黒いシルエット
健一と佳苗は、毎日のように合気道の道場へ通っていた。
きっかけは、健一の父だった。
健一がまだ幼い頃、父に勧められ、知り合いが営んでいる合気道の道場へ通い始めたのだ。
それからしばらくして、健一の家の隣に佳苗が引っ越してきた。
同じ年頃だったこともあり、二人はすぐに仲良くなった。
そしてある日――。
「カナエも一緒にやってみない?」
健一が誘ったことをきっかけに、佳苗も道場へ通うようになった。
それ以来、二人にとって合気道は毎日の習慣になっていた。
二人が通っているのは――
天空城合気道道場
師範を務めているのは、天空城智哉。
厳しい時には厳しいが、面倒見のいい師範として、二人も昔から世話になっている。
「よし、着替えてくる!」
健一は急いで袴に着替えると、クゥを連れて庭を出た。
佳苗もその後を追う。
「ケン、智哉先生に言うの?」
「いや、さすがに言えるわけないよ」
「だよね」
今日起きたことを考えれば、話したいことはいくらでもある。
しかし――。
自分のステータスに起きたことや、テイマーになったことまで話す勇気はなかった。
「まあ……そのうち考えるよ」
「うん」
二人は並んで歩き出す。
道場までは歩いて二分ほど。
「着いた」
すぐ目の前に、見慣れた道場が見えてきた。
健一と佳苗は、いつものように道場へ入っていった。
門をくぐると、健一はいつものようにクゥを放した。
「クゥ、終わるまで待っててね」
佳苗が声をかける。
「クゥ!」
クゥは返事をするように鳴くと、庭を元気に走り回り始めた。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
二人はクゥを残し、道場へ足を踏み入れる。
道場の中央には、智哉が正座して待っていた。
「来たか」
「はい」
二人は手早く準備を済ませると、智哉の前に並んで正座する。
「それでは、稽古を始める」
「「よろしくお願いします」」
二人が頭を下げた。
しかし、智哉はすぐには稽古を始めなかった。
「……その前に、報告があるだろ」
「はい」
智哉は二人の顔を見る。
毎年この時期になると、道場に通う高校生たちがレベル10へ到達する。
健一と佳苗についても、そろそろだろうと智哉は分かっていた。
「まずは佳苗から聞こうか」
「はい」
佳苗が姿勢を正す。
「無事にレベル10を超えました」
「そうか」
智哉は穏やかに頷いた。
「よく頑張ったな。それで、ジョブは何にしたんだ?」
「剣士です」
「……剣士?」
智哉の眉が、ほんの少し上がった。
「なぜ剣士を選んだ?確か、ジョブはいくつか選べたはずだが?」
「いえ……私には剣士しか出ませんでした……」
「ん?選択肢が、剣士だけだったのか?」
「はい……」
智哉は少し考えるように佳苗を見る。
(後で、一輝にでも聞いてみるか)
「そうか。まあ、ジョブが何であれ、佳苗がなりたかった探索者になれたんだしっかり向き合えばいい」
「はい!」
佳苗が元気よく返事をした。
智哉は頷くと、今度は健一へ視線を向けた。
「さて……次は健一だな」
「俺は、レベル10で止まりました!」
健一が嬉しそうに報告すると、智哉が驚きの表情を見せた。
「健一は、止まったのか?」
「はい! これで公務員を目指して、勉強に専念できます!」
健一は満面の笑みを浮かべる。
「そうか……」
智哉は健一の顔を見ながら、少しだけ考えるように黙った。
「……まあ、健一らしいと言えば健一らしいな」
「はい! 俺は絶対に公務員になります!」
健一は力強く答えた。
智哉はそんな健一を見て、ふっと笑った。
「そうか。なら、しっかり勉強しろよ」
「はい!」
健一は元気よく返事をした。
報告を終えた二人は、柔軟体操を行い、基礎の受け身や体捌き、そして形稽古を行った。
道場で汗を流すと、二人並んで綺麗に正座をし、智哉に向かって頭を下げた。
「「ありがとうございました!」」
「うむ、気を付けて帰るんだぞ」
「「はい!」」
二人の背中を見送りながら、智哉は、腕を組んで深い思考の海に沈んでいった。
(なぜ、健一のレベルが止まったんだ……)
脳裏に浮かぶのは、健一のレベルが止まった事だった。
智哉には、それがどうにも引っかかっていた。
(あの日、俺たち『陽炎』がRSを引退した日から、もう17年が経ったのか……)
かつて一世を風靡した伝説の探索者パーティ『陽炎』。
メンバーのうち二人が結婚することになり、これまでのパーティ体制を維持することが困難だと判断した彼らは、その日を最後に解散することを決めていた。
――17年前の最後の日。
陽炎のメンバーは、ある深層ダンジョンに挑み、激闘の末にダンジョンボスを打ち破った。
ボスが消滅し、最後の生配信であるRSの撮影も終えた。緊張の糸が切れたメンバーが、勝利の余韻に浸っていた時のことだった。
奥の暗がりから、不気味な音が響いた。
「……ケタケタ、ケタケタ……」
聞き慣れない、笑い声のような乾いた音。
「なんだ……?」
警戒を強める智哉たちの前で、ボス部屋の奥から、腕の異様に長い黒いシルエットが這いずるように近づいてきた。
次の瞬間、陽炎のメンバーたちは、背筋が凍るような例えようのない恐怖に支配された。
(ダメだ……俺たちはここで死ぬ……)
絶対的な「格上の強者」を目の前にし、頭ではなく本能が敗北と死を告げた。
「クソっ……! 死んでたまるかよ!」
恐怖に呑まれそうなの感情を智哉は振り払うように叫びながら、黒いシルエットへと突撃して攻撃を仕掛けた。
しかし――。
黒いシルエットが炎のようにゆらりと揺らめいた、そのコンマ数秒後。
ブシュッ、と生温かい感触と共に、智哉の左足が宙を舞った。
シルエットは微動だにせず、ただ通り過ぎるだけで、次々とメンバーたちを切り裂いていく。
一輝の左腕が斬り飛ばされ、純也の右腕が斬られ、洋介の右足が地に落ちた。
初音の悲鳴と共に右目が潰され、最後に楓の前に立ったその存在は、「ケタケタ」と嘲笑うように、彼女の左目をえぐり取った。
一瞬の出来事だった。
黒いシルエットは元いたダンジョンの奥へと戻ると、スッと何事もなかったかのように消え去った。
「な……何だったんだ、いまのは……!」
「クソっ、足が……!」
「初音! すぐに回復を頼む!」
「わ、分かったわ……っ!」
血まみれになりながらも、右目を失った初音は自身に中級回復魔法の《ヴィタリア》を必死に唱えた。
みるみるうちに傷口は塞がり、鮮血は止まった。だが――失われた肉体が元通りになることはなかった。
初音は必死になって次々と《ヴィタリア》を唱え続けたが、一度失ったものは、どれほど高位の魔法であっても決して戻らなかったのだ。
背筋を凍らせるような絶望の中、最悪なことに、ダンジョンの魔物が再び湧き出す「リポップ」の時間が刻一刻と迫っていた。
このままでは、ここで全滅する。
片足を失った智哉と洋介を、一輝と純也が必死に肩にかつぎ、ボロボロになりながらも、彼らは命からがらダンジョンの出口へと這いずり出たのだった。
そして、光の差し込む外へと転がり出た陽炎のメンバーは、その場に崩れ落ちるようにへたり込んだ――。




