第一話
『公安都市 白書』
日本国 東京の南東に浮かぶ湾内海上都市。
一億冊以上の書物が集められた、白書大図書館を中心に形成された巨大都市。
「ほらアル、そろそろ目的地に到着するよ」
雪原の小屋に住み始めてから1カ月ほどが経過した頃、エバの仕事は大詰めを迎えていた。
エバに出会ってから、わたしは毎日をエバと共に過ごした。
暖炉の火の温かさを感じながら本を読み、朝の雪掻きを手伝い、エバがいつも焦がす玉ねぎの入ったスープを飲む。
穏やかな生活だった。
だけど、嫌ではなかった。
むしろ、生まれて初めて“居場所”のようなものを手に入れた気がしていた。
だからこそ、その言葉は突然だった。
「エバ、今日も仕事に行くの?」
雪が降り続ける朝。
いつものように支度をするエバへ、わたしは何気なく尋ねた。
「いや、もう仕事は片付いた」
エバは机へ地図を広げながら、小さく息を吐く。
「近々、ここを離れて日本に帰国する予定だ」
寝耳に水だった。
ここを離れる。
その言葉が理解できた瞬間、胸の奥が冷たくなる。
置いて行かれる。
また、一人になる。
それがどうしようもないほど怖かった。
「あ…その…」
声がうまく出ない。
喉の奥で言葉が絡まり、何を言えばいいのか分からなかった。
そんなわたしを見て、エバは少し困ったように笑う。
「そこでなんだが…お前がよければ、私と一緒に日本へ行かないか」
エバは、こちらをまっすぐと見つめていた。
試すようでもなく、同情するようでもなく。
その目は、わたしの言葉を待っていた。
日本。
本の中でしか見たことのない国。
高い建物が立ち並び、人が溢れ、夜も眠らぬ国。
怖くないと言えば嘘になる。
だけど、エバがいるだけで自然と安心できた。
「い…いく!」
気づけば、わたしは声を上げていた。
「わたしも、一緒に行きたい」
その瞬間、心が少しだけ軽くなった。
嬉しかった。
捨てられるわけじゃなかった。
また一人になるわけではなかった。
「そいつは良かった」
エバは安堵のため息を吐くと、勢いよく立ち上がった。
そして、大きなバッグをわたしに向かって放り投げる。
「急いで準備しろ。明日には日本に飛ぶぞ」
「あ、明日⁉」
「遅れたら、置いていくからな」
エバは、軽く冗談を言いながら外に荷物を取りに向かった。
そうしてわたしたちは数日かけて雪原を抜け、日本行きの飛行機へ乗り込んだ。
数日間歩き続けていた疲れで、飛行機に乗るや否や眠ってしまった。
そしてエバの声によって、わたしはゆっくりと目を覚ました。
窓の外には、どこまでも青い海が広がっている。
その奥には、白い霧の中から無数の高い建物が姿を現し始めている。
あれが、白書。
飛行機は、やがて大きく揺れながら空港へ降り立った。
そして空港へ足を踏み入れた瞬間、わたしは思わず足を止めてしまった。
うるさい。
人の声。
足音。
電子音。
聞き取れないアナウンス。
雪原とは違う。
そこら中が音で溢れていた。
人々は小さな板のようなものを片手に歩き、巨大な電光掲示板には絶え間なく文字が流れていく。
騒がしくて、息が詰まりそうになった。
人の波に押され、わたしは無意識にエバのコートを掴んでいた。
エバは、困惑するわたしを軽く笑いながら椅子に座らせると、空港内の量販店に入っていった。
「ほら、これをつけて見ろ」
エバが量販店から戻ってくると、わたしの耳に蓋をしてくれた。
「このヘッドホン、お前にやるよ」
音は先ほどよりも小さくなり、ようやく息が吸えた様な気がした。
その後はエバに連れられながら海上モノレールに乗り、海に浮かぶ巨大都市へと向かった。
海の上へ築かれた無数の塔。
「あれが公安都市白書」
エバは静かに呟いた。
「これからお前が過ごす新しい街だ」
わたしの胸の中には、不安と期待が入り混じった不思議な感覚が渦巻いている。
そうしている間にも海上モノレールは静かに速度を落とし、終点――白書大図書館駅へと滑り込んでいった。
扉が開いた瞬間、潮の香りを含んだ風が頬を撫でる。
駅を出ると、目の前には巨大な街並みが広がっていた。
ガラス張りの高層ビル。
空中を走る搬送レール。
絶え間なく動き続ける電光広告。
そして、その遥か奥。
白い霧を貫くようにして建てられた巨大な塔――白書大図書館。
まるで街そのものが、あの建物を中心に動いているみたいだった。
「アル、悪いが先に仕事先へ向かわなくちゃならなくてね」
エバが片手を上げながら歩き出す。
わたしは小走りでその後ろを追いかけた。
「……仕事」
そういえば、エバが何の仕事をしているのか、わたしはほとんど知らない。
雪原では“調査”と言っていた気もするけれど、それ以上は聞かなかった。
エバは少しだけ悩むように顎へ手を当てると、ふっと笑った。
「せっかくだ。あんたも一緒に来るか」
「いいの?」
「別に、人に言えないような仕事をしてるわけじゃないし」
そう言うと、エバはわたしの返事を待たずに大通りの奥へ歩き始める。
わたしは慌ててその背中を追った。
「エバの仕事先って、図書館に近いんだね」
何気なく呟く。
するとエバは、少し間の抜けた顔でこちらを見てくる。
「ん? 言ってなかったっけ」
「私の仕事先、図書館の中だよ」
「…はぁ」
もはや呆れたため息しか出てこない。
エバは毎回、大事な説明が抜けている。
日本へ帰ることも。
仕事のことも。
飛行機のことだって、前日まで話していなかった。
「もっと早く言ってよ」
「悪い悪い」
口では謝っているが、まったく反省している様子はない。
そんな時だった。
「きゃあああっ! 私のバッグ!」
女性の甲高い悲鳴。
通りを挟んだ向かい側で、女性が地面へ倒れ込んでいた。
黒いフードを被った男が、そのバッグを抱え込むようにして路地へ駆け出していく。
周囲の人々がざわめき始める。
「アル、ちょっとここで待―」
エバが動き出そうとした、その瞬間だった。
通りのベンチにだらしなく座っていた男が、そっと足を伸ばした。
次の瞬間。
走ってきたフードの男が、その足に引っ掛かるようにして盛大に転倒する。
「あかんやん、お兄さん。人のもん盗ったら」
陽気な訛りのある喋り方をした、細長い目をした青年がベンチから立ち上がる。
年齢は二十歳くらいだろうか。
黒いコートを羽織り、どこか気の抜けた笑みを浮かべている。
「うるせぇ!」
フードの男は立ち上がると、青年の顔を殴りつけるように腕を振ると再び走り出した。
「あっ、ちょ、もー」
青年は頬を押さえながら、面倒臭そうにため息を吐く。
周囲が騒然とする中、彼だけが妙に気楽だった。
そして次の瞬間には、彼は走り出していた。
フードの男との距離は十数メートルはあったはずだ。
それなのに。
わずか数秒のうちに、青年は男へ追いついていた。
何が起きたのか分からない。
気づけば、男は地面へ押さえつけられていた。
「はいはい、暴れんといてなー」
青年は笑いながら男の腕を拘束している。
その動きは軽い。
なのに、不思議なほど無駄がなかった。
わたしはただ唖然と立ち尽くしていた。
「アル、図書館へ行くよ」
エバがわたしの腕を軽く引く。
「え、あっちは…」
「あいつなら問題ないでしょ」
エバは青年の方をちらりと見た。
だけどその表情は、“信頼”というより“気まずい”そんな顔だった。




