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バーロック・ワームズの供述書  作者: ダム底タヌキ
通常業務編
7/12

☆日記を書いていたのに、途中で見つけた虫の足の数を数えるだけで三ページ使ってしまう瞬間

路面電車に揺られながら、私はたすき掛けにした七台のスマホのうち、最もスムーズに電波を拾う一台で、この地の食文化に関する派閥争いを調査していました。


「おや。ハトソン、見てください

この街では、小麦粉とキャベツを重ねる順番を間違えるだけで、市中引き回しの上、鉄板で焼かれる刑に処されるそうですよ。野蛮ですねぇ、宗教戦争ですか?」


私が独り言を漏らしていると、隣に座っていた、カープの赤い意匠を纏った老人が私のスマホを覗き込み、困ったように眉を下げました。


「ははっ、お兄さん、えらい物騒なもん見とるねぇ。そんな、お好み焼きの焼き方一つで処刑なんてされんよ

ネットはな、なんでも面白おかしく大げさに書きすぎじゃ」


老人は赤い帽子を直しながら、柔和な笑みを浮かべました。その身のこなしに、我々の世界の教会人が放つ殺気は微塵もありません。


「では、重ねる順序を誤っても、即座に背後からコテで刺されることはないと?」


「まっさかぁ!そりゃあな?地元のもんは“これが広島の形じゃ”っていう誇りを持っとる

だからってこっちのやり口を押し付けはせんよ、だって最終的には、アツアツを美味しく食べられりゃあ、それが一番なんやから


お兄さんもな、これいいなーってお店が見つかったら、気軽に入ってき!旅の人が、ニコニコしながら食べてくれるのが、一番平和じゃけぇ」


平和。またしてもその単語です。

この老人は、自身の愛する文化が隣国の“混ぜる派”に侵食される恐怖よりも、見ず知らずの異邦人が空腹を満たす喜びを優先するというのですか。


「平和。なるほど。食の作法よりも、食卓の平穏を尊ぶと

食とは文化であり、文化は思想に繋がります。他国からの、まだ起きていない侵略に怯える我が国の軍略からすれば、随分と甘い守備体系ですが…一人の旅行者としては、その無防備さに救われる思いですよ」


「そうそう、難しく考えんでええんよ!もし迷ったら、店の人に“お任せで”って言やぁええ

そしたら、最高に美味い一枚を焼いてくれるけぇね!」


老人はそう言って、降車駅が近づいたのか、軽やかに立ち上がりました。


「いい旅をね、お兄さん

あと、その鳩さんとお揃いのスーツ、よう似合っとるよ」


赤い帽子に覆われた後頭部が、路面電車の扉の向こうへ消えていくのを、私は黙って見送りました。


「…ハトソン、聞きましたか

どうやらこの街の住民は、鉄板の作法で血を流すよりも、ソースで和解する道を選んだようです

全く。命のやり取りに慣れた身には、この“美味しければ全て良し”という寛容さは、毒よりも回りやすい」


私は、たすき掛けにしたスマホの画面を消し、窓の外に広がる広島の街並みを眺めました。


「…よし。ならば私も、その“お任せ”とやらを体験しに行くとしましょうか。もちろん、もし私の口に合わなかった時は…その時は、店主に平和の尊さを再教育して差し上げるまでですがね…それにしても」


私は長傘を杖代わりに立ち上がり、ソースの香りが漂う街へと、優雅に一歩を踏み出しました。


「事前の調査では、この“ヒロシマ”なる地は、かつて国内でも最悪の武闘派組織が割拠し、白昼堂々、鉄と鉛の雨を降らせて互いの面子を削り合っていた“仁義なき戦場”であると聞き及んでいたのですがね

ハトソン、見てください。この平穏極まりない光景を」


目の前に広がる本通商店街は、無数の買い物客と観光客で溢れ返っています。誰もが武器を帯びることもなく、穏やかな顔でスマホを眺め、あるいは色とりどりの紙袋を提げて歩いている。


「平和をこれほど声高に叫ぶ一方で、かつては死の爆弾を落とされ、戦後にあっても国内屈指の武装勢力が抗争を繰り広げていたという矛盾した風評


てっきり、街の至る所に返り血が染み付き、角を曲がるたびにドスを突きつけられるような魔窟を想像していましたが、実態はどうですか…活気に溢れている

それも、他者を威圧するような殺気ではなく、日々の生活を謳歌する民のエネルギーにですよ」


私が路面電車のレールに沿って歩みを進めると、街の至る所に“赤”が溢れていることに気づきました。看板、幟、さらには道行く人々が被る帽子まで。


「ハトソン。あの赤は、かつての抗争で流された血の色を忘れないための戒め、あるいは特定の好戦的なギルドのシンボルカラーなのでしょうか?


しかし、あちらの老紳士が纏っているシャツにあるのは、戦いの意匠ではなく…魚?鯉?

…なるほど、カープ!戦士の徴ではなく、球技なる平和的な競技に熱狂する群衆の意匠というわけですね…鯉そのものの由来も、確か広島城という、この地のかつての守り手の拠点に由来するもの…なんというか、思っていたよりも優しいランドマークだ」


「前半、違うと思うよ。詳しいことは知らないけど」


私が独り言を漏らしていると、不意に声が掛かりました。視線を向けると、近くのベンチに座っていた小柄な少年が、不思議そうな顔でこちらを見ています。


彼の傍らに置かれた鞄からは“逆転合格塾広大研広島駅前校”という、何やら苛烈な下剋上を予感させる文字が刻まれたチラシがはみ出していました。

どうやら、より上位の教育機関へ進むための、私塾の試練に挑んでいる最中の若き学徒のようです。


「気になってきたから、ちょっとググるね」


少年はそう言うと、ポケットから薄い板切れ――スマートフォンを取り出し、慣れた手つきでガラスの表面を叩き始めました。


その光景を前に、私は深い戦慄を覚えました。


これまでも、何気なく視界に入れてきましたが…あのような幼い世代にまで、世界中の知識にアクセスできる通信機器が当たり前のように出回っている。


その上、彼が検索する行為に何の制限もかかっていないということは、この国には知識を絞る“情報統制”の気配が一切ないということです。

どんな知識を得るかも、どんな人と繋がるかも、それがどんな影響を及ぼすかもわからないのに、知る自由が許されているだなんておかしい。


さらに言えば、彼はこの街の住人でありながら、街を染め上げる“赤”の意味を『知らない』と平然と言ってのけた。

つまり、知らない自由も備えているのです。

おかげで為政者にとって都合の良い歴史や地域の特色を幼少期から叩き込むような、国家ぐるみの“思想教育”すらなされていない。


なんという無防備さ…この国が島国という、他国に攻め入られにくい地形でなければ、他所から良いように騙されて、とうの昔にとって食われるような状況ですよ。

皇帝陛下がこの事実を知れば、真似できない国造りへの嫉妬で胃に穴を開けることでしょうね


「あ、出た出た」


私が日本の恐るべき社会構造に戦慄していると、少年が画面を見つめながら明るい声で教えてくれました。


「昔ね、チームが全然勝てなくて負けが込んでた時に、皆を元気づけるために帽子とメットを赤くしたんだって

そしたら、それで勝てたから、皆赤色が好きになったみたいだよ」


「…ほう」


私は、街を行き交う赤い帽子やシャツの人々を改めて見渡しました。


「過去に流された血の戒めなどではなく…沈んだ民の心を、再び燃え上がらせるための“炎の色”だったのですね」


その事実を咀嚼したとき、私はふと、この国の国旗の意匠を思い出しました。純白の布の真ん中に、ただ赤い丸が一つ描かれただけの旗。


天照大神でしたっけ?女性の主神という、この世界ではやや珍しい存在から始まった太陽信仰。


それによって作られたあのデザインは、現存するものだと山梨県の雲峰寺に最も古い日の丸の旗が存在し、最低でも戦国時代から今まで継がれてきたそうです。

我が国も始まりは単純でしたが、戦勝時に相手の旗印をも奪って重ね…聖教国は元から過剰装飾し…デザインし過ぎて意味のわからない絵柄を見慣れた私には、なぜあれほどまでにシンプルさを維持しているのかと長らく不思議に思っていたのですが。

人の心を動かし、熱狂させるのに、余計な装飾など不要だということで?真ん中に熱い赤が一つあれば、それで十分とは…恐れ入りましたね。


「わざわざ調べていただき、ありがとうございます、若き賢者殿

そちらの“逆転合格”なる試練、見事打ち勝たれることを陰ながら応援しておりますよ」


「うん、ありがとう、おじさん!鳩もバイバイ!」


「クルッポー!」


ハトソンが羽を揺らして応え、私もステッキ代わりの長傘を軽く掲げて少年に優雅な一礼を贈りました。そして、ベンチを後にし、歩みを進めます。


その足で、私は目的地を一つ、スキップしました。

原爆ドームに行くつもりだったんですがね…あそこには、今も戦争を起こす側である我々が立ち寄ってはいけない気がしたのです。

知ることは大事、ネット上のデータベースは漁るんですがね…人殺しが近寄っては、彼の地に眠る人々も落ち着けないでしょう。


こうして一足先に尾道という海と坂の街へ立ち入り、ハトソンを籠に入れて、猫に気をつけつつ目的地へ急ぎます。

目的は、この国における鳥類――とりわけ、我が相棒と同族である彼らの生態調査です。


訪れたのは、浄土寺と呼ばれる古刹。

足を踏み入れた瞬間、私の視界の下半分は、蠢く灰色の絨毯によって完全に埋め尽くされました。


見事なまでにぶくぶく肥え太った、数百羽に及ぶ鳩の群れ。

アスファルトに浮かぶ油膜をすくい取って撫でつけたような、首元の緑と紫の毒々しい構造色。まばたきという概念を忘却したかのように見開かれた、オレンジ色の輪郭に縁取られる虚無の黒点。

体温を逃がさぬよう不自然に膨らんだ羽毛の隙間からは、恐竜の末裔であることを声高に主張する、赤黒く鱗立った三叉の足が覗いています。


観光客が餌の入った紙袋をガサリと鳴らした瞬間、彼らは一斉に「クルックルゥッ」「ポロッ、ポゥ!オッオッオッオッ」と喉の奥で澱んだ低周波を共鳴させ、硬い爪で石畳をカチャカチャと無機質に掻き鳴らしながら、巨大な一つのアメーバのように波打って群がっていくのです。


そこに個の意思は見当たらず、あるのはただ、炭水化物を己の胃袋へ収めるという原初的な渇望と、他者の頭を踏み台にしてでもパン屑を啄もうとする徹底した生存競争のシステムのみ。


彼らのあの前後に反復する首の運動は、眼球が固定されているがゆえに景色をコマ送りで脳処理するための機能らしい。


ですが、傍から見ればただのゼンマイ仕掛けの不良品です。

まばたき一つ取っても、上下のまぶたではなく半透明の瞬膜が横方向へシャッターのように素早くワイプする瞬間など、爬虫類としての祖先の記憶が色濃く残っている証左と言えましょう。


赤黒く乾燥しきった鱗状の脚部は、血の巡りという概念を疑いたくなるほどの死んだ質感を放ち、その先端から伸びる爪は、石畳のひび割れに挟まった極小のカスをほじくり出すためだけに特化して湾曲している。


喉元のあのメタリックな光沢は、色素ではなく微細な羽毛の並びが光を干渉させて生む構造色という進化の産物の賜物だそうですが、それが生み出すのは優雅さではなく、排気ガスと雨水が混ざって虹色に濁った水たまりと完全に一致する色合いです。


さらに言えば、餌を求めて群がる最中であっても、雄が急に胸を大きく膨らませ、地面に尾羽を箒のように引きずりながら「ホロッ、ホゥ」と低い周波数を撒き散らして雌の周囲をグルグルと回るあの謎の舞踏。


かと思えば、パンの耳が一つ落ちてきた瞬間、さっきまで求愛していた相手の顔面を容赦なく翼でビンタして押しのけるという、情緒の欠片もない圧倒的ドライな関係性。

あの丸々としたフォルムの下には、脂肪と筋肉と、ひたすらに直結した消化器官しか詰まっていないのではないか。一挙手一投足を観察するほどに、生物としての極端な完成度と、それに反比例する知性のなさが浮き彫りになっていきます。


「平和の象徴などと謳われていますが、この底なしの胃袋と統率のない群衆心理…我が帝国の最下層に巣食う貧民と、何ら変わりませんね」


私が観察を続けていると、籠内に留まっていたハトソンがカツカツと枠を突きました。


「おっと、仲間に入りたいのですか?」


鍵を開けるとハトソンは飛び立ち、灰色の群れのど真ん中へと一直線に降り立ちました。

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