☆地図に戻ってきた島の話
規則正しい鉄の律動に身を揺らされながら、私は山陽本線を西へと向かっていました。
車窓を流れる穏やかな海を眺めながら、私は着替えたばかりのスーツの袖口を軽く整える。
あの海辺で山下家の皆様に命を拾われ、心にもない生存宣言をしてしまったことは事実です。
「ですが、ハトソン…工作員たるもの、通りすがりの同類の圧に流されて目的を忘れるわけにはいかない
命を救われたことと、私の職務基準は、完全に切り離して考えるべき別件ですからね」
「クルックゥ」
私の肩で羽繕いをするハトソンにそう嘯きながら、私は弾帯のスマートフォンで本日の目的地を再確認しました。目指すは、坂と映画と猫の街――“尾道”。
ハトソンが襲われる可能性があるので、のんびりと路地裏を歩く愛らしい猫たちを見に行けないのは残念ですが…そこはネットの画像なんかで補填するといたしましょう。
列車が乗り換え拠点である三原駅に滑り込み、私が尾道方面へのホームへ向かおうと広場を歩いていた、その時でした。
「…おや?」
私の足が、駅の掲示板の前でピタリと止まりました。
そこに張り出されていたのは、瀬戸内海に浮かぶとある離島の観光用ポスター。
鮮やかな青い海と緑の芝生を背景に、無数の白い毛玉が愛らしく寄り添っている写真がデカデカと印刷されている。
キャッチコピーには、陽気なフォントでこう書かれています。
『癒しの楽園!野生のウサギと触れ合える、ウサギの島・大久野島へようこそ!』
私は、そのポスターを見た瞬間、心臓が見えざる手で鷲掴みにされたような悪寒を覚えました。
手のひらに乗るほどの愛らしい白ウサギ。それが数十、数百と群れを成している異常な光景。
それは“癒し”などではありません。ただ一つの強烈な飢餓感で結びつき、無限に増殖し、視界に入るあらゆる生命体を骨の髄まで貪り食う、絶望の象徴。
たった一噛みで皮膚を食い破られ、無数の小さな牙が筋肉を削ぎ、内側から臓腑を食い荒らす。悲鳴を上げる間もなく、人間が文字通り“削り取られて消滅する”という、この世で最も猟奇的で苦痛に満ちた死をもたらす大厄災。
「この国が異常なまでに平和な理由が、一つ解けましたよ」
私は額に滲んだ冷や汗をハンカチで拭い、戦慄と共に呟きました。
「恐ろしい生物兵器は、隔離された土地へと封じ込めているのですね
そして、癒しの楽園などと甘い言葉で無知な観光客を定期的に島へ送り込み、彼らの血肉を“餌”として与えることで、魔獣どもが海を越えて本土へ侵攻してくるのを防いでいる
なんという合理的で、血も涙もない仕組み。この国の中枢には、とんでもない化け物が座っていますね」
「クルルゥ…」
ハトソンも、ポスターのウサギの写真に本能的な脅威を感じたのか、私の首元にギュッと身を寄せました。
私は踵を返し、尾道へと向かうはずだった歩みを止める。
「山下家の皆様には、もう少し生きると約束しましたが…このような国家級の生物兵器の隔離施設を目の前にして、素通りすることなど職務怠慢に他ならない
ええ、私はあくまで調査に向かうだけです。決して死に急ぐわけではありません
…ただ、調査の過程で不運にも魔獣の群れに遭遇し、生きたまま肉を削ぎ落とされるという“悲しい事故”に巻き込まれてしまったとしたら?
それは天災、業務上の不可抗力であり、約束を破ったことにはなりませんよねぇ?」
自ら死を選ぶのはルール違反だが、職務中の“事故死”ならノーカウント。なんというスマートで紳士的な口車でしょう。
私はニヤリと口角を上げ、迷うことなく呉線への乗り換え改札へと歩を進めました。
「すいません、切符の変更をお願いします。尾道ではなく、忠海まで。ええ、片道で結構です…どうせ、帰りの保証はありませんからね」
駅員に涼しい顔で告げ、私はローカル線の黄色の車体に乗り込みました。
ガタゴトと、列車は瀬戸内の海岸線を縫うように走ります。
窓の外には、先ほど私に汚されようとした海が、陽の光を反射してキラキラ輝いていました。
「見事な景色です。この美しい海の先に、数万の牙がうごめく処刑場があるとは誰も思わないでしょう」
私は長傘を両手で握りしめ、来るべき凄惨な死の瞬間に備えて、精神のチューニングを行い始めました。
肉を食い破られる痛み、眼球を啜られる感触、それらをいかに涼しい顔で受け入れるか。発狂して泣き叫ぶような見苦しい真似だけは、絶対に避けねばなりません。
やがて列車は、忠海駅に到着しました。
長閑な港町を歩き、フェリー乗り場へと向かいます。
切符売り場の窓口には、ウサギのイラストが描かれた可愛らしい乗船券が並んでる。
死地への片道切符をこんなポップなデザインで売り捌くとは、この国の役人は本当に悪趣味ですね。
「大人一枚。それと、この鳩の分もお願いします」
「はいはい、片道ですねー
ウサギの餌は買っていかれますか?島には売ってませんよ」
窓口の恰幅の良いおばちゃんが、キャベツやニンジンの入った袋を指差して聞いてきました。
「…なるほど。生贄となる前に、まずは野菜で奴らの空腹を誤魔化し、生存時間を数秒でも延ばせというわけですね。心遣い、痛み入ります。二袋いただきましょう」
「まいどー」
私は餌の袋を受け取り、フェリーへと乗り込みました。潮の香りが、死の予感を連れて鼻腔をくすぐります。
前方には、緑に覆われた小さな島――大久野島が、ぽつりと海に浮かんでいました。
「さあ、ハトソン。地獄の釜の蓋が、間もなく開きますよ
私の体が白骨化する様を安全な空の上からしっかりと記録し、帝国へ持ち帰ってください」
「ポッボッボ!キュルル、ンッボッボォー!」
私は甲板の最前列に立ち、吹き付ける海風にコートの裾をはためかせながらハトソンに執拗にこめかみを突かれ…
「ヴッ」
あまりの痛みに、気絶した。
「…到着しましたね」
大久野島の桟橋に降り立った私は、フェリーから降りる観光客たちの最後尾で、長傘をステッキのように構えながら静かに目を閉じました。
「さあ、来なさい、保温性の高い悪魔ども
私の肉は少々筋張っていますが、骨の髄までしゃぶるがいい」
死の恐怖はありません。ただ、訪れるであろう凄惨な痛みに備えて集中していたのです。
ガサ、ガサガサッ。
上陸してわずか数十歩。
遊歩道脇の茂みが揺れ、そこから白い影がひょっこりと顔を出しました。
続いて、茶色い影、黒い影。木陰から、ベンチの下から、廃墟のレンガの隙間から…
「来ましたね。大群です」
十、二十、五十。数え切れないほどの毛玉の群れが、四方八方から押し寄せてきます。
私の足元は、あっという間にモフモフとした獣たちによって完全に包囲されました。
「クルックゥッ…!」
肩に乗っていたハトソンが、その数の暴力にわずかな警戒を示し、私のシルクハットの上へと移動します。
「さあ、始めましょうか。私の身体を、存分に貪るがいい!」
私は両手を広げ、足元の群れに向かって無防備に身を晒しました。さあ、最初の噛みつきはどこから来る?足首か?それとも跳躍して喉笛か?
私は一切の抵抗を放棄し、静かにその瞬間を――
フンフン。スンスンスン。
激痛は、いつまで経っても訪れませんでした。
恐る恐る目を開けて足元を見下ろすと、そこには、私の革靴に前足をちょこんと乗せ、鼻を忙しなくヒクつかせているウサギたちの姿。
「…おや?」
私は彼らの顔を、じっと観察しました。血走った瞳?ありません。黒くて円らな、ビー玉のような目です。
肉を切り裂く鋭い牙?ありません。もぐもぐと口を動かしているだけです。
そして何より――。
「そういえば…角が、ない」
日本の映像作品にあった、あの存在意義のわからないパーツはどこへやら。
これでは、私の世界のウサギと大差ないではありませんか。
「これは…」
私のズボンの裾を引っ掻いているウサギたちは、殺気どころか、あからさまに“なんか美味いもんくれや”という、他力本願に満ちた視線を向けてきている。
「…もしや、本当にただの草食動物ですか?」
私は試しに、港の売店で買ってきたキャベツの葉を取り出し、自分の手のひらに乗せて彼らの口元へ差し出してみました。
もし彼らが血に飢えた魔獣であれば、キャベツごと私の指の肉を食いちぎるはず。
モシャ、モシャモシャモシャッ。
ウサギたちは、私の手のひらに器用に口を寄せ、見事な手際でキャベツだけを齧り取っていきました。私の指先には、彼らの柔らかい唇の感触と、くすぐったい息が当たるのみです。
ぽろっ、ぽろろろろろ。
そして、彼らは食事をしながら流れ作業で、歩道に黒い球体の排泄物を投下していきました。
「食べて、出す。極めて健全な代謝ですね」
私は長傘をゆっくりと下ろし、深い、深いため息を瀬戸内海の空に向かって吐き出しました。
「やれやれ…今回ばかりは、本気で勘違いしてましたね
日本のアニメ作品に描かれていた悪夢を、ろくに裏取りもせずに重ね合わせてしまうとは…
ファンタジーの概念を現実に持ち込んではいけない、私の認識不足でした」
自らの勘違いに苦笑しながら、私はもう一枚、キャベツの葉を群れに放り投げました。
「クルックゥ?」
「ええ、ハトソン。安心してください。彼らは肉を狙う猛獣ではありません
ただの、食いしん坊の毛玉たちです。そちらも少し、彼らと交流してみてはいかがですか?」
私はハトソンを手に乗せ、そっとウサギたちの近くに下ろしました。
スーツを着た鳩が、ウサギたちの中に混ざってキャベツの切れ端を啄む。Xでそこそこ伸びそうな絵面ですね。
「ですが…よくよく考えてみれば、この状況もファンタジーそのものですよ」
私は、行儀よく餌をねだるウサギたちを撫でながら、母国である帝国の惨状を思い出していました。
「我が国において、ウサギという生物は厄介極まりない害獣です
驚異的な繁殖力で農作物を根こそぎ食い尽くし、生態系を破壊し、数十年にもわたって農民たちを苦しめ続けている
討伐隊を派遣しても、次から次へと増え続けるあのゴキカブリ顔負けの生命力…それに比べれば」
私は、島を見渡しました。
確かにウサギの数は多い。
ですが、彼らは離島という“一つの隔離された空間”の中だけで収まっている。
「海という絶対的な防壁を利用し、天敵のいない環境を与えつつも、本土への被害を完全にシャットアウト
しかも、観光客という自動餌やり機を利用して、彼らの食料問題すらも解決しているこの状況は、奇跡に等しい」
私は、餌付けをしている親子連れや、ウサギと写真を撮るカップルたちを眺めながら、感心して頷きました。
「島国という立地環境は、素晴らしいですね
帝国が軍隊を動員しても駆逐しきれない害獣どもを、ただの“観光資源”に落とし込み、侵略者や難民の流入までも抑える、自然の防壁だ…これこそが、魔法と呼ぶべきものです」
私は残りのキャベツをすべて群れに与え、ウサギの顎を指先で優しくかいてやりました。
「命の危険がないというのは、スリリングさに欠けますが…たまには、こういうのも悪くありません」
私はスマホを取り出し、ウサギに囲まれて困惑気味のハトソンの姿を写真に収めました。
「お待ちかねのデッドエンドは、あっさりとキャンセルされてしまいました
よって期待を裏切られた分、癒しを堪能するとしましょうか」
私は、足元で丸くなるウサギたちを潰さないよう注意しつつ、その場に座り込む。
それが合図だったのか、それとも、この男は無害な自動給餌器だと完全に舐められたのか。
気がつけば、私のスリーピーススーツは、白、茶、黒の毛玉たちによって完璧な包囲網を敷かれていました。
「おや…これは、少々重たいですね」
胡坐をかいた私の膝の上には三匹のウサギが重なるようにして鎮座し、両腕の隙間にもみっちりと毛玉が詰まっています。
果ては、私の肩によじ登ろうとする猛者まで現れる始末。
頭の上のハトソンが「プクルゥ…」と、鼻先を寄せてくるウサギの好奇心にタジタジになっています。
「我慢しなさい、ハトソン。彼らに悪意はありません。ただの構ってちゃんです
スーツに多少の抜け毛と丸い排泄物が付着する程度のリスク、紳士の寛容さで受け入れなさい」
私は、もはや身動きすら取れない状況を甘んじて受け入れ、ウサギたちの柔らかな背中を撫でていました。
しかし、この“複数のスマートフォンを弾帯のように巻き付け、頭にスーツの鳩を乗せ、大量のウサギに埋もれる白コート男”というビジュアルは、あまりにも特異だったようです。
――カシャッ。ピロン。
潮騒に混じって、あちらこちらから電子音が響き始めました。
視線を向けると、遊歩道を歩く観光客たちが足を止め、一様にこちらへカメラレンズ―スマートフォンや、本格的な一眼レフのそれを向けています。
「ほら見て、あのレイヤーさんヤバい」
「鳩乗ってるし」
「ウサギ使い?」
ヒソヒソとした囁き声と共に向けられる、無数のレンズ。
私は撫でる手を止めず、その撮影者たちの行動を観察し始めました。
「ふむ…」
遠巻きに立ち止まり、無言でスマホを構えては無遠慮にシャッターを切って去っていく若者のグループ。
一方で、私の数メートル前まで歩み寄り、「あの、すみません。お写真、撮らせていただいてもよろしいですか?」と、わざわざ腰をかがめて尋ねてくる老夫婦やカメラを持った女性。
「ええ、もちろん構いませんよ。ただし、ハトソンにはフラッシュを焚かないでくださいね
彼、驚くと恐怖でフンを落とす癖がありますから」
私が鷹揚に微笑んで許可を出すと、尋ねてきた人々は「ありがとうございます!」と嬉しそうにシャッターを切り、ペコペコと頭を下げて立ち去っていきました。
「なるほど。この国の人間は一様に規律正しく、ルールに縛られているように見えますが…こういう“個人のモラル”の裁量に関しては、ずいぶんとバラつきがあるのですね」
私は膝の上のウサギの耳を揉みながら、独りごちました。
無断で撮影する者。許可を求める者。
軍には「無断で姿を絵に写し取られた!手配書にする気か!」と狂乱するか、銃口を向けられたと誤認し、その場で相手の首を刎ね飛ばす輩も珍しくありません。
だのに、日本においては、風景の一部として勝手に切り取ることも、日常のひとひらとして許容されている。
「なんとも面白い生態です。自己の権利を主張する一方で、他人の権利への踏み込み方は個人差が激しい
同調圧力の強い社会に見えて、実のところ“怒られなければ何でもいいんだよ”という、適当な側面も持ち合わせているわけですね」
私の弾帯に装備されたスマホの一台も山下家の連投通知により、彼らの端末に負けじと画面を光らせていますが、今はどうでもいいことです。
「ねえねえ、お兄さん!一緒に撮ってもいいですか?」
今度は私服姿の学生たちが、キャッキャと笑いながら私の横にしゃがみ込んできました。
「ええ、構いませんよ。ですが、私に寄りかかりすぎないように
この子たちに蹴られてしまいますからね」
「わーい!鳩ちゃんもこっち向いてー!はい、チーズ!」
無遠慮な者、律儀な者、そして図々しくも距離を詰めてくる者。
ウサ塗れという緩衝材により不審者に構わず接近してくる、さまざまな人間模様が展開されていく。
「さあハトソン、しっかりカメラ目線をキープしなさい
私たちの姿がこの国のネットワークの海を漂い、何処かで勝手に現像され、いつか皇帝陛下の目にも留まるかもしれませんよ
その時は仲良く処刑ですね…うっふふふふふふふ」
「プップクポォ!ックゥウ!?」
私は長傘を杖のように立て、ウサギに埋もれたまま、今日一番の帝国紳士スマイルを無数のレンズに振りまくのでした。
「さて、と。無料の撮影会も終わったことだし、そろそろ立ち上がりたいのですがね」
私が小声で呟いても、膝の上から太もも、足首に至るまでを占拠した毛玉たちは、一向に動く気配を見せません。
それどころか、私のコートを完全に“程よい弾力と体温を備えたベッド”として認定したようです。
彼らは遠目に見れば、絵本から飛び出してきたかのような愛らしさだ。
しかし、長時間密着されると、彼らが抱える生態の異常性に気づかざるを得ません。
まず、あの口。
休むことなくヒクヒクと痙攣するように動き続ける、縦に裂けた三角形。
その奥に隠された黄ばんだ門歯は、“生涯伸び続ける”という呪われた仕様を抱えている。
常に何かを削り続けなければ、自らの牙が顎や頭蓋を貫いて死に至る。生まれながらの自壊メカニズムを。
よって、彼らが草を食む姿はのどかな食事風景などではなく、死の恐怖に急き立てられながら終わりのない研磨作業を強いられている、デスゲームに他ならない。
おまけに食べたものの栄養を一度で吸収しきれないという致命的な燃費の悪さ、杜撰な排泄システムにも目眩がする。
なんと、彼らは栄養をより多く摂取するため、自らの肛門から直接“盲腸便”と呼ばれる軟らかい排泄物を吸い込み、再び咀嚼して胃袋にぶち込むという、自家中毒スレスレのリサイクル機構が常態化している。
おまけに括約筋が存在しないのか、今も私のズボンの上でリラックスしながら、無意識のうちに出来たてウンコをポロポロと生産しては、体の横へ転がしている。
さらに恐ろしいのは、彼らの睡眠。
私の太ももに顎を乗せ、脱力している一匹なんか、呼吸のペースからして寝ているはずなのです。
だが、その目は完全に閉じられていない。
薄く開いた瞼の奥で、焦点の合っていない虚ろな黒い眼球。
草食動物特有の、ほぼ三百六十度をカバーする広角レンズが死んだ魚のようにこちらをジッと見つめている。
「どれだけ過酷な進化の過程を経れば、こんな強迫観念の塊のような生態に行き着くのでしょうか
こうして見てみると、生き残るためだけに最適化されたバイオマシンのようですね…薄気味悪さすら覚えますよ」
私は蠢くファーの群れを前に、僅かな戦慄と、体のしびれを抱えていました。
このままでは、私の足の血流が完全にストップし、彼らの体温と質量によって細胞が壊死してしまいます。
すでに右足の感覚は遠のき、ピリピリとした感覚が這い上がってきている。
「ハトソン、緊急脱出作戦を開始します」
「クルッ…」
私のシルクハットの上で息を潜めていた相棒に、極小の音量で合図を送ります。
問題は、彼らのあの異常な警戒センサーです。
少しでも不用意に動けば、薄目を開けて寝ている奴らが一斉にビクッ!と跳ね起き、その反動で爪を私のスーツに食い込ませてくるでしょう。
私はまず、最も上に乗っている茶色い個体から処理することにしました。
息を極限まで浅くし、腹筋と背筋の微細なコントロールだけで、腰をミリ単位で後方へとズラします。
ズ…ッ。
私の太ももが僅かに後退した瞬間、茶色いウサギの鼻がピクンと動き、首がスッと横を向きました。
これはまずいと呼吸を止め、完全な石像と化す。心臓の鼓動すら彼らに伝わらぬよう、全身の血流を意識の力で抑え込みます。
数秒の、永遠にも似た膠着状態。
やがて、ウサギは『気のせいか』とでも言うように顎を置き直しました。
よし。
そこからは、まさに地を這うような、泥臭くも精密な後退作業の連続。
右足に寄りかかっている黒い個体の体重を、そっと横の地面へと誘導するように、足首の角度を一度につきミリ単位で傾ける。
左膝の上でポロポロと黒い球体を生産している白い個体の下から、布地を波打たせないようにゆっくりと脚を抜いていく。
一歩、また一歩。
私は両手を後ろにつき、泥棒が金庫室のレーザーセンサーを掻き分けるような異常な集中力で、這いずるようにしてウサギの包囲網から自らの身体を切り離していきました。
しかし、最後の難関として立ちはだかったのは、私の靴の甲に完全に顔を埋めて爆睡している、ひときわ丸々と太った灰色の個体。
靴を引けば、間違いなくその顔から支えが消え、目を覚まさせてしまいます。
どうする。手でどけるか?いや、触れた瞬間に鳶にでも鷲掴みされたと誤解して起きる。
「クルックゥ!」
考え込んでいると、シルクハットの上にいたハトソンがふわりと飛び立ち、数十センチ離れた地面に舞い降りました。
そして、胸ポケットから器用に百円を摘み出すと、それを石畳の上で“チャリンッ”と軽く弾いたのです。
ビクッ!
その人工的な金属音に、灰色ウサギが跳ね起きました。
そして、警戒しつつも音の鳴った方へと、ピョコピョコと数歩移動したのです。
ナイスアシストです、ハトソン!
私もウサギの起床など気にせず、初めっからそうすればよかった!
千載一遇の隙を見逃さず、限界まで痺れた両足に無理やり力を込め、一気に後方へと逃げました。
ズザァッ!
砂利を蹴り、私はついに毛玉の海からの完全離脱に成功。
「…ふぅっ、はぁっ…!」
安全圏まで後退すると、ステッキ代わりに長傘を地面に突き立て、それにすがりつくようにして立ち上がりました。
両足は完全に痺れきっており、生まれたての仔馬のようにガクガクと震えています。
スーツのズボンには、大量の抜け毛と、置き土産の真珠型堆肥が無数に付着していました。
「やれやれ…どんな強大な敵と対峙するよりも、神経をすり減らされる戦いでしたよ」
ハンカチを取り出し、額に浮かんだ脂汗を拭う。
振り返ると、私が消えたことに気づいたウサギたちが、不思議そうに鼻をヒクヒクさせながら、仲間同士で集まり直しています。
「彼らは己の本能のままに生き、無自覚に他者の時間を搾取する…ある意味で、完成された恐ろしい種族なのかもしれませんね」
私は付着した毛と球体を丁寧に払い落とし、姿勢を整えました。
「さあ、ハトソン。予定外の体力を使ってしまいました
この島に公衆トイレ文明が存在することを祈りつつ、撤退するとしましょう」
私は痺れる足を引きずりながら、背後に蠢く毛玉の群れを二度と振り返ることなく、足早に遊歩道へと歩き出す。
何処に寄るにしても、この格好ではいけません。さっさと着替えてしまわねば。




