十七年前の刻印
陽炎のメンバーが持ち帰ったあまりにも凄惨な負傷状況と、彼らが語る「黒いシルエット」の脅威は、探索者協会に深刻な衝撃を与えた。
歴戦のSランクパーティですら一瞬で半壊させ、四肢や目を永久欠損させられたという事実を重く見た協会は、直ちに最高幹部会を招集。該当ダンジョンの緊急調査を決定した。
協会は精鋭の探索者を総動員し、該当するダンジョンの隅々まで徹底的な捜索を行った。
しかし――どれだけ日数をかけ、魔力を探っても、あの黒いシルエットが再び姿を現すことは二度となかった。まるで最初からそんなものは存在していなかったかのように、痕跡すら綺麗に消え失せていたのだ。
正体不明の脅威に対する恐怖と、安全性の担保ができないという判断から、探索者協会はそのダンジョンの無期限封鎖を公式に決定した。
周囲に高い障壁が築かれ、一般の探索者はもちろん、許可を持たない者の立ち入りは厳重に禁止された。
それ以来、封鎖されたダンジョンは「特異閉鎖区画」として協会の管理下に置かれることになった。
協会は、あの日の影が再び現れるのではないかという懸念、そして内部で未知の魔物が異常繁殖するのを防ぐため、定期的に精鋭の討伐隊を派遣している。
目的は、黒いシルエットの継続的な探索と、内部に生息する危険な魔物の「間引き」――すなわち、あの悪夢が二度と外界へ溢れ出さないための、終わりのない監視であった。
生死の淵から生還した陽炎のメンバーだったが、その後の治療の最中、さらなる衝撃の事実が判明した。
楓の妊娠が発覚したのだ。
あのような凄惨な死闘を潜り抜け、仲間たちが傷つき倒れる中での新しい命の兆し。楓はその場で崩れ落ちるように膝をつき、大粒の涙を流しながら「よかった、よかった……」と震える声で何度も呟いた。
そして月日は流れ、彼女は無事に一人の男の子を出産した。
夫婦は、その子に「健一」と名付けた。
健一は両親の愛情を受けながらすくすくと成長し、小学生にあがった年、智哉が開く道場へと通わせることにした。
道場に通い始めて二年の月日が流れたある日、健一の家の隣に一人の少女が引っ越してきた。それが佳苗だった。
すぐに佳苗と仲良くなり、よく一緒に遊ぶようになった健一は、「一緒に道場に通わないか」と彼女を誘う。佳苗が両親に相談した結果、彼女もまた同じ道場へ通うことになったのだった。
――それから時は流れ、健一が中学二年生になったある日のこと。
その日は、佳苗が珍しく熱を出し、道場には健一が一人で向かうことになった。
いつもなら佳苗と組手を行うところだが、この日は相手がいないため、道場の主である智哉が自ら相手を務めることになった。
健一と智哉が向かい合い、間合いを取る。
その瞬間、智哉の背筋にぞわりと冷たいものが走った。
(なんだ、この感覚は……)
脳裏に蘇ったのは、あの暗いダンジョン。あの時、陽炎のメンバーを一瞬で絶望のどん底に突き落とした、あの黒いシルエットの魔物。
圧倒的なまでの強者――その恐怖の気配が、目の前にいる健一と、なぜか重なって見えたのだ。
思考よりも先に、かつての一流探索者としての殺気と防衛本能が身体を勝手に動かした。
「――っ!」
健一が、智哉に胸を借りるつもりで真っ直ぐに踏み込んだ、そのコンマ数秒のことだった。
智哉の身体が陽炎の揺らぎのように歪んだかと思うと、一瞬で健一との間合いを完璧に詰め、その腕をガッチリと掴んで急所である『崩身穴』を的確に突いた。
「え……? なんか、急に力が入ら……」
健一が戸惑いの声を漏らす。
だが、殺気と反射に支配された智哉の攻撃は止まらない。次の瞬間、鍛え上げられた掌底が、迷うことなく健一の心臓めがけて放たれた。
――『崩心掌』。
まともに食らえば心臓が一時停止し、最悪の場合は死に至るほどの致命的な秘孔撃。
強烈な衝撃に、健一はたまらず前のめりにバッタリと倒れ込んだ。
「あ――」
そこでようやく、智哉の意識が現実へと引き戻された。
「や、ヤバい……! 健一っ!」
血の気が一気に引いた智哉は、慌てて床に倒れ込んだ健一を抱き起こした。
(なんで俺は……一体、何をやってるんだ……っ!)
崩心掌を受けた人間がどうなるか、誰よりも知っている。頭が真っ白になりかけたその時だった。
ゲホッ、ゲホッ!
健一が苦しそうに激しく咳き込みながら、上半身を起こした。
「せっ、先生……流石に、今のマジで死ぬって…………」
「あ、ああ……す、すまない……!」
冷や汗をダラダラと流しながら謝罪する智哉の腕の中で、健一はふうふうと息を整えている。
――しかし、智哉の思考はそこで完全に停止した。
今、自分の全力を乗せた『崩心掌』をまともに食らったはずだ。一般の人間であれば、心臓が止まり、ただでは済まないはずなのに、目の前の少年は多少息苦しそうにしているだけで、致命傷の気配すらない。
自分の全力の一撃を受け止めてケロッとしている健一の姿を目の当たりにし、智哉は言葉を失ったまま、ただポカンと呆然と立ち尽くすのであった。
その一件を健一の父である純也に報告した。
純也は、激怒した。
「智哉!一歩間違えれば健一は死んでいたんだぞ!」
「すまない……なぜか健一と対峙した時、あのダンジョンでの『恐怖』が呼び起こされた……そして……」
「クソ!何なんだよ一体!」
純也は、健一に何が起こっているのかを突きとめる為、精密検査をすることにした。そこで出された結果が健一の両親の今後の行動の一因となった。
「精密検査の結果、異常はありません。ただ……ゲノム解析をした結果、一点だけ異常が見つかりました」
「え?ゲノム解析の結果って……一体、どういうことだ?」
純也は医者の言葉に険しい表情を向けた。
道場での一件を知り、血相を変えて飛んできた純也だったが、智哉の謝罪を受け入れた後、すぐさま息子である健一の全身を徹底的に調べ上げるため、信頼できる医療機関へと駆け込んでいたのだ。
智哉の放った『崩心掌』は、大人の探索者をも昏倒させるほどの秘孔撃。それを中学二年生の健一が軽傷で済ませたという事実は、どう考えても常軌を逸している。
白衣を着た医師は、手元のタブレット端末に表示されたデータから目を離し、少し言いづらそうに眼鏡の位置を直した。
「……言葉の通りです。全身の細胞組織、そして遺伝子情報を詳細に解析したところ、健一くんのゲノムの大部分はご両親であるあなた方と一致しています。ですが、そのDNAの『ごく一部』に、人類のものとは到底思えない未知の配列が組み込まれているのが確認されました」
「未知の配列……?」
智哉も背後から身を乗り出すように尋ねる。
「はい。現在、世界中で発見されているいかなる生物の遺伝子とも一致しません。例えるなら……完全に外部から書き換えられたかのような、異質なコードです」
医師は溜息をつき、静かに言葉を続けた。
「これが何を意味するのか、現時点では正確には分かりません。ただ……この異常なゲノム構造のせいで、健一くんの身体強度が一般的な人間の範疇を大幅に超えている可能性があります。致命傷を与えるような強烈な技で致命傷に至らなかったのも、おそらくその身体の変異が関係しているのでしょう」
医師のその言葉を聞いた瞬間、純也の脳裏に15年前の悪夢がフラッシュバックした。
あの深層ダンジョンの奥底で、陽炎のメンバーを容赦なく切り刻んだ、あの「黒いシルエットの魔物」。
(まさか……あの時の何かが、健一に……?)
楓が身ごもったのは、あの絶望から生還した直前のことだった。
これまで何事もなく普通の子供として育ってきたはずの健一の中に、あの日の悪夢の断片が潜んでいるというのか。
「……わかった。詳しいデータをもらえるか?」
「ええ、こちらにまとめておきます」
病院を出た純也と智哉は、重い沈黙に包まれていた。
この検査結果を知れば、妻の楓がどれほど動揺し、苦しむことか。しかし、息子に起きている異常から目を背けるわけにはいかない。
この出来事を境にして、純也と楓は一つの重大な決断を下すことになる。
「世界中を飛び回っている考古学者」という両親の表向きの姿の裏で、二人がダンジョンの謎や、健一の体に隠された秘密を暴くために動き始める――その大きなきっかけが、このゲノム解析の結果だった。
健一のレベルが止まったと報告を受けた。その夜、智哉は道場の奥の自室で、ひとり自分のステータス画面を見つめていた。
「あなた……?」
ふと、心配そうに覗き込んでくる妻の初音の顔が脳裏をよぎる。
「この言葉さえ、なければ……」
いったい、今まで何度そう思ったことだろう。
智哉の視線の先には、虚空に浮かぶステータス画面に刻まれた、あまりにも冷たい文字があった。
『これ以上レベルが上がることは無い』
智哉は、その文字を呪うように見つめながら静かに呟いた。
レベルが上がったとき、人類の身体にはある「奇跡」のような現象が起こる。
ステータスが向上するだけでなく、全身の傷や不調が完全に回復するのだ。たとえ腕や足を失っていようと、命さえ繋ぎ止めていれば、失われた肉体すら元通りに再生する。
それが、このダンジョン世界において人類に与えられた唯一の救いだった。
だが――その奇跡は、誰にでも平等に訪れるわけではない。
レベルの上限に達した者には、二度と訪れないのだ。
十七年前。
あの未踏ダンジョンの奥底で、智哉は黒いシルエットの何者かに一瞬で左足を斬り落とされた。
そのとき、智哉のレベルはとうに上限へと達していた。
もし、あのとき自分の限界がまだ先にあったなら。
次にレベルが上がったその瞬間に、失った左足は元通りになっていたはずだった。
だが、限界を迎えていた智哉に、二度とその奇跡が訪れることはなかった。
失った左足は戻らず、あの日刻まれた心と身体の傷は、十七年が経った今も消えることなく残り続けている。
智哉は虚空に浮かぶ画面を見つめたまま、無意識に、もう存在しない左足を動かそうした。
失われた肉体。
あの日、目の前に現れた圧倒的強者たる黒いシルエット。
そして、仲間たちが傷つけられていく中で何ひとつ出来なかった己の無力さ。
そのすべてが、十七年経った今もなお、智哉の魂に深く暗い影を落としていた。
(この限界の壁の先へ進める者と、ここで立ち止まる者……その違いは、一体何なんだ……)
ふと、昼間の道場での出来事が脳裏をよぎる。
レベル10で成長が止まったと、心の底から嬉しそうに報告してきた健一の顔。
公務員を目指す為に勉強に専念できると、無邪気で満面の笑みを浮かべていた姿。
(……健一のレベルが止まったのは、本当にただの『限界』なのか……?)
レベルの上限に達した者は、それ以上レベルが上がらない。
それは、この五十年間で誰もが疑うことのなかった世界の常識だ。
だが、健一の場合はどうなのだろう。
あの時、自分の全力の『崩心掌』をまともに食らいながら、死ぬどころか平然と立ち上がった少年の異常さ。
そして、精密検査で見つかったという、人間のものではない未知のゲノム配列。
健一は本当に、ただのレベル10で終わった一般的な「限界者」なのか。
それとも――。
「……いや、今いくら考えたところで、答えは出ないか」
智哉は深くため息をつき、静かに首を振った。
静まり返った夜の道場に、冷たい月光が差し込んでいる。
決して答えの出ない重い問いを胸に抱え込みながら、智哉はただ一人、目の前で静かに発光するステータス画面を、じっと見つめ続けていた。




