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プロローグ

ここは……どこ。

わたしは……だれ。

何もわからない。

どこまでも白い大地だけが広がっていた。

空も、大地も、吹き荒れる雪も、全てが白い。

その中で、わたしは一人倒れていた。

冷たい地面が、ゆっくりと身体を包み込んでいく。

視界はぼやけ、瞼が少しずつ重くなっていく。

先ほどまで冷たかった身体の感覚は、不思議なほどにあたたかさを感じながらなくなっていく。

「あたたかいなぁ…」

擦れた喉から、小さな声が漏れた。

このまま眠ってしまえば、きっと楽になれる。

だけど、どうしてだろう。

まだ死にたくない、と思ってしまった。

わたしはまだ、何も知らない。

何もやっていない。

何にもなっていない。

人が何かの役割を持って生まれているというのなら、わたしは何物にもなれないでいる。

だから、死ねない気がした。

けれど、意識は無情にもゆっくりと沈んでいく。

そうしてわたしの意識は、ぬくもりの中へ消えていった。


——次に目を覚ました時、わたしは暖かいベッドの中にいた。

「起きたか」

声のした方を見る。

ベッドのそばに立っていたのは、右目に大きな傷痕を持つ体格の良い女性だった。

「あたしはエバ。仕事の帰りに偶然、お前を見つけたんだ」

そう言いながら、女――エバは椅子へ深く腰掛けた。

わたしは、エバから距離をとるようにベッドの隅に寄った。

「あんた名前はなんていうんだ?」

「…わからない」

「そうか」

エバは少し悩んだ後、机の横へ積まれていた本へ視線を向ける。

その中から一冊を抜き取り、表紙へ書かれた名前を眺めた。

著者名――『アルベルト』。

「名前がないままじゃ不便だろ」

そう言って、エバは小さく笑う。

「なら、これからお前の名前はアルだ」

アル。

その響きを、わたしは心の中で繰り返した。

初めてわたしへ与えられた名前。

まるで、自分がこの世界へ存在することを肯定してくれている気がした。

「いい名前だろ。お前にぴったりだ」

わたしはそっと小さく頷いた。

その時だった。

「…最後に一つだけ聞かせてくれ」

先ほどまでの優しい空気が、静かに変わる。

『お前、『魔女』を知っているか』

「っ……!」

その瞬間、心臓が壊れたみたいに脈打った。

エバの圧に押しつぶされるように、息が苦しくなっていく。

それと同時にわたしの体は『魔女』という言葉に強い恐怖を抱いた。

身体中へ鳥肌が走る。

寒気さえも感じた。

「…悪い。やりすぎた」

エバが静かに息を吐くと、先ほどまでの鋭い空気が消えた。

そして机へ置いていたスープの器を、そっとわたしへ差し出した。

エバへの恐怖が残っていたわたしは、得体も知れないスープを飲むことなどできなかった。

ただ、自然と鼻の奥へ香ばしい匂いが広がっていく。

鶏の出汁と、少し焦げた玉ねぎの匂い。

腹が空いているわたしは到底耐えられるわけもなく、その匂いに釣られるようにして器を受け取った。

わたしはそっとスープを口へ運んでいく。

思わず小さな声が漏れた。

舌へ触れた瞬間、冷え切っていた身体の奥へじんわりと熱が広がっていく。

温かい。

鶏の旨味も、塩気も、全部が新鮮だった。

こんな感覚を、わたしは知らない。

知らないはずなのに。

どうしてだろうか。

どこか懐かしさを感じた。

わたしは無言のまま、夢中でスープを飲み続けた。

その時だった。

「おかわりはいるか?」

気づけばエバが、新しい器を持って立っていた。

わたしは小さく頷く。

するとエバは、どこか嬉しそうに笑った。

「なぁ、お前」

エバがぽつりと呟く。

「どうせ帰る場所もないんだろ」

「…………」

「なら、怪我が治るまでここにいろ」

「でも…」

「遠慮すんなって。子供は、大人に迷惑かけてなんぼだ」

そう言いながらエバは、首から下げていた古びた懐中時計を握った。

開かれた蓋の中には、小さな写真が入っている。

男の子と、眼鏡を掛けた白衣の男性。

二人は楽しそうに、こちらを見ながら笑っていた。

家族写真なのだろう。

エバはそれを見つめた後、そっとわたしの頭を撫でた。

その手は、大きくて温かかった。


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― 新着の感想 ―
エバが手渡した本から名付けられる即興性と、彼女が大切に持つ懐中時計の中の「白衣の男性と男の子の写真」。エバ自身もまた、何かを失い、あるいは何かの目的を持って動いている大人であることが、多くを語らずとも…
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