第五話
その瞬間だった。
――キン。
頭上で、鉄同士がぶつかるような鈍い音が響いた。
わたしは驚きながら顔を上げる。
そこには、ナイフを持った人影が立っていた。
顔は黒い布で覆われている。
見えるのは目だけ。
その目は、感情のないままこちらを冷たく見下ろしていた。
わたしは驚きのあまり、その場で腰を抜かした。
身体が動かない。
逃げなきゃ。
そう思っているのに、足に力が入らなかった。
「お前、本はどこだ」
低い声。
男か女かも分からない。
機械みたいに感情がなかった。
「…本?」
意味が分からなかった。
わたしは本なんて持っていない。
だけど相手は、ナイフをゆっくりこちらへ近づけてくる。
金属の刃が、路地の薄暗い光を反射していた。
「そ、そんなの知らない…」
声が震える。
喉が張り付いたみたいに上手く息ができない。
助けを呼びたくても言葉は出てこない。
相手は数秒、黙ったままこちらを見下ろした。
そして。
「そうか」
「言わないか」
静かな声。
次の瞬間、その声は冷たく落ちた。
「なら死ね」
ナイフが振り上げられる。
切っ先は真っ直ぐ、わたしの首へ向いていた。
殺される。
そう理解した瞬間。
不思議と、心は静かだった。
怖い。
身体は震えている。
だけど。
どこか遠くで、“仕方ない”と思っている自分がいた。
一か月前。
雪原で死にかけた命。
エバに拾われなければ、あの時終わっていた。
結局わたしは、偶然少し長く生きただけなのかもしれない。
そう思うと。
死ぬことが、少しだけ遠く感じた。
抵抗しても意味はない。
きっと結果は変わらない。
だったら。
もう。
その時、ふと頭に浮かんだ。
暖炉の火。
焦げた玉ねぎの匂い。
大きな手。
わたしの頭を撫でる感触。
「エバ……」
会いたかった。
だけど。
身体は動かなかった。
わたしは抵抗していた手を下ろし、そっと目を閉じた。
空気を切る音が聞こえてくる。
その瞬間だった。
ギィィイイン――。
耳を裂くような金属音が、狭い路地へ響き渡った。
「ざっけんじゃねぇ!!」
それと同時に、怒鳴り声が響く。
聞き覚えのある訛った声。
わたしは恐る恐る目を開く。
そこには、わたしとナイフの間へ割って入る彼――律さんの姿があった。
律さんは鉄パイプを両手で握り締め、振り下ろされたナイフを強引に受け止めている。
火花が散る。
次の瞬間。
律さんは身体を傾けながら、相手のナイフを流した。
ただ、なぜだか律さんの頭の方に光が集まっていく。
なぜか嫌な予感がした。
「頭…」
相手はナイフを流された瞬間に足を上げる。
かかとに仕込まれたナイフを全力で律さんの頭へ向けて蹴りだした。
ただ、律さんはそれを軽くよけきる。
そしてすぐに空いた左脇腹へ、全力の蹴りを叩き込む。
鈍い音。
相手の身体が大きく吹き飛んだ。
路地の壁へ激突し、そのまま大通りの方へ転がっていく。
「君さ」
律さんは鉄パイプを握りしめながら、こちらへ背を向けたまま話す。
「ふざけてんの?」
「…え」
声が出ない。
律さんの声は明らかに怒っていた。
だけど。
わたしは何に怒っているのかわからなかった。
わたしは殺されそうになった側だ。
なのに。
「さっき」
「死のうとしたやろ、自分から」
「…っ」
返す言葉がなかった。
律さんは振り返らない。
だけど、確かにわたしへ言っている。
律さんは鉄パイプを投げる。
一直線に飛んだそれを、相手はギリギリで避けた。
鉄パイプは壁へ突き刺さる。
「わいは、軽い命が大っ嫌いやねん」
その声には、さっきまでの軽さがなかった。
怒り。
苛立ち。
そして。
悲しみが混ざっているような気がした。
「次そんなことしようとするんやったら」
「俺が殺すからな」
律さんはそう言い捨てると、一気に地面を蹴った。
一瞬で距離が開く。
黒いコートが翻り、そのまま大通りへ飛び出していく。
逃げた相手を追っていく。
だけど相手も相当速いのか、2人はすぐに姿が見えなくなった。
路地には静寂だけが残る。
「軽い命…」
わたしは小さく呟く。
何も抵抗しなかった。
意味がないと思ったから。
結局、一か月前に終わっていた命。
だけど。
律さんは、それを否定した。
死ぬことを受け入れたわたしへ、本気で怒っていた。
どうして。
どうして、そんなことを言うんだろうか。
わたしには分からなかった。
ただ。
胸の奥が少しだけ苦しかった。
わたしはゆっくり身体を起こす。
倒れた時に強く打った腰が痛む。
だけど歩けないほどじゃない。
路地の先では、まだ街の喧騒が続いていた。
何事もなかったみたいに。
わたしはふらつく足で立ち上がると、光っていた地面を見る。
そこにはもう何もない。
なんだったのだろうか。
わたしは、大通りへ出るとゆっくり図書館へ歩き始めた。




