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バーロック・ワームズの供述書  作者: ダム底タヌキ
プライベート編
21/23

盛大な寝言

佐藤殿が借り受けている古民家の土間をまたぎ、ギシギシと鳴る廊下を抜けて客間へと戻ってきた時のことです。


「おじさん、あのね!僕が逃げた道なんだけど、最初に大きな曲がった松の木があって、そこを右に…」


りくと君は、靴を脱ぐなり食い気味に口を開きました。

母親が遭難しているという事実が、彼の小さな胸を焦燥感で焼き焦がしているのでしょう。パニックを通り越し、一種の過覚醒状態に陥っているようです。


「待ちなさい」


私は、インバネスコートを脱いでハンガーに掛けながら、彼を静かに制止しました。


「りくと君。お腹は空いていますか?」


「え?ううん、全然空いてない。それより早く教えないと…」


「そうですか。では、貴方の記憶の中にある逃走ルート、じっくりと聞かせてもらいましょうか。…横になりながらね」


私はそう言いながら、部屋の隅にある古い洗面台の戸棚を物色し始めました。

この用心深い佐藤殿のことです。工作員の拠点として、急な来客(同胞の潜伏)に備えた物資くらいは常備しているはず。


「おや、ありましたね」


見つけた未開封の来客用歯ブラシの束から一本を引き抜き、私はそれをりくと君の顔の前に差し出しました。


「さあ。話をする前に、まずはこれで歯を磨いてきなさい」


「…は?」


りくと君は、突きつけられた歯ブラシと私の顔を交互に見比べ、呆然と口を開けました。


「ちょっと待ってよ。おじさん、もしかして…僕を寝かしつけようとしてる?」


「ええ、その通りです。さっさと寝なさい」


私は悪びれることなく、極めて事務的に肯定しました。


「な、なんで!?ママが山で迷子になってるんだよ!?僕の逃げた道がわかれば、探すヒントになるって言ったじゃん!!」


「言いましたよ。だからこそ、今夜はもう寝ろと言っているのです」


私はステッキを壁に立てかけ、少しだけ声のトーンを落として彼を見下ろしました。


「貴方は自分では気づいていないのでしょうが…病院からここへ戻ってくる道中、足取りがひどく危うかったですよ。右足を引きずり、何度も平坦な道でつまずきそうになっていた。

極度の恐怖、泣きすぎたことによる酸欠、そして過労。今の貴方の脳は、オーバーヒートを起こしたポンコツの演算機と同じです」


りくと君は反論しようと口を開きましたが、私はそれを手で制します。


「そんな状態で無理に記憶をほじくり返したところで、順番が前後したり、幻覚と現実が混ざり合ったりして、経路情報が混乱するだけです。

そんなノイズまみれの情報を元に夜の山へ突入すれば、それこそ我々全員で遭難という最悪の二次被害を招きかねない」


「う…」


「必要なのは、正確無比なデータです。明日の朝、脳も身体も万全に回復した状態で、クリアな情報を私に提供しなさい。それが、貴方が今お母様のためにできる唯一の『仕事』です」


正論の弾幕に撃ち抜かれ、りくと君はぐっと唇を噛み締めました。悔しそうにしながらも、彼の手は私が差し出した歯ブラシをしっかりと受け取っていました。


「…わかった。磨いてくる」


彼が洗面所へ向かい、シャカシャカと水道の音を立て始めたのを確認してから、私は台所へと足を向けました。

流し台には、佐藤殿が夕飯で使ったのであろう炊飯器の内釜が置かれています。


私は袖をまくり上げ、スポンジに洗剤をつけて、その内釜をキュッキュと洗い始めました。

深夜の古民家で、異世界から来たスパイが炊飯器の釜を洗う。帝国の将軍が見たら卒倒しそうな光景ですが、潜入工作員たるもの、現地インフラの維持管理は基本中の基本です。


「そうそう、りくと君。腹ごなしのついでに、おにぎりくらいは私が作って用意しておいてあげますからね」


私は釜をすすぎながら、洗面所に向かって声を張りました。


「子供は寝て起きれば勝手に腹が減る生き物です。空腹で目が覚めたら、遠慮なく食べなさい。…ああ、食べた後はもう一度歯を磨くのを忘れないように」


「…おじさん、探偵っていうか、オカンみたいだね」


「情報管理と体調管理は同義ですよ。口答えせずに磨きなさい」


私が米を研ぎ終え、炊飯器のスイッチを入れたところで、外で周囲の警戒と痕跡の隠蔽を行っていた佐藤殿が帰還しました。


ガラッと玄関の戸を開け、泥だらけの長靴を脱いだ佐藤殿は、洗面所で口をゆすぐりくと君と、台所で手を拭く私を見て、瞬時に状況を悟ったようです。


「あー、りくと君。鈴木さんの言う通りだ。今はしっかり寝て、体力を戻してくれ。明日からの山歩きは、寝不足の頭じゃ絶対についてこれないからな」


佐藤殿は首に巻いていたタオルでゴシゴシと顔の汗を拭いながら、りくと君に優しく、しかし有無を言わさぬ声で睡眠を促しました。


りくと君は大人二人に完全に退路を塞がれ、小さく「おやすみなさい」と呟いて、客間に敷かれた布団へと潜り込んでいきました。


「さて、と」


子供が布団に入ったのを見届け、私たち大人はようやく自分たちのケアに移行します。

佐藤殿と並んで洗面台に立ち、冷たい水で顔を洗い、泥と血にまみれた手を石鹸で徹底的に洗い流します。鏡に映る二人の男の顔は、過労と緊張でひどくやつれて見えましたが、その目だけは異様に冴え渡っていました。


「鈴木さん、おにぎりだけじゃ育ち盛りの朝飯には足りないでしょう」


顔を拭き終えた佐藤殿が、慣れた手つきで冷蔵庫を開けました。


「魚の干物と、卵があります。野菜の余りも少し。…やっちゃいましょうか」


「ええ。頼もしいですね。手伝いますよ」


そこからは、一切の無駄口のない、職人二人の静かなる調理の時間が始まりました。


佐藤殿はフライパンで器用に魚の干物を焼きながら、箸を使ってミリ単位の精度で小骨を抜き取っていきます。

「子供が喉に詰まらせたら厄介ですからね」と呟くその横顔は、かつて暗殺任務で標的の急所を的確に突いていた男のものとは思えないほど、慈愛と生活感に満ちていました。


私はその横で、ボウルに卵を割り入れ、白身のコシを適度に切りながら出汁を加え、黄金色の卵焼きを巻き上げていきます。さらに、冷蔵庫の余り野菜を刻んで、即席の浅漬けと胡麻和えを錬成しました。


「三人分の食材が残っていて良かったですね、佐藤殿。貴方の兵站管理能力には恐れ入ります」


「田舎はスーパーが遠いんで、常に備蓄しておく癖がついてるんですよ。それに…まさかこんな形で、夜食の仕込みを誰かとやることになるとは思いませんでしたけどね」


出来上がった朝食のセットをラップで包み、冷蔵庫と食卓に配置し終える頃には、炊飯器から炊きあがりを知らせる軽快な電子音が鳴り響きました。

私は熱々の白米を塩水で濡らした手で握り、美しい三角形のおにぎりを三つ完成させます。


「完了です」


私たちが静かに台所を片付け、客間へとそっと戻ると、布団の中のりくと君は、すでに泥のような眠りに落ちていました。


ストレスが限界を迎えていたのでしょう。

先ほどまでの必死さが嘘のように、子供らしい無防備な寝顔を晒しています。


「完全に落ちてますね」


「ええ。これで明日は、正確な情報源として機能してくれるでしょう」


「あの…鈴木さん。寝る前に、共有だけさせてください

僕がお母さんの声を追ってた時に…イノシシの群れに出会して、迂回するうちに見逃しました


数は四体。匂い的に、罠で追い返した群れの仲間です。同じ手は効かないかもなんで、遭遇しないよう気を付けてください」


「おっと、それは良いことを聞きましたね…無駄行動を省けて助かりました

捜索は夜明けから。光が差し込んでから一気に片付けられるよう、捜索の心得でも調べますかね」


私は弾帯のスマホの充電残量を確認し、明日の作戦行動に必要な電力を計算しました。


「いや、寝ましょうよ…睡眠不足はろくな事になんないですし、今夜は風呂も諦めましょう

配水管の音でりくとくんを起こしたら元も子もありませんし、僕らだって少しでも脳を休ませるべきだ」


「平気ですよ、水さえ摂っていればなんとかなります」


「なりません!ですから、鈴木さんはあっちへ!」


佐藤殿が、客間の畳の上を指差しました。


そこにあるのは、二組の布団。一つは佐藤殿が普段使っているもの。もう一つは、私が泊まるために出してもらっていた――りくと君が使用中の来客用布団。


つまり、大の大人二人で寝るスペースが足りていない。


「僕、座布団並べて寝るんで。鈴木さんは布団使ってください」


「馬鹿なことを言わないでください。明日の山歩きで先頭を任せるのは、野生の勘を持つ貴方なのですよ


メインのレーダーが睡眠の質で劣化しては困ります。貴方は自分の布団で、しっかり身体を伸ばして休みなさい」


「じゃあ、鈴木さんはどうするんです?帝国からマットレスでも…いや、ワームホールで戻ればいいのか」


「それも手ですが、寒いのでお断りです、帰りません」


「じゃあどうするんです?二十四時間営業のホームセンターにでも突撃するんですか?商品探しと会計だけで貴重な時間が抉れちゃうのに」


「いいえ、こうします」


私はステッキ代わりの長傘を抱え、壁際の柱に背中を預け、スッと腰を下ろしました。


「我々バーロック・ワームズの性能を舐めないでいただきたい

座ったままでも眠り、疲労を回復できる訓練を受けていますからね。屋根と背もたれがあれば十分です」


「…いや、いくらなんでもそれは…」


「良いから、貴方も寝なさい。これは命令です」


私が凄むと、佐藤殿は「…すみません」と小さく頭を下げ、自分の布団へと潜り込みました。


「クルッポ…」


ハトソンが私の膝の上に舞い降り、丸くなって目を閉じます。私は壁に後頭部を預け、目を閉じました。


泥と汗の匂いが染み付いた身体、背中を預ける硬い木の柱。

決して快適とは言えない環境ですが…不思議と、心は奇妙な静けさに満ちている。


「…さて。明日の朝は、忙しくなりそうですね」


私は誰に言うでもなく心の中で呟き、意識のスイッチを“待機モード”へと切り替え、短い眠りの淵へと身を沈めました。


寄せては返す波の音が、ひどく単調に鼓膜を打ち据える。


気がつけば、私は薄暗い夜の海浜に立っていた。

鼻を突く潮風の匂いは、先ほど私が身を投げようとしたあの浜辺のものとよく似ている。


「面倒なことになったよねぇ」


背後から、金属が擦れるような耳障りな声が響いた。

振り返ると、砂浜の上に不釣り合いなほど無骨な影――錬金術師ソラが、カメラアイを明滅させながら立っていた。


「植民地候補の現地人に関わったせいで、徹夜で子どものお守り?アホくさ、全員殺せば解決じゃん」


彼女の背後には、見慣れた帝国の将校たちや、私と同じ顔、同じ三つ揃えのスーツを着た他の同位体(ワームズ)たちがズラリと並び、無表情にこちらを見つめている。


「その通りだ!脆弱な島民どもなど、一思いに首をもいでしまえ!」


軍服を着た将校の一人が、苛立たしげに声を張り上げた。


「進言します、第42号殿」


私と同じ顔をした別のワームズが続く。


「この世界における警察機構の鑑識技術は極めて高く、人間の身元は燃え残った灰や歯の治療痕からすら特定される


しかし、我々の“ワームホール”を用いれば話は別。遺体を深海、あるいは別次元の虚空へと捨ててしまえば、完全犯罪は容易に成立し、法的な追及は不可となります」


「そうそう」と、ソラが機械の腕をガシャリと鳴らして同調した。


「どうせド田舎の離島なんだから、数人消えたってしばらく誰も気づかないって。それに、あの狸の獣人…佐藤だっけ?


あいつも、現地人に肩入れしすぎだよ。工作員としての適性を欠いている

帝国への反逆ってことで、あんたが処分したって、誰も文句言わないよ?」


彼らの言葉に応じるように、私の右手には、ずしりと重い冷たい鉄の感触があった。


視線を落とすと、そこには見慣れた帝国の官給品――安全装置の解除された自動小銃が握りしめられている。


引き金を引けば、すべてが終わるのか。


生意気なガキも、子も犬も放牧する無責任な親も、情にほだされたタヌキも。

面倒な問題はすべて鉛玉で解決し、残った肉塊を空間の穴に放り込んでしまえばいい。


「…大体、そちらの言う通りですね」


私は自動小銃のグリップを握り直し、砂浜に並ぶ幻影たちに向かって薄く笑いかけました。


「私、なんでこんなことしてるんでしょう

他人の子供の世話を焼き、狸と朝食の準備をする


ワームズシリーズのカリキュラムにも、工作員の手引書にも、そんな無駄な工程は一切含まれていなかったはずですが」


疲労をこぼすと、幻影たちは満足げに頷いた。

しかし、私は冷ややかな声で言葉を繋ぐ。


「ですが、いくら死体を隠そうと、時間が経てば誰かが必ず“人の消失”に気づきます


人間の繋がりを舐めてはいけない

世間的に騒ぎになれば、警察の捜査も入る」


私は自動小銃の銃口を、足元の砂浜へと向けました。


「私は昨日、この島に住まう一家の犬を抱え、深夜の広島の病院へと駆け込みました


あの大通りや病院の防犯カメラに、特徴的なコートを着た私の姿はバッチリと記録されていることでしょう


もしこの島で失踪事件が起き、警察が本腰を入れて動けば、犯人の存在に世間も気が付く」


私の言葉に、将校たちの顔が微かに歪む。


「それで万が一、私から足がつき、接触のあった他の工作員全体にまで警察の捜査が及んだらどうするのです


帝国にとって、それこそ取り返しのつかない大損失ですよ」


私はそこまで一気にまくし立てると、ふぅ、と短く息を吐き出しました。


「…まぁ、そちらにいくら反論を返しても、意味はないんですがね」


私は、右手に握っていた自動小銃を、波打ち際に向かって無造作に放り投げました。チャプン、と軽い音を立てて、凶器は幻の海へと溶けて消えていきます。


「これ、夢でしょう?」


私の指摘に、ソラは機械の腕をガシャリと鳴らして私を指差す。


「あはっ、なんだ、自覚あるんだ?なら話は早い

夢だって気づいたってことは、あんた自身も『これが正しい』って、心の底じゃ理解してるんでしょ?」


「そうだ!」


将校の一人が、腰のサーベルの柄を叩きながら身を乗り出してきます。


「我々は戦争屋だが、誇り高き騎士などではない!徹底的に卑怯!卑劣!生き恥の塊!!

互角に撃ち合い、痛手を負わされ、本国に攻め返してくるような骨のある世界に対しては常に及び腰になる…だが!

この牙を抜かれ、国際平和だの人権だのに縛られた平和ボケの国なら話は別だ!」


ソラが嘲笑うように言葉を引き継ぎます。


「そうそう。この世界も、その未来もどうだっていい!人も、物資も、土地も、あの無駄に綺麗な海も!

なぁんにも考えずに奪って、食い尽くして、さようなら!ファストフードと変わりなく消費しちゃえよ!」


戦争屋としての薄っぺらく、理にかなった略奪理論。

それを聞かされた私は、自動小銃を放り投げた手を見つめ、自嘲気味に息を吐き出しました。


「ええ、そうですね。私はずっと、疑問だったんです」


私は、己の影たる幻影たちに向かって静かに語りかけました。


「これまで我々が略奪し、蹂躙してきた異界の国々は、どこも独自の病巣や問題を抱えていました。それでも、彼らなりに社会を構築し、歴史を紡ぎ、世界は続いていた。

…だというのに、どうして我が帝国は、他所からいくら豊かさを奪い、技術を持ち帰っても、常にそれを使い果たし、枯渇し、満たされないのかと」


私の脳裏に、愛媛の段々畑で食い散らかされていた、無惨な高級柑橘の残骸がフラッシュバックします。


「やっとわかりましたよ。あの害獣(イノシシ)が答えだったのですね

育てる苦労も知らず、最も甘くて美味しいところだけを貪り食い、根を腐らせ、次の略奪のためにただその日暮らしを続けている。それが帝国の正体であり、私自身の本質だ。終わってますね、本当に」


私が乾いた笑いを漏らした、その瞬間。


ドンッ!と。同位体の群れの中から進み出てきた一人の男が、私のインバネスコートの胸ぐらを乱暴に掴み上げました。


閉じた目、ヘラヘラとした口元、私と似て非なる容貌。

しかし、その瞳に宿る冷酷さは、量産型である私とは別次元のものです。私たちの“原型”に近い、第0号機。


「分かってるならさ、余計なことを考えるのはやめなよ」


0号機は、私の顔スレスレで、地を這うような声で囁きました。


「私達はそういう生き物なんだ、それ以上の意味なんてない

君も大人しくこっちに戻っておいで。覚えてるんでしょ?他人の畑を食い荒らす楽しさを!なにせ、後先考えなくって良いからね!」


胸ぐらを掴み上げられ、呼吸が詰まる。

他人の口を借りて、私自身の深層心理が『さっさとまともなスパイに戻れ』と脅迫してくる。ああ、怖い怖い。自分の生き汚さと精神の脆さに反吐が出ますよ。


「…でしたら。私の指標、私の中の“皇帝陛下”は、この不毛な葛藤に対して、なんと仰るのでしょうね」


私は、0号機に胸ぐらを掴まれたまま両目を瞑りました。


波の音だけが、ザザァ、ザザァと一定のリズムで響き続ける。0号の詰めも続いたが、それも波間に吸い込まれてく。


やがて、首元を締め付けていた乱暴な感触が消え去った。


そして、再びゆっくりと目を開けた時。


やかましいソラの駆動音も、将校たちの怒号も、胸ぐらを掴んでいた0号機の姿も、すべてが綺麗に消え去って。


月明かりに照らされた、静寂の海浜。そこには、ただ一人。


豪奢な玉座などなくとも、そこに立つだけで世界を睥睨する絶対的な存在感を放つ男。

我らが帝国の主、皇帝陛下が、静かな波打ち際で腕を組み、私を見据えて立っていた。


「予にコメントを求めるな、面倒くさい」


「…は?」


出鼻を挫かれるとはこのことです。

私の脳内が生み出したイマジナリー皇帝陛下は、開口一番に丸投げの姿勢を示しました。


「いやいや、待ってください。私の夢なんですから、一言くらい都合よく導いてくれたっていいじゃないですか

迷える忠実な工作員のために、ビシッと私の方針を決定してくださいよ!」


無言。

そして、皇帝が一歩踏み出したかと思うと、私の視界が突如として横に吹っ飛びました。


パァァァンッ!!!


「ぶっ、ごぁッ!?」


凄まじい衝撃と破裂音。私は砂浜に無様に転がりました。…張り手。今、皇帝陛下は私に、極めて美しいフォームで強烈な平手打ちをかましました。


「面倒くさいと言っているだろう」


倒れ伏す私を見下ろしながら、皇帝は冷たく言い放ちます。


「迷いの決着を、予に責任転嫁するな」


「し、しかしですね陛下!私は現場の工作員として、どう振る舞うべきかという葛藤が――」


パァァァンッ!!!!


「あべばッ!?」


言い訳を試みた私の逆の頬に、容赦のない二発目の張り手がクリーンヒットしました。脳味噌がシャッフルされ、三半規管が激しいエラーを吐き出します。


「すみ゛ま゛せん゛て゛し゛た!!!」


体は制御を外れ、砂浜に額を擦り付ける。

尊厳というものは、絶対的な暴力の前ではマシュマロよりも柔らかい。


「謝罪はいらん、結論を出せ

先ほど自分で言っていただろう。帝国のやり口は終わっていると」


皇帝は忌々しそうに息を吐き出しました。


「略奪と破壊のサイクルに嫌気が差し、暴力を捨てたいのなら、自分の口ではっきりと言え

安全圏から誰かに『やめろ』と言ってもらうのを待つ、その“察しろ”と言わんばかりのウジウジした振る舞いは妾より鬱陶しい」


ぐうの音も出ない正論。私の無意識下の甘えを、これでもかと抉ってくる痛烈なダメ出しです。


陛下は常々口にしておりました、やるなら徹底的にやれと。


「承知いたしました…陛下。この際、夢の中だけでも、本当の私を知ってください」


「自己開示か?唐突だな

予が求めているのは、感情を挟まない報告なんだが」


ここで『はい、暴力を捨てます』などと言って嘘になる。

私は顔を上げ、涙目になりながらも、腹の底から想いを響かせました。


「結論としては――やりたいです!暴力!!!!」


ガバッ!!と。私は自らの雄叫びと共に、薄い布団を跳ね除けて飛び起きた。


「ハァッ、ハァッ…!?」


心臓が早鐘を打ち、全身が冷や汗でぐっしょりと濡れています。

頬に触れてみると、幻の張り手の痛みがまだジンジンと残っているような気がしました。なんて理不尽で凶悪な夢だ。私の脳細胞は、己を追い詰めることに関してだけは天才的なシナリオライターらしい。


「…なんちゅう寝言言ってるんですか、朝っぱらから」


ふと、横からドン引きしたような声が降ってきました。


視線を向けると、朝風呂を浴びてきたらしい佐藤殿が、首にタオルをかけ、濡れた髪を拭きながら、ゴミを見るような目で私を見下ろしていました。


「『やりたいです!暴力!』って…。一応、これでも仮眠明けで神経尖らせてるんですけど、いきなりそんな猟奇的な寝言で起こされる身にもなってくださいよ。やっぱり鈴木さん、本質がヤバい奴じゃないですか」


「あ、いや、これはその…仕事へのモチベーションを高めるための、一種の自己暗示のようなものでしてね」


私が必死に取り繕いながら言い訳を並べていると、洗面所の方からシャカシャカという音が聞こえてきました。


「ぷっ…くくっ」


見ると、口に歯ブラシをくわえたりくと君が、顔を洗面所の入り口から半分だけ出し、肩を震わせて必死に笑いを堪えていました。


昨夜の絶望的な涙から一転、一晩寝て、いくらか子供らしい元気を取り戻したようです。私が無残に言い訳をする姿が、彼のツボにハマったらしい。


「おや。他人の高尚な寝言を笑うとは、ずいぶんと余裕が出たようですね、りくと君。歯磨き粉を吹き出したら、その床を舐め取って掃除してもらいますからね」


私が冷ややかな視線で牽制すると、りくと君は「や、ヤバっ」と慌てて洗面台へと顔を引っ込め、ガラガラと勢いよくうがいをする音が響きました。


「やれやれ…」


私は深くため息をつき、乱れたシャツの皺を伸ばしました。


夢の中の皇帝陛下に見透かされた通り、私はどこまでも自己中心的で、責任を背負うのが大嫌い。

しかし、だからこそ、魂を燃やしてでも、今日という日を暴力代わりの嫌がらせで切り抜けなければならない。


「さあ、佐藤殿。りくと君。夜が明けましたよ」


私は窓の外、白み始めた空を見上げ、首の骨をポキリと鳴らしました。


「あの女を救出するお時間です

昨夜の屈辱を晴らすため、我々の手札をフル活用していきましょう」

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