ヒーローは遅れてでもやってくる
朝日が昇り、集落が活気を取り戻し始めた頃。
私はコートの襟を正し、佐藤殿と並んで、近隣の農家たち――昨夜、懐中電灯を持って集まってくれた老人たちの家を、一軒ずつ回っていました。
「ああ、鈴木さん!お疲れ様です。それで、お子さんは…?」
「ええ。ご心配をおかけしましたが、無事に保護いたしました。現在は佐藤殿の家で、朝食を食べてぐっすり眠っておりますよ」
私が穏やかな笑みを浮かべてそう報告すると、出てきた老人たちは皆、心底安堵したように胸を撫で下ろしました。
「おお…!よかった、本当によかった!あの犬も大変だったそうじゃが、坊主が無事で何よりじゃ…」
「で、奥さんは?見つかったんか?」
「いえ、それが…」
私は少しだけ表情を曇らせ、声を落としました。
「残念ながら、まだ山の中で迷われているようです
ですが、心配には及びません。これから私と佐藤殿で、責任を持って捜索に向かいますので」
「なんと!二人だけで行くつもりか!?そりゃあ危ねえ、わしらも手伝うぞ!」
「そうじゃ、イノシシが出る山に素人二人じゃ心細かろう!猟友会の連中にも声をかけて…」
「お気持ちは大変ありがたいのですが、どうかお止めください」
私は、同行を申し出る老人たちを、手を前に出して静かに、しかし断固として制止しました。
「昨夜も申し上げた通り、無闇に山へ入れば、二次遭難の危険性が高まります。
それに、多人数で山を荒らし回れば、かえって獣を刺激し、パニックになったイノシシがこちらへ一斉に下りてくる可能性もある。
ここは我々“若い者”に任せて、皆様は万が一、お母様が自力で山を下りてきた時のために、集落の見守りをお願いしたいのです」
いうほど若くはないのですがね…私は生まれきっての46、隣の佐藤殿は知りませんが、まぁそれなりに歳は重ねていることでしょう。
「うむ…確かに、鈴木さんの言う通りかもしれん」「わしらが足手まといになっちゃあ、元も子もないからな…」
暗に足手まといになるという事実の提示に、老人たちは渋々ながらも納得してくれました。
「もし、お母様が怪我をして降りてこられた場合は、すぐに手当をしてあげてください
皆様のご協力が、最後のセーフティネットなのです。どうか、よろしくお願いいたします」
私は深々と頭を下げ、その場を後にしました。
「よく言いましたね、鈴木さん」
隣を歩く佐藤殿が、周囲に人がいなくなったのを確認してから、小声で感嘆の声を漏らしました。
「あんな風に『あなたたちの役割も重要だ』って言われたら、お爺ちゃんたちも無理についてこようとはしない。
これで、山の中は完全に僕らだけ。…心置きなく、なんでもできますね」
「ええ。彼らの善意は本物ですが、我々にとっては邪魔ですからね」
「言い方…」
「言葉を飾ったって、わかりにくいだけでしょう?
これにて準備は整いました。あとは、ターゲットの居場所を特定するだけです」
私たちは古民家へと戻り、朝食のおにぎりを平らげて少しだけ落ち着きを取り戻した、りくと君の前に立ちました。
「さて、りくと君。体調はどうです?頭の回転は正常ですか?」
「うん…おじさん、佐藤さん、ごめんなさい。僕のせいで」
りくと君は、申し訳なさそうに俯きました。昨夜の横柄な態度は完全に消え失せ、すっかり素直な少年に戻っています。
「謝罪は後回しです、時間がありませんからね」
私は彼に、佐藤殿がメモ帳に書き殴った簡易的な地図を差し出しました。
Googleマップを見せたところで、情報量が多すぎて混乱しますからね。
「貴方が昨日、コタロー君と一緒に山へ入った場所。そして、イノシシと遭遇して逃げたルート
思い出せる限りを教えてください。お母様はおそらく、貴方を探して同じルートを辿ろうとしたはずです」
りくと君は地図をじっと見つめ、記憶をたどるように小さな指を走らせました。
「えっと…家を出て、あの曲がった松の木がある坂道を登って…」
「ふむ」
「そこから、草がいっぱい生えてる細い道に入ったんだ。それで、しばらく歩いたら…急に開けた場所に出て。そこに、大きな泥の水たまりみたいなのがあって…」
「…泥の水たまり?」
佐藤殿が、ハッとして私の顔を見ました。
「鈴木さん、それ…」
「ええ、ヌタ場ですね。イノシシが身体に泥をこすりつけて、寄生虫を落とすための場所
つまり、彼らの“お気に入りの風呂場”というわけですか」
よりによって、テリトリーの中心部に、真正面から突っ込んでいたとは。
「そこで、イノシシと出くわしたんですね
…それから、どう逃げたのですか?」
「コタローが吠えて、イノシシがこっちを向いたから…僕、怖くて、背中を向けて走っちゃったんだ
それでコタローがやられて、一緒に来た道を戻ろうとしたんだけど、暗くてよくわかんなくて…気がついたら、あの崖の上の木にしがみついてた」
「なるほど、ルートはなんとなく把握しました」
私は地図を折りたたみ、インバネスコートのポケットにしまいました。
「入り口は特徴的な松の木。そこからヌタ場を経由し、崖へと至る獣道。
お母様が貴方の痕跡を追って山に入ったのであれば、そのヌタ場の周辺を彷徨っているか、あるいは…」
私は言葉を切り、ステッキを手に取りました。
「…イノシシの風呂場で、鉢合わせしているか、ですね」
佐藤殿の顔が、再び青ざめます。
「鈴木さん、急ぎましょう!もしそうなら、あの尖った性格じゃ、絶対にイノシシを刺激して…!」
「ええ、分かっています。マグロ回収にならないことを祈りつつ、出発するとしましょう」
私はりくと君に向き直り、一つだけ厳命しました。
「貴方は、絶対にこの家から一歩も出ないこと。誰が来ても、鍵を開けてはいけません
約束を破れば、コタロー君の治療費を全額請求した上で、貴方のSwitchのデータを粉砕します。分かりましたね?」
「それはやだけど、僕も行きたい!」
私が玄関に向かおうとしたその背中に、りくと君がすがりついてきました。
「ダメです、足手まといなんで」
「でも!ママが危ないかもしれないんでしょ!?僕が案内するから!あの道、僕が一番よくわかってるから!」
必死の懇願。愛犬を重傷に負わせてしまった後悔から、せめて母親だけは自分の手で見つけ出したいという、子供なりの義務感なのでしょう。
ですが、私はその小さな手を、極めて冷酷に振り払いました。
「貴方が案内できるのは、“自分が逃げた道”だけです。お母様が今どこにいるのか、貴方には分からない
それに、山の中でイノシシに遭遇した場合、私と佐藤殿は自分たちの身を守ることができますが、貴方という“守るべき重し”が加わればそれも難しい、全滅のリスクが跳ね上がります。
…それでも、ついてきたいと言いますか?私たち全員を巻き込んで、イノシシの餌にしたいというのなら、連れて行ってあげますが」
「う…っ」
りくと君はぐっと言葉を詰まらせ、悔しそうに下唇を噛み締めました。
そこへ、佐藤殿が間に入り、りくと君の目線に合わせてしゃがみ込みました。
「りくと君。鈴木さんの言う通りだ。今は僕たち大人に任せてくれ。
君がここで安全に待っていてくれることが、僕たちにとって一番の助けになるんだ
それに、もしお母さんが帰ってきた時に、君がいなかったら、もっとパニックになっちゃうだろう?
だから、どうかお願いします。お母さんのために、ここで待っていてください」
りくと君は、佐藤殿の目を見て、ポロポロと涙をこぼしながら、小さく頷きました。
「…うん、わかった。ここで、待ってる」
「賢明な判断です。では、我々は行ってきますね」
私は長傘を持ち直し、佐藤殿と共に、日差しが差し込み始めた山林へと足を踏み入れました。
りくと君の証言通り、麓の“曲がった松の木”を越え、獣道へと入ります。
昨夜の暗闇とは違い、日の光の下で見ると、山の表情は全く違って見えました。
生い茂る草木、湿った土、そしてあちこちに散乱する枯れ枝。
「佐藤殿。タヌキの獣人たる貴方の嗅覚で、お母様の匂いは追えませんか?あの方、昨日はひどく人工的な、フローラル系の香水を振りまいていらっしゃったはずですが」
私の問いに、佐藤殿は鼻をヒクヒクとさせ、周囲の空気を嗅ぎ分けようとしました。
しかし、数秒後には深々とため息をつき、首を横に振りました。
「…ダメです、鈴木さん。匂いが多すぎる」
「多すぎる?」
「ええ。昨夜、集落のお爺ちゃんたちが大勢で山狩りに入ったせいで、人間の汗と土の匂いが混ざり合って、マスキングされちゃってます
それに、イノシシの獣臭もキツい。香水の匂いなんて、とうの昔に飛んでますよ」
なるほど。善意の捜索隊が、皮肉にも我々の障壁となってしまったわけですか。
「やれやれ…やはり素人の集団行動は、現場の証拠を荒らすだけの害悪ですね
文句の一つも言いたくなりますが、致し方ありません。
ならば、視覚情報で追うまでです」
私はしゃがみ込み、獣道に残された無数の足跡を検分し始めました。
「昨夜の捜索隊は、ほとんどが農家の老人たちでした
彼らの足跡は、歩幅が狭く、ゴム長靴や使い込まれた作業靴の裏面パターンが特徴的です
これらは除外。この深い轍も、イノシシの蹄の跡ですね」
私は密偵としての観察眼をフル稼働させ、乱れた土の中から関係のないものを一つずつ削ぎ落としていきます。
「お母様は、昨日、ヒールのあるパンプスではなく、歩きやすいスニーカーを履いていました。サイズは女性の平均的な二十三から二十四センチ
そして、パニック状態で山を登っていたとすれば、重心は前がかりになり、つま先部分の土が深く抉れるはず」
私は地面を這うようにして進み、やがて、ある一つの足跡に目を留めました。
他の足跡とは明らかに違う、意匠の入ったおしゃれ重視のソールパターン。
そして、私の推測通り、つま先側に強い圧がかかり、滑って体制を崩したような乱れた軌跡。
「…見つけましたよ、この足跡です」
「さっすが鈴木さん!じゃあ、この足跡を辿っていけば…!」
「ええ。ですが、この足跡が向かっている方向は…あの崖ですね」
「えっ…?」
佐藤殿が息を呑みます。
「りくと君の証言と完全に一致します。彼はイノシシから逃げて、あの崖の上の木にしがみついていた。
お母様は、息子の血痕や足跡を必死に追い、結果的に彼と同じルートを辿ってあの崖に行き着いたのでしょう」
親子の絆というべきか、パニック状態の人間が取る行動の収束性というべきか。私の予測は見事に的中していました。
「ですが、佐藤殿。問題は“そこから先”です」
私は長傘で、崖の方向を指し示しました。
「暗闇の中で、我が子を追って崖に行き着いた母親。彼女の目に、あの切り立った断崖絶壁はどう映ったでしょうね?
子供が崖の下へ落ちてしまったと思い込み、絶望してパニックになった親が、正常な判断を下せるとは思えません」
足跡は、崖の縁で乱れ、そして…途切れているかもしれない。
「もしかして、鈴木さん…お母さんが、崖から…?」
「その可能性は、十分にありますね。足を滑らせたか、あるいは子供を助けようと無謀にも自ら降りようとしたか。
…もしそうであれば、我々が見つけるのは、生きている彼女ではなく、冷たくなった仏様になるやもしれません」
私は、極めて冷酷な可能性を口にしました。
「鈴木さん…そんな、淡々と…」
「事実を述べているだけですよ。それに、もし彼女がすでに死体となっていたとしても、それは我々の責任ではありません
誰が彼女を山へ突き落としたわけではなく、彼女自身が、自らの足で破滅へ向かっただけのこと…まぁ、私が昨夜現場を離れず、強引にでも回収していれば防げた事態だったかもしれませんがね」
私は肩をすくめ、小さく笑いました。
「ですが、人殺しなど、今に始まったことではありません
帝国の工作員として、多少の罪悪感は必要経費ですよ、慣れなさい
…さあ、佐藤殿。生存確認か、死亡確認か
どちらにせよ、あの愚かな女の結末を、特等席まで見に行きましょうか」
「…これは」
獣道を抜け、私たちが辿り着いたのは、昨夜りくと君がしがみついていたあの切り立った崖の上でした。
日の光の下で改めて見下ろすと、数十メートルはあろうかという急斜面。足場となる岩や木の根は辛うじてあるものの、女一人で降りるにはあまりにも無謀な地形。
私は崖の縁に立ち、昨夜はなかった“新たな痕跡”を観察しました。
崖の淵の土が、激しく削り取られている。そして、斜面に生えた太い木の根に、衣服の繊維が引っかかり、ところどころに血痕がこびりついている。
「佐藤殿。どうやらお母様は、ここから“降りた”ようですね」
「降りた…!?この絶壁をですか!?
いやいや、いくら子供を助けたいからって、こんなのクライミングのプロじゃないと無理ですよ!」
「ええ、無理ですね。だからこそ、途中で何度も滑落し、木や岩に必死にしがみつきながら、文字通り“削られながら”落ちていったのでしょう
この血痕の量…無傷では済んでいませんね。骨の数本はいっているかもしれません」
私はステッキの先で血痕を指し示し、感心したように息を吐きました。
「火事場の馬鹿力というか、母の執念というか。恐怖を麻痺させるアドレナリンの分泌量において、彼女は天性の素質を秘めているのかもしれません」
私が現場を確認している横で、佐藤殿は顔面を蒼白にさせて崖下を覗き込みました。
「鈴木さん、悠長なこと言ってる場合じゃないです!早く下に行きましょう!この出血量じゃ、手遅れになるかもしれない!」
「分かっていますよ。ですが、我々が同じように直接降りて、途中で足を滑らせて仲良く遭難死しては本末転倒です
ここは、少しばかりズルをさせてもらいましょう
【奈落の底へ、最短の直通路を。|願わくば、そこに横たわる結末が、私達の食欲を奪う凄惨な光景でないことを祈りましょう】」
青白い光が空間を歪め、崖の下へと直結するワームホールを開きます。
「さあ、ショートカットのお時間です。佐藤殿、どうぞ」
「…毎回思うんですけど、鈴木さんのその魔法、便利すぎません?」
「ええ。悪魔を一人犠牲にしてできた、貴重な魔法ですからね
ポスティングなんかで、階段を降りるのも面倒な時には重宝しますよ」
私たちはワームホールを抜け、一瞬にして崖の下――昨夜、私が空中のりくと君たちを受け止めた場所へと降り立ちました。
着地してすぐ、佐藤殿のタヌキの耳がピクリと動きました。
「鈴木さん、血の匂いが…あっちに続いてます!」
佐藤殿の指差す先。地面のシダの葉が折れ曲がり、土の上には生々しい血の跡が、まるで何か重いものを引きずったように続いていました。
「…這いずった跡ですね」
私はしゃがみ込み、その痕跡を検分しました。
「崖から落ちて足を負傷し、歩けなくなった。それでも子供を探すために、腕の力だけで這って進んだ…なんという執念。少しだけ、彼女の母親としての意地を評価してあげましょう」
私たちは、その痛々しい血の軌跡を辿って森の奥へと進みました。
しかし、数十メートルほど進んだところで、その痕跡の“様子”が不自然に変化していることに気がつきました。
「おや…?」
「どうしたんですか、鈴木さん」
「ここを見てください。這いずっていた跡が急に途切れ、代わりに…靴底で地面を強く蹴り上げたような、深い足跡に変わっています」
這っていた人間が、急に立ち上がり、しかも走った?重傷と思われる人間が、どうやって?
「血の量も増えています。これは…何かしら命の危険に直面し、無理やり痛みをねじ伏せて、アドレナリン全開で逃走した痕跡ですね」
私の推測に、佐藤殿がハッと息を呑みました。
「命の危険…!まさか、イノシシに見つかったんじゃ…!」
「その可能性が極めて高いですね。急ぎましょう」
私たちは足跡を追い、木々を掻き分けてさらに奥へと進みました。そして、森が開けた少し先の空間で――私たちは、その“絶望的な光景”を目の当たりにしたのです。
「フゴォォォォォッ!!」
「プゥゥウギィィィィッ!!」
巨木の下で、三頭の巨大なイノシシが、鼻息を荒らげながら木の幹に何度も体当たりを繰り返していました。
ドスドスと重い衝撃音が響き、木全体が激しく揺さぶられています。
そして、その木のはるか上空。地上から四、五メートルはあろうかという高さの太い枝の上に、ボロボロになった母親がしがみついていました。
「ひっ…!くるな、あっちいってぇぇぇっ!!」
彼女の左腕は不自然な方向に曲がり、服は泥と血で真っ赤に染まっています。おそらく崖から落ちた際に全身を打ったのでしょう。
満身創痍の中、残された右腕と両足だけで彼女は必死に枝にしがみつき、下から突き上げるイノシシの脅威に怯えて泣き叫んでいました。
「あの高さまで木に登りきるとは…昨夜の息子といい、川上家の人間は窮地に陥ると木に登るスキルがパッシブで発動する血筋のようですね。親子揃って見事なモンキースキル、感服いたしました」
「鈴木さん、そんな感心してる場合じゃないです!あのままだと木が折れるか、お母さんが力尽きて落ちますよ!」
佐藤殿が血相を変えて立ち上がろうとしましたが、私は彼の肩をガシッと掴んで引き留めました。
「落ち着きなさい、佐藤殿。相手は三頭、しかも完全に興奮状態です
丸腰の私たちが正面から突っ込んでも、返り討ちに遭うだけですよ」
「じゃあ、どうするんですか!?またワームホールで落とすんですか!?」
「あんな高所に、正確に穴を開けるのはリスクが高すぎます。もし座標がズレて彼女の腕や足を切断してしまったら、後で何を言われるかわかりませんからね」
「じゃあ、どうするんです!?」
焦燥に駆られる佐藤殿をよそに、私は深く、本当に深く、肺の底から重いため息を吐き出す。
スマートな解決策、合法的な嫌がらせ、コンプライアンスの遵守。それらを天秤にかけ、私は身も蓋もない結論に到達しました。
「なので、もういいです
イノシシ、全員ぶっ殺します!!」
「…は?」
私がインバネスコートの懐に手を差し込み、スルリと引き抜いたのは、冷たい金属の鈍い光沢を放つ代物――消音器が装着された、帝国の制式自動拳銃でした。
ワームホールのショートカットを利用して、自室の武器庫から直通で引っ張り出した物です。
プシュッ!プシュッ!プシュッ!
言うほど音、消えないんですがね。
くぐもった確殺の射撃音が、三度連続して響きました。
木に体当たりを繰り返していたイノシシの頭部に、正確に鉛玉が撃ち込まれます。
「ブギュ、ウ…」
巨大な質量が、一瞬の痙攣の後にドスンドスンと崩れ落ち、ピクリとも動かなくなりました。
農家たちを長年苦しめ、昨夜の我々を恐怖のどん底に陥れた無敵の魔獣は、兵器による圧倒的な暴力の前では、ただの血袋に過ぎませんでした。
「…えっ」
佐藤殿は、銃煙を漂わせる私の手元と、即死したイノシシたちを交互に見比べ、ぽかんと口を開けました。
「え?ちょっと…いいんですか、それ!?銃刀法違反とか、狩猟法がどうとか、散々僕に法の遵守を説いておいて!」
「ええ。法律は守るべきですが、時には破る勇気も必要です」
「だったら最初からやってくれれば!あるいは、その便利な道具を僕に貸してくれればよかったのに!!昨日の夜の苦労は何だったんですか!?」
「貸しませんよ、これは官給品です。紛失したら私が始末書を書かされる、それに…」
私は銃口から立ち上る微かな煙を吹き消し、無表情のまま、その黒い筒先をゆっくりと上へ向けました。狙うのは、木の上で恐怖に顔を引き攣らせている母親の眉間です。
「暴力はすべてを解決しますが、それは他に手立てがなかった時の最終手段です
なぜなら、暴力は必ず“証拠”と“目撃者”を生むから」
「鈴木、さん…?」
「よって、イノシシの謎の死を目撃したお母様も、ここで殺します」
佐藤殿の息が止まりました。木の上の母親も、助かった安堵から一転、現場に響いた銃声の意味を理解し、ヒッ、と喉の奥で悲鳴を凍りつかせています。
「いやはや。小説のヒーロー、本家本元の名探偵“バーロック・ワームズ”と異なり、誰も傷つかないスマートな解決を見出せなくてごめんなさいね」
私は優雅に微笑みながら、撃鉄に指をかけました
証拠隠滅。
潜入工作員として、最も基本的なマニュアルです。
彼女を生かして帰せば、『白いコートの男がイノシシを銃殺した』と吹聴され、警察の捜査網がこの島を覆い尽くす
そんな面倒を招くくらいなら、ここで彼女をイノシシの犠牲者として偽装処理する方が、圧倒的に低コストなのです。
「さようなら、躾のできない無責任な奥様
貴方の息子さんは、私が責任を持って施設に――」
「ふざけるなァァァァッ!!!」
私が引き金を絞り込もうとした、まさにその瞬間。
横から飛んできた佐藤殿のタックルが、私の身体を激しく弾き飛ばしました。
プシュッ!!
銃口が大きく逸れ、放たれた弾丸は母親の頭上数センチの枝を吹き飛ばす。
私は体勢を崩しながらも、受け身を取って湿った腐葉土の上を滑り、即座に銃を構え直して立ち上がりました。
「佐藤殿、それはどういう真似ですか?
帝国の工作員が、任務の障害となる現地民の排除を邪魔するなど、反逆行為と見なしますよ」
「反逆でもなんでもいいッ!ふざけんな、あんた頭おかしいのか!?イノシシを殺すのと、あんたのケツ拭きの為に無関係な人間を口封じで殺すのじゃ、わけが違うだろうが!!」
佐藤殿は、地面の泥を握りしめながら立ち上がりました。
その顔は、ただの農家の好青年でも、私の雑用をこなす下っ端でもありません。万国のサバイバルを生き抜き、帝国に拉致されてなお生き延びてきた、歴戦の『獣人工作員』の顔でした。
「おや、偽善です?
貴方だって、これまで命令で多くの人間を葬ってきたでしょうに…今さら一人の命を惜しむとは、安っぽい感傷ですね」
「違う!確かに汚れ仕事もやってきたけどな、この国で、この平和な島に来てまで、理不尽な死体を増やしたくねぇんだよ!!
ましてや、コタローが命がけで守ろうとした家族を、こんな理由で殺させてたまるか!!」
ああー、なるほどイヌ科同士のシンパシーですか。
佐藤殿の瞳孔が縦に割れ、その口元から鋭い犬歯が覗く。
タヌキの獣人としての野生が、極限の怒りによって引き出されている。
彼の筋肉が異常な膨張を始め、服の継ぎ目がミシミシと悲鳴を上げました。
「…なるほど、情に絆されましたか。スパイとしては三流の末路ですね」
「好きに言ってください!人として落第するよか、よっぽどいいんで!」
私は小さくため息をつき、自動拳銃の銃口を、木上の母親から佐藤殿へと向け直しました。
「良いでしょう。貴方が本気で私の業務を妨害するというのなら、まずは貴方から処理します
ハトソン、上空から援護を」
「クルルルッ!」
私の肩から飛び立ったハトソンが、鋭い鳴き声と共に森の暗がりへと旋回し、佐藤殿の死角へと回り込みます。
「来いよ、第42号!アンタの意味不明なジェノサイド戦略、僕がここでへし折ってやる!!」
吠える佐藤殿が、弾丸のような速度で地を蹴りました。
真正面からのステゴロの突撃。いかに私が訓練された暗殺者であろうと、獣人のフルパワーを正面から受け止めれば、全身の骨が粉砕されるのは火を見るより明らかです。
私は焦る素振りも見せず、自らの足元に青白いワームホールを展開し、そのまま重力に身を任せてすとんと落下しました。
「消え…ッ!」
佐藤殿の拳が虚空を殴り抜ける音を頭上で聞きながら、私は空間のトンネルを抜け、森の木々の間に確保した別の座標へと躍り出ます。
私の右目には、上空を旋回するハトソンの視界がリンクしています。
木立の中、突如標的を見失い、警戒して周囲を窺うタヌキの獣人。その無防備な背中――最も当てやすい胴体の中央に、私は自動拳銃の照準を合わせました。
プシュッ!
くぐもった発砲音。しかし、弾丸が肉を穿つ音は響きませんでした。
佐藤殿は、私の銃口が向けられた気配を野生の勘で察知したのか、発砲のコンマ一秒前に身を沈め、弾道をギリギリで回避したのです。
「そこかァッ!!」
そして、弾の飛んできた軌道から即座に私の位置を逆算し、木を蹴って猛スピードで迫ってきます。恐るべき反応速度。これだから獣人は相手にしたくない。
「やれやれ。野性の勘というやつは、時にどんなレーダーよりも厄介ですね
【無駄に怪我とかしたくないです、管轄外の案件につき、受け取り拒否とさせていただきます】」
私は舌打ちをしつつ、再び自分の足元にワームホールを開き、自ら落下しました。
「ハトソン、こちらへ!」
次に私が姿を現したのは、佐藤殿の頭上、はるか数十メートルの夜空です。
「クルックゥ!」
空高く滞空していた相棒が、私の呼びかけに応じて滑空してきます。
私は空中に滞空するわずかな時間を利用し、インバネスコートの裏地に仕込んでいた特製の暗器を鷲掴みにした。
それは、長さ十数センチほどの、表面に螺旋状の溝が刻まれた小さな鉄の杭の束。
魔法も火薬も使わない、極めて原始的な武器。
しかし、この螺旋の溝が空気抵抗を推進力に変換し、上空からの自由落下だけで、人間の頭蓋骨はおろか薄い鉄板すらも容易く貫通する威力を発揮する。
「おひねりです、存分に受け取りなさい」
私はその螺旋の杭を、眼下の森に向かって無造作にばら撒きました。
回転しながら加速する黒い雨が、木々の枝葉を貫き、森の地表へと降り注ぎます。
さらに私は、コートのポケットから小さなガラス瓶を取り出し、ハトソンの足に持たせました。
「香水の配達をお願いします、あのポンタの頭上で割ってきなさい」
「クルルッ!」
指示を受けたハトソンが香水、もとい吸入性の麻痺毒を抱えて急降下していきます。物量と範囲毒の二段構え。
いくら獣人とはいえ、これで少しは足止めできるでしょう。
「さて、私は私の仕事を終わらせるとしますか
【不都合な目撃者も纏めて皆殺します。死地へと飛び込んだ己の危機管理能力の無さを、せいぜいあの世で悔いることですね】」
私はイノシシの数と同じ、三度目のワームホールを展開しました。
空間を抜け、私が降り立ったのは、先ほどイノシシを仕留めた巨木のすぐ近くの枝の上。
視線を下に向ければ、そこには自分の真下で三頭のイノシシが音もなく死んでいる光景に、声も出せずにガタガタと震えている母親の姿。
「お待たせしました、不審者です
貴方をお迎えにあがりましたよ」
私は冷たく言い放ち、銃口を彼女の眉間にピタリと合わせました。
これで終わりです。引き金を引けば、この目障りなイレギュラーは消え去り、私の偽装工作は完璧なものとなる。
――しかし。私が引き金に指をかけた、まさにその瞬間でした。
「させるかァァァッ!!」
背後の茂みが爆発したように弾け、あり得ない速度で飛び出してきた影が、私に猛タックルをかましてきたのです。
「なっ…!?」
衝撃で私の身体が宙に浮き、持っていた銃が木に激突して無駄玉を吐く
わら、。
私を押し倒し、そのまま地面へと転がり落ちてきたのは――全身を麻痺毒に侵され、顔を紫色に腫れ上がらせながらも、執念だけで動いている佐藤殿でした。
「貴方、また…なぜ私の位置がわかったのです!?」
私は驚愕しました。ワームホールによる空間跳躍は、物理的な痕跡も魔力の残滓も一切残しません。いくら獣の嗅覚があろうと、空中のどこから、森のどの座標へ移動したかを特定することなど不可能なはずです。
「舐めんなよ、クローン野郎…ッ!」
佐藤殿は、私の胸倉を掴んだまま、血走った目で私を睨みつけました。
「あんたたちワームズが…どれだけ情緒不安定な生き物か、僕が知らないとでも思ったか…!
いつか必ず独断専行で暴走をするって、ずっと警戒してたんだよ!」
彼の言葉に、私はハッと息を呑みました。私の鼻腔が、微かに、本当に微かな…ある“匂い”を捉えたのです。
鼻を突くような、ミナミコアリクイの糞の悪臭。昨日、私自身が調合し、畑に設置したトラップ『バッフンダ・パヒューム』の匂いです。
「まさか…私に、マーキングを…!?」
「ああ、そうだ!山に入る直前、あんたが鳩を空に飛ばして、暗視ゴーグルをつけたあの隙にな…!
ちょっとだけ掠め取った原液を、あんたのコートの裾になすりつけといたんだ!!」
なんという男。あの緊迫した状況下で、私への警戒を怠らず、悪臭トラップを再利用して発信機代わりにするとは。
私がワームホールでどこへ飛ぼうと、彼の鼻には、私が放つ強烈な悪臭の軌跡が釣り糸のようにハッキリと見えていたというわけですか。
「…一本取られましたよ。ですが、麻痺毒を吸い込んでまで突っ込んでくるとは、命知らずにも程がある」
ならばと、手の届かないところに退こうとしましたが、それより早く、佐藤殿が私の右腕に食らいつきました。
「ガァァァッ!!」
「んおっとぉ!?」
鋭い獣の牙が、私のインバネスコートごと、右腕の肉に深く食い込みます。
私は激痛に顔を歪めながらも、左手で銃のグリップを握り直し、彼の頭部を殴りつけようとする。
しかし、佐藤殿は私の動きを完全に読み切っていました。
彼は噛みついた腕を強引に振り回し、私の左手の銃身を、タヌキにあるまじき強靭な顎でガチンッ!と噛み砕いたのです。
金属がひしゃげる不吉な音が響き、私の遠距離武器が、ただの鉄のゴミへと成り下がりました。
「この…ッ、狂犬が!!」
「狂ってんのはあんたの頭の方だろッ!」
泥まみれの地面で、男二人が無様に揉み合い、殴り合い、血と泥に塗れて転げ回ります。
もはや帝国の工作員としての洗練された動きなどありません。ぶっ殺したい欲と信念を賭けた醜い泥仕合です。
「――フゴォォォ…ッ」
私たちが互いの首を絞め上げ、地面を転げ回っていた、その時でした。背後の茂みから、重く、湿った鼻息が聞こえてきました。
「…おや」
私は佐藤殿と揉み合いながらも、視線だけを音の方向へと向けました。そこには、先ほど私が銃殺した三頭とは別の、一回り以上も巨大な雄イノシシが立っていました。
奴は、地面に音もなく転がっている仲間の死体を見て、明らかなパニックを起こしている。
銃声という警告音もなく、何が起きたのかもわからないまま、仲間が大勢息絶えている異常事態。
未知の恐怖に直面した野生動物が取る行動は、一つしかありません。
目の前にいる“最もわかりやすい標的”に対する八つ当たりです。
「フンギィィィィィィッ!!!」
巨大なイノシシが、目を血走らせ、口から白い泡を吹きながら猛突進を開始しました。その標的は、木の上で恐怖に震えている母親でした。
ドゴォォォォンッ!!!
イノシシの巨体が、母親がしがみついている太い幹に激突しました。凄まじい衝撃に木全体が大きくしなり、枯れ葉が雨のように降り注ぎます。
「み゛ゃあぁぁぁぁっ!!!」
母親の悲鳴が響き渡ります。彼女は骨折した腕で必死に枝にしがみついていますが、もう限界は近いでしょう。
イノシシは一度後退し、さらに勢いをつけて二度目の突進の助走に入りました。次の激突で、彼女は確実に木から振り落とされ、巨大な牙の餌食になる。
私は佐藤殿と組み合ったまま、その光景を冷ややかな目で見つめました。
「どうやら、私がわざわざ手を下すまでもなかったようですね!
佐藤殿、今どんな気持ちですか?貴方が私の邪魔をしたせいで、彼女はより凄惨で、苦痛に満ちた最期を迎えることになりましたよ!恨むなら、己の浅はかな正義感を恨みなさいな!!あっははははは!」
私が皮肉たっぷりに告げると、佐藤殿は「やめろ…やめろぉぉぉっ!!」と絶叫し、血走った目でイノシシの方へ手を伸ばしました。
しかし、もみ合いで更に血液が循環し、麻痺毒が回りきった彼の身体は、這いずることしか叶いません。
イノシシの太い蹄が地面を蹴り上げ、仕上げの突進が放たれようとした、その瞬間。
――タァァァンッ!!
静寂の森の空気を、耳をつんざくような本物の銃声が切り裂きました。
「プ、キャ…ッ!?」
突進の軌道に入っていた巨大イノシシの肩口から、ドス黒い血しぶきが吹き飛びました。強烈な衝撃に、数百キロはあろうかという巨体が横に大きくよろめきます。
「…何ッ!?」
私の思考が、想定外の事態に一瞬だけ停止しました。
今の発砲音。サイレンサーをつけていない、大口径の猟銃の音。
――タァンッ!タァンッ!!
立て続けに放たれた二発の追撃が、よろめいたイノシシの胴体と前足を的確に打ち抜く。
「キィィイ…」
断末魔の呻きを上げ、ついに森の暴君が崩れ落ちた。
「な、なんだ…誰が…」
佐藤殿が、信じられないものを見る目で呻きました。
硝煙の匂いが漂う中、暗闇の茂みを踏み越えて、一人の若者が姿を現しました。
作業着に身を包み、手には銃身から煙を上げる猟銃。
そして、その腰には鋭く光る狩猟用の剣鉈が提げられています。
若者は倒れたイノシシに迷いなく歩み寄ると、素早い手つきで剣鉈を抜き放ち、痙攣する獣の首元に刃を突き立てました。
ブシュッ、と鮮血が噴き出し、放血処置が施されます。
奪った命を尊び、肉を無駄にしないための完璧な所作でした。
「おや…あの顔立ち」
私は、その若者の横顔を見て、泥だらけの顔に思わず微笑みを浮かべました。
「今朝方お見かけした原田のご老人に、どこか面影が似ているような…ああ、なるほど。彼が…原田家のお孫さん、ですか」
電話口で『無理だ』と断っていたはずの親族が、有給を取って、あるいはすべてを放り出してでも、この島に駆けつけてきた。
この国の人間の、理屈を超えた縁の強さに、私は笑うしかありませんでした。
「誰だ、そこにいるのは!」
倒れたイノシシの血抜きを終えた若者――原田氏の孫は、鋭い視線を私たちの潜む茂みへと向ける。
先ほどの佐藤殿との泥臭い揉み合いの音が、彼の耳に届いていたようです。彼は手馴れた動作でライフルに新たな弾薬を装填し、銃床を肩に当ててこちらへとにじり寄ってきます。
ガチャッ、と金属が噛み合う音。装填の際に見えた弾倉の構造から推測するに、装弾数は五発。使用しているのは空気銃ではなく、確かな殺傷力を持った火薬式ライフル。
ですが、彼はあくまで“法律に縛られた、休日の趣味ハンター”に過ぎない。実戦経験の少なさと、射撃時の反動による照準のブレを計算に入れれば、付け入る隙は十分にあります。
「さて、どう料理してくれましょうか」
私は冷静に思考を巡らせ、一つの“最適解”を導き出しました。
私は、足元で麻痺毒に侵され、ゼェゼェと息を切らしている佐藤殿の襟首を掴むと、その重い獣人の身体を軽々と持ち上げました。
「なっ、鈴木さん…!?」
「少しばかり、的になっていただきましょう」
私は一切の躊躇なく、佐藤殿の巨体を原田の孫へ向かって、茂みの中から豪快に放り投げました。
「うおぁぁぁっ!?」
宙を舞うタヌキの獣人。その異様なシルエットが、月明かりの下に躍り出ます。
「なっ…!?」
原田の孫は、突然頭上から降ってきた“人間の服を着た二足歩行の獣”という未知の脅威に、驚愕の声を上げました。
しかし、彼の反射神経は私の予想をわずかに上回っていました。彼は咄嗟に銃口を佐藤殿へと向けましたが…それが「獲物の飛びかかり」ではなく「投げ飛ばされただけ」の受動的な軌道であることを見極め、引き金を引く指をピタリと止めたのです。
「ほう、無駄撃ちを避ける冷静さ。狩人の端くれとしての矜持は持っているようですね」
私は心中で小さく賛辞を送りつつ、佐藤殿から原田の孫の意識が逸れたその一瞬の隙を突きました。
私は茂みから音もなく滑り出し、懐に隠し持っていた予備の小型拳銃を構え、原田の孫の顔面――正確には、その視界を奪うための“目くらまし”の射撃を放とうとしました。
――しかし。
「うわぁっ!?」
私が引き金を引く直前。
空から降ってきた佐藤殿の異形な姿に、ついにキャパシティを限界突破させた原田の孫が、情けなく悲鳴を上げてその場に“腰を抜かした”のです。
パスッ!
私の放ったサイレンサー付きの弾丸は、彼が立っていたはずの空間を虚しく通り抜け、背後の木の幹に虚しく突き刺さりました。
「…おや」
私は銃を下ろし、呆気にとられました。
相手が戦闘のプロであれば、私の射線を読んで回避したと賞賛するところです。しかし、彼はただの「技術を持った素人」。未知の恐怖に直面し、足の力が抜けてへたり込んだだけの、完全な偶然による回避。
計算し尽くされた私の暗殺術が、ド素人の「腰抜け」という予測不能なエラーによってスカされたのです。
「…やれやれ。やはり、素人という生き物は、時にどんな達人よりも厄介な挙動をしますね」
「にげ…逃げろ、原田の兄ちゃん…っ!そいつは、ヤバい…ッ!」
地面に叩きつけられた佐藤殿が、麻痺でろくに動かない身体を必死に這いずらせながら、原田の孫に向かって警告を発します。
私が再び銃口を彼らに向けようとした、その時でした。
「クルルルッ!クルックゥゥッ!!」
上空で旋回していたハトソンが、激しく羽ばたきながら急降下し、私の肩を嘴で執拗に突いてきました。
「痛っ…!何ですかハトソン、今は取り込み中…」
私は抗議しようとして、ハッと息を呑みました。
ハトソンの視界リンクを通じて、崖の上――私たちが先ほどまでいた場所の周辺が、異常に騒がしくなっていることに気がついたのです。
「ママァーッ!ママ、どこぉーっ!?」
崖の上から響いてきたのは、聞き間違えようのない、りくと君の叫び声でした。
さらに、その声に重なるようにして、複数の大人たちの声と、無数の懐中電灯の光が、森の奥からこちらへ向かって急速に近づいてくるのが見えます。
「…あのガキ。絶対に家から出るなと言っておいたのに、約束を破って老人たちの捜索隊をここまで引き連れてきたというのですか」
私は舌打ちをしました。
これほどの大人数が集まってしまえば、もはや隠蔽もクソもありません。ここで私が原田の孫や母親を処理したところで、武器を携帯した不審な外国人としての目撃証言が、一瞬にして島中に拡散される。
「…潮時ですね」
私は佐藤殿の正体が完全に露見してしまったことを確認し、冷たく笑いました。彼がここで『化け物』として原田の孫に撃ち殺されるなら、それはそれで構いません。
むしろ、それを口実にして『罪のない友人を殺された復讐』という大義名分を掲げ、この島の住人たちを合法的に根絶やしにする口実ができたというものです。
「せいぜい、無様な最期を遂げて、私に良い口実を与えてくださいよ、佐藤殿」
私はステッキ代わりの長傘を拾い上げ、銃を隠し持つと、音もなく闇に紛れ、少し離れた木陰へと身を潜めました。
そして、スマートフォンを取り出し、カメラの録画ボタンを静かにタップします。
さあ、原田の孫よ。その手にある猟銃で、未知の獣人(佐藤)の脳天をぶち抜きなさい。それが、貴方たち島民の終わりの始まりです。
私はレンズ越しに、これから起こるであろう悲劇の瞬間を待ち構えました。
しかし。
「…あんた」
腰を抜かしていた原田の孫は、震える手でライフルを握り直しながらも、銃口を佐藤殿へと向けることはありませんでした。
彼はゆっくりと立ち上がると、警戒するように周囲を見渡し、それから地面で呻く佐藤殿と、木の上で気を失いかけている母親を交互に見つめました。
「おーい!誰かおるんかー!?」
崖の上から、老人たちの捜索隊の声が降ってきます。
「…ここだ!お母さんは見つけた!怪我してるから、俺が背負って降ろす!あんたたちは危ねぇからそこで待っててくれ!
それと、すぐに手当ての準備と、本島へ渡る船の手配を頼む!」
原田の孫は、余計な状況説明を一切省き、最も必要な指示だけを簡潔に大声で叫び返しました。
「おお!健一か!よかった、見つかったんか!」「わかった、すぐ準備するけぇ!」
崖上の声が安堵に変わり、慌ただしく遠ざかっていく気配がします。
原田の孫――健一は、銃を背中に背負い直し、木の上で震える母親に向かって静かに声をかけました。
「…奥さん。あんたの息子さんに頼まれて、探しに来たんだ。りくと君なら、俺のじいちゃんたちがちゃんと安全な場所で保護してる。元気にしてるから、もう安心していいよ」
「り、りくと…っ。あぁぁ…よかった…っ」
母親は、その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れたように大声で泣き崩れました。
健一は彼女が落ち着くのを待ち、慎重に木から降ろして自分の背中へと背負いました。
そして、彼は再び周囲を鋭い目で見回しました。頭を撃ち抜かれ、不自然に折り重なって死んでいる三頭のイノシシ。自分に向けて飛んできた、見えざる弾丸の痕跡。
そして、自分に向かって投げ飛ばされた、“人間ではない何か”。
健一の視線が、最後に、地面で這いつくばる佐藤殿へと向けられました。
私はスマホの録画画面を凝視しました。さあ、撃ちなさい。未知の恐怖を前に、引き金を引くのです。
だが。健一は、背中に母親を背負ったまま、ゆっくりと佐藤殿に近づき…。
「…立てるか、あんた」
泥だらけのタヌキの獣人に向かって、スッと、自分の手を差し伸べたのです。
「…え」
麻痺が少しずつ抜け、辛うじて呂律が回り始めた佐藤殿が、信じられないものを見る目でその手を見上げました。
「な、なんで…撃たないん、だ…。俺は、化け物、なのに…」
「化け物かどうかなんて、俺にはわかんねぇよ。だけど…あんた、さっき俺に『逃げろ』って言っただろ。化け物は、そんなこと言わねぇよ」
健一は、少しだけ照れくさそうに、しかし確かな力強さを持って笑いました。
「それに、あんたのその服。うちのじいちゃんが『最近越してきた愛想のいい若造』だって言ってた、佐藤ってやつの作業着と同じだろ。
…立てるなら、手を貸せ。一緒に帰るぞ」
佐藤殿は、差し伸べられたその手を、震える手で、しっかりと握り返しました。健一の力強い引き上げによって、佐藤殿がゆっくりと立ち上がる。
「…」
私は、スマホの録画停止ボタンを、静かにタップしました。
「やれやれ…。本当に、この国の人間の『お人好し』には、呆れて言葉も出ませんね」
未知の恐怖を前にしても、相手の言葉の端に宿る善意を信じ、手を差し伸べる。
そのどうしようもない甘さは、彼らの命取りになることも多いでしょう。
しかし、それにによって今回、一つの命が理不尽な死から救われたこともまた事実。
「…私の負けですね。今回は、この島民たちの人の良さに免じて、手を引くとしましょうか」
私はインバネスコートの襟を立て、肩のハトソンと共に、夜明けが近づく森の奥深くへと、誰にも気づかれることなく姿を消しました。




