↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
バーロック・ワームズの供述書  作者: ダム底タヌキ
プライベート編
23/23

☆健一の脊椎を折りたい

白い天井と、鼻を突く消毒液の匂い。慣れない病室の空気に、僕は心底からの安堵の息を吐き出した。


本当に、どうなることかと思った。

理不尽な獣ミサイル、りくと君ママの二次遭難、そして42号の気まぐれが招いた最悪の対戦。

一時は全員がバラバラの肉塊になって死を待つしかない状況まで追い詰められたけど、なんとか、最悪のバッドエンドだけは回避することができたんだ。


硬いパイプ椅子に腰掛けたまま、佐藤は目覚めを待っている。

自らの危険を顧みず、夜の山へと飛び込んで親子の命を繋ぎ止めた、人の良い農村の青年として。


首にかかっていた工作員の使命はすっかり飛んでって、今はただ、目の前で眠る患者の無事を祈るような、純朴な感情だけで胸を満たしているはずです。


…ええ。私は隣のベッドのカーテン越しに、そんな彼――佐藤殿のいかにも善良な内心を動物番組よろしく勝手にアテレコしながら、支給された毛布の温もりに包まれて優雅な微睡みを楽しんでいました。


病室に、衣擦れの音が響きました。わずかな呻き声とともに、ベッドの上で眠っていた母親が、ゆっくりと目を覚まします。


「…ん、ぁ…」


「ママ!?」


ベッドの傍らで丸くなっていたりくと君が、弾かれたように顔を上げました。泣き腫らした目で母親の顔を覗き込み、そして、堪えきれずにその胸にすがりつきます。


「ママっ…!よかった、よかったぁ…っ!」


「りくと…?私、どうして…ここは」


母親はまだ状況が飲み込めていない様子でしたが、自らの無事と、泣きじゃくる息子の温もりを感じて、そっとその背中に腕を回しました。

その光景を見守っていた佐藤殿が、肩の力を抜いて、心底ほっとしたように息をつく気配が伝わってきます。


「りくと…無事、だったのね…ごめんね、ごめんね…っ」


それ、今回関わった皆に言ってもらって良いですか?録画してあらゆるプラットフォームにアップしますんで。


「…鈴木さんも、寝たふりをしてないで出てきたらどうですか」


カーテンの向こうから、佐藤殿の呆れたような声が投げかけられました。


「おや、私の擬態を見破るとは。さすがですね」


「いびきがわざとらしいんですよ…」


私は渋々といった体で掛け布団を剥ぎ、カーテンを開けて隣のベッドから起き上がりました。

右腕には、大げさなほど厳重に包帯が巻かれています。これは昨夜、激怒した佐藤殿ご本人に噛みちぎられた名誉の負傷ですが、カルテ上は“イノシシの牙による裂傷”として処理されています。


「お気づきになられましたか、奥様。ご気分はいかがです?」


私が隣のベッドから声をかけると、母親はハッと息を呑み、私の顔と、包帯の巻かれた右腕を交互に見つめました。


先日、彼女は私と佐藤殿を不審者扱いし、『警察を呼ぶ』と怒鳴り散らしていましたが、あの時の傲慢で攻撃的な色は微塵もありません。


死の淵を覗き込み、極限の恐怖を味わったことで、不要なプライドがすっかり落ちてしまったのでしょう。

そこには、ただ子供を案じる母親の顔がありました。


「…鈴木さん。それに、佐藤さん」


母親は、点滴の繋がれた腕を庇いながら、ベッドの上で深く、深く頭を下げました。


「あの時…あんな酷い態度をとったのに。私とりくとを、そしてコタローを探してくれて…本当に、ありがとうございます

あなた方がいなければ、私たちは確実に命を落としていました。どんなにお詫びしても、感謝しても足りません」


ぎこちなく、しかし絞り出すような真摯な謝罪。

私は軽く肩をすくめました。


「頭を上げてください。私たちはただ、散歩のついでに少しばかりお節介を焼いただけですよ」


「そんな…鈴木さんは、その腕に大怪我まで負って…!私が勝手に山へ入ったせいで、イノシシに…!」


母親は私の包帯を見て、痛ましそうに顔を歪めました。

いや、これ噛んだの貴女の横で申し訳なさそうにしているタヌキの獣人なんですけどね。とは口が裂けても言えません。


「この傷と、昨夜の捜索、それからコタローの救急病院の費用…すべて私がお支払いします。もちろん、慰謝料も含めて…!」


「お気持ちはありがたいですが、お母さんが助かったのは、僕らの力だけじゃないんです」


佐藤殿が、慌てたように母親の言葉を遮りました。


「集落の皆さんや、原田さんちの健一さんが、危険を承知で山に入ってくれたおかげですよ

僕たちはただ、運良く先に見つけられただけです」


「ええ。それに、お代の件も結構ですよ」


私は優雅に微笑み、右手を軽く振りました。


「私個人としては、非常に面白いものが見られましたからね。それだけで十分な報酬です


どうしても気が済まない、お金を払わなければというのであれば、原田さん宅に“弾丸代”でも補填して差し上げたらどうです?

あれ、猟師の自腹らしいですからね」


私の皮肉めいた提案に、佐藤殿が苦笑いを浮かべました。


昨夜の事後処理は、思い返すだけでもなかなかにアクロバティックなものでした。


深夜の山林に転がる、銃殺されたイノシシ達と、地面に植わった鋭利な鉄杭。


冷静になれば、猟銃で仕留めたにしては傷口がおかしい個体がいることや、現場に不自然な金属器が落ちていることなど、ツッコミどころが満載でした。


私が観察に夢中になって片付けを放棄してしまい、後から駆けつけた集落の捜索隊に現場をバッチリ見られてしまった時は、“終わった”と思いましたとも。


しかし、事態は極めて都合の良い方向へと転がったのです。


“原田の孫が、無双した”と。


現場に到着した集落の老人たちが見たのは、血まみれで倒れる四頭のイノシシ。

その傍でライフルを手にした健一青年の姿を見るなり、『健一が一人でイノシシの群れを全滅させた!』と熱狂したのです。


その英雄譚の誕生に、健一本人は『いや、俺がやったのは一頭だけで…』と正直に否定しようとしました。

しかし、そこで人間の姿に擬態し直していた佐藤殿が囁きかけたのです。


『お願いです、健一さん。色々と面倒な事情があって…警察に根掘り葉掘り聞かれたくないんだ

無茶なお願いだと思いますが、全部貴方が仕留めたことにしてくれませんか』


獣人としての正体や、私の存在を隠蔽するための必死の懇願。


健一青年は、事件の裏にいる真犯人が何らかの違法な手段でイノシシを仕留めたこと、そして鉄杭という異常な凶器の存在に気づきながらも…『わかったよ』と、深く追及することなく周りの話に合わせてくれた。


『ああ!俺が全部撃った!弾が足りなくて、サバゲーグッズの杭も投げた!』


という、狩猟法ガン無視の、無茶苦茶な言い訳でね。


普通なら警察沙汰、あるいは専門機関による現場検証が入る事案。


しかし、長年イノシシの被害に苦しめられ、行政の対応に不満を溜め込んでいた老人たちの“身内意識”は、法を軽々と超越しました。


『そうか!でかしたぞ健一!これで川上さん家のわんちゃんも報われる!』

『よし!警察が来る前に、このよくわからん杭は全部抜いて海に捨てろ!余計な詮索をされる前に証拠隠滅じゃ!』

『こいつらは、わしら猟友会のみんなも合わせて、協力して狩ったことにするぞ!健一一人に責任は負わせん!役所への事後手続きはわしが上手くやっておく!』


なんてことをしてくれたのでしょう。

田舎のコミュニティ特有の、警察や役所を入れる前に、身内でなんとか話を丸めてしまう隠蔽体質…もとい、強固な連帯感が、今回ばかりは私たちを救ってくれたというわけです。


「本当に、健一さんたちには頭が上がりませんね」


佐藤殿が、しみじみと呟きました。


「ええ。この国の地方自治と共同体の強靭さには、我が国も学ぶべき点が多くあります

…ま、書類の捏造という点では、どこの世界も似たようなものですがね」


私は小さく息を吐き、病室の窓の外へと視線を向けました。

すっかり高く昇った太陽が、のどかな島の海をキラキラと照らし出しています。


「さて、佐藤殿。りくと君。そして奥様」


私は身だしなみを整え、誰にも見えないように、肩の上のハトソンに合図を送りました。


「私はこれで失礼します。まだまだこの日本で、調査…もとい、観光しなければならない場所がたくさんありますのでね」


「あ、鈴木さん!本当に、もう行っちゃうんですか?」


りくと君が、名残惜しそうに声をかけてきます。


「ええ、私は根無し草ですから

それに…あまり一箇所に長居すると、また面倒なお仕事が降ってきそうですしね」


私はドアノブに手をかけ、最後に一度だけ振り返って、彼らに向かって帝国紳士の完璧なウインクを飛ばしました。


「では皆様、ごきげんよう

…どうか、愛犬のリードはしっかり短く持ち、戸締まりは厳重に


平穏な日常というものは、貴方たちが思っている以上に、簡単に壊れてしまうものですからね」


私はそのまま病室を後にし、病院の廊下を軽やかな足取りで歩き出しました。


退院手続きを済ませたら、次なる目的地はどこにしましょうか。


「鈴木さん。いくらご本人が大丈夫だと仰っても、その腕の傷で即日退院というのはお勧めできません

せめてもう一晩、経過観察を…」


「お気遣い痛み入ります。ですが、私の身体は人一倍治りが早い体質でして


それに、しがないフリーターの身としては、ベッドの上で天井のシミを数えている時間は一文の得にもならないのですよ」


病院の会計窓口。

私は、食い下がる受付のスタッフに向かって屁理屈を並べ立てていました。


「万が一、傷口から感染症でも起こしたら…」


「その時は、改めて優秀な医師の皆様に診てもらうとしましょう

麻酔は省いてくれて結構。私、犬や猫と大差ない扱いでも全く構いませんので」


私が冗談めかして肩をすくめ、タイミーの労働で培ったささやかな残高が詰まったクレジットカードをトレイに置くと、スタッフは「はぁ…」と深い溜息をつき、渋々といった様子で決済端末を操作し始めました。


ピーーッ、という通信音をBGMに、私は薄暗い待合室の片隅を見つめながら、思考の海へと沈んでいきました。


今回の騒動。

すべてを解決に導いたのは、悪意の人、そのクローンたる私バーロックでも、野生の膂力を持つ佐藤殿でもありませんでした。


休暇を取って本島から駆けつけた若者――原田健一という、どこにでもいそうでいない、非凡な男だったのです。


私はこの国に潜入して以来、何度も法律の鎖に阻まれてきた。

武力を行使すれば一瞬で終わる事態も、それを振るえば“鈴木誠”としての擬態が崩壊する。

そのジレンマに苛立ち、時には衝動のままに全てを終わらせてしまおうとしたこともありました。


昨夜の私が実行しようとしたのも、まさにそれです。

違法な銃器でイノシシを殺し、目撃者である母親を口封じに消し去る。

それは“闇から闇へ”の処理であり、一時的な応急処置にはなっても、根本的には何一つ解決しないテロ行為に過ぎませんでした。


しかし、健一はどうしたか?

彼は“狩猟免許”という、この国の厳格で面倒くさいルールの枠組みの中で、正当な手段として猟銃の引き金を引いた。


彼が弾丸を撃ち込んだ瞬間、あの無敵の暴君であったイノシシは、恐るべき“魔獣”から、ただの“適正に処理された有害鳥獣”へと変貌したのです。


同時にこの私の持ち込んだ異界の殺意が、この国の退屈な常識に敗れ去ったのです。

そこで何より、私が理解に苦しんだのは彼の“動機”。


彼は電話口で、祖父からのSOSを断っていた。

有給休暇を消化し、役所手続きの負担を背負ってまではるばるイノシシを撃ちに来るメリットなど、何一つありません。


だというのに、彼は来た。

私の言うことを聞かなかったりくと(クソガキ)と出会い、状況を聞いて、全速力で飛んできやがったのです。


私が用意した“目撃者皆殺し”という最悪のシナリオは、『じいちゃんに頼まれたから』という、あまりにも単純な切っ掛けによって白紙にされてしまった。


極めつけは、佐藤殿の正体が露見したあの場面。

私は道楽に、彼がバケモノとして射殺されることを期待し、それを口実にして島民を皆殺しにする算段を立てていた。


しかし健一は、血まみれの獣を見てこう言った。

『みかん農家の佐藤さんだろ。うちのじいちゃんが送ってきた写真と、リストバンドが一緒だ』と。


健一は、佐藤殿を未知の怪物としてではなく、“じいちゃんの知り合いの佐藤くん”という、かけがえのない個人として認識したのです。


異世界のスパイがどれほど素性を隠し、仮面を被って息を潜めていようとも。この国のコミュニティは、化けの皮ごとお節介な隣人として、ずぶずぶと飲み込んで同化させてしまう。

帝国の洗脳など比ではない、真綿で首を絞めるような恐るべき包容力。


これこそが、あの時『私の負け』と口にした最大の理由でした。


ごく普通の、真っ当な人間が、泥臭く事態を収拾させる。暴力による破壊よりも遥かに難しい方法で、凄惨な結末を見事に回避してみせたのですから。


「お待たせいたしました。こちら、お控えとカードになります…お大事になさってくださいね」


「ええ、夜分遅くにありがとうございました」


スタッフの声に我に返った私は、カードを弾帯のスマホカバーの裏にしまい込み、ハトソンを肩に乗せて病院の自動ドアを抜けました。


夜明け前の、冷たく湿った空気が肺を満たします。

私は足早に大通りを離れ、街灯の光が届かない、薄暗い路地裏へと足を踏み入れました。


アスファルトから、カビとホコリの混じった匂いが漂ってきます。私は足を止め、背中を冷たいコンクリートの壁に預けました。


「だから、気に食わないんですよ」


ぽつり、と。私の口から、抑えきれない毒が零れ落ちました。


「あの原田健一という男。真っ当で、善良で、非合理な情に突き動かされて奇跡を起こした、絵に描いたように普通の人


ああいう手合いは、私の対極にある。見ているだけで胃酸が逆流し、自分の薄汚れっぷりを鏡で見せつけられているようで、反吐が出ます」


私はステッキ代わりの長傘で、足元の空き缶をガンッ!と乱暴に蹴り飛ばしました。

カランカランと虚しい音を立てて転がっていく缶を見つめながら、私はギリッと奥歯を噛み締めます。


「本当に、二度と顔も見たくない

もし次に会ったら、その眩しすぎる善性を、脊椎ごとへし折ってやりたくなる衝動を抑えきれる自信がありませんからね」


ふと、視線の端で何かが動きました。

路地裏の壁。私の顔のすぐ横で、手のひらほどの大きさの毒々しい縞模様を持った蜘蛛が、巣を張りながらもぞもぞと這い回っていました。


「おや」


私はだらしない笑みのまま、コートのポケットに極小のワームホールを展開しました。

繋いだ座標は、蜘蛛の体内――その柔らかな腹部の内側。


グチャッ。


ポケット内を探る素振りで、指の腹を押し付ける。

指先が湿り、壁の蜘蛛がビクンッと激しく痙攣する。

八本の足は壁を掴むのを忘れて内側へギュッと丸く折り畳まれ、音もなく地面に転がりました。


「命など、所詮はこの程度で消える脆いもの

それを、わざわざ泥まみれになって拾い上げるなど、あの男は狂っています」


死んだ蜘蛛の亡骸を傘の先でツンと小突き、肩の相棒へと視線で促す。


「ほら、ハトソン。快気祝いのデザートですよ

中身は綺麗にペースト状にしておきましたから、消化にも良い。残さず食べなさい」


「グェエッ!?」


ハトソンは嫌そうな顔をしましたが、私の冷たい視線に逆らえず、渋々といった様子でその蜘蛛にパクつき、ゴクリと飲み込みました。


「フフッ…アハハハハハ!」


私は、その光景を見て、腹の底から笑い声を上げました。路地裏に響く、陰湿で、ひどく歪んだ笑い声。


「いやはや、健一もこうしてしまえばよかったですね。すっかり忘れていましたよ」


外傷も残さず、ただ内側から命だけを摘み取る。これなら警察が解剖しようと“原因不明の突然死”として処理するしかない。

私の平穏な潜伏生活にだって、何の支障も生じなかったというのに。


「銃だとか、麻痺毒だとか…どうも私は、余裕をなくすと分かりやすい“玩具遊び”に走ってしまう。本当に、悪い癖ですねぇ」


私は自嘲するように笑いながら、弾帯からスマホを乱暴に引き抜きました。


「ええ、私は帝国の工作員。バーロック・ワームズ第42号

光に当てられて、少しばかり感傷的になっていたようですが…やはり私には、こういう薄暗い日陰の路地裏で、虫を潰している方が性に合っています」


画面をタップし、見慣れた黄色いアプリ――Timeeを開きます。


「さて、このどうしようもない苛立ちと、病院代で吹っ飛んだ残高を埋めるために、どこかで汗を流すとしましょうか。

おっ、ありますね。『深夜帯・工事現場の交通警備。日給一万円、即日払い』。素晴らしい、社会の底辺にはぴったりの業務です」


私は迷うことなく申し込むボタンをタップしました。


そのままスマホを弾帯に仕舞い込もうとしたところで、画面上部にいくつか未読の通知バッジが並んでいることに気がついた。


「おや、マナーモードで気付きませんでしたね」


画面を開くと、連絡アプリには複数のメッセージが溜まっていました。


山下氏からは『陽太がまたハトちゃんに会いたいと騒いでいて困ってます。ヒマな時でいいので鳩の写真送ってください!』という平和の煮凝りに見せかけた圧。

香川支部の空からは『42号殿、イリコ出汁の黄金比率を新たに見出しました。明日の朝は釜玉ではなく、かけうどんで攻めます』という、祖国の期待を裏切ったも同然のどうしようもない業務報告。


そして、もう一件。


「…ほう」


通知の送り主は、愛媛の離島に置いてきたタヌキの獣人工作員――佐藤殿からでした。


「あれだけの大立ち回りを演じた後ですからね。どんな恨み言が長文で刻まれているのやら…読む前から胸焼けがしそうですよ」


あの日、私は彼の目の前で、一般人に銃口を向けました。

現地民にすっかり情を移しているあの男のことです。

『あの時の判断は到底許せません!人の心を忘れたんですか!』といった、熱いお説教が飛んでくるに決まっています。


私はため息をつきながら、面倒なクレーム対応のつもりでメッセージの吹き出しをタップしました。


『鈴木さん。先日はお疲れ様でした。

あの時、一般人にまで容赦なく手を出そうとした鈴木さんの冷血さには、正直マジで引きましたし、最低の極みだと思ってます』


「ええ、知っていますとも」


私は画面を見つめながら鼻で笑いました。ここから延々と道徳の授業が始まるのだろうとスクロールした先には、予想外の文が続いていました。


『ただ、僕が噛みちぎった右腕の傷、悪化してませんか?

あの後冷静になってみたら、いくらなんでもやりすぎたなと…化膿してたらごめんなさい。病院代、稼ぎから少しずつ返しますんで』


…おや。私は思わず、軽く眉を上げました。


文句をチクリと刺しつつも、相手の負傷を気遣い、あまつさえ治療費の分割払いまで申し出てくるとは。

日本の“とりあえず謝っておく”文化に染まりきった結果ですかね。


「まったく。これだから、甘い男は困るのですよ」


私は呆れたように口角を上げ、フリック入力で返信を打ち込みました。


『ご心配なく。甘噛み程度、名誉の負傷にすらカウントされませんよ

私の耐久性を舐めないでいただきたいですね、狂犬病ワクチンも必要ありません』


送信ボタンを押して画面を閉じようとした、まさにその瞬間でした。


――既読。


「…速いですね」


ピロンッ、と即座に返信が飛んできました。タイミングが良すぎる。まるで画面の前で私の返信を待っていたかのよう。


『誰が狂犬ですか。僕はタヌキだって言ったでしょう!腕が無事ならよかったです…実は、鈴木さんに連絡したのは別の用件もありまして』


立て続けに送られてくるメッセージ。私は歩みを止め、壁に背を預けたまま画面を眺めました。


『あの後、原田さんたち猟友会の方々から、仕留めたイノシシの肉を解体してお裾分けしてもらったんです。

大量にあるんで、冷凍焼けする前に食べに来ませんか?』


「ほう。あれをジビエにしたのですか」


『りくと君も、あれからすっかり大人しくなって、コタローの看病しながら「おじさん、怪我大丈夫かな」って心配してましたよ

それに、あの夜は事件で慌ててて…僕が丹精込めて育てた最高の“まどんなちゃん”の魅力、鈴木さんに全然自慢できてなくて不完全燃焼なんです!!

今なら一番甘いところを絞ってジュースにしますから、絶対に飲みに来てください!』


画面から溢れ出す、ウザったいほどの生活感と押し付けがましい郷土愛。

殺し合いの現場を共有したスパイ同士の通信が、いつの間にか“ご近所さんからの夕飯のお誘い”にすり替わっています。


「やれやれ…」


私は片手で顔を覆い、天を仰ぎました。


あんな地獄のような夜を過ごしたというのに、彼らのメンタリティはすでに“イノシシ肉の消費”と“みかんの糖度自慢”へと移行している。


本当に、この国の日常への回帰力には恐れ入ります。私が抱えていた虚無感すら、彼らの前ではただの仕事疲れと錯覚してしまう。


私は大きく息を吸い込み、画面に向かって指を滑らせました。


『お断りします』


『そうですか、残念ですね…

実は健一さんが、この際だからと有給を延ばして、あと数日島に滞在してくれるらしいんです


イノシシの解体処理や、荒らされた畑の復旧も手伝ってくれるって。本当に底抜けに良い人なんで、せっかくだから鈴木さんにもゆっくり話してみてほしかったんですが…仕方ないですね』


画面に表示されたその文字列を見た瞬間。私の指先が、ピタリと硬直しました。


…健一。原田、健一。


私の突発的な凶行を、情で粉砕したあの男。

暗闇の森の中で、得体の知れない獣人に対してすら『立てるか』と迷いなく手を差し伸べた、あの胸糞が悪くなるほど眩しい“一般市民”。


二度と顔も見たくない、次に会ったら脊椎をへし折って引きずり降ろしてやりたいとすら願った相手が、のうのうと島に滞在し、あまつさえ農作業を手伝うだと?


許せない。あの底抜けのお人好しが、私の姿も知らぬまま敗北感を植え付けた事実が、どうしても消化できない。


私は、親の仇でも見つけたかのような勢いで、スマートフォンを両手で握りしめました。


『あの原田健一が来るのですか』


『はい、来ますけど。鈴木さん、どうかしました?』


どうもしていませんよ。ただ、脳が沸騰しているだけです。


『なぜそこまでしてる』


『重い話になるんですが、コタローくん、覚えてますよね?

あの子、退院したのは良いんですけど、足三本足になっちゃって…元からあったものを急になくして不便そうだからって、皆で車椅子を作る事にしたんです

それで、健一さんが設計を買って出てくれたんですよ』


『じゃあ行きマフ』


へぇ?へぇ、そうなんですか、私は画面を割らんばかりの勢いでフリック入力を連打しました。


『まどんなの自慢はもうお腹いっぱいですし、耳にタコができていますが。

素人が解体したジビエ肉が、果たして食品衛生基準を満たしているか…この私が、抜き打ちで監査に行って差し上げましょう。不衛生な処理をしていたら、容赦なく保健所に通報しますからね』


『ありがとうございます!!待ってますからね!あと、保健所はやめてください!』


徹底して誤字をスルーしてくれた佐藤から、スタンプの代わりに送られてきたのは、タヌキが土下座しているチープなイラスト。

私はそれを見て、鼻の奥で小さくと笑い声を漏らしました。


「さあ行きますよ、ハトソン。私のスケジュール帳が、また一つ無駄な予定で埋まってしまいました」


「クルックゥ!」


私はスマートフォンを弾帯のホルダーにしっかりと仕舞い込み、インバネスコートの襟を立てました。


「さあ行きますよ、ハトソン!」


光の当たる場所は、あの真っ当な人間たちにくれてやります。


我々は我々のやり方で、この国を裏側からしゃぶり尽くす。

たとえその過程で、イノシシの肉を囲んで団欒する羽目になろうとも。


「クルッッッッペェ!」


私は指先についた蜘蛛の体液をコートの裏地で適当に拭った。

靴の裏でアスファルトを踏みしめる音が、今夜はいつもより少しだけ、軽やかに響く。


「まずはタイミーで稼ぎ、手土産用の鳴門金時でも仕入れにいくとしましょうか!」


「ポポポポーゥ!」


私は、ネオンが瞬く深夜の街へと、ひどく上機嫌な足取りで繰り出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。