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バーロック・ワームズの供述書  作者: ダム底タヌキ
プライベート編
20/23

勘違いするな

な

さて、山林に残してきた佐藤殿は、母親の独走を無事に止められたのでしょうか。


医療現場において支払い能力のないお子様を一人にするわけにもいかず、深夜のドタバタ劇の結末を確認したい気持ちを抑えて瀬戸内レモンレモネードのキャップを開け、甘い柑橘の風味を堪能しながら手術の終わりを待つことにしました。


手術中を知らせる赤いランプが、無機質に点灯し続けている。待合室に響くのは、壁に掛けられた時計の秒針の音と、長椅子で顔を覆っている少年の断続的な鼻をすする音だけだ。


私は腕を組み、深く背もたれに寄りかかりながら、無意識のうちに革靴で床を小さくタップしていました。


俗に言う、貧乏揺すりです。

軍の士官候補生なら、教官にステッキで膝の皿を割られても文句の言えない、精神の動揺を示す下品な悪癖。


「甚だ遺憾ですね」


私は小さく息を吐き出しました。これまで幾度となく死線に立ち、他人が路地裏の染みになる瞬間も、同僚が鉛の雨に溺れる光景も、業務の一環として処理してきました。


だが、見えない扉の向こうで、“赤の他人が他人の家族の命を繋ぎ止める作業をしているのを、ただパイプ椅子に座って待つ”という状況は、私のミッションログには存在しないのです。


本来なら、このような無益な待機時間は、弾帯のスマホで現地の株価の変動や、近所のスーパーの特売情報を巡回して有意義に潰すのですが。

どうにも、あの赤いランプの点灯が、私の意識を奇妙な引力で縛り付ける。


「…おじさん」


ふいに、鼻声が私を呼びました。見下ろすと、りくとが私が買い与えた缶ココアを両手で握りしめ、赤く腫らした目で私を睨むように見上げていました。


「飲まないのですか?

せっかくの適温が、貴方の手のひらの熱と外気で無情にも奪われていきますよ


この国の自動販売機が計算し尽くした“あったか~い”の黄金比を、ただのカイロ代わりに消費するのは生産性が低すぎます」


「飲めるわけないじゃん」


りくとは、缶に視線を落とし、唇を尖らせました。


「コタローが痛い思いして、僕のせいで死ぬかもしれないのに…僕だけホッとしてるなんて、そんなズルいこと、できないよ

おじさんは冷たいね、他人の犬だから平気なんでしょ」


悲劇の主人公めいた、見事な責任転嫁と自己陶酔ですね。

自分が原因で事故を起こしておきながら、“苦しむポーズ”をとることで免罪符を得ようとする。なんとも人間らしく、浅はかな生存戦略。


「ええ、他所の犬なんてどうでもいい。躾のなってない駄犬なら尚の事」


「言い過ぎでしょ…」


「加減はしました、それでも文句をつけるとはわがままですね?いっそブレーキを外し、轢き殺してあげましょうか

単刀直入に言いますと、貴方の態度が気に食わない」


私は気を紛らわすように、足を組み替える。


「自ら苦行に身を投じて、安っぽい悲劇のヒロインぶるのは誰のためで?

その演技によって、扉の向こうの獣医師たちのメス捌きが一秒でも早くなりますか?」


「え…」


「ならないでしょう

貴方のその“僕も苦しんでいるアピール”は、防音扉の向こうに届かない


むしろ、冷めきったココアの処理を押し付けられる清掃員への嫌がらせで終わることでしょう

偽善にすらなっていない、迷惑尽くしの自己満足です」


私の本音にりくとはビクッと肩を震わせ、悔しそうに顔を歪めました。


「じゃあ…僕は、どうすればいいのさ…っ!何もできないじゃんか…!」


「ええ、何もできません。貴方は無力であると弁えなさい」


私はステッキ代わりの長傘を軽く床に突き、彼を見据えました。


「そして、頭を使いなさい?

もし万が一、奇跡的にコタロー君が命を取り留め、あの扉から出てきた時…飼い主である貴方が、緊張続きでぶっ倒れていたらどうなりますか?

『せっかく犬を助けたのに、今度はガキの救急車を呼ぶ羽目になったぞ!』と、あの疲労困憊の獣医師たちの残業時間をさらに悪化させるおつもりで?

彼らの労働環境をこれ以上ブラックにするのは、テロ行為と同義ですよ」


「じゃあ、どうしたらいいんだよ」


「普通になさいな。貴方が今すべきことは、泣くことでも、自分を罰するフリをすることでもない

カロリーを摂取し、体温を保ち、次にコタロー君の顔を見た時に、しっかりと自分の足で立って『帰るぞ』と言えるだけの体力を温存しておくこと

それが、巻き込んだ側の最低限の責任です」


私の言葉に、りくとはしばらく不満げに俯いていましたが…やがて、震える手でプシュッ、と缶ココアのタブを開けました。

そして、鼻をすすりながら、甘い液体を一口、また一口と喉に流し込みます。


「…おいしい」


悔し涙混じりの声で、ぽつりとこぼしました。


「当然です。この国の糖分とカカオの調合は、合法的な麻薬ですからね。脳のストライキを解除するには最適です」


「…ねえ、おじさん」


缶を半分ほど飲んだところで、りくとがぽつりと口を開いた。

その声には、先ほどまでの反発心とは違う、純粋な後悔が混じっている。


「僕…弱かったから、コタローを守れなかったのかな」


「弱いから?」


「うん…もし僕がもっと大きくて、マッチョで…アニメみたいにビームとか魔法とかバーンって出せて、あのイノシシを一発で黒焦げにできるくらい強かったら…コタローはあんな怪我しなかったんだろうなって」


力がすべてを解決する。いかにも未成熟な個体が抱きがちな、牧歌的な武力信仰ですね。


「貴方は一つ、致命的な勘違いをしていますよ」


「何が違うのさ」


「全部です、圧倒的な力があれば守れた?傲慢ですね

仮に貴方が、山をも砕く魔法の力や、イノシシを粉砕する怪力を持っていたとしましょう


それで、あの暗闇の中、予測不能な動きをする野生の獣から、足元の小さな命を“無傷で”守り切れると本気で思いますか?」


「え…だって、一撃で倒せば…」


「その一撃が、コタローを巻き込まないとでも?

圧倒的な暴力というものは、敵を破壊することはできても、何かを“守る”ことにはひどく不向きです


現に…私の知る限りでも、理不尽なまでの力を持った連中というのは、大抵の場合、機嫌が悪かったというだけの理由で、守るべき対象ごと周囲を更地に変えますからね」


私の脳裏に、妻を失った皇帝の豹変。

それによりストッパーを失った、ソラの理不尽な暴力がよぎりました。

強すぎる力は、常に周囲への二次災害を伴っている。


「真の強者とは、自ら泥まみれの戦場に赴きません。安全な場所から専門家に任せるか、金と法律で解決するものです


貴方がコタロー君を危険に晒したのは、貴方が“弱かったから”ではない

相手の恐ろしさを知ろうとせず、己の力量を測り違え、無謀な特攻を仕掛けた“想像力の欠如”が原因です」


りくとは、ココアの缶をぎゅっと握りしめ、私の冷たい言葉を必死に噛み砕いているようでした。


「…僕が、バカだったから…」


「大正解。ですが、それは決して恥ずべきことではありません

人間とは総じて愚かな生き物ですからね。私だって日々、己のポンコツ具合に絶望しています


重要なのは、この圧倒的な無力感と、自分が招いた結果の重さを、その矮小な脳髄に深く刻み込むこと

そうすれば…次に何かを守りたいと思った時、貴方は無謀な木の棒を振り回すのではなく、どうすれば確実に危険を回避できるか、事前に知恵を絞ることができるはずです」


私はそこで言葉を切り、再び手術室の赤いランプを見上げました。


「…まぁ、偉そうなことを垂れていますがね。私とて、こうして何の手出しもできずに赤いランプを睨みつけることしかできない、無力で暇な中年男性の一人に過ぎません


祈るという行為の非論理性を、内心で嘲笑って生きてきましたが…こういう時、人間がアヒルや奇跡という神秘的な概念にすがりたくなる心理が、ほんの少しだけ理解できた気がしますよ」


「…おじさん、言ってることスゲーひどいけど…でも、ちょっとだけ分かった気がする」


「おや。私の洗練された人生哲学が、少しは響きましたか」


「うん。おじさんみたいに、他人のせいにして口先だけで生き残るズルい大人になれば、コタローを危ない目に遭わせずに済んだんだね」


「…言葉のチョイスに悪意を感じますが、概ねその通りです。大人の処世術と呼びなさい」


りくとは、今度は声を出さずに、静かにココアを飲み干しました。


そして、空になった缶を両手で包み込み、手術室の扉に向かって、小さな声で呟く。


「がんばれ、コタロー…がんばれ、先生」


私はその横顔を視界の端に収めながら、ふっと息を吐き出しました。


「まったく。この私が、深夜の動物病院で、鼻水垂らした少年のために生存戦略を説くことになるとは…」


静まり返った待合室に、秒針の音だけが、等間隔に、ただ冷徹に時間を削り続けていました。

カチャッ、と。永遠にも感じられたモラトリアムの終わりを告げるように、手術室の扉の上の赤いランプが消灯しました。


重い扉が開き、マスクを外した獣医師が姿を現します。その顔には、徹夜の疲労と、ギリギリの戦いを終えた安堵、そして重い事実を伝えねばならない職業人としての苦渋が入り混じっていました。


「先生!」


りくとが弾かれたように立ち上がり、すがるような目で獣医師を見上げます。

獣医師は、私とりくとを交互に見つめた後、ゆっくりと口を開きました。


「処置は、なんとか終わりました。一命は取り留めています

ですが、これからは彼女自身の生きる力に賭けるしかありません


そして…大変言いづらいのですが、右の後ろ足は、壊死と粉砕が酷く…切断せざるを得ませんでした」


――後ろ足を、失う。


その宣告が意味する残酷な現実に、りくとは言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くしました。


四本足で野を駆け回っていた生き物が、三本足になる。その不自由さと、今後のケアの負担。

助かったという事実だけで手放しに喜べるほど、現実は甘くありません。


「よくやってくれました。ありがとうございます、先生」


私は静かに一礼し、思考の止まっているりくとの肩にそっと手を置きました。


「生きてあの扉を出てきた。まずは、その事実だけを拾い上げなさい

それ以外を背負い込むのは、彼が目を覚ましてからで十分です」


「…うん」


りくとは、絞り出すような声で頷きました。


さて。命のやり取りが終われば、次に待っているのは極めて現実的な“清算”のお時間です。


この国の動物医療は、人間のような公的な保険制度が適用されない自由診療の領域。

深夜の救急対応、緊急手術、輸血、そして切断を伴う大掛かりな処置。

請求される金額は、間違いなく一般家庭の財布に深いダメージを与えるでしょう。


受付のスタッフが、申し訳なさそうに明細書を提示してきました。

そこには案の定、我が国の医療費と謙遜ない数字が並んでいます。


当然、半ズボンの子供がポケットマネーで支払える額ではありませんし、あのヒステリックな母親と後日揉めるのも御免です。


「お支払いは…」


「私が一括で処理しましょう」


私は、たすき掛けにしたスマホ弾帯の中から、クレジットカードを登録してある端末を抜き出し、リーダーにかざしました。

ピロン、という軽快な電子音と共に、私のタイミーのバイトで積み立てた資金が、派手に吹き飛ぶ。


「お、おじさん…!?なんで…」


りくとは、驚愕に目を見開きました。


「勘違いしないでくださいよ。乗りかかった船というやつです


なにより後日貴方の親を交えてお話した場合、“深夜に子供を連れ回した不審者”として私が糾弾されるのが目に見えている

割り勘だの立て替えだのという面倒な金のやり取りに更なるトラブルが積み上がるのは、私の精神衛生上、非常にややこしいですからね。これは私自身の平穏を買うための投資です」


私はあくまで“自分のため”であると強調する。

恩を着せられるのも、面倒な人情話に巻き込まれるのも趣味ではありませんので。


しかし、りくとは私を見上げ、深く、深く頭を下げました。


「…おじさん、ごめんなさい。そして、ありがとう」


その声は、昼間の傲慢な響きを完全に失っていました。


「僕、今は何もできないから…できないなりに、ちゃんとお礼を言いたくて。本当に、ありがとう」


自分の無力さを正しく認識し、見栄を張るのをやめ、素直に頭を下げる。ほんの数時間の間に、この小動物は目まぐるしい成長を遂げたようです。


「…ええ、受け取っておきましょう。その感謝が、いずれ現金になって返ってくる日を心待ちにしていますよ」


私は皮肉った笑みを返しつつ、一つ気になっていた疑問を口にしました。


「それにしても…不思議ですね。イノシシという圧倒的な質量に“正面から”立ち向かっていったのであれば、負傷するのは頭部か、前足、あるいは腹部になるはずです


なぜ、彼は“後ろ足”を食いちぎられたのでしょう?まるで、彼自身が逃げようとしていたかのような…」


私の探偵としての純粋な推理に、りくとの顔が苦痛に歪む。

彼はギリッと唇を噛み締め、ポツリと、重い真実を吐き出しました。


「…逃げたのは、僕なんだ」


「ほう?」


「イノシシが突っ込んできた時、怖くて…僕、背中を向けて走って逃げたんだ

そしたらコタロー、僕のこと心配して、僕についてこようとして…その時に、後ろから追いつかれて、やられちゃったんだよ」


なるほど?圧倒的な強者からの逃走において、弱者に足を引っ張られた結果ですか。


「そうでしたか。それは、何とも…」


私が追い打ちの言葉を探そうとした、その時です。


「あと、おじさん」


りくとは、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を袖で拭いながら、真顔で付け加えました。


「さっきから“彼”とか言ってるけど、コタロー、女の子だよ」


「…はぁ?」


私は、思考が完全に停止しました。


「コタロー、ですよね?小太郎、どう聞いても雄の名前ですが」


「うん、生まれたての時に近所の人からもらったんだけどさ」


りくとは、先ほどの悲壮感はどこへやら、少しだけバツの悪そうな顔をして言いました。


「なんか、お腹のあたりの模様をさ…キンタマがあるように見間違えちゃって

ずっとオスだと思って育ててたら、病院の先生に『これ模様ですよ、メスですね』って言われたんだよね」


なんだそれは。そんな、居酒屋でも耳にしないような、最低の勘違いがありますか。


「途中で気づいたなら、名前を変えてあげればよかったじゃないですか。その子のアイデンティティはどうなるんです」


「だって、もうコタローって呼んだら尻尾振るようになっちゃってたし。今さら“ハナちゃん”とかに変えても、コタローが混乱するでしょ」


その妙な合理主義、どこで身につけたんですか。


「…やれやれ」


私は深くため息をつき、ステッキ代わりの長傘を軽く床に突き立てました。


自らの命を張って主人を守ろうとした番犬の悲劇かと思いきや、キンタマと見間違えられた模様のせいで男名をつけられた不遇の雌犬の物語でしたか。


「私の、少しだけ湧き上がりかけた哀愁を返していただきたいものですね


…まぁ、良いでしょう。その“模様”が、これからの過酷な三本足の生活を生き抜くための、ユーモアという名の強力なバフになることを祈りますよ」


深夜の動物病院の待合室。手術を終えた雌犬“コタロー”の無事を祝うには、あまりにも締まらない空気が流れる中。

術後の経過確認と面会が許され、私たちは処置室の奥にある小さな入院ケージの前に案内されました。


そこには、麻酔からまだ完全に覚めきらず、ウトウトと弱々しい呼吸を繰り返すコタローの姿がありました。


痛々しく包帯で巻かれた下半身。

しかし、胸のあたりは規則正しく上下しており、小さな命の火が繋ぎ止められていることがわかります。


「コタロー…よかった。本当に、よかった…」


りくと君はケージのガラスに額を押し付け、ぽろぽろと安堵の涙をこぼす。


私はその後ろから、静かにコタローの寝姿を見下ろしていました。

無事に命が助かったという感傷もそこそこに、私の密偵としての…いや、単なる一個人としての好奇心が、先ほどからずっと一つの疑問に支配されていたのです。


「…それにしても」


私は、コタローのお腹側、ちょうど仰向けに近い体勢で眠っている彼女の下腹部あたりに視線を固定しました。


「キンタマに見間違えられるほどの模様とは、一体いかほどのものか

…りくと君。失礼ながら、少々見てもよろしいですか?」


「えっ?う、うん…いいけど」


りくと君が不思議そうに頷くのを確認し、私はケージのガラス越しに顔を近づけ、目を細めました。


柴犬特有の白い腹毛と、背中側から続く茶色い毛の境界線において…下腹部、両足の付け根のちょうど真ん中あたり。

そこには、本来なら真っ白であるはずの毛並みの中に、ぽつんと…いや、タプンと。


「……」


私は、絶句した。

そこにあったのは、見事なまでに左右対称な、楕円形を描く二つの茶色い斑紋。


ただ茶色いだけではありません。周囲の白い毛と混ざり合う境界線が絶妙なグラデーションを描いており、謎の立体感と陰影を生み出しているのです。


「…マジでキンタマですね!」


私の口から、帝国紳士のガワを突き破って、大人げない語彙が滑り落ちました。


「だよね」


りくと君が、我が意を得たりとばかりに深く頷きました。


「なんであんなに、ピンポイントで薄ら茶色いんですか!?紛らわしいッ!」


「僕もそう思う。小っちゃい頃はもっと色が濃くて、本物にしか見えなかったんだよ。親父も『立派なタマがついてるな!』って自慢してたし」


私は天を仰ぎ、深くため息をつきました。

柴犬という犬種は、背中の赤毛とお腹の白毛のコントラストが特徴ですが、なぜ遺伝子のイタズラは、よりによってこんな急所の一点にのみ、茶色い色素をポトリと落としてしまったのか。


進化の過程におけるバグか、あるいは神の悪趣味なジョークとしか思えません。


「…まあ、命が助かったのです。模様の形など、些末な問題ですね

ハナちゃんでもタマちゃんでも、好きなように呼んであげなさい」


「だから、コタロー固定だって」


さて、コタローの命は繋がった。

…が、問題はここからだ。


目の前の滑稽な模様から意識を切り離し、私の脳内では現在、極めてシビアなスケジュール調整が高速で回転し始めている。


壁の時計は、深夜零時を回ろうとしています。

この“広島夜間救急動物病院”の緊急対応窓口は、一次診療を終えれば午前一時には閉まり、朝までスタッフのみの管理体制に移行するはずです。


当然、我々部外者がいつまでも待合室に居座ることは許されない。

間もなく『明日、また面会に来てください』と退室を促されるのは明白です。


最も穏当で、怪しまれない正規のルートは、このまま近くの深夜営業のファミリーレストランかホテルで夜を明かし、朝一のフェリーで愛媛の島へ戻ること…。


だが、その“安全策”をとるには、懸念材料が多すぎる。

あの島には今、タヌキの獣人である佐藤殿と、あのヒステリックな母親が残されているのだから。


佐藤殿は元工作員とはいえ、現在のメンタルは農作物を荒らされた怒りと絶望でかなり不安定。

そこに愛犬と息子が消えたと認識している、パニック状態の母親が合流すれば、どうなるか。


泣き叫ぶ母親を前に、佐藤殿が対応を誤り警察沙汰になるか、あるいは再びイノシシが戻ってきて第二の惨劇が引き起こされるか。どちらに転んでも、身内の生活が危うくなるのだ。

放置はできない。今すぐにでも島へ帰還し、事態を収拾しなければ。


最適解はわかっている。再びワームホールを展開し、空間を跳躍するしかない。

ですが、私の隣には、先ほどコタローの安否確認をして落ち着きを取り戻した、一人の子供がいます。


彼をこの深夜の広島に一人で放置していくことは不可能。警察に保護されれば、必ず面倒なことになる。


必然的に彼も一緒に島へ連れ帰ることになりますが…先ほどの行きの道中では無理矢理な言い訳、帰りも同じ手が通用するでしょうか?

極度のパニック状態だった行きとは違い、今の彼は冷静な思考力を回復しつつあります。


『おじさん、なんでまた服被せるの?』『ここどこ?』などと騒がれ、明確に“瞬間移動”というオカルト現象を認識されてしまえば、面倒なことこの上ない。


どうやって、この子供の視覚を自然に塞いだことか…。


催眠ガス?いや、持ち合わせていません。

殴って気絶?あらゆる箇所にカメラのあるこの地で、貧弱な子供に乱暴するわけにはいきません。


ならばどうするか。やはり、無茶苦茶な嘘しかない。


「りくと君」


私は極めて穏やかな、大人の余裕を感じさせるトーンで彼に語りかけました。


「コタロー君の無事も確認できましたし、そろそろ病院も閉まる時間です。我々もここを出ましょう」


「えっ…でも、帰るって言っても、フェリーなんて明日の朝までないんじゃ…」


「大人の力とネットワークを舐めてはいけませんよ、少しばかり特別な“船”を手配してあります。ただ…」


私は少しだけ声を潜め、彼に顔を寄せました。


「その船は、夜の海を極秘に進む特別なものです

道中、とても揺れますし、絶対に外を見てはいけないという厳しいルールがあるのです」


「外を見ちゃいけない…?」


「ええ。もし見れば…そうですね、海の底からやって来る恐ろしい魔物に、魂を抜かれるとでも言っておきましょうか

君はコタロー君を守れなかったことを反省しているなら、私の言う“安全のためのルール”を、今度こそ完璧に守れますね?」


大嘘です。ただのワームホールです。しかし、子供の想像力を逆手に取った恐怖の刷り込みは、物理的な目隠しよりも遥かに強固な拘束力を発揮するはず。


「あ、思い出した!あの凄い移動するやつね?」


りくと君は、鼻をすすりながら、ひどくあっけらかんとした声で言いました。


「ファストトラベルみたいなもんでしょ?マップ開いてポータル飛ぶやつ。行きもそれ使ったんでしょ。別に外見たら魂抜かれるとか、そういう設定いいから」


「いや、行きはコートで視界を塞いでおいたはずですが」


「見えなくてもわかるよ、風の音も匂いも一瞬で消えたもん

それに、山の真ん中からいきなり街の病院の前に行くとか、車でも無理じゃん。おじさん、魔法使いか何かなの?」


現代の子供の、異常なまでのエンタメ適応力。

未知のオカルト現象を“ああ、ゲームでよくあるアレね”と即座に消化し、恐れるどころか便利機能として受け入れている。


悪魔の心臓を用いたことによる、我々ワームズの高跳び魔法が、小学生のゲーム知識と同列に処理されたことに、私は深い屈辱を覚えました。


「りくと君、最近売り出した携帯ゲーム機は持っていますか?

ポケットサイズのモンスター育成が抱き合わせで販売されたりなんかしてる、アレです」


「うん、持ってるけど、何…」


私はしゃがみ込み、彼の両肩をガシッと掴んで、極めて真剣な眼差しで彼を睨みつけました。


「この力は、国家機密です

もし貴方が学校の友達や、SNSとやらに“瞬間移動できるおじさんがいる”などと言いふらした場合…私は貴方のゲーム機を破壊し、MicroSDカードも初期化、インターネット回線にも細工をして、一生ラグと通信エラーに悩まされる呪いをかけます

母親の手心でONLINEサービスに加入していようが関係ありません、復元しても新しいセーブデータで何度でも何度でも上書きして現状復帰できなくしてやりますよ」


「ひっ…!わ、わかった!絶対言わない!誰にも言わないから!!」


命の危機よりもゲームデータの破壊を恐れる。やはり、相手の最大の急所を突くのが口封じの基本ですね。


納得のいく誓約を取り付けた私は、彼の手を引き、深夜の動物病院を後にしました。

目指すは、人目のつかない暗い路地裏。そこからワームホールを開き、愛媛の段々畑へと一気に帰還する手はずです。


しかし。夜風に吹かれながら、街灯の少ない細い路地へと足を踏み入れた瞬間でした。


「ちょっと、そこのお二人さん」


背後から、懐中電灯の鋭い光が私たちを照らし出しました。振り返ると、そこには見回り中と思しき二人の警察官が、厳しい表情でこちらに近づいてくるところでした。


「こんな夜更けに、子供を連れてどうしたんですか?それに、随分と…特徴的なお召し物ですね」


警察官の視線が、私のインバネスコート、たすき掛けにされた七台のスマートフォン、そして肩に乗る三つ揃えスーツのハトソンを上から下まで舐め回すように観察しています。

さらに最悪なことに、隣に立つりくと君の服には、コタローの血がべっとりと付着している。


深夜。奇抜な外国人風の男。血まみれの子供。服を着た鳩。役満です。どこからどう見ても、重大事件の発生直後か、極めて悪質な誘拐事案にしか見えません。


「おや、ご苦労様です、お巡りさん」


私は極めて自然な営業スマイルを顔に貼り付け、淀みなく言い訳を構築し始めました。


「実は、親戚のこの子が飼っている犬が夜間に事故に遭いまして。急いでそちらの動物病院に運び込んだ帰りなのです。彼の服の汚れは、その犬の血でしてね」


「親戚…?失礼ですが、身分を証明できるものはありますか?」


警察官の目は全く笑っていません。当然ですね。私は懐から『鈴木誠』の身分証を取り出そうとしました。これで少しでも時間を稼ぎ、隙を見て――。


その時、りくと君が『大人の事情』に気を利かせたつもりで、前に飛び出してしまいました。


「ち、違います!お巡りさん、僕、誘拐されてません!このおじさんに脅されてないです!」


「…っ!?」


「血は犬の血だし!このおじさんは魔法使いとか工作員じゃないです!瞬間移動もしてません!だから捕まえないでください!」


――沈黙。


深夜の路地裏に、氷点下の風が吹き抜けました。


「おじさん…魔法使い?工作員?瞬間移動?」


警察官の顔が、単なる「不審者を見る目」から「子供を洗脳し、カルト的な脅迫を行っている極悪犯罪者を見る目」へと完全にシフトしました。

擁護しようとして、すべての地雷を見事に踏み抜いていく。子供の『気を利かせた嘘』ほど、大人の緻密な偽装を台無しにするものはありません。


「クルックゥ…」ハトソンが空気を読まずに鳴き、スーツの襟を正す仕草が、不気味さをさらに加速させます。


「…お兄さん。ちょっと、署まで同行してもらえますか。スマホ、全部預からせてもらいますよ」


警察官の一人が無線機に手を伸ばし、もう一人が私の弾帯に手をかけようとしました。


マズい。ここで捕まれば、鈴木誠としての経歴はおろか、愛媛に取り残された佐藤殿がイノシシの餌食になるか、朝まで放置されて発狂する羽目になります。


「…触らないでいただきたい。私の弁護士に連絡を」


私は一歩後ずさると同時に、弾帯の中で最も使い慣れた実務用スマホの画面を、見えない角度で親指で高速タップしました。

事前に登録してある、この付近に潜伏する工作員たちへの緊急支援要請(ショートカット)コマンドです。


『ただちに近隣で派手な騒擾を起こせ。手段は問わん』


「弁護士でもなんでも、署で呼んでもらいますから。さあ、スマホを…」


警察官が私の腕を掴もうとした、まさにその瞬間。


「オンドリャァァァッ!!誰が広島風じゃボケェェェッ!!お好み焼き言うたらこれ一つしかねぇんじゃァァ!!」「上等じゃワレェ!

マヨネーズぶっかけるのが邪道だ言うんかァ!!」


一つ隣の大通りから、地鳴りのような怒号と、ビール瓶が派手に割れるガッシャァァァン!!という凄まじい破壊音が響き渡りました。


「なんだ、あっち!?」


警察官たちが弾かれたように振り返ります。

怒声は連鎖し、「やんのかコラ!」「鉄板で焼いたろか!」と、数十人規模の酔っ払いが入り乱れる、大規模な乱闘騒ぎに発展していくのが音だけでわかりました。

我が帝国の工作員が、居酒屋にいた血の気の多い一般観光客を扇動し、部外者達による地域の誇りを懸けた勝手な宗教論争(お好み焼きの流儀)に火をつけたのです。


『本部、本部!○○通りで大規模な喧嘩!応援求む!』


警察官の無線から、焦燥しきった声が飛び込んできます。


「チッ…!おい、そこのあんた!絶対にここから動くなよ!」


警察官たちは私を鋭く睨みつけましたが、大通りから聞こえる「ドタマブチ割るど!!」という叫び声に顔色を変え、踵を返して乱闘現場へと全速力で駆けていきました。


私は、遠ざかる警察官の背中を見送りながら、ゆっくりと襟元を正しました。


「…いやはや。血まみれの子供を連れ、大量の通信機器を身につけた怪しい男を前にしても、目の前の暴動に対処せざるを得ない。限られたリソースの悲しい優先順位エラーですね」


私は、ポカンとしているりくと君の肩をポンと叩きました。


「いかにも怪しい大人が子供を連れていても、人員的なキャパシティを超えれば無理やり聴取することができない場合もある…。

恐ろしい国ですねぇ、ここは。誘拐犯やテロリストにとっては、なんと仕事のしやすい楽園なのでしょうか」


「お、おじさん…今のも、おじさんの魔法?」


「そうですとも。これは『社会のしがらみ』という、最も強力な魔法ですよ」


私はステッキ代わりの長傘を軽く振り、路地裏の一番暗い行き止まりへと向かいました。

そして、誰の目にも触れない虚空に向かって、再び青白いワームホールの穴をこじ開けます。


「さあ、帰りますよ、りくと君。佐藤殿が寂しさのあまり、イノシシの餌食になっているといけませんからね」


私は口をポカンと開けている少年の背中を押し、夜の闇に開いた次元の穴へと、逃げるように飛び込みました。


青白い光のトンネルを抜け、私たちは再び愛媛の山林のただ中へと吐き出されました。アスファルトの匂いから一転、湿った土と青臭い草の匂いが肺を満たします。


「うわっ…本当に戻ってきた…!おじさん、やっぱり魔法使い…!」


「静かに。はしゃぐのは後になさい」


私は興奮で声を上げそうになるりくと君の口を片手で塞ぎ、もう片方の手でステッキを握り直しました。

周囲は深い闇に包まれています。先ほど私たちが立ち去った時と変わらず、風の音と虫の音だけが不気味に響いていました。


「…さて。私が離れていた数十分の間に、盤面はどう動いたか」


私はそっと右目を閉じ、意識のチャンネルを切り替えました。


――カチリ。脳裏に浮かび上がるのは、夜の森を上空から見下ろす俯瞰の視界。先発させておいた私の優秀な生体ドローン、ハトソンからのリアルタイム映像です。


「クルル…」と、頭の中で小さな羽ばたきの音が響きます。彼の鳥類特有の優れた夜目を通し、私は森の中の熱源と動きを正確にスキャンしていきました。


「…おや」


まず視界に入ってきたのは、太い木の陰で身を潜め、周囲を必死に警戒しているタヌキの獣人――佐藤殿の姿でした。

手には私が残していった(というより置き去りにした)適当な石ころを握りしめ、イノシシの急襲に備えてガタガタ震えながらも、一応は捜索を続けているようです。

よく生きていましたね。彼の生存本能には感心します。


そして、視界を少し広げると、森のあちこちに不自然な光の筋が揺れているのが確認できました。


「りくとー!おるかー!」「コタロー!どこ行ったんじゃー!」


遠くから、枯れた声が重なって聞こえてきます。複数の懐中電灯の光が、木々の隙間を縫うようにして山林を探索していました。

どうやら、りくと君の失踪を聞きつけた現地の農家や老人たちが、夜の山という危険を承知で捜索隊を組んで出てきてくれたようです。

他人の子供のために、イノシシのテリトリーに丸腰に近い状態で踏み入るとは。この島の人々の連帯感と自己犠牲の精神は、やはり狂気の沙汰ですね。


「…フム」


私はハトソンの視界をさらに上空へ引き上げ、山林全体を広く見渡しました。


佐藤殿はいる。捜索隊の老人たちもいる。イノシシの群れは…少し離れた沢の近くで、土を掘り返している。


だが、いないのです。


「…おかしいですね。一番やかましくて、一番目立つはずの『発信源』が見当たらない」


私は右目を閉じたまま、りくと君に尋ねました。


「りくと君。貴方のお母様は、夜の山を歩き回るための懐中電灯や、それに類する照明器具を持っていましたか?」


「え?ううん。ママ、いつもスマホのライトだけだよ」


「…なるほど」


私は深く息を吐き出し、右目を開けました。

ハトソンの視界のどこにも、スマホの不自然なLEDの明かりは確認できませんでした。そして、あれほど森中に響き渡っていたヒステリックな叫び声も、今は完全に途絶えています。


推測される事態は、極めてシンプルです。


「…どうやら、貴方のお母様は、完全に遭難しましたね」


「えっ!?」


りくと君が顔を青ざめさせ、私のコートの袖をギュッと掴みました。


「ママが…遭難!?どうして!?」


「どうして、と聞かれましても。ろくな装備も持たず、スマホのバッテリーという限られた寿命の光源だけを頼りに、怒りとパニックのまま夜の山に突入したのですから、必然の結果でしょう。

おそらく、足元の木の根に躓いてスマホを落としたか、あるいはバッテリーが尽きて真っ暗闇に取り残され、方向感覚を失って動けなくなっている…といったところでしょうね」


私は淡々と事実を告げました。夜の山という大自然の脅威を前に、都市部の便利なインフラに依存しきった人間など、電源の切れた家電製品よりも無力です。


「だ、だからって…!探さなきゃ!ママがイノシシに食べられちゃう!!」


「落ち着きなさい」


パニックになりかけた少年の頭を、私はステッキ代わりの長傘で軽く小突きました。


「イノシシは雑食ですが、先ほどの調査で彼らが『肉の味』を積極的に求めていないことは確認済みです。

お母様が自らイノシシの前に飛び出して『警察を呼ぶわよ!』と威嚇でもしない限り、積極的に捕食されるリスクは低いでしょう。…まぁ、あの性格ですから、暗闇で獣と出くわしたら、間違いなく絶叫して相手をパニックにさせて、結果的に轢き殺される確率は大いにありますがね」


「それ死ぬってことじゃん!!助けてよおじさん!!」


りくと君が私の腰にしがみつき、ポロポロと涙を流し始めました。

つい数時間前まで生意気なクソガキだった彼が、愛犬の重傷と母親の遭難というダブルパンチを食らい、すっかりただの怯える子供に戻ってしまっています。


しかし、りくと君はふと、弾かれたように自分の半ズボンのポケットをあちこち探り始めました。


「電話…ママに電話して、場所を聞かなきゃ!あっ、ない!?スマホ、逃げてる時にどっかに落とした…ッ!」


「落ち着きなさい。お母様の電話番号は覚えていますか?」


「覚えてない…!全部スマホに入ってたから…ッ!」


現代っ子特有のデジタル依存の弊害ですね。脳内の記憶領域を外部ストレージに完全アウトソーシングしているから、端末を失った瞬間に社会的繋がりが断たれる。


「やれやれ…仕方ありません。まずは優先順位を整理しましょう」


私は暗視ゴーグルをずらし、ハトソンの視界で確認していた近くの光の筋――捜索隊の老人たちの元へ、りくと君の襟首を掴んで歩み寄りました。


「おおっ!坊主!無事じゃったか!」


現れた私たちを見て、懐中電灯を持った原田老人が驚きの声を上げます。

私は手短に、りくと君を保護したこと、そしてコタロー君は本島の病院で一命を取り留めた(という建前)を伝えました。


「ただ、現在進行形で新たな問題が発生しています。彼のお母様が、山に入ったまま行方不明なのです」


「なんじゃと!?」


「集落の連絡網のようなものはありますか?彼女の電話番号を知る者がいれば、すぐにかけて安否を確認したいのですが」


「おお、それならワシの携帯に入っとる!あそこの奥さん、引っ越してきた時に一応、班長には番号を教えとったからな」


「…ほう」


私は少しだけ安堵しました。

あんなに周囲を『田舎の野蛮人』と見下して威嚇していた母親ですが、ゴミ出しや自治会のルール説明の際に、最低限の連絡先交換ぐらいは済ませていたようです。その程度の社会性が残っていたことに、ほんの少しだけ敬意を表しましょう。


しかし、原田老人が震える指で発信ボタンを押し、スピーカーから流れてきたのは、絶望的な電子音声でした。


『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため…』


「…切れておりますな」


「電池切れか、あるいは崖から転落して端末が粉砕されたか。いずれにせよ、これ以上夜間に手を出してもどうしようもありませんね」


私は即座に見切りをつけ、自分のスマホを取り出して佐藤殿に発信しました。


『あ、鈴木さん!りくと君は!?』


「確保しました。犬も生きています。ですが、今度はお母様がロストしました。連絡もつきません。…佐藤殿、本日の捜索はここまでです。撤収してください。私は翌朝に動きます」


『えっ!?でも、夜の山に素人を放置するなんて…!』


「二次遭難を防ぐのがプロの鉄則です。暗闇での捜索は効率が悪い上にリスクが高すぎる。命令です、戻りなさい」


私は一方的に通話を切り、上空からハトソンを呼び寄せて肩に留まらせました。

原田老人たちにも「彼女のことは私と佐藤殿にお任せを」と告げて解散を促し、私たちは佐藤殿の待つ古民家へと向かおうと歩き出します。


「でも…っ!」


りくと君が、私のコートの裾を強く引っ張りました。その目には、再び涙が溢れ出しています。


「ママが!暗い山の中で一人で迷子になってるんだよ!?早く助けに行かないと、イノシシに…!」


「また事態を複雑にするつもりですか」


私は冷たく、感情を一切排した声で彼を見下ろしました。


「コタロー君の時の教訓が、まだ脳に定着していないようですね」


「っ…」


「いいですか。準備も情報もない状態で暗闇の山へ突撃するのは、捜索ではなく『ただの自殺行為』です。貴方が今山に入れば、私が助けるべき人間が一人から二人に増えるだけ。私の労働環境をこれ以上ブラックにする気ですか」


正論で殴りつけると、りくと君は悔しそうに俯き、ギリッと唇を噛み締めました。


「…諦めたわけではありませんよ」


私はステッキ代わりの長傘で、足元の土を軽く叩きました。


「急ぎであることに変わりはありませんが、状況が悪すぎるのです。無駄な体力を消費するより、まずは情報を整理する必要があります」


「情報…?」


「ええ。落ち着かないのなら、貴方が山に入った時のルートと、イノシシから逃走した経路を詳しく教えてください」


私は、暗闇の森を見据えながら、ニヤリと口角を上げました。


「血は争えないものです。もしかすると、パニックに陥った人間が取る行動パターンとして、親子で似たルート選びをするかもしれませんからね」


「僕と、ママが…?」


「ええ。貴方の逃走経路が、お母様の遭難場所を特定する最大のヒントになる可能性が高い。さあ、歩きながら聞かせてもらいましょうか。貴方がどの木にぶつかり、どの斜面を転げ落ちたのかをね」


私は彼の背中を軽く押し、佐藤殿の待つ拠点へと向かって、漆黒の山道を歩き始めました。


「…見つかるまでは、どうか彼女の『クレームをつける気力』が、大自然の恐怖に勝っていることを祈りましょうか」


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