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第三話

 ――それから。

 わたしはクマさんの部屋を出て、白書大図書館の中を自由に歩き回っていた。

 図書館の中は、外から見た以上に広かった。

 吹き抜けになった空間の中心を、無数のエレベーターと階段が上下している。

 見上げても、天井は霞んで見えない。

 まるで建物そのものが空へ伸び続けているみたいだった。

 1階には絵本。

 2階には児童書。

 3階からは小説や文学作品。

 さらに上へ行けば、歴史書、専門書、研究資料。

 階層が上がるごとに、置かれている本の種類も、そこにいる人々の空気も少しずつ変わっていく。

 わたしは階層を移動しながら、エバに読ませてもらった本の作者を探していた。

 知らない本ばかりだった。

 それに、本棚の匂い。

 古い紙の感触。

 静かな空気。

 ページをめくる微かな音。

 遠くで誰かが咳払いする声。

 雪原の静けさとは違う。

  なのに、不思議と心が落ち着く。

 下の階層には、子供や家族連れも多かった。

 小さな子供が絵本を抱えながら走り回り、その後ろを親が慌てて追いかけている。

 その光景を見ていると、少しだけ胸が温かくなった。

 だけど階層が上がるごとに、人影は少なくなっていく。

 15階へ到着した頃には、周囲には数人しかいなかった。

 この階層には哲学書が並んでいるらしい。

 分厚い本が壁みたいに並んでいた。

 右から順に、

 『告白』

 『国家』

 『存在と時間』

 『純粋理性批判』

 聞いたことのない哲学書が多く並んでいる。

 わたしは書物の多さに驚きながらも、その光景を静かに眺めていた。

 そんな時だった。

 ふと、視界の端で何かが揺れた。

 わたしは思わず立ち止まる。

 棚の隙間から、小さな光が零れていた。

 淡い粒子だった。

 蛍みたいに、ゆっくり宙を漂っている。

 白く、淡く。

 だけど、確かにそこに存在していた。

 わたしは息を呑む。

 ここは図書館だ。

 1階の子供向けエリアならともかく、こんな大人向けの上層階にこんなに尖った装飾があるとは思えない。

 少し怖かった。

 だけど、それ以上に気になった。

 胸の奥がざわつく。

 まるで、“それを知っている”みたいに。

 わたしはゆっくり棚へ近づいていく。

 すると、一段だけぼんやり光っていた。

 まるで蛍光液でも零れたみたいに。

 しかし、その棚には本が一冊も置かれていなかった。

「なにこれ…」

 小さく呟く。

 わたしは周囲を見渡した。

 他にも同じものがあるかもしれないと思った。

 けれど、どこにもない。

 この棚だけだった。

 近づくほど、胸が妙にざわつく。

 身体の奥が熱を持つ。

 なぜだろう。

 怖いのに、目を離せない。

 光へ指を伸ばそうとした、その時だった。

 粒子がゆっくり崩れ始めた。

 雪のように。

 しかし今度は、地面の微細な光の粒子が浮かび上がる。

 まるで道みたいに。

 どこかへ誘導するように。

 ただ、すぐに消えていく。

 わたしは無意識にその光を追いかけた。

 光は階段を下り、長い通路を抜け、気づけば図書館の外へまで続いていた。

 白い粒子は風に流されながらも一定の方向へ漂い続けている。

 どうしてだろう。

 目を離してはいけない気がした。

 わたしは人混みを避けるように、その光を追い続ける。

 ビル群を抜け、海の香りが強くなっていく。

 その時だった。

 ドン――。

 何か硬いものへ頭をぶつけた。

「おっと、どこ向いて歩いてんねん」

 聞き覚えのある声だった。

 わたしが顔を上げると、そこには先ほどひったくり犯を捕まえていた青年が立っていた。

 細長い目。

 気の抜けた笑み。

 黒いコート。

 その周囲には、複数の警察官が慌ただしく動いている。

「って、なんで一般人がおるん?」

 青年は驚いたように目を細め私を凝視すると、近くの警察官へ手を振った。

「この子、外まで頼みますわ」

 警察官たちは慌てたようにわたしを連れ出そうとする。

「あ、待って…」

 わたしは思わず振り返った。

 光が、まだ続いている。

 その先。

 白衣を着た男が、地面へ倒れ込んでいた。

 まるで糸が切れた人形みたいに。

 そしてその周りには池のように広がっていく赤く濁った血。 

鉄の匂いが、風に混じって漂ってくる。

 その瞬間。

 雪原で倒れていた時の感覚が頭の奥をよぎった。

 冷たい雪。

 重くなる瞼。

 消えていく意識。

 もし、エバが見つけてくれなかったら。

 わたしも、あんな風に。

「っ…」

 気づけば、身体が小さく震えていた。

 呼吸がうまくできない。

 胸の奥が苦しい。

 青年はそんなわたしを見ると、小さくため息を吐いた。

「はぁ…しゃーないなぁ」

 そう呟きながら、わたしの首から下がった入館証を見る。

「あー、クマさんのところの子か」

 青年は少しだけ困ったように笑った。

「ほな、このお嬢さんは俺が連れて行きますわ」

「ここはよろしく頼みます」

 そう言うと、青年はそっとわたしの手を取った。

 その手は、わたしと同じくらいの大きさだった。

 ただ、とても温かかった。

そして図書館へ戻るころには、街はオレンジ色の夕焼けに染まっていた。

白書大図書館の壁面に夕日が反射し、巨大な建物全体が淡く燃えているように見える。

 昼間は騒がしく感じた街も、人の数が少なくなったせいか、今はどこか落ち着いて見えた。

 海から吹く風も少し冷たい。

 青年に手を引かれながら歩いている間も、わたしは何度も後ろを振り返っていた。

 さっき見た白衣の男。

 地面へ広がる赤い血。

 雪原で倒れていた時の感覚。

 それらが頭の奥にこびりついて離れない。

「クマさーん」

 気だるげな青年は、だるそうに片手で扉を開けると、もう片方の手でわたしの腕を引っ張った。

 突然引かれ、わたしは小さくよろめく。

 部屋の中にいたクマさんは、驚いたように目を見開いた。

「お前ら、もう会ってたのか」

「はぁ?」

 青年は露骨に顔をしかめる。

「ちゃうねん」

「こいつが捜査中の事件現場に入り込んできよったから、引っ張ってきたんですよ」

 青年は苛立ったように頭を掻きながら、わたしを指差した。

「クマさんの子供なら、ちゃんと見といてくださいよ」

「私の子供⁉」

 クマさんは目を丸くしてこちらを見る。

「なわけあるか!」

 慌てて否定するクマさんを見て、青年は「ほななんなんですか」と呆れたように眉をひそめた。

 するとクマさんは、小さくため息を吐く。

「…エバさんが調査中に拾ってきた子だよ」

「っ…」

 その瞬間だった。

 青年の空気が変わった。

 さっきまでの軽い雰囲気が、音もなく消えていく。

 細長い目は、大きく開きながらこちらを見ている。

 その視線だけで、背筋が冷える。

「お前」

 次の瞬間。

 わたしの身体は強く引き寄せられていた。

「うっ…!」

 青年の手が、わたしの首元を掴み上げる。

 苦しい。

 息ができない。

 視界がぐらぐら揺れる。

 必死に手を振りほどこうともがく。

 だけど、その手はびくともしなかった。

 まるで鉄みたいだった。

 その時だった。

「何してるんだ!!」

 低く響いた怒声。

 次の瞬間、大きな手が青年の腕を強引に振り払った。

 クマさんだ。

 わたしと話していた時とはまるで違う。

 部屋の空気が凍り付くような、冷たい怒りだった。

「例え何があろうと、か弱い女の子を傷つけるためにお前を鍛えた覚えはない」

 クマさんは、わたしを庇うように前へ出る。

 そして。

 次の瞬間には、青年の身体が宙へ浮いていた。

 まただ。

 何が起きたのかわからない。

 視線で追う暇さえない。

 気づけば青年は、部屋の壁へ叩きつけられていた。

 ドゴン――という鈍い音が響く。

 コンクリートの壁が大きくへこみ、細かな破片が床へ散らばった。

 それでも青年は悲鳴ひとつ上げない。

「一回、頭冷やしてこい」

 クマさんは低い声で言い放つ。

 その後ようやく、こちらへ振り返った。

「大丈夫かい」

 わたしは咳き込みながら、小さく頷く。

 喉が焼けるように痛かった。

 クマさんは心配そうに、わたしの首元を見つめる。

 そこには赤く指の跡が残っていた。

「…律がすまなかった」

 クマさんは申し訳なさそうに頭を下げる。

 だけどその後ろで、青年――律はゆっくり立ち上がっていた。

 壁へぶつかったはずなのに、平然としている。

 口元の血を拭うと、律はわたしを一瞥した。

 その目には、明確な嫌悪があった。

 そして何も言わないまま、部屋を出ていく。

「い、いえ……」

 わたしの声は震えていた。

 怖かった。

 だけど、それ以上にわからなかった。

 どうして彼が、あそこまでわたしを嫌うのだろうか。

 クマさんは深くため息を吐くと、引き出しから氷の入った袋を取り出した。

「少し冷やしなさい」

 そう言って、そっと首元へ当ててくれた。

「…少し時間はかかるけど、やはり律以外の人間を君につけよう」

クマさんは椅子へ腰掛けながら、疲れたように目を閉じる。

 そして眉間をつまむように手を当てる。

「今週は自由に図書館を探索しててもいい」

「ただ、律にはできるだけ近づかないようにしなさい」

 クマさんは静かな声で続けた。

「私がいない時にあいつへ会ったら、何されるかわからない」

 わたしは小さく頷くことしかできなかった。

 気づけば、窓の外はすっかり暗くなっている。

 白書の街には、無数のネオンが灯り始めていた。

「今日はもう遅い」

「図書館の隣にある寮へ泊まりなさい」

 クマさんは引き出しから携帯端末を取り出すと、どこかへ連絡を入れる。

 数分後、受付嬢らしき女性が部屋へやってきた。

「こちらへどうぞ」

 わたしは立ち上がる。

 首元はまだ痛む。

 部屋を出る前ににもう一度だけ、律が叩きつけられた壁を見る。

 そこには、大きなへこみが残っていた。

 どうしてだろう。

 怖いはずなのに。

 もう二度と会いたくないと思ってもいいはずなのに。

 わたしは、律のあの目が忘れられなかった。

 怒り。

 嫌悪。

 彼は、わたしの何を見たのだろう。

 答えは出ないまま、わたしは受付嬢に連れられて部屋を出る。

 夜の図書館は、昼間よりもずっと静かだった。


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― 新着の感想 ―
哲学書の並ぶ静謐な15階で、主人公だけに見える「淡い光の粒子」が道を作るファンタジックな描写が秀逸です。 それが単なる綺麗な装飾ではなく、凄惨な「白衣の男の殺人現場」へと繋がる不穏な道標になっているギ…
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