん」

 わたしが頭を下げようとすると、律さんは言葉を遮った。

 その声は、思っていたより静かだった。

 怒鳴っているわけでもない。

 だけど、どこか張り詰めている。

 律さんは救急室の中へゆっくり入ってくる。

「君さ」

「ワイが戦闘中に“頭”って言ったやろ」

「…」

 わたしは俯いた。

 あの光。

 律さんの頭へ集まっていた白い粒子。

 だけど、律さんの様子を見る限り、彼には見えていないようだった。

「なんで、敵が頭を狙うって分かった」

「普通、あのタイミングじゃ分からへん」

 律さんは真っ直ぐこちらを見る。

 細長い目。

 その奥だけが鋭かった。

「あ…その…」

 言葉が出ない。

 光が見えた。

 そう言えばいいだけなのに。

 だけど。

 そんなことを言って、信じてもらえるのだろうか。

 もし気味悪がられたら。

 そんなことを考えれば考えるほど、喉が締まっていく。

「なんでや」

 律さんがさらに近づく。

 一歩。

 また一歩。

 気づけば、目の前まで来ていた。

 近い。

 わたしは思わず目を閉じる。

 また首を掴まれる。

 身体に力が入った。

 だけど。

「いや、別に無差別に攻撃するつもりはない」

 予想していたより、ずっと柔らかい声だった。

 恐る恐る目を開ける。

 律さんは頭を掻きながら、困ったように眉を下げていた。

「…」

「…すまん」

 律さんは視線を逸らした。

「あの時は、ついカッとなってもうて」

 その横顔は、本当に申し訳なさそうだった。

 わたしはどう反応すればいいのかわからなくなる。

 怒ればいいのか。

 許せばいいのか。

 こんな時、エバならどうするだろう。

 ふと、一つの考えが浮かんだ。

「な、なら」

「今回のことは、聞かないでくれませんか」

「…う」

 律さんは露骨に顔をしかめた。

 頭を抱える。

「そこ誤魔化すんかい…」

 小さくぼやく。

「しゃーない」

「それで勘弁してもらうわ」

 律さんは深くため息を吐く。

 わたしはほっと肩を撫で下ろした。

 そんなわたしを見て、律さんは少しほくそ笑う。

「君さ」

 律さんはそっと手を差し出した。

 大きくはない手。

 だけど、とてもしっかりとしていた。

「ワイと相棒にならんか?」

「…え」

 意味がわからなかった。

 ついさっきまで怒っていたのに。

 嫌われていると思っていたのに。

「君は、ワイらに言えへんことあるやろ」

 律さんは軽い口調のまま続ける。

「でもワイが相棒やったら、見て見ぬふりできる」

「どうや、ええ条件やろ」

 確かに。

 光のことは、誰にも言わない方がいい気がしていた。

 だけど。

「…律さんには、なんの得があるんですか」

 わたしがそう聞くと、律さんは少しだけ目を丸くした。

「得?」

 そして。

 なぜか楽しそうに笑った。

「君のこと、気になったんや」

「ただそれだけ」

 わたしは呆然とする。

 本当に意味が分からなかった。

 この人は、何を考えているんだろう。

 だけど。

 知らない誰かと一緒にいるよりは。

 律さんの方が、まだ安心できる気がした。

「…わかりました」

 わたしは小さく頷いた。

 だけど。

 差し出されたその手を、まだ握ることはできなかった。

「そういえば、名前聞いてなかったな」

 律さんは差し出していた手を引っ込めながら、思い出したように呟いた。

「アルです」

 わたしは小さな声で答える。

 すると律さんは、どこか楽しそうに目を細めた。

「アルちゃんか」

「ワイは律でええよ」

「ちゃん⁉」

 思わず変な声が出た。

 背筋がぞわっと震える。

 今までそんな呼ばれ方をしたことがない。

 というより、名前を呼ばれること自体ほとんどなかった。

 律さん――いや、律はそんなわたしの反応を見て吹き出した。

「なんやその反応」

「別にええやろ、アルちゃん」

「うぅ…」

 なんだろう。

 妙にむず痒い。

 律はしばらく笑ったあと、ふと真面目な顔へ戻る。

「それじゃ、ワイはクマさんのとこに報告行くわ」

 そう言いながら、入口の方へ視線を向けた。

「アルちゃんも来るか?」

「行きます」

 一人で残るのは、まだ少し怖かった。

 わたしが頷くと、律は「あー」と何か思い出したように声を漏らす。

「その足やったな」

 そう呟くと、律は救急室の奥へ歩いていく。

 ガラガラ、と何かを引きずる音が聞こえる。

 数秒後。

 律は車いすを押しながら戻ってきた。

「ほら、乗り」

「え、でも……」

「転ばれても面倒やし」

 そう言いながら、律はわたしの前に車いすを止める。

 わたしは少し迷ったあと、そっと腰を下ろした。

「よし」

 律は後ろへ回ると、そのまま車いすを押し静かな救急室を出た。

 廊下へ出ると、図書館の夜の空気が肌へ触れた。

 昼間より人は少ない。

 だけど館内の灯りは消えておらず、本棚の間にはまだ何人か人影が見える。

 白い照明に照らされた廊下は、昼とは違ってどこか静かだった。

 車いすのタイヤが床を転がる音だけが響いている。

「…」

「…」

 気まずかった。

 昨日首を絞めてきた相手と相棒になった。

 状況だけ考えればかなり変だ。

 だけど、不思議と怖さは少なかった。

 律は無言のまま車いすを押している。

 その歩幅は一定で、妙にやさしかった。

 わたしは少しだけ後ろを振り返る。

 律はぼんやり前を見ていた。

 細長い目。

 気だるそうな表情。

 だけど。

 さっき路地で怒鳴っていた時とは、少し雰囲気が違って見えた。

「…律さん」

「んー?」

「どうして、昼間はごめんなさい」

 聞いた瞬間、律の足が一瞬止まった。

 ほんの少しだけ。

 ただ、律はすぐに歩き出す。

「ワイは命を軽く扱う奴が嫌いなだけや」

 その声は、さっきよりずっと静かだった。

 わたしはそれ以上、何も言わなかった。


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