プライベートは土の上
私は佐藤に背を向けると、誰も見ていない死角に入り、空間の座標をこじ開けました。
青白い光を放つワームホールの中に、私は迷いなくインバネスコートを脱ぎ捨てて放り込みます。
「さて…いくらコンプライアンス遵守の善良な市民を演じているとはいえ、本職の勘が働いてしまった以上、見過ごすわけにはいきませんね」
私は袖をまくり上げると、足元の湿った土を無造作に両手で掬い上げました。
そして、一切の躊躇なく、仕立ての良いスーツから顔面、首筋に至るまで、全身にべっとりと泥を塗りたくっていきます。
人間の匂い、整髪料の香り、石鹸の残り香。それら獣が最も警戒する“異物”の気配を、大地の匂いで完全に上書きする。
見た目は狂気に満ちた泥遊びのオッサンですが、これこそが、視覚よりも嗅覚に頼る獣の領域へ踏み込むための最低限の礼儀というものです。
「…手出しは法律で固く禁じられていますからね。武器は使いません
ですが、彼らの巣を突き止め、防衛戦の参考情報として提供するくらいなら…善良な隣人の親切として、許されるでしょう」
私は泥まみれになった靴音を完全に殺し、重力を感じさせない足運びで、音のした茂みへと滑り込みました。
枝を踏むことも、葉を揺らすこともなく、ただの“影”となって山林を縫うように進みます。
数分後。風下から慎重に接近した私の視界に、目当ての影が映り込みました。
薄暗い木立の奥。
そこには、昨晩私たちのトラップを嘲笑うかのように畑を荒らそうとした、あの巨大な雄イノシシと、数頭の雌、そしてウリ坊の群れが、鼻先で地面を掘り返しながらゆっくりと移動していました。
(…やはり、まだこの近くを徘徊していましたか)
私は木の幹に同化するように身を潜め、呼吸のペースを極限まで落としました。
彼らは油断しているわけではありません。時折立ち止まり、巨大な耳をピクピクと動かして周囲の気配を探っています。
しかし、全身を泥でコーティングし、気配を完全に絶った私に気づく様子はありません。上空では、ハトソンが音もなく旋回し、私の視角を補ってくれています。
(さあ…あなたたちの帰るべき城はどこですか。案内していただきましょうか)
私は、法治国家のルールに縛られ、狩猟免許も持たない“手ぶらの観測者”として、この島を脅かす自然界のテロリストたちの足跡を、静かに、そして確実な殺意を隠し持って追跡し始めました。
山林の奥深く、陽の光すら遮られる鬱蒼とした獣道を、私は泥と同化しながら進んでいました。
一歩、また一歩。枯れ枝を踏む音さえもコントロールし、呼吸は風の音に紛れさせる。帝国暗殺部隊の基礎訓練の賜物ですが、まさか異世界で豚の親戚のストーキングに役立つとは、教官も草葉の陰で泣いていることでしょう。
私は歩みを進めながら、そっと右目を瞑りました。
――カチリ、と。脳内でスイッチが切り替わるような感覚と共に、私の閉じた右目の裏側に、もう一つの「視界」が展開されます。
それは、はるか上空から森を見下ろす、俯瞰の映像。特注の三つ揃えスーツを着込んだ小さな相棒――ハトソンが、空から送ってくるリアルタイムの監視映像です。
彼は私に地上の様子を正確に伝えるため、わざわざ体を斜めに大きく傾け、片目で森の隙間を縫うように旋回してくれています。
「素晴らしい連携です、ハトソン。そちらのバッテリー切れを心配する必要もない、我が帝国が誇る最強の生体ドローンですね」
私は心の中で相棒を称賛しつつ、左目で地上の障害物を避け、右目で上空からのルートを確認するという、脳の処理能力を極限まで酷使するデュアルビジョンで追跡を続けました。
上空からの視点によれば、イノシシの群れは迷うことなく、ある一点を目指して進んでいます。
やがて、群れの足取りが緩み、斜面の奥に隠された窪地へと滑り込んでいきました。
私も気配を絶ったまま、風下からそっと斜面を這い上がり、茂みの隙間から眼下を覗き込みました。
「…おや。見つけましたよ」
そこは、竹林と倒木に囲まれた、天然の要塞のようなすり鉢状の地形でした。
地面は柔らかく掘り返され、大量の枯れ葉やシダがフカフカのベッドのように敷き詰められています。
あの巨大な雄イノシシをはじめ、群れの個体たちが次々とその窪地に身を横たえ、満足げに「フゴォ」と鼻を鳴らして休息に入りました。
彼らの“巣”です。
私は茂みに身を潜めたまま、さらに視覚と嗅覚を鋭く研ぎ澄ませました。ここからが、探偵…もとい、工作員としての本題です。
(さて。一番肝心なのは、こちらの厄災どもが『肉の味』を覚えているかどうか、ですが)
かつてこの島で起きたという、犬と鶏がイノシシに惨殺された事件。
野生動物が縄張りを守るため、あるいは脅威を排除するために他の動物を殺すことは珍しくありません。しかし、もし奴らがその死体を「食べて」いたとしたら。
栄養価の高い肉の味を覚え、積極的に小動物や――最悪の場合、人間を「餌」として認識している個体群だとしたら、ただの農業被害では済まなくなります。
私は目を凝らし、巣の周辺に散乱している残骸を一つ一つチェックしていきました。
「…骨の類は、見当たりませんね。獣特有の、腐肉や血の酸化した鉄錆のような匂いも感じない」
鼻腔に届くのは、獣臭さに混じって、土の匂い、そして…微かに甘酸っぱい、柑橘類の発酵した匂いと、タケノコの残骸の青臭さです。
巣の周りに散らばっているのも、噛み砕かれた果実の皮や、野菜のクズばかり。
「なるほど。あの犬や鶏の悲劇は、あくまで自己防衛…あるいは障害物の『排除』であり、『捕食』が目的ではなかったということですか。
奴らの主食はあくまで、農家が丹精込めて育てた作物の糖分と、自然の植物というわけですね」
少しだけ、安堵しました。
もし奴らが肉の味を覚え、人間すらも餌と見なす完全な『魔獣』に成り果てていたのなら――いくら私でも、魔法も銃器も縛られた丸腰の状態で、そんな怪物の群れを相手にするのは不可能です。
そんなことになれば、農家の防衛線再構築などと悠長なことは言っていられず、今すぐ山を下りて佐藤殿の襟首を掴み、問答無用で本島行きのフェリーへ引きずり乗せて、この島を捨てるしかなかったところでしたからね。
とはいえ、私の目と鼻による推測だけで報告書を書き上げるのは、三流のやることです。確たる物証を揃えてこその、一流の工作員。
「…はぁ。やりたくはありませんが、これも仕事です」
私は深いため息を吐き、ワームホールを指先で数センチだけ開き、そこからジップ付きの透明な保存用ポリ袋と、割り箸を一本取り出しました。
そして、イノシシたちが微睡んでいる隙を突き、音もなく巣の端っこ――彼らの“トイレ”となっているであろう場所へと這い進みます。
「…うん、立派な落とし物ですね。色艶といい、消化具合といい、健康そのものだ。実に腹立たしい」
私は完全に無の境地に達した顔で、割り箸を使ってその黒々としたブツを摘み上げ、保存袋へと放り込みました。
しっかり密封し、ニオイが漏れないことを確認してから懐に収めます。
「これを持ち帰り、佐藤殿の家で解体して中身を見分するとしましょうか。未消化の植物繊維や種子を調べれば、奴らの正確な食性と、この島での行動範囲が割り出せるはずです。
…まあ、自宅の客間で他人の排泄物をほじくり返される佐藤殿は発狂するかもしれませんがね。これも彼自身の畑を守るための重要なプロセスです、泣いて我慢してもらいましょう」
任務完了。私は静かに身を翻し、イノシシの巣から距離を取りました。
敵の拠点は特定した。彼らの食性の裏付けとなる証拠も手に入れた。
あとはこれを持ち帰り、分析結果を元に、奴らの「好む匂い」と「嫌がる要素」を組み合わせた、法に触れない極上のリーガル・ハラスメント防衛線を再構築するだけです。
「さあハトソン、帰りましょう。そろそろ、泥を洗い流してシャワーを浴びたい気分ですからね。あの親子が余計なことをしてくれていないと良いのですが」
私は右目を開き、上空の相棒に撤収の合図を送ると、夕闇に沈む山林を、音もなく下っていきました。
その日の夜。
私は佐藤殿にお借りしたシャワーで全身の泥を念入りに洗い流し、身綺麗になったところで、いよいよ今夜のメインイベントへと取り掛かることにしました。
古民家の客間。その畳の上に何重にも新聞紙を敷き詰め、私は使い捨てのマスクとゴム手袋を完全装備して、懐からジップ付きの保存袋を取り出しました。
「さあ、オペの始まりです。この小さな証拠品から、奴らの生態と弱点を丸裸にして差し上げましょう」
私が割り箸を使って、袋の中身――イノシシの黒々とした排泄物を新聞紙の上にゴロンと転がした瞬間でした。
「…うぇぇ…っ」
部屋の隅で、佐藤が口元を覆いながら、今にも吐きそうな顔をして壁に背を預けていました。
「鈴木さん…人間って、いっつもそうですよね…」
彼は涙目で私を睨みつけながら、心底理解できないというように首を横に振りました。
「僕らみたいな獣や魔物を追いかける時、なんで必ず『うんこ』を検分するんですか?
未消化物から食性や行動範囲を割り出す…理由はわかりますよ?わかりますけど、他人の排泄物を真顔でほじくり返すその神経が、僕にはどうしても理解できないんですよ…ッ」
獣人である彼にとって、テリトリーで他者の排泄物を解体されるというのは、生理的嫌悪感以前に尊厳を抉られるような気味の悪さがあるのでしょう。
「おや。工作員たるもの、汚物の中から真実を拾い上げるのは基本中の基本ですよ
情報とは常に、最も泥臭く不潔な場所に隠されているものです」
私は割り箸の先でブツを慎重にほぐし、中に混ざっている植物の繊維や未消化の種子を一つ一つピンセットで選り分けながら、涼しい顔で答えました。
「それに、他人の排泄物を探る神経が理解できないと仰いますが…もっと理解できない話をしましょうか?」
「え…?」
「私にはね、『オリジナル』がいるんです。私というクローンの元となった、遺伝子の提供者が
そいつに至っては…」
言いかけて、私は不意に口を噤みました。
思い出すだけで、私の内なる紳士としての品格が音を立てて崩れ落ちそうになります。
あんなものを言語化してしまえば、私の喉まで汚染されてしまう。
「…いえ。やはり、やめておきましょう」
私は深くため息をつき、ピンセットを置きました。
「ざんきが、まずくなりますからね」
「ざ、ざんき…」
「ええ。先ほど島の方から差し入れでいただいた、鶏の唐揚げですよ
見事な下味と、衣のサクサク感
冷めても美味しい素晴らしい郷土料理ですが、あのオリジナルの奇行を反芻しながらでは、せっかくの脂の旨味も胃袋の中で腐敗しそうですから」
目の前の糞など、彼のやらかしてきた精神的汚物に比べれば、無菌室のように清潔なものです。
「…そうですか。まあ、僕の方も、すでにこの部屋の匂いにやられて限界ですしね…」
私のそのひどく疲労した声色に、尋常ではない闇を感じ取ったのか、佐藤がオリジナルの話を追及してくることはありませんでした。
げんなりした顔で立ち上がると、台所の方へ向かい、湯気を立てている小鉢を持って戻ってきました。
「クルックゥ?」
鳥籠の中で暇そうにしていたハトソンが、その匂いに反応して首を伸ばします。
小鉢の中に入っていたのは、丁寧に茹でられ、温められた甘いとうもろこしの粒でした。ハトソンの大好物です。
「ほら、ハトソンさん。向こうで食べましょう」
「クルルッ!」
佐藤の呼びかけに、ハトソンは嬉しそうに羽をパタパタとさせ、彼の肩へと飛び移りました。
「鈴木さん、僕はもう限界なんで隣の部屋に避難します
…その解体作業が終わったら、しっかり換気してくださいよ」
「ええ、承知しました。そちらも、ハトソンにあまり塩分の強いものは与えないでくださいよ。彼のスーツのボタンが弾け飛びますから」
佐藤とハトソンが足早に客間を去っていくのを見送り、私は再び、一人静かに新聞紙の上の物体へと向き直りました。
「さて…果実の種子に、タケノコの繊維。やはり、肉食の気配はありませんね。ついでに好き嫌いもわかりました。これなら、忌避剤の配合も甘酸っぱい発酵臭をベースに調整すれば…」
深夜の古民家。
隣の部屋から聞こえるタヌキと鳩の和やかな咀嚼音をBGMに、私は一人、迫り来るイノシシ軍団へのリーガル・ハラスメント防衛線の構築に向けて、黙々と汚物の分析を続けるのでした。
深夜の古民家に、無遠慮な打撃音が鳴り響いた。バンバンバンッ!と、玄関の引き戸が悲鳴を上げている。
「すいませーん!起きてますか!?」
「…おや。夜中になんの騒ぎですか。非常識にも程がある」
私はピンセットを置き、深い溜息を吐いた。
「昼間にあのお子様を少しおちょくった件のクレームでしょうか
モンスターペアレントの執念は魔獣を凌ぐと聞きますが、無視に限りますね。居留守を決め込みましょう、佐藤殿」
「いや、そうしたいのは山々なんですが…なんか、様子がおかしいですよ」
隣の部屋から出てきた佐藤は、扉の向こうの切羽詰まった声に首を横に振った。彼は私が止める間もなく土間へ向かい、ガラリと戸を開けてしまう。
「りくとが!りくとがここに来てませんか!?」
扉が開いた途端、夜の闇に紛れて飛び込んできたのは、あのヒステリックな母親だった。息を乱し、髪を振り乱して佐藤に詰め寄っている。
「落ち着いてください、奥さん!いきなり来られても…」
彼女の背後には、ランタンを持った地元の老人――原田さんと呼ばれていた現地人が、申し訳なさそうに立って彼女をなだめていた。
「すまんねえ、夜分遅くに。あんたらの前にも何軒か回ったんじゃが…息子さんが行方不明らしくてな」
行方不明。その単語を耳にした瞬間、私の脳裏に昼間の光景がフラッシュバックした。
『僕一人で鬼退治行くもん!!』『行くぞ、コタロー!あんな役に立たない大人たち、放っといて僕たちだけでやるんだ!』
額に『日本一』と書いた布を巻き、木の棒を振り回しながら山へ向かっていった少年の姿。
まさか。いくら子供の無謀な思いつきとはいえ、本当にあのイノシシの巣窟へ足を踏み入れたというのか。
「…奥様。一つ、お伺いしても?」
私は土間に降り、母親に向かって静かに声をかけた。
「りくと君と一緒にいた、コタロー君はどうしていますか?彼の優れた嗅覚があれば、捜索の役に立つかと思うのですが」
「コタローも…コタローもいないのよ!裏庭の鎖が外れてて…二人とも、どこにもいないの!!」
私は、スッと目を細めた。犬も消えている。つまり、ノーリードの小型犬と、木の棒を持った子供が、防衛本能ゼロの状態で魔獣のテリトリーに突撃したということだ。
結末は火を見るより明らか。最悪の惨劇がすでに幕を開けている。
パニックに陥り、泣き叫ぶ母親に「あなたの息子は今頃、イノシシの牙にかかってミンチになっているでしょう」と真実を告げるほど、私は野暮ではありません。
私は無言のまま佐藤の肩を軽く叩き、持っていたスマホの画面を彼に見せた。そこには、メモアプリで短く打ち込まれたテキスト。
『昼間、犬と一緒に山へイノシシ退治に行くと言っていた。今すぐ追わないと手遅れになる』
画面を見た佐藤の表情から、一瞬で血の気が引いたのがわかった。彼も元工作員。事態の深刻さと、残された時間のなさを即座に理解したのだ。
「…奥さん。こっちでは夜、りくと君の姿は見ていません」
佐藤は瞬時にプロの声音に切り替え、母親の両肩を掴んで真っ直ぐに目を見た。
「僕たちもすぐに探してみますから、りくと君ママは、念のため海側の方面や、大通りの方を探してもらっていいですか?
原田さん、彼女のこと、絶対に一人にしないでお願いします!」
「あ、ああ、わかった!行くぞ、奥さん!」
原田老人が力強く頷き、泣き崩れそうになる母親を支えながら、再び暗い夜道へと引き返していく。
二人の足音が遠ざかるのを確認した瞬間、佐藤は弾かれたように土間へ飛び降り、泥だらけの長靴に足を突っ込んだ。
「ごめんなさい、鈴木さん。マジでヤバいんで、目ぇ貸してください!」
佐藤が私の手首を強く引き、山の方角を指差した。彼一人では夜の山林の捜索は困難。私の右目に繋がる上空からの視界と、暗視能力が必要だということだ。
「…やれやれ。私のバカンスは、どうやらトラブル解決のボランティア活動にすり替わってしまったようですね」
私はため息をつきつつも、素早くインバネスコートを翻し、指を鳴らした。
「ハトソン!」
「クルックゥ!」
奥の部屋から特注スーツの相棒が羽ばたき、私の肩にピタリと留まる。
「上空からの索敵を頼みます。熱源反応、特に小さな二つの動く対象を見つけなさい」
私たちは懐中電灯の明かりすら点けず、月の光だけを頼りに、昼間に確認した山の斜面へと駆け出した。
夜の山林は、不気味なほど静まり返っていた。風が木々を揺らす音と、私たちの踏みしめる土の音しか聞こえない。
それが、何よりも恐ろしかった。昼間、あれほど鼓膜を突くようにキャンキャンとやかましく響き渡っていた無駄吠えの嵐。
あのコタローの甲高い鳴き声が、今は影も形もないのだ。
静寂は時として、最も雄弁に最悪の結末を語る。私たちは一言も交わすことなく、ただ冷たい汗を背中に流しながら、漆黒の木立の奥へと歩みを進めていった。
極寒の雪と氷に閉ざされた我が帝国ではお目にかかれない、まとわりつくような湿気と、耳障りな羽虫の羽音。鼻腔を突く濃密な獣の匂いに、足元の腐葉土を滑るように這いずっていく蛇。
この国の自然は、平和で清潔な街並みとは裏腹に、夜の帳が下りた途端に野蛮な魔境へとその姿を変えます。
タヌキの獣人である佐藤殿は、流石に夜目が利くのか、この暗闇の中でも木々の隙間を縫うようにスイスイと進んでいきます。
一方、私の肩から飛び立ったハトソンもまた、月明かりに照らされた森の上空を静かに旋回していました。




