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バーロック・ワームズの供述書  作者: ダム底タヌキ
通常業務編
2/12

☆南国リゾートではなくみかんの国

「さて、と」


狭いが驚くほど清潔な個室の鏡の前に立ち、私は自身の黒髪を整えました。


こちらの世界の住人は、黒、茶、白、金といった、極めて地味で落ち着いた保護色しか持ち合わせていないと調査済みです。


おかげで多くの工作員はクレヨンの色種を凌ぐ、個性豊かな色彩をカツラで隠している。


元の世界において色々緩い南の国、万国の歓楽街では『良い色だ』とモテても、このカラス頭の楽園では公開禁止ですからね。

良くて染髪の不良扱い、地毛とバレれば研究機関のモルモット行き。肌だって、緑や紫だと目立ってしまう…色素の違いが生き辛さを生むのは、何処も変わりないらしい。


まぁ、この条件下では皮肉にも、母国で悪目立ちするこの色が私の潜入を支えているのが面白いところなのですが。


目だってそう、オリジナルと異なる青を隠さなくても良い。

黙っていてもカラーコンタクトと誤認され、“少し荷物が多いだけの観光客”という完璧な擬態が成立する。


だからこそ、真夏日に真っ白のインバネスコートにスマホ七連という珍奇な装い。

自分の体温で内臓を蒸し焼きにする愚行の象徴であり、自由を謳う同調主義国家の別国において、ゲイだなんだと攻撃される火元になった服装でアピールしてやっているのに…この国の通報システムはどうなっているのです?


無実の痴漢をでっちあげ、対戦ゲームの凡ミスを晒し上げる一方で、私のような真性の不審者を避けるだなんて失礼な。


「クルックー」


肩に乗ったハトソンが、『ズレてたぞ』と言わんばかりに私の襟元をつつきました。


「おや、ご指摘痛み入りますよ。身だしなみは紳士の基本ですからね」


この国の人間はあまりにもとち狂った人間を目にした時、気弱そうならバカにして楽しむ事もあります。


しかし、百八十センチ越えの擁護しようのない不審者ルックが災いしたか、関わらないために【見てないふり】という野生の本能に従った行動を選ばれてばかりいる。


ため息を吐き、日常の光景には強すぎたコートの合わせ目を確かめ、個室を出た私は、列車がちょうど停車しているのに気がつきました。


少し外の空気を吸おうとホームに降り立ち、近くの売店を冷やかそうとした、その時です。


「おや?」


売店の雑誌コーナーの前に立っていた若者を見て、私は思わず立ち止まりました。


ダボダボの服を着たその若者の頭を飾る、なんとも鮮やかなエメラルドグリーン。


馬鹿な、この国の人間は基本的にカラスのような暗色しか持たないはず。

ということは、まさか彼も…私と同じ、帝国から派遣された“別の私(ワームズ)”でしょうか?


私の脳内に、かつてない歓喜が込み上げました。


空気も水質も、工場の煤煙と排水汚染にまみれた我が帝国領とは比べ物にならないほど澄み切っているこの国において、担当のワームズは私のはず。

だというのに、すでに他の個体(ワームズ)が送り込まれているのだとすれば?


私、用済みじゃないですか!マズい、非常にマズいですね!


もしあいつが私よりも有益なレポートを提出した場合、私の報告の精度次第では担当地域を外され、ハズレ次元へと左遷されてしまうかもしれない!

つまり、死!!!!なんと素晴らしい早上がり!!!


なんて舞い上がってないで…私も仕事に来てますからね、終わるならそれはそれで、引き継ぎを済ませねばなりません。


紳士たるもの、何をするにしたってまずは状況分析です。

接触する前にと私はステッキ代わりの長傘を握り直し、目を細めました。


…おや。よく見れば、彼の肩や頭に“ハトソン”の姿がありませんね。


しかし、油断は禁物です。こちらの世界のカラスやトンビとの苛烈な縄張り争いに敗れ、不運にもハトソンを死なせてしまい、現在本国からの“再製造および支給待ち”のステータスに陥っている個体の可能性もあります。


ならば、顔の造作で直接判別するしかあるまい。

私は少し角度を変え、売店のガラス窓の反射を利用して、その緑頭の若者の顔をミリ単位で精査しました。


右目の下の黒子なし、目は開いている、童顔の平たい顔族。

最新ロットである私の美しい造形とも、以前すれ違った旧式のワームズたちとも、明確に骨格が違いますね。


それに、口の中で何かをモゴモゴしながら雑誌を眺めるその顔面には、我が帝国の猟犬が叩き込まれる最低限の知性が感じられない。


「…なんだ、光合成中の現地人ですか」


私はハァと長く息を吐き出し、たすき掛けにしたスマホ弾帯のズレを直しつつ、火照った顔を拭いました。


「全く、心臓に悪い

危うく人事部に直接通信を繋いで、次の任務先や処刑法のリクエストを行うところでしたよ


さあハトソン。私の契約が守られているうちに、この平和な魔境の調査を進めるとしましょうか」


とりあえず一番遠い駅までの切符を買ってふんぞり返っていましたが、この興奮状態においては、そんなのんびりした旅程をこなしている場合ではありません。


「悪は急げです。ハトソン、私たちはここで降りますよ!」


「クップルードゥー」


私は発車を知らせるベルの音を背に、未練なく列車のドアから離れ、開けた場所(コンコース)へと続くエスカレーターに飛び乗りました。

行き当たりばったりの途中下車、これぞ旅の醍醐味です。


意気揚々とエスカレーターを降りた先、改札向こう。

そこで私は、信じられないものに遭遇して足を止めました。


「なんですかあの…洗濯に苦労しそうなモコモコは…ッ!」


私の視線の先にはコンビニの土産物販売なんかで見かける、丸みを帯びたオレンジ色のアレ。

巨大な二足歩行の生命体、みきゃんが実態を伴って立っていました。


犬猫のような顔立ちでありながら、頭には緑色の葉っぱが生え、果物の“みかん”とスコティッシュフォールドを悪魔合体、背筋に針金を仕込んだかのような恐るべき直立スタイル。

しかも、その顔面はやり過ぎない笑顔で固定されています。


あえて中身に触れることなく表現するならば、この駅を守護するガーディアンといったところですね。


私は警戒を解かず、傘を半ばで握り直しながら、キメラ獣にゆっくりと歩み寄りました。


「失礼、そちらの番人殿。私はただの通りすがりの探偵です、敵意はありません

お尋ねしたいのですが、ここは一体どこなのですか?」


私が話しかけると、モコモコオレンジは“ピタッ”と動きを止め、無言のままペコペコとお辞儀をしてきました。

えらく機敏ですが、重たくないんでしょうか。


「あ、こんにちはー!ご旅行ですか?」


ガーディアンの横から、青いジャンパーを着たスタッフのお姉さんが、にこやかに顔を出しました。

どうやら彼女が、この柑橘獣の相方のようです。


「ええ、少しばかり長旅をしておりまして。気の向くままに降り立ったのですが、ここがどこか教えていただけませんか?」


「はい!ここは“今治”ですよー。ようこそお越しくださいました!」


…いまばり。

いま、ばり。

今、バリ。


「――バリ、ですか!?」


私は顔を綻ばせ、弾帯のスマホを握りしめました。


「バリといえば、東南アジアに浮かぶ世界有数のリゾート地“バリ島”!


馬鹿な、瀬戸内海を走っていた鉄の箱が、いつの間に赤道直下の島国に空間転移していたというのですか!?この国の交通機関は、私のワームホールに匹敵する神の御業を備えているとでも!?


おお…なんと恐ろしいインフラ技術。まさか、気づかぬうちに国境すら超えていたとは。どうりで空気が違うと思いましたよ。さすがはバリですね」


私が一人で深く頷いていると、スタッフのお姉さんは「あ、えっと…愛媛県の、今治市なんですけど…」と困惑したように苦笑いを浮かべました。


「おや、愛媛県内のバリ島という意味ですか。なるほど、出島のような特別自治区ですね、理解しました。私のいた世界にもそういう治外法権のエリアはありましたから」


困りますよね、わざとです。

知っていますよ、電車でバリ(BALI)には行けないって。

私の居場所は、どんなに現実を捻じ曲げて見ても(IMA)ここにある現実(IMABARI)だけ。


ですが、こうして適当言ってるのって楽しいんです。

いつの間にやら、自分がその嘘を信じこむところまで含めて。


「あ、ははは…お兄さん、面白い人ですね…」


かく言うお姉さんは、“適当に話を合わせる”という、この世界の人々が持つ究極の防衛スキルを発動しました。

まこと、賢明な判断で。


「せっかくバリに来たのですから、最高のバカンスを堪能したいと思います

みきゃん飼いのお姉さん、おすすめの観光名所やご飯どころを伺ってもよろしいですか?」


「そうですね、お腹空いてたりってしますか?

ご飯なら、駅から少し歩いたところに“焼豚玉子飯(やきぶたたまごめし)”の美味しいお店がありますよ!B級グルメなんですけど、すっごくボリュームがあって…あ、みきゃんと写真撮ります?」


「はい、喜んで!

それにしても、ヤキブタタマゴメシ…!豚と卵の錬金術ですね、素晴らしい。私の好物である目玉焼きの白い部分が存分に味わえそうだ。実に有益な情報提供、感謝します!」


サっとスマホの内カメラを起動し、画面内で私を中心に、お姉さんと重装観光大使みきゃんが画角内でポーズを取るのを確認してシャッターを押しました。

そうして良い画が撮れたのを確認すると深々と一礼し、他にも近寄りたそうにしていた客に次を譲ろうと、足早に離れていく。


「さあハトソン!バリのリゾート飯が私たちを待っていますよ!

腹ごしらえを済ませたら、海辺の神殿でも攻略しに行きましょう!」


「クルックー!」


私は、たすき掛けにしたスマホをジャラジャラと鳴らしながら、瀬戸内海(南国リゾート)の潮風を感じて、意気揚々と今治の街へと歩き出しました。


行き当たりばったりの旅というのは、予想外の驚きに満ちていて、本当に飽きませんね。


潮風が心地よく吹き抜ける海辺の公園のベンチで、私はプラスチックの容器を開けました。

鼻腔をくすぐるのは、甘辛いタレと香ばしく焼かれた豚の香り。その中央に鎮座するのは、双子丘の美しい目玉焼きです。


「素晴らしい…黄身が完全に半熟、いや、トロトロの液状を保っています。この絶妙な火加減、作り置きの物でもこのクオリティとは、料理人の練度の高さが見えますね」


私は割り箸を割りながら、思案に暮れました。

この“ヤキブタタマゴメシ”において、愛してやまないこの白い部分を、どのタイミングで刈り取るべきか。


序盤に黄色を崩して肉と飯ごと黄金のコーティングを施すのが定石か。

それとも、あえて最後まで傷つけず、最後に盃を煽るように丸飲みして肥沃なタンパクの厚みを堪能すべきか。


「クルックー」


私の肩から膝へと飛び降りたハトソンが、早く寄越せとばかりに容器の端をつついてきます。


「慌てないでください、ハトソン。紳士の食事は優雅でなければ」


これを調達するにあたって、出来立てを店内で味わいたい気持ちもありましたが、そこは理性がストップをかけました。


どれほど見事にスーツを着こなしていようと、ハトソンは鳥類です。


これほど衛生概念が高度に発達したカラス頭の楽園において、飲食店に動物を連れ込むなど、野蛮なならず者のすること。

衛兵…いや、警察を呼ばれても、文句は言えません。


ゆえに、現地の兵站基地“スーパーマーケット”でこの弁当を調達してきた私の判断は、完璧な最適解と言えるでしょう。


結局、私は白身を切り取って蓋に除ける。

中盤で片方の黄身を崩して肉と絡め、もう片方は最後に丸ごと飲み込み、その後味の残る口内に白身を放り入れてなぶり尽くすという、贅沢な二段構えの戦術を採用しました。


甘辛いタレと豚の脂、そして卵のまろやかさが三位一体となって喉を通り抜ける快感。見事な完全食です。


「さて、腹も満たされましたし、探索を再開しましょうか」


弁当の空箱を地域の指定通りに分別して捨て、私は街を歩き出しました。


そして、路地裏で日向ぼっこをしていた地元の古老に、「この街で最も偉大な神殿はどこですか?」と聞き込みを行ったのです。


「神殿?ここらで神殿といえば、タオル館じゃろ」


古老はそう言って、山の方角を指差しました。


「タオルを祀る神殿、なんという独自の土着信仰でしょう

私の故郷でも、織り糸の出来を願う祝祭はありましたが、この平和な国ではどのような祈りが捧げられているのか…」


「にーさん、なんか勘違いしとらんか?」


「わざとです、脚色した方が楽しいので」


「ほうか…」


弾帯のスマホのマップ機能に従ってバスを乗り継ぎ、そびえ立つその“神殿”――タオル美術館に辿り着いた私は、立派な洋風の建築物を見上げてパチリと瞬きをしました。


「…おや。なんだか、想像していたものとは少し、趣が違いますね


アヒルの脂粉の匂いも、祈りを捧げる神官の姿も、怪しげな儀式の気配もありません」


大嘘ですがね…あるのは期待通りか、それ以上。

入場料を払い、踏み込んだエリアで私を待ち受けていたのはこの土地の産業の縮図です。

無数の糸巻きのオブジェや、凄まじい速度で布を織り上げていく巨大な機械の群れ。そして、可愛らしい柄織物の展示、エトセトラエトセトラ…


「クルル…」


「ええ、分かっていますよハトソン。パンフレットや事前の噂と、実際の現場に相違があるのは、皇帝のお使いでは日常茶飯事ですからね」


この世界の異世界人を描いた作品において、我々のような存在は、日本の景観から些細な習慣に至るまで過剰にびっくりするのがセオリーだ。


なので私も当惑しておく、振りでもその方が楽しいですし。


「ですが、こんな裏切られ方なら大歓迎だ

ゴブリンの巣窟だと言われて憂さ晴らしチャンスと思い行ってみたら、窪地から出られなくなったタヌキの渋滞だった時並に有意義です。いつまでも見ていられますね」


立ち並ぶ織機の規則正しい駆動音は、我らが軍の行進に似た力強さがあります。

何より、展示されている布製品の手触りは、皇帝の纏う絹の寝間着に勝るとも劣らないほどの圧倒的な柔らかさ。


「素晴らしい。これほどの技術を、一般市民が日用品として享受しているとは。やはりこの国は恐ろしいですね」


私はすっかりこの“タオル館”が気に入り、売店で自分用のシックなマフラータオルと、ハトソン用の小さなハンカチを購入しました。


その時です。購入したタオルのタグと、館内の案内パネルの文字を眺めていた私は、これまた擦れそうな箇所を見つけました。


「…I、M、A、B、A、R、I。いまばり」


生産地の自己主張が、そこそこ強い。


「…私がどんなに大嘘をこいても、物証まで用意されては、ここがBALI(バリ)ではなく、IMABARI(イマバリ)である事を認めざるを得ませんね


…イマバリ!ええ、知っていますとも。バリとは趣の異なる、独自の魅力を放つ土地の名です

海に面し、造船とタオルの付加価値で栄える強大な都市国家。名前弄りタイムの終了は寂しいですが、真正面から向き合うのもそれはそれで良し!大いに結構!」


「…ちょっと、お客さん。テンション上がるのは結構ですけど、声がデカすぎます

悪目立ちするとこっちの身にも危険が及ぶんで、もう少しボリュームを落としてもらえますか」


展示エリアを出た私が声高に感動に浸っていると、陳列棚のタオルを畳んでいたスタッフの青年に、呆れた声でたしなめられました。


「おや、これは失礼を」


私は優雅に謝罪しつつ、その青年が手振りで示した“同郷のサイン”を見逃しませんでした。


「いやはや、驚きました…ただの末端の労働者と見せかけて、地域産業の心臓部たるこの神殿の内部にまで、既に潜入を済ませているとは


帝国の工作網も捨てたものではありませんね。流石です」


私が声を潜めて称賛すると、青年は周囲を警戒しながら、ヤレヤレと首を振りました。


「神殿じゃなくて、ただの観光施設と工場ですけどね


…ていうか、潜入なんてそんな大層なもんじゃないですよ。この国、身分証明のガワさえゲットしちまえれば、現場作業とか割とどこでもスッと入れるんで」


「ほう?適性検査や、身辺調査などはないのですか?」


「あるっちゃある、けど楽勝っす

それどころか、もっとヤバい話があります…なんと、設計図を扱うような技術者の枠すら、“派遣登録”っていうシステムを利用すれば、大手企業に潜入し放題


なんなら企業に支援金が出るとかで、他所の国に定着してから外国人技能実習生として来るってのもありですしね

適当に事件起きるのを待って、死んだ奴の戸籍奪えば良いんすから、身分の手続きだってこっちよりショートカットしやすい」


青年は、手元の今治タオルを完璧な四角形に畳みながら、口元だけで語り続けます。


「もちろん、ガチの重要機密には閲覧制限がかかってますけどね

それでも、派遣の末端が見れる範囲の情報だけでも、帝国に持ち帰れば成果として体裁を保てるお宝の山


メールアドレスを暗記なんかして、別働隊に総当たりでフィッシングさせれば誰かしら引っ掛かりやがる

社内機密だって目で盗み放題だってのに、対策甘々ですわ。アタシらの泥棒根性が舐められてる」


「…なんというザル、自己防衛を何処に置き忘れてきたのでしょう

労働力を安く買い叩きたい気持ちはわかりますが、派遣などという中抜き勢力のエージェントに乗せられて内患を誘い込むなんて…」


「でしょ?今のところアタシの周りじゃバレた奴はいねぇ、こうしてヒソヒソ話まで出来る有様ですけど…それだけじゃないんす


仮に身元が割れたり情報を引っこ抜いたのがバレたとしても、せいぜい解雇されて書類送検されるくらい

裏庭で首を刎ねられることも、一族郎党火炙りにされることもねっす

国籍だってベトナム、中国…挙げたらキリのないガラパゴス状態。マジでスパイ天国っすよ、この国」


その報告を聞き、私は深く、深いため息を吐き出しました。


「私は母国以外、どうでもいいんですがね。この国の危機管理能力の無さには、敵ながら頭が痛む


人件費を抑え、文句を言わずによく働く労働力を確保するためならば、純粋な日本人でなくとも、どこの馬の骨とも知れぬ異邦人を節操なく責任ある仕事を任せてしまう

懐が深いと言うべきか、単なる白痴か。少し心配にすらなってきますね」


「本当っすよね。アタシたちみたいな工作員に食い物にされる構造が、国全体に蔓延しちゃってるんすから


…あ、でもなんか最近、“スパイ防止法”なるものを制定しようって動きが、ちょこちょこ進んでるらしいですよ」


「おや。それは我々にとっては、非常に困る展開ですね」


「ええ、仕事がやりづらくなるんで困るんすけど…やっとかー!って感じ?ぶっちゃけ、自衛に目を向けて偉い!って思うんですよね


他国とはいえ働く人間には嬉々として咥え込むわ、領海侵されまくってるわ…やられ放題な連中を毎日見てると、なんだか情けなくなってくるというか。複雑な気分なんす


だからこないだも、こっちが困らない程度には『いい感じに頑張って防衛して欲しいよなー』って、同僚と居酒屋で愚痴ってましたわ」


スパイの口から飛び出す、敵国のガバガバなセキュリティに対する『もうちょっと頑張れよ』という苦言。

この国の歪な平和は、潜入工作員の姿勢すらも妙な方向へと揃って歪ませてしまうようです。


「同感です、泥棒に入りやすい家はありがたい

ですが鍵すら掛かっていない金庫を開けても、何の張り合いもありませんからね


貴重な情報提供、感謝しますよ

同胞の無事の潜伏と、この国の少しばかりの防衛力向上を祈って、私もささやかながら売上に貢献するとしましょう」


「おお!いいですね、ゆっくり選んでください!

故郷じゃないけど売り子として誇れるくらいには、どれを買っても得しますよ!今治タオル!」


私は青年にゆるく手を振り、陳列棚へと向かいました。


原価、人件費、店舗の水道光熱費。ふわふわの生地を取り巻く背景は如何なものでしょう。

タオルを形作る糸の一本までもが、私に現実の重みを感じさせた。


誰かに使われ、汚れ、捨てられる。

親近しかないそれをレジに通し、包装を断って外に出た。


早速パッケージを取り、傾いた陽射しを受けて茜色に染まる今治タオルを首に巻く。

確かな満足感を胸に美術館の敷地を出ると、私はたすき掛けにしたスマホ弾帯から、手近な一台をスッと引き抜きました。


なにせ、本日の宿泊地を確保しなければならない時間ですので。


元の世界であれば、暗殺を警戒してワームホールにて隠れ家へと撤退し、罠を点検し、ハトソンと見張りの順番を決めるという命がけの作業が待っている時間帯。


ですが、ここは勝手が違います。


画面をタップし、予約サイトのアプリを起動する。


「現在地周辺…シャワー付き、動物可の宿…他の旅行者との遭遇は避けられるのが良いですね

おお、ここなど景観が良さそうだ。ポチッ、と」


ものの数分。画面に“予約が完了しました”という文字が表示されます。


「完了です。宿屋の親父に足元を見られることも、深夜に強盗に襲われる心配もない


ただガラスの板を数回タップするだけで、フカフカのベッドと安全が確約される

…本当に、毎日が奇跡のような世界ですねぇ。ぶち壊したくなるぐらいに」


私は弾帯にスマホを戻し、首に巻いた最高級のタオルを指先で撫でました。

見知らぬ街、美味しい食事、そして安全な夜。


「さあハトソン、本日の城へ向かいましょうか。明日はさらに、西を目指してみるのも一興ですね」


「クルックー!」


ハトソンの陽気な鳴き声に同意するように微笑みながら、私は茜色の空の下、スマホのナビが示す移動経路を辿って歩き出しました。


バスに乗り込み、駅に戻ってみきゃんの消えたホームを抜け、ガタンゴトンという鉄の箱の揺れに身を預けても尚、道のりは続く。


船着き場に踏み入れ、カモメの笑い声も聞こえない船上で、潮騒とエンジンの低い唸りに身を預けます。

今治から南下し、松山の港からフェリーに乗り換え、宿泊先への王手を決めた私は、穏やかな瀬戸内の海を滑るように進んでいました。


「素晴らしい…敵船もセイレーンも現れず、船を囲むのは波の飛沫だけ。おまけに船内では自販機で飲み物が買える


これほどまでに安全な航海が存在するとは、あちらの荒くれ船長たちが聞いたら、悔しさでラム酒に火をつけて難破するでしょうねぇ」


潮風を胸いっぱいに吸い込みながら、私は遠くに見えてきた小さな島影に目を細めました。

本日の目的地、松山市に属する離島、睦月島(むづきじま)です。


船が小さな港に着岸し、のどかな空気が漂う島へと降り立ちます。弾帯のスマホが示すマップを頼りに、海沿いの細い道を歩くこと十数分。

やがて、美しく手入れされた庭と、涼しげな屋外プールを備えたモダンな平屋の建物が見えてきました。

今宵の拠点、民泊貸別荘“フェザンツ2”とご対面だ。


「さて、ハトソン」


私は立ち止まり、肩に留まる相棒を指先でチョイとつつきました。

そして、ワームホールから、真鍮製のアンティークな鳥籠を取り出しました。


「プルルルルル?」


「ええ、事前にサイトで確認したところ、ここは“ペット可”の素晴らしいお宿です。ですが、紳士たるもの、いくら許可されているとはいえ節度は守りませんとね。さあ、チェックインの間だけでも、こちらへ」


「ンっんー」


私の言葉に、ハトソンは尾羽根を揺らしながら、渋々といった様子で自ら鳥籠の中へ歩み入りました。


「いい子です。郷に入れば郷に従う。それが一流の密偵の嗜みですからね」


私は鳥籠を恭しく提げ、貸別荘の敷地へと足を踏み入れました。

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