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バーロック・ワームズの供述書  作者: ダム底タヌキ
通常業務編
4/14

☆悪意の強制サルベージ

水面の揺らぎの中で、ハトソンの影が、少しずつ、少しずつ、遠のいていく。


よかった、私の情緒不安定に巻き込まれない賢い子で。


こうして私の意識は、冷たく美しい青の底に沈み…残された体は、時限爆弾として汚物をぶち撒けるはずだった。


だのに、私の身体が、強い力で上方へと引かれました。


「うおらぁぁぁッ!!」


鼓膜を打つ水の音を突き破り、野太い声が響く。次いで、襟首を乱暴に掴み上げられ、私の顔は強制的に水面へと引っ張り出されました。


「ガハッ…!ゲホッ、ゴホォォォッ!!」


気管に入り込んでいた海水を派手に吐き出し、私は見苦しく咽せ返りました。

鼻の奥がツンと痛み、肺が酸素を求めて痙攣する。死ぬと決めたはずなのに、身体の防衛本能はどこまでもみっともなく生にしがみつこうとします。


「おい、しっかりしろ!大丈夫か!?」


霞む視界の中で顔を上げると、そこには見知らぬ男の顔がありました。休日のカジュアルな服をずぶ濡れにし、必死の形相で私の腕を抱え込んでいる、恰幅の良い中年男性。


私が咳き込みながらも辛うじて目を開けたのを確認すると、男は大きく息を吸い込み、岸に向かって絶叫しました。


「生きてる!!おい、生きてるぞ!!」


その声に引かれて岸辺へ目を向けると、砂浜には彼の家族らしき姿がありました。


母親と思しき女性が、スマートフォンを耳に当ててパニックになりながらも必死に口を動かしています。


「はい!そうです、海で人が!今、主人が引き上げました!意識は…あるみたいです!場所は――」


ああ、嫌ですね。この国のコールセンターが、私の個人的なリセット作業を阻止しようとしている。


そして、その母親の足元。

小さな男の子が、濡れた砂の上に座り込み、何かをぎゅっと胸に抱きしめていました。特注の三つ揃えスーツを着た、灰色の鳥。


「プルル…ッ」


「よしよし、大丈夫だよ。おじさん、助かるからね」


子供はハトソンを撫でながら、泣きそうな顔でこちらを見つめていました。

私の大切な、代替品の相棒。彼もまた、見ず知らずの子供の小さな腕の中で、私の無様な帰還を待っている。


「おい、兄さん!俺の顔が見えるか!?」


男が私の頬をバシバシと軽く叩き、意識を繋ぎ止めようとしてきます。そして、私の目の前に自分の手を突き出し、指を立てました。


「これ、指何本に見える!?」


「…っ、ゲホ…三本、です」


「よし!じゃあ、自分の名前は言えるか!?言ってみろ!」


名前。私の、名前。


先ほどまで、私は誰の代替品で、何のために作られたのかと絶望の底に沈んでいたはずです。なのに、目の前で必死に私を現世に引き留めようとするこの暑苦しい善意を前にすると、設定された文字列が、不思議とすんなり口からこぼれ落ちました。


「バーロック…ワームズ。第、42号…です」


「外国の人か!?バーロックさんだな!よし、もう大丈夫だ、今助けるからな!足、踏ん張れるか!?」


男は私の“第42号”という不穏なナンバリング、機密漏洩の極致を混乱による聞き間違いと判断したようだ。

指摘してくれれば、その脳漿をぶちまけてやろうかと思ったのに…名前に触れることなく、私の脇に腕を差し込みました。


「さあ、歩くぞ!波に足を取られるなよ!」


男の肩に体重を預けられ、私は半ば引きずられるようにして陸へと連れて行かれます。


スマホ爆発するぞ、有毒ガスが出るぞと今か今かと道連れ死を待ちかねていた私ですが、期待虚しく冷たい海水から引き上げられた。


生暖かい潮風が濡れたスーツを通り抜けていく。重い、重い一歩。革靴に砂が入り込み、歩くたびに不快な音が鳴る。


「どうして」


私は、肩を貸してくれる男の横顔を見ながら、掠れた声でこぼしました。


「どうして、助けたのですか。私は、ただの…不要な部品なのに」


「バカ野郎、目の前で人が沈んでくのを見て、助けない奴がいるかよ!」


男は前を向いたまま、当たり前のように怒鳴りました。


「理由なんてねぇ!それに、あんたの連れのハトちゃんが、うちの子のところ飛んできて『助けてくれ』ってすげぇ鳴いたんだぞ!家族泣かせて勝手に死んでんじゃねぇ!」


「…ハトソンが」


私は岸辺で私を待つ、小さな相棒と子供の姿を見つめました。


ああ、なんてことでしょう。この国の人間たちは、本当に度し難い。

スパイである私を、ただ“目の前で沈みそうだったから”という理由だけで、自らの服を濡らし、危険を顧みずに引き上げ、救急システムまでフル稼働させて救おうとしている。


「本当に、この国は…狂っていますね」


スマホの防水機能も含めてね。

充電口にキャップをしていたのが災いしましたか、憎たらしいほどに放電の気配が見られない。


「あぁ?なんか言ったか?」


「いいえ…少し、水が冷たかったと」


私は諦めたように息を吐き、男の肩に己の体重を預けました。


「…奥様。お電話中申し訳ありませんが、救急車は呼ばないでください」


私は、砂まみれになったインバネスコートから滴る海水を絞りながら、ゆっくりと立ち上がりました。


「私のような者のために、この国の貴重なリソース――他に助かる命を運ぶための車を一台、無駄に割く必要はありません。海水で少し冷えただけです。私はもう大丈夫ですので、これにてお暇させていただきます。助けていただいたことには、心から感謝いたしますよ」


私は優雅に一礼し、濡れた革靴を引きずって踵を返そうとしました。

ここからなら、人目を避けてワームホールを開き、用意しておいた安全な拠点へ戻ることも可能でしょう。帝国のクローン体にとって、任務外の接触は極力避けるべきなのですから。


しかし、私の腕は、先ほど私を引き上げた恰幅の良い父親によって、ガシッと力強く掴まれました。


「ダメだ」


男の声は低く、しかし絶対に譲らないという強い意志が込められていました。


「あんたを今、一人にして帰すわけにはいかない」


「おや。命の恩人とはいえ、個人の自由を制限するのは少々強引ではありませんか?私はどこも怪我など――」


「怪我の問題じゃないんだよ!」


男の顔には、怒りではなく、何かひどく痛切な色が浮かんでいました。その眼差しの奥にあるものを、私は探偵としての観察眼で瞬時に読み取ります。


ああ、なるほど。

この男性は過去に“見た”ことがあるのですね。海へ、あるいは線路へ、ふらりと引き寄せられるように消えていった人間を。そして、その背中を止められなかった後悔を、今も引きずっている。


だからこそ、彼は濡れた私の腕を、万力のような力で握りしめて離そうとしない。私がここで一人になれば、再びあの冷たい青の底へ歩き出すと確信しているからです。


「…あなた。無理に引き留めたら、かえってご負担になりますよ」


電話をしまった母親が、夫の肩にそっと手を添えました。彼女は私を怯えさせることのないよう、極めて慎重に言葉を選びながら、穏やかな声で語りかけてきます。


「でも、せめて濡れた服を乾かすくらいはさせてくださいな。私たちの車、すぐそこの駐車場に停めてあるんです。タオルもありますし、温かい飲み物くらいは出せますから。ね?

このままではお風邪を召してしまいますよ」


帰してなるものかという、夫婦の鉄壁の包囲網。

腕力で振り払うことは容易ですが、そのような野蛮な真似をしては、彼らの心に拭えない傷を残すことになります。かといって、このまま車に連れ込まれれば、面倒な事情聴取に付き合わされるのは目に見えている。


私が返答に窮し、重苦しい沈黙が砂浜に降りた、その時でした。


「ねえねえ」


大人の張り詰めた空気を、軽やかな声がぶち破りました。


「この鳩さん、なんて名前なの?」


母親の足元でハトソンを抱きかかえていた男の子が、目をキラキラさせて私を見上げていました。

彼は、両親が深刻な顔をしている場の緊張感を幼いなりに察してはいるようですが、目の前にいる服を着た鳩とずぶ濡れのおじさんに対する純粋な好奇心という衝動に、どうしても勝てなかったようです。


私はふっと息を吐き、強張っていた表情筋を少しだけ緩めました。


「…ハトソン、です。とても優秀な、私の助手ですよ」


「ハトソン!かっこいい!」


男の子はハトソンの頭を優しく撫でながら、今度は私の方へと顔を向けました。


「お兄さんは?」


「私ですか。私は、バーロック・ワームズと申します。…ですが」


私は、ふと海を見つめました。

先ほどまで、自分が何者でもない代替品であるという事実に絶望し、身を投げようとした海。しかし、引き上げられた今の私には、この国で正式に取得した「もう一つの名前」があることを思い出したのです。


「今は帰化して、こちらでは“鈴木誠”という名前で籍を置いています」


スズキ・マコト。このカラス頭の楽園において、最もありふれており、最も目立たず、最も風景に溶け込めるであろうと計算して選び抜いた、極めて平凡な名前。


しかし、それを聞いた男の子の反応は、私の予想を斜め上に越えてきました。


「わぁ!ハトソンと、ワームズ…シャーロック・ホームズみたいだね!すっごい探偵の!」


「おや。こちらの国でも、かの名探偵の名前は轟いているのですね」


「うん!本で読んだことあるよ!それにね、もういっこの“まこと”って名前も、すっごくかっこいいね!」


男の子の屈託のない称賛に、私は思わず目を丸くしました。何千、何万と同じ名前が存在するであろう記号的な偽名。それを「かっこいい」と評価されたのは初めてです。


「僕もね、すごい名前ついてるんだよ!」


男の子は、誇らしげに自分の胸をドンと叩きました。


「僕の名前はね、山下陽太(ようた)っていうの!太陽を逆さまにして、“陽太”!」


「山下陽太(ようた)君、ですか。なるほど、響きに力強さがありますね」


「でしょ!こないだね、学校の宿題で“名前の意味を調べてきましょう”ってのがあって、パパとママに聞いたんだ!

太陽みたいに明るくて、周りの人をポカポカ温かくできるようにって、二人が一生懸命考えてつけてくれたんだって!」


陽太(ようた)君は、自慢げに両親を振り返りました。その言葉を聞いた瞬間、私を掴んでいた山下氏――父親の手にこもっていた力が、ふっと抜けました。

隣に立つ母親も、恥ずかしそうに目尻を下げ、愛おしそうに息子の頭を撫でています。


「もう、陽太(ようた)。そんな大きな声で言わなくても…」


「事実だろ?お前が泣きながら考えたんだからな」


「ちょっと、あなたまで!」


夫婦の間に、柔らかな笑いがこぼれます。

先ほどまで、自殺未遂者を引き止めるために張り詰めていた空気が、陽太(ようた)君の無邪気な自己紹介によって、まるで春の陽射しに当てられた雪のように、あっけなく溶けて消えていきました。


「太陽のように明るく、周りを温かくする…ですか。確かに、名付け親の願い通り、そちらは立派にその役割を果たしているようですね」


ついでに頭の中身もポッカポカのようで素晴らしい、私のような不審者を連れ込もうというのですから、110番通報の準備ぐらいなさればいいのに。


私は、濡れた髪をかき上げながら、小さく息を吐き出しました。


代わりがいくらでもいる、量産されたクローンの第42号。

私に与えられた“バーロック・ワームズ”という名前に、親の願いや愛情など一ミリも込められてはいません。それはただの製品番号を飾るパッケージに過ぎない。


ですが。この世界で生きるために私が適当に選んだ“鈴木誠”という名前にすら、この少年は「かっこいい」と光を当ててくれました。


「…山下様。先ほどは、ご迷惑をおかけしました」


私は改めて、濡れたままの姿で、今度は深々と、心からの礼を尽くして頭を下げました。


「そちらのご厚意、無碍にするのは探偵の…いえ、一人の大人として恥ずべきことですね


お言葉に甘え、少しばかりお車で暖を取らせていただいてもよろしいでしょうか

ハトソンも、潮風でスーツが痛むと文句を言っているようですから」


「クルルゥ」と、ハトソンが陽太(ようた)君の腕の中で同意するように鳴きました。


「ああ、もちろんだ。…あんた、変な格好してるけど、悪い奴じゃなさそうだからな」


山下氏は照れくさそうに頭を掻きながら、私にタオルを投げ渡してくれました。


「さあ、風邪を引く前に行くぞ。陽太(ようた)、ハトちゃんを優しく運んでやれよ」


「うん!おじさん、早く!」


私はスマホ弾帯を砂浜で干し、彼らの温かい足跡を一歩ずつ踏みしめて歩き出しました。


私の靴が残す足跡は、波に攫われて消えるでしょう。

しかし、私自身が歩みを止めることはありません。


山下家のミニバンの後部座席は、暖房がしっかりと効いており、凍えきった私の身体に容赦なく現代文明の恩恵を叩き込んできました。

渡された大判のバスタオルに包まりながら、私は温かい缶のコーンスープを両手で握りしめます。


「ほらハトソン!おいで!」


「クックドゥードゥ!」


車のスライドドアの外、波の届かない安全な砂浜で、陽太(ようた)君がハトソンと追いかけっこをして歓声を上げています。

ハトソンも満更ではないらしく、短い足で器用にステップを踏み、時折スーツの胸ポケットから硬貨を啄んで出し入れする“消えるコイン”の力技マジックを披露しては、少年の目を輝かせていました。


大人の深刻な会話に、子供を巻き込むべきではありません。

私がハトソンに目配せをして「少し彼を連れ出して遊んであげなさい」と指示を出した意図を、運転席と助手席に座る山下ご夫婦も察してくれたようでした。


「…鈴木さん、あんた、ここへは旅行で来てたのかい?」


バックミラー越しに、山下氏――お父さんが探るように尋ねてきました。


「ええ。少しばかり長い休暇をいただきましてね。あちらの街からこちらの海辺まで、気の向くままに足を伸ばしていたところです」


私は温かいスープを一口含み、適当に話を合わせました。

あながち嘘ではありません。皇帝陛下から与えられた、無期限の潜入調査という名のバカンスですからね。


「そうですか…でも、一人旅でこんな寂しい海辺にいるなんて、何か思い詰めるようなことでもあったんですか?」


助手席のお母様が、手元の温かいお茶のペットボトルを握りしめながら、痛ましそうな声で尋ねてきます。


私は小さく息を吐き、バスタオルの下で姿勢を正しました。


「ええ、それはもう、お話できないほどに浅い理由が…今思うと、くだらない理由です


山下様。ご夫妻には、改めて深くお詫び申し上げます」


私は静かに、しかし明確な謝罪の意を込めて頭を下げました。


「そちらの貴重な休日の団欒を、このような無粋極まりない形で妨害してしまったこと

そして何より…あのような幼いお子様が居合わせていると気づかずに、身勝手な振る舞いに及んでしまったこと。いくら謝罪の言葉を尽くしても、足りるものではありません」


子供の目の前で、見知らぬ大人が海へ歩み入り、沈んでいく。

それがどれほど致命的なトラウマを植え付ける行為か。私は自分の絶望に酔うあまり、周囲への“配慮”という紳士の基本を完全に忘却していました。


「…いいんですよ。生きててくれたんだから」


山下氏が、ハンドルを握る手にぐっと力を込め、前を見据えたまま静かに言いました。


「俺たち夫婦もね。あんたと同じように、自分からそっち側に行こうとしたことがあるんです」


その予想外の告白に、私はわずかに目を瞠りました。

助手席のお母様も、手元のペットボトルを見つめながら、静かに伏し目がちに頷いています。


「だからって、鈴木さんの気持ちが分かるとは言いません。人にはそれぞれ抱えてる地獄の形がある

あんたが死にたくて選んだ行動を、赤の他人が無理やり止める権利なんて、俺にはない」


「ええ…」と、お母様が夫の言葉をゆっくりと引き継ぎました。


陽太(ようた)の目の前で、というのも…生きていれば、この子だっていつかどこかで、そういう悲しいものが目に入る時は来るでしょうから。それを理由にして、貴方の選択を責めるのも違う気がして」


二人は自嘲するように、短く息を吐きました。


「それでもね。自分が死のうとしたくせに…いや、だからこそなのかもしれないけど。自分以外の他の人には、死んで欲しくないって思っちまうんです」


山下氏は、バックミラー越しに私と視線を合わせました。その目には、真っ直ぐな謝罪の色が浮かんでいました。


「完全に俺たちのエゴです。俺たちの勝手な気持ちで、あんたの決断を邪魔して、無理やりこっちに引き戻しちまった。…ごめんなさい」


命を救っておいて、『勝手なことをして申し訳ない』と頭を下げる夫婦。


その人間臭い理由に、私は一瞬、言葉を失いました。

彼らは理解不能な善人などではなく、死の引力を知った上で、それでも他人の手を引こうとする強さを持った人たちだったのです。


「…自分は死んで良くても、周りが亡くなるのは嫌、ですか」


私は、車窓の外でハトソンと無邪気に跳ね回る陽太(ようた)君の姿を見つめながら、ポツリと呟きました。


それは、先ほど海に沈みかけながら私が抱いた感情そのものでした。


自分という存在が使い捨ての代替品として消えることは受け入れられても、ハトソンや、無関係なこの家族が傷つくことだけは、どうしても許容できなかった。論理ではなく、ただの身勝手な感情です。


「確かに、それはありますね。痛いほどによく分かりますよ」


私はバスタオルの下で、自嘲気味に口角を上げました。


「もっとも、私にはそちらのように、躊躇いなく冬の海へ飛び込んでまで他人の命を引き上げるような、そんな立派な勇気はありませんがね」


やはり、私の探偵としての直感は間違っていなかった。

彼らもまた、死の淵を覗き込み、その冷たさを知る人間だったのです。だからこそ、自分の服が台無しになるのも構わず、冬の海に飛び込んでまで私を引き上げた。


「…そうですか。それは、ご夫婦もさぞ辛い時期を乗り越えられたのでしょう。ですが、そちらのその勇気ある自分勝手のおかげで、少なくとも今日、一つの愚かな命が拾われた。それは確かな事実です」


私は視線を窓の外、ハトソンと笑い合う陽太(ようた)君へと向けました。


「ですから、ご安心ください…と、軽々しくお約束することはできませんね」


私は少しだけ目を細め、静かに言葉を紡ぎました。


「私の本籍地は少々特殊でしてね。死という概念は、これからも事あるごとに私の思考の片隅に居座り続けるでしょう。なにせ、代わりの利く部品のような人生に慣れきってしまっていますから」


その言葉に、山下ご夫婦は否定も肯定もせず、ただ静かに耳を傾けてくれています。


「ですが…もし生き続けることが、私にとって“死んでほしくない誰か”――たとえばあの小さな相棒や、今日出会ったそちらのようなお節介で善良な方々を、私の観測範囲に留めておくための滞在許可(ビザ)証のようなものだとするならば」


私は、冷え切った肺の奥から、深く穏やかな息を吐き出しました。


「その面倒な更新手続きを、もうしばらく先延ばしにして…この不便な命をもう少しだけ使い潰してみるのも、悪くないかもしれません」


私のその遠回しな、探偵なりの生存宣言を聞いて、助手席のお母様がホッと胸を撫で下ろし、目元をハンカチで拭いました。

山下氏も、バックミラー越しに私を見て、ようやく安心したように口元を緩めます。


「…そうか。なら、よかった」


「ええ。ですから、あのお子さんがハトソンとの遊びに満足したら、私はここでお暇させていただきますよ。これ以上、そちらのご家族の大切な時間を奪うわけにはいきませんからね」


私がそう締めくくると、山下ご夫婦は顔を見合わせ、何かを相談するように無言で頷き合いました。


「…なあ、鈴木さん」


山下氏が、ふと真面目な顔をして口を開きました。


「あんたのその、やたらと巻き付いてたスマホ。飾りじゃないんだろ?」


「おや。ええ、もちろん実働品ですよ。情報収集と通信は探偵の命綱ですからね」


「だったらさ…せっかくこうして縁があって知り合ったんだ。俺たちと、連絡先を交換してくれないか?」


「…はい?」


私は思わず、間の抜けた声を漏らしました。


お母様も、助手席から振り返り、にっこりと微笑んで同調します。


「そうですよ、鈴木さん。陽太(ようた)も、ハトソンちゃんとお別れしたらきっと寂しがりますし。それに、私たちも鈴木さんの地元のお話や、旅行先でのお話、もっと聞いてみたいんです。ね?」


『地元の話を聞きたい』多分『鳩の写真を見たい』。

それは建前だということが、私には痛いほど分かりました。


彼らの本音は、“この男をここで一人にして解放したら、またどこかで死のうとするのではないか”という危惧。

だから、連絡先という細い糸で私を現世に繋ぎ止め、定期的に安否を確認しようとしているのです。


どこまでもお節介で、底抜けに優しい人たちだ。


「…あちらの世界の監視網より、よほど厄介な包囲ですね…ええ、喜んで応じますよ


ただし、私はこう見えてあちこちを飛び回る根無し草ですからね。返信が深夜になったり、少し間が空いたりすることもあるかもしれませんが、そこはご容赦ください」


「ははっ、構わんさ!こっちだって不定期残業のサラリーマンだ、返事はいつでもいい」


「などと言いつつ…浸水したのでね、生憎スマホは文鎮に…

IDか電話番号を控えてもよろしいですか?後日連絡致しますので」


「点きますよ」


「はい?」


「なってませんよ、文鎮。超元気です」


奥さんが見せてきたのは、私のスマホ。

まさかと、震える手で弾帯ごと受け取って次々点灯するが、全部無事。


「言われてみれば、普通壊れるだろうに…すごい幸運だな、あんた…」


「はい、すっごい無駄遣いした気分です!」


私は画面を開き、既読無視したら死ぬという噂の緑色の通信アプリを起動しました。

友達追加のQRコードを画面に表示させ、山下氏の端末で読み取ってもらいます。


ピコンと小気味良い電子音と共に、私の端末に“山下友晴”というアカウントと、陽太(ようた)君の満面の笑顔のアイコンが追加されました。


最高ですね、日本の人付き合いというのは。

デジタルの足跡を、工作員としての死を招く“呪い”を増やしてしまった。

しかし不思議と、その重みは不快ではありませんでした。


「これで、お互いの生存確認はいつでも可能ですね…まったく、この国はインフラだけでなく、人間の“情”というシステムまで過剰に整備されている。スパイには住みづらいことこの上ないですよ」


「すぱい?あんた、やっぱり面白い人だな!」


私が追加投入したボロを、山下氏は豪快に笑い飛ばしてくれました。


「ところでこのスマホ、今こそ仕事してくれてますが、塩漬けによっていつ毒ガスや火を吹き出してもおかしくない危険物なのです


バックアップも今取りましたので、ちょっともう一度干してきますね」


「ここでいいじゃないですか」


「奥さん?話聞いてました?」


「俺も同意見だ。そいつで痛い目を見たら、運が悪かった

死んだらラッキーって事で、たまには賭けも悪くないだろ」


「旦那さんまで何仰るので??お子さんの気持ちとか予後とか考えないんです?」


「そう言うあんただって、ハトソンの今後なんか考えてなかったろ?」


言い返せず、逃がした視線の先。

窓の外では、遊び疲れた陽太(ようた)君が、ハトソンを大事そうに抱き抱えながら車へと戻ってくるところでした。


(おれたち)が死んだらその時はその時だ、ははははっ!

不思議だよなぁ、こんなのが家庭を作って、あんないい子をお迎えできてるだなんて


親なんてなぁ、いてもいなくても何とでもなるんだよ

俺は熊本の慈恵病院で内密出産、嫁は実家こそあるが、居場所がない

そんな俺らから産まれたんだ、陽太だって自分で生きていける」


「あの、山下さん?」


「鈴木さぁん」「さっきも言ったように、俺達は死にたかったんだよ」


「「なのに、これみよがしに抜け駆けするなんてずるくない?」」


「なんかすみません、ごめんなさい、謝りますからこっち見ないで!やめて、なんですかその顔!近寄らなッ、あ゛っ!ライター!?ダメッ!バッテリー爆発すっ…あ゛あああ゛ッ!!」


ガタラッ!


「ただいまー!疲れた!!!!」


「クルックゥ!」


車のドアが開き、冷たい潮風と共に飛び込んできたその姿。


「おお、陽太!おかえり!」


その明るさに陰を引っ込めた親の姿に、私は深く、穏やかな息を吐き出しました。


「おじさん!ハトソン、すっごく賢いね!綺麗な貝殻いっぱい見つけてくれたんだよ!」


「ええ、彼は私の最高の相棒ですからね

…さて!それじゃあ私たちはこの辺で」


私が外に出ようとすると、山下氏が「待て待て」と制止してきました。


「こんな何もない海岸から歩いて帰るつもりか?俺たち、これから市街地のほうにちょっと買い物に寄る用事があるんだ。ついでだし、駅まで送らせてくれ」


「いやいやいやいや、そんな気を遣わなくても…」


見え透いてしまう、赤の他人による人生のゴールイン、抜け駆けを許さないという夫婦の本音が。


「遠慮しないでくださいな。私たちも、鈴木さんをここで降ろすのは少し心配ですから」


お母様も同調し、陽太(ようた)君も「一緒に乗ろうよ!」と私の袖を引きます。

彼らのその「市街地に用がある」というのが、親と子で方向性は違えど、私を一人にさせないための方便であることは明白でした。


「…では、お言葉に甘えさせていただきます」


私はやむを得ず…いえ、ありがたく、彼らの車で駅まで送り届けてもらうことにしました。


数十分後、車は賑やかな市街地の駅前ロータリーに到着しました。


「本当に、何から何までお世話になりました。山下ご夫妻のことは忘れられません

さようなら、これはお車代です。二度とお会いしないことを願いますよ…!」


「大げさだって、車代もいらねぇよ

それじゃあな、鈴木さん。また、連絡するよ」


やめてくれ。

私がそう思いつつも車を降りて一礼すると、後部座席の窓がスッと開き、陽太(ようた)君が身を乗り出して大きく手を振りました。


「おじさん、またね!ハトソンも、また遊ぼうね!」


「ええ、また。ごきげんよう、太陽の少年。お父様とお母様からあまり目を離してはいけませんよ」


「グルック?」


私がステッキ代わりの長傘を軽く掲げて紳士の礼を尽くすと、陽太(ようた)君は「うん?わかった!」と不思議そうにしつつも笑い、山下家のミニバンはゆっくりとロータリーを出て、交通の波へと消えていきました。


私はその車体が見えなくなるまで見送りながら、ふと、思考の海に沈みました。


あの明るい太陽の少年。

今はあんなに屈託なく笑っている彼にも、いつか成長の過程で、あるいは理不尽な社会の波に揉まれ、深い絶望を抱えて“死にたい”と願う日が来るのでしょうか。


普通に見える異常者も闊歩する、このストレス社会で生きていく以上、その可能性は決してゼロではない。

その時、彼は、己の絶望とどう向き合うのか。今日のように、明るさを保ち続けられるのか。


「…まぁ、連絡先の交換、しちゃいましたしね」


私は、弾帯に収めたスマートフォンを指先で軽く叩きました。

時間差で塩の毒が浸透してきた画面には、紫色の染みと共に『今何してる?』という山下氏の初撃と、金魚の糞のように続くスタンプ爆撃が踊っている。


「あのご家族が今後どういう人生を歩むのか、ぼちぼち見守っていくとしましょうか」


既読とかいう、非常時以外では圧しか感じない監視機能により返信の義務を強いる現代の呪いに対して、私は、特に意味のないスタンプで返答を濁した。

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