↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
バーロック・ワームズの供述書  作者: ダム底タヌキ
プライベート編
17/23

犬をしまえ

な

「奥さん、違います!コタロー君が危なかったんです!さっきまでそこに、巨大なイノシシが…!僕たちが駆けつけなかったら、今頃この子は噛み殺されてましたよ!

お願いです、今すぐ家の中に入れてやってください!!」


「はぁ!?」


母親は鼻で笑い、佐藤を狂人でも見るような目で見下しました。


「イノシシ?どこにいるのよ、そんなもの!だいたい、コタローが吠えてたのは、あんた達みたいな不審者が庭に入ってきたからでしょ!

うちの子が不審者を追い払おうと頑張ってたのに、邪魔しないでちょうだい!」


「ち、違います!芝生を見てください!あんな巨大な蹄の跡、犬の足跡じゃないでしょう!?」


佐藤が指差した先。月の光に照らされた芝生には、確かにイノシシが土を力強く蹴り上げた、生々しい爪痕と抉れた跡が残っていました。


それを見た瞬間、母親の顔色がスッと変わりました。

彼女も馬鹿ではありません。その破壊の痕跡が、小型犬や人間のスニーカーによってつけられたものではないことくらい、一瞬で理解したはずです。


(…やばい、本当にイノシシが来たの?コタロー、食べられかけてた…?)


彼女の瞳の奥に、明確な『恐怖』と『不安』がよぎったのを、私は見逃しませんでした。

これなら、犬を玄関に入れるくらいの妥協は引き出せるかもしれない。そう思った矢先のことでした。


「コタローは強いんだぞ!!」


母親の背後から、りくと君がムキになって叫びました。


「コタローがワンワン吠えたから、イノシシ逃げてったんでしょ!?僕のコタローは最強の番犬なんだから、イノシシなんかに負けないもんねー!!」


彼は無邪気に、コタローの頭をガシガシと撫で回します。子供特有の、「自分のペットが一番強い」という根拠のない全能感。


その言葉を聞いた瞬間。

母親の瞳の中に浮かんでいた『不安』が、急速に別の感情――『面倒くささ』と『プライド』によって上書きされていくプロセスを、私ははっきりと観測しました。


(そうよ…ここで犬を家に入れたら、この気味の悪い男たちの言うことを認めたことになる。

それに、こんな夜中に犬の足を拭いて、抜け毛の掃除をして、玄関にトイレシートを敷くなんて…面倒くさすぎる。りくとも『強い』って言ってるし、なんとかなるでしょ。たかが野生動物一匹に、人間様がビビって生活スタイルを変えるなんて馬鹿げてるわ)


「…ふふっ、聞いた通りよ」


母親は、再び強気の、そしてひどく傲慢な笑みを顔に貼り付けました。


「うちの子は優秀な番犬なの。あんた達がしゃしゃり出なくたって、自分で自分の身くらい守れるわ!だから、二度とうちの敷地に立ち入らないで!

次来たら、本当に通報するからね!!」


バタンッ!!!


重厚な断熱ドアが、一切の慈悲もなく閉ざされました。ガチャン、と内側から鍵が二重にかけられる音が、夜の空気に虚しく響きます。


「…う、嘘だろ…」


佐藤は、閉ざされたドアと、何も分からずに尻尾を振っているコタローを交互に見つめ、その場に崩れ落ちそうになりました。


「おい、コタロー…お前、自分が今、どれだけヤバい状況にいるか分かってねぇだろ…。あの親、本当に見殺しにする気かよ…ッ!」


「行きましょうか、佐藤殿」


私は、絶望に立ち尽くす工作員の肩を軽く叩きました。


「…鈴木さん。でも、このままじゃ…」


「これ以上は不法侵入です。それに、我々はやるべきことをやりました。危険を報せ、証拠を見せ、解決策を提示した。それを拒絶したのは、彼女の『怠惰』と『見栄』です」


私はステッキで、冷たいアスファルトの地面をコツンと鳴らしました。


「人間の精神構造というのは、本当に滑稽ですね。

目の前に死の危険が迫っていても、『これまでの日常を変える面倒くささ』や『他人に指図される屈辱』が勝った瞬間、脳は都合よく現実を歪曲する。『うちの犬は強いから大丈夫』『明日は来ないかもしれない』と、根拠のない正常性バイアスに縋りつくのです」


「…そんな、クソみたいなプライドのために、この子の命が…」


「ええ。ですが、それがこの平和な国で温々と育った人間の限界というものです」


私は、ドアの向こう側の、温かく安全な家の中にいるであろう親子に向けて、冷ややかな視線を投げました。


「悲劇というのは、悪魔の気まぐれで起こるのではありません。

大半の悲劇は、こうした『ちょっとした面倒くささ』と『根拠のない楽観』の積み重ねによって、自ら招き寄せるものなのです。…彼女は今、自分の手で、愛犬の死刑執行書にサインをしたのですよ」


「…ッ」


佐藤はギリッと唇を噛み締め、最後にもう一度だけコタローを見つめると、重い足取りで私についてきました。


「キャン!キャンッ!」


背後からは、私たちが去っていくのを見送るコタローの、無邪気で呑気な声が響いています。

自分が鎖という名の絶対的な拘束具に繋がれ、逃げることも隠れることもできない“生きたルアー”にされているとも知らずに。


「…夜風が、冷えてきましたね。明日の朝、この島にどんなニュースが駆け巡るのか。探偵として、静かに見守るとしましょうか」


私はインバネスコートの襟を立て、うなだれるタヌキの獣人と共に、暗い夜道を引き返していきました。

明日の朝食は、少し味付けを濃くしたほうが良さそうですね。どうにも、口の中に苦いものが残って仕方がありませんから。



翌朝。


私が借り受けた古民家の客間にて、手際よくパッキングを済ませた私は、泥だらけのまま座り込んでいる佐藤に向かって声をかけました。


「さて、佐藤殿。私はそろそろ、この島を後にして次の調査地域へ向かおうと思います」


「えっ…待ってくださいよ、鈴木さん!」


佐藤は血相を変えて立ち上がり、私のインバネスコートの裾を掴みました。


「帰るなんて言わないでください!お願いです、鈴木さんのその…プロの技術で、あのイノシシどもを始末してもらえませんか!?」


「お断りします」


私は一秒の逡巡もなく、冷たく即答しました。


「バレなきゃ犯罪じゃないんでしょう!?鈴木さんのワームホールなら、死体ごと別の次元に捨てて証拠隠滅だってできるじゃないですか!」


「あのですね、佐藤殿。何度言えば理解できるのですか」


私はステッキを床にトン、と突き、呆れたように溜息をつきました。


「『バレなきゃ犯罪じゃない』などという三流悪党の思考は、このカラス頭の楽園の恐るべき警察機構の前では命取りです。いいですか?

何の痕跡も残さず、誰の記憶にも留まらない完全犯罪など、現実には存在しない。必ずどこかに綻びは生じます。特にあの狂暴な猪の群れを相手に、騒ぎも血痕も残さずに処理するなど、非効率極まりない。


私は帝国の工作員であって、貴方の個人的な私怨を晴らすためのボランティアではありません。そんなに奴らを始末したいのなら、ご自身の手でどうぞ」


私の冷酷な宣告に、佐藤はギリッと唇を噛み締めました。


「…僕自身の手で」


「ええ。貴方も元々は万国で生き抜いてきた獣人でしょう?

牙を抜かれた犬のようにお偉いさんのルールに怯え、泣き寝入りするくらいなら、自分の手でケリをつければいい。それが本来の貴方の『野生』ではないのですか?」


佐藤はハッと息を呑み、そして、ゆっくりと顔を上げました。

その瞳の奥には、昨日までの情けない悲壮感は消え去り、冷たく、そしてドス黒い決意の炎が灯っていました。


「…そうですね。人任せじゃダメなんだ。僕だって、やれるはずだ」


佐藤は呟きながら、自分の泥だらけの拳を強く握りしめました。


「…相手の居場所、つまり『巣』を手繰って壊すのは、僕も昔、帝国の仕事で経験があります。

そうだ。今回だけ、手段を選ばずに奴らを凌いで…その後で、正規の狩猟免許を取ればいい。まずは目の前の脅威を排除する…ッ!」


彼の瞳に、工作員としての冷徹な狂気が戻ってきました。どうやら、彼の『理性のリミッター』は完全に外れたようです。


「結構。その意気や良し、です。ですが、佐藤殿」


私は佐藤の拳を掴んでほぐし、冷ややかに釘を刺しました。


「くれぐれも、捕まる時は我々帝国の情報を漏らさないようにお気をつけください


完全犯罪というものは、貴方が想像しているより遥かに困難なものですからね…万が一、警察の取り調べでボロを出せば、イノシシより先に、貴方を処理することになりますよ」


「…わかってます」


佐藤の覚悟の決まった顔を見て、私は小さく息を吐きました。


「まあ、よろしい。貴方がそこまで腹を括ったというのなら、私も証拠隠滅のサポートと、結末の見届けくらいはして差し上げましょう

もう暫く、この島に滞在することにします」


「す、鈴木さん…ッ!」


「勘違いしないでください。あくまで、レポートの“現地住民のゲリラ的防衛戦術”の項目を充実させるための観察に過ぎません」


私はそっぽを向きながら、彼と共に古民家を出ました。


外に出ると、集落の中心部から、何やらただならぬ喧騒が聞こえてきました。

私たちが足早に広場へ向かうと、そこには島中の農家や老人たちが集まり、重苦しい空気に包まれていました。


その中心で、昨日私にジュースを振る舞ってくれた老爺が、旧式のスマートフォンを握りしめ、顔を真っ赤にして怒鳴っています。


「だから!頼むよ、健一!今回だけ、今回だけでええから、島に戻ってきてくれんか!

お前のその“免許”と“銃”があれば、一晩でカタがつくじゃろが!」


老爺は、島外へ引っ越した息子か親戚に向かって、必死に頭を下げて電話越しに懇願しているようでした。


「みかん畑が荒らされるのは、もう慣れちょる。けどな、今回は命が掛かっとるんじゃ!頼む、旅費も手間賃も出す!どうにか有給取ってでも…!」


だが、電話口からは何やら困り果てたような、しかし冷たいトーンの断りの声が漏れ聞こえてきます。


その光景を見かねた周囲の老人たちが、老爺の肩をポンポンと叩き、力なく首を振りました。


「もうやめなよ、茂さん。健一だって、向こうで家族と仕事があるんじゃ。あんまりしつこくすると、盆暮れの帰省すらしてくれんようになるぞ」

「そうじゃ。ひと様の家庭も大事じゃが、それでうちらの親子関係まで壊してちゃ、ざまないよ」

「行政の壁が厚いんは、あいつも分かっとるんや…今の法律じゃ、他所の土地で急に猟銃ぶっ放すなんて、リスクが高すぎるんよ…」


周囲の説得に、老爺は「くそっ…!」と声を震わせ、沈痛な面持ちでスマートフォンの通話を切りました。

その背中は、昨日見た時よりもさらに一回り小さく、深い絶望に押し潰されているように見えました。


「おや」


私は、その光景を遠巻きに眺めながら、感心したように呟きました。


「皆さん、随分と当事者意識がしっかりしていらっしゃる

ただの農作物被害というには、あまりにも切迫した悲壮感が漂っていますね。この島で、過去に何があったのですか?」


私の問いに、隣に立つ佐藤が、重苦しい声で口を開きました。


「きっかけは、カラーヒヨコだったそうです」


「カラーヒヨコ?あの、お祭りの屋台などで売られている、人工的に着色された鳥の雛ですか?」


「ええ…あそこで電話をかけていた茂さん。彼が子供の頃、本島のお祭りで買ってきたカラーヒヨコを、すごく大事に育ててたらしいんです


大きくなって立派な鶏になったのはいいんですけど、家の中では飼えなくなってしまって…それで、親と協力して、庭に立派な鶏舎を建てたそうです」


佐藤の顔が、わずかに引き攣りました。


「でも、ある晩…外飼いしていた番犬ごと、山から降りてきたイノシシに食われたそうです」


「…犬ごと?」


「ええ。秋田犬みたいな、結構おっきい犬だったらしいから、普通ならイノシシだって警戒して襲わないはずだったんですがね…


その犬、鶏が襲われているのを助けようとして、自分からイノシシに立ち向かって…そのまま、鶏もろとも食い殺されたんです」


私は、息を呑みました。昨夜、私たちが川上家の前で必死に警告したあの光景が、かつてこの島で、最悪の形で現実になっていたというのか。


「…ここにいる老人たちはみんな、茂さんの同級生なんですよ」


佐藤は、広場に集まる悲痛な顔の老人たちを見渡しました。


「ちょうど多感な子供の頃に、血まみれになった犬と鶏の残骸…その凄惨な事件の爪痕を、直接目撃してしまった世代が大半なんです


だからこそ、イノシシが山を下りてくる恐怖も、外飼いの犬がどうなるかも、骨の髄まで理解している

そりゃあ、何十年経っても、死の実感は消えないでしょうよ」


過去の凄惨なトラウマと、現在進行形の獣害。この島の住人たちは、ただの農業被害としてではなく、「かつての惨劇が再び繰り返される恐怖」と戦っていたのです。


「…なるほど、そういうことでしたか」


私は静かに目を伏せました。


昨夜、あの傲慢な母親が『うちの犬は強いから大丈夫!』と笑い飛ばした言葉が、いかに愚かで、いかにこの島の人々の古傷を土足で踏みにじる行為だったか。


「…だからといって、大っぴらに手出しはできませんがね」


私は小さくため息をつき、ステッキ代わりの長傘で足元の小石を軽く弾きました。


いくら彼らの過去のトラウマが重く、悲惨なものであろうと、私が帝国の工作員であるという事実は変わりません。

同情に駆られて公にイノシシの駆除に乗り出せば、たちまち身元を洗われ、銃刀法違反や鳥獣保護法違反で警察沙汰になるのは火を見るより明らか。私の“鈴木誠”としての戸籍が傷つくことだけは、絶対に避けねばなりません。


「…まぁ、証拠を残さない“見届け”くらいはしてあげましょう。私は寛大な探偵ですからね」


私は気を取り直し、広場を後にして佐藤の管理する畑へと向かいました。

イノシシの被害を免れた一部の農地では、来年の収穫に向けた、次の農業サイクルがすでに始動していたのです。


「鈴木さん、悪いですね。わざわざこんな手伝いまでしてもらって」


「構いませんよ。潜入調査の一環として、この国の農業技術の基礎を体得しておくのも悪くありませんから」


私はインバネスコートを脱ぎ、支給された麦わら帽子と軍手を身につけて、佐藤と共に柑橘類の木の前に立ちました。

日差しは暖かく、瀬戸内海の穏やかな風が葉を揺らしています。


「それにしても…私はあちらの世界で、土に埋めれば数日でポコポコと収穫できる芋や根菜類しか育てたことがないのですがね。果実というのは、意外と大変なのですね」


私は、細かい枝を剪定する佐藤の手際を見つめながら、冗談めかして言いました。


「種を撒いて、適当に水をやって、あとは寝て待つだけではいけないのですか?」


「ははっ、そんな上手くいくなら、僕だって毎日うどん屋を巡ってますよ」


佐藤は笑いながら、剪定バサミを器用に動かして余分な葉を切り落としていきます。


「美味しく作るなら、相応の手間が必要なんですよ。日照の計算、肥料の配合、余分な枝を間引いて栄養を集中させる剪定作業…。

でもね、鈴木さん。慣れれば結構楽しいんですよ、これ」


佐藤の横顔には、帝国の暗殺者として血みどろの任務をこなしていた頃の険しさはなく、すっかり土と緑を愛する一人の農夫の穏やかさが滲み出ていました。


「毎日見ていると、木は少しずつ表情を変えてくるんです。新しい芽が出たり、葉の色が変わったり。…不思議と、見飽きないんですよね」


佐藤はそう言いながら、葉の裏に張り付いていた緑色の小さな芋虫を、手袋越しにそっと摘み上げました。


「おや。害虫ですか?潰さないのですか」


私が尋ねると、佐藤は虫を指先に乗せたまま、少し離れた茂みの方へと歩いていき、そっと葉っぱの上に放してやりました。


「…アゲハの幼虫ですよ。柑橘の葉っぱが好物なんです。放っておくと葉っぱを丸坊主にされるから、農家にとっては敵なんですけどね」


佐藤は、茂みに消えていく小さな虫を見守りながら、少しだけ寂しそうに目を細めました。


「でも、こいつもただ生きたいだけですからね。…イノシシみたいに、人間の努力を根こそぎ破壊して嘲笑うような悪意がない分、まだ可愛いもんですよ。

自分の畑さえ荒らさなければ、どこかで綺麗に羽化してくれればいいなって…そう思っちゃうんです。甘いですかね」


「…」


私は、彼のその横顔を見て、小さく息を吐きました。

帝国の工作員が、農作物を荒らす害虫の命を慈しんでいる。かつて冷酷に人の首を刎ねていた男が、小さな命の羽化を願っている。


「…随分と、丸くなりましたね。佐藤殿」


「はは…そうかもしれませんね」


佐藤は照れくさそうに頭を掻き、再び剪定バサミを手に取りました。


「でも、守るべきものがあるっていうのは…悪くないですよ。鈴木さんも、ハトソン君がいるから分かるんじゃないですか?」


「クルックー」


私の肩で、麦わら帽子の上から顔を覗かせたハトソンが、同意するように小さく鳴きました。


「…やれやれ。私までこの国の空気に毒されてしまいそうですね」


私は苦笑しながら、手元のハサミを握り直しました。


「さあ、手を動かしましょうか。イノシシへの反撃の前に、まずはこの木々を立派に育て上げなければなりませんからね。…私も少し、この『木の表情』とやらを学ばせていただきますよ」


私たちは、穏やかな潮風の中で、次なる戦いに向けた静かな準備を続けるのでした。


「…とはいえ、全ての虫にそんな慈悲をかけているわけではないんですけどね」


アゲハの幼虫を茂みへ逃がした佐藤は、今度は木の幹に目を凝らし、樹皮の隙間に小さな木屑のようなものが落ちているのを見つけると、チッと舌打ちをした。


「おや。先ほどまでの仏のような顔はどうしたのです?」


「仏でいられるのは、葉っぱを少しかじられる程度の相手までです。野菜と果樹じゃ、集まってくる虫の『ジャンル』からして根本的に違うんですよ」


佐藤は腰に提げていた作業袋から、先端が鋭く曲がった細い針金を取り出しました。


「鈴木さんが育てていたような芋や葉物野菜なら、まぁ土の中にいるネキリムシとか、葉につくアブラムシとかですね。あれなら適当に農薬を撒いておけば、ある程度は一網打尽にできます」


「ええ。帝国の…いや、私の家庭菜園でも、強めの薬効成分を持つ液体を散布して一発解決でしたよ。虫の息の根を止める魔法の薬。この国でも使っているのでしょう?」


「当然、農薬は使いますよ。使わないと売り物になるような綺麗な実はできませんからね。でも、それを使えば一発解決…なんて甘い話じゃないんです」


佐藤は針金の先端を、木の幹に空いた小さな穴へと静かに、そして殺意を込めて差し込みました。


「まず、農薬は種類によって効く虫が違いますし、使う時期や回数も法律で厳密に決められています。何でもかんでもぶっかければいいってもんじゃない


それに…例えばカメムシ。奴らは果汁を吸って、せっかくの果実をスポンジみたいにスカスカの不良品に変えてしまうんですが、どこからともなく飛来してくるから、薬を撒いてもキリがないんです。幼虫が背中で歩くキモい挙動をするのも含めて、凄い苦手なんですよね」


「なるほど、変態挙動付きの飛行部隊ですか」


「ええ。そして一番厄介なのが、こいつらです」


佐藤が針金を穴の奥深くまで突き刺し、ギリッ、と手首を捻りました。幹の中で、何か柔らかいものがブチュッと潰れる嫌な音が微かに響きます。


「『カミキリムシ』の幼虫、通称テッポウムシです。奴らは木の内部に潜り込んで、中から幹を食い荒らして木を丸ごと枯らしてしまう。こうやって木の中に隠れられると、外からいくら高い農薬を撒いたところで、まったく届かないんですよ」


佐藤は血のついた針金を引き抜き、冷酷な目でそれを布で拭き取りました。

その顔は、先ほどまでの穏やかな農夫のものではありません。かつて万国から掻っ攫われてきて、死に物狂いで適応したサバイバーの顔でした。


「薬という全体攻撃(エリアウェポン)が通じないなら、こうやって一匹ずつ穴を見つけ出し、針金で直接内臓をかき回して物理的に暗殺(キル)するしかない。…農薬なんて、万能のチートアイテムじゃないんです。最後は結局、人間の目と手作業の泥臭い殺し合いなんですよ」


私は、彼の流れるような暗殺手技(害虫駆除)を見つめ、深く感心して手を打ち鳴らしました。


「素晴らしい。薬効の限界を物理的刺突で補う。まさに、標的の特性に合わせた暗殺戦術の極意ですね。

木を守るという大義名分のもと、合法的に暗殺のスキルを錆びつかせずに維持できるとは。農業とは、スパイの隠れ蓑として実に理にかなった職業だったのですね」


「いや、鈴木さん。別にスキルを維持したくてやってるわけじゃ…」


「謙遜は不要ですよ。その迷いのない針金の刺突、帝国暗殺部隊の教官が見ればスタンディングオベーションものです」


私が褒め称えると、佐藤は頭を掻きながら深いため息をつきました。


「…まぁ、そうやって手作業で一匹ずつ仕留めていっても、最終的にイノシシに全部へし折られたら何の意味もないんですけどね」


「おっと、そうでしたね。最大の敵を忘れてはいけません」


私は軍手をはめ直し、剪定バサミを手に取りました。


「虫の暗殺は貴方にお任せします。私は引き続き、この木々の『表情』とやらを読み解きながら、無駄な枝を切り落としていくとしましょう。

…安心してください。内側から食い破る虫の処理が終われば、あとは外から来る重装甲ミサイル(イノシシ)をどうやって物理的に絶望させるか、私が極上のトラップを考案して差し上げますから」


私たちは、瀬戸内海の穏やかな日差しを浴びながら、静かな殺意と農作業への情熱を胸に、黙々と果樹園の手入れを続けるのでした。


チョキ、と私がハサミで余分な枝を切り落とした時でした。


「キャンキャンキャンッ!キャウゥン!」


遠くの方から、高く甲高い鳴き声が風に乗って届きました。

先ほど川上家の前で聞いた、あの躾のなっていない小柴の鳴き声です。わずかに音源が移動しているところを見るに、どうやら放し飼いのままうろついているか、飼い主の気まぐれな散歩に連れ出されているのでしょう。


「…にしても、いつまで鳴いているんですかね、あの犬は。散歩か何かか」


私が忌々しそうにハサミを動かしながらぼやくと、幹の奥に針金を突っ込んでいた佐藤が、作業の手を止めずに答えました。


「ずっとですよ。あのサイズでも、そこそこ遠くまで響くんでね。まあ、皆『今日も元気だなー』って適当に聞き流してますけど」


慣れとは恐ろしいものです。あの鼓膜を削るような高音を『元気』の一言で処理できるとは、この島の人々の忍耐力は帝国軍の歩兵並みですね。


「そうですか。しかし…あのご家庭、すぐ隣にも別のお宅がありましたよね?そちらの住人は、この騒音にどう対応されているのですか?」


私の純粋な疑問に、佐藤の動きがピタリと止まりました。

彼は持っていた針金をゆっくりと下ろし、深く、ひどく重い溜息を吐き出します。そして、眉間を指で強く揉みほぐしながら、視線を暗く落としました。


「…耳栓、使ってます」


彼の声は、どこまでも沈んでいました。クレームを入れる気力すら削られ、ただひたすらに物理的な遮音で自らの精神を守るしかない隣人の悲哀。


その一言と、彼の丸まった背中から漂う凄まじい疲労感が、田舎のご近所トラブルがいかに陰湿で逃げ場のないものであるかを、如実に物語っていました。


「…ダメな飼い主持ちの犬がご近所さんだと、苦労しますね」


「防ぐ側が自腹を切って対策してるんですから、理不尽極まりないですよ…」


私は静かにハサミを構え直し、無言で枝を切り落としました。

魔獣の脅威だけでなく、隣人の非常識という名の災害。やはりこの国も、どうしようもなく生きづらさを備えている。


「…おや。なんか鳴き声、近づいてないですか?」


私がハサミを止め、音のする方向へ視線を巡らせると、佐藤も同じように作業を中断して耳をすませました。


「ですね…。えっ、まさか」


茂みがガサガサと揺れ、そこから真っ直ぐにこちらへ向かって突進してくる茶色い影がありました。

ノーリードで野に放たれた小柴、コタローです。低速ミサイルのように一直線に畑へ侵入してくるその後ろから、短い足を必死に動かして追いかけてくる半ズボンのガキ――りくと君の姿が確認できました。


「…何の用です?もしかして佐藤殿、あのお子さんに餌付けでもしてました?」


「してませんよ!!!作物が何度か毟られかけましたけど…ッ!」


「なるほど、荒らしてくるのはイノシシだけではありませんでしたか。二足歩行の害獣も防がねばならないとは、この島の農業は過酷を極めますね」


私が感嘆している間にも、コタローは私の革靴の周りを吠えながらぐるぐると回り始め、追いついたりくと君は息を切らしながらも、手に持った木の棒をぶんぶんと振り回して見せました。


「おい、おじさん!その鳩貸して!!!」


挨拶もそこそこに、初対面の大人に向かって堂々たる強奪の要求。

我が帝国であれば、即座に手首を切り落とされても文句の言えない無礼さですが、ここは平和な島国。私はあくまで紳士的に、しかし極寒の冷ややかさを込めて問い返しました。


「貸して、とはまた大きく出ましたね。そもそも私の助手はレンタル品ではありませんが…何に使うおつもりで?」


「決まってんだろ!イノシシ退治に行くんだよ!!」


りくと君は木の棒をビシッと空へ突き上げ、誇らしげに胸を張りました。

その時、彼の額に巻き付けられている薄汚れた白い布切れに気づきました。そこには、マジックで太々と“日本一”と書かれています。


「日本一…?」


私がその文字列の意図を測りかねていると、隣で佐藤が深いため息を吐きました。


「あー…桃太郎ごっこか。犬とキジ(ハト)を連れて、イノシシ(おに)退治ってことね…」


「なるほど、この国に伝わる英雄譚の模倣ですか

無謀極まりないですが、形から入る姿勢だけは評価しましょう」


「いや、鈴木さん感心してる場合じゃないです…ていうかさ」


佐藤は呆れ果てた様子で、りくと君の周囲を見回しました。


「犬と鳩で…あれ?猿、いなくね?」


その素朴な疑問に、りくと君の動きがピタリと止まりました。

そして、ニヤリと生意気な笑みを作ると、持っていた木の棒を小脇に抱え、短い指をビシッと前へ突き出してきたのです。


その指先が、農作業で泥だらけになっている佐藤を的確に捉えようとした――その瞬間でした。


「おや」


私はインバネスコートの懐から、愛用の銀細工の手鏡をサッと取り出し、りくと君の突き出した指先の真正面、数センチの距離に割り込ませました。


「え?」


りくと君の指先は、手鏡の滑らかな表面にピタリと直面し、鏡の中には、ぽかんと口を開けた彼自身の姿がくっきりと映し出されています。


「ほう!貴方が!!猿!!自己紹介ありがとうございます!!」


私は満面の笑みで、鏡越しの彼に向かって高らかに拍手を送りました。


「自ら率先してモンキーの役を買って出るとは、なんという適材適所!その身軽さと知性の欠如具合、まさに役にぴったりですね!

さあ、猿の勇者よ立ち上がりなさい、思う存分イノシシに特攻するのです!!」


ピキッ、と。


わかりやすく、りくと君の額に青筋が浮かび上がるのが見えました。

鏡に映った自分の姿と、私の極上の煽り文句に挟まれ、彼のちっぽけなプライドが音を立ててひび割れていくのが手に取るようにわかります。


「う…っ、うわあああん!おじさんたちのバカ!!もういいよ、僕一人で鬼退治行くもん!!」


完全にプライドを粉砕されたりくと君は、顔を茹でダコのように真っ赤にして地団駄を踏み、私から手鏡を奪い取ろうとするそぶりを見せた後、悔し涙を浮かべながら背を向けました。


「行くぞ、コタロー!あんな役に立たない大人たち、放っといて僕たちだけでやるんだ!」


「キャンキャンッ!」


主人の理不尽な怒りに同調するように、コタローがやけくそ気味に吠えながら、りくと君の足元を走り出します。

童話の配役からキジと桃太郎が抜け落ち、もはやただの犬猿の散歩に成り下がった一行は、ズンズンと山の方へと向かっていきました。


「あ、おい!山は危ないぞ!暗くなる前に絶対に家に帰れよ!!」


佐藤が泥だらけの手を口元に当てて叫びますが、怒り心頭の小動物二匹は振り返ることもなく、茂みの奥へと消えていきました。


「…行っちゃいましたね。大丈夫でしょうか、あの子」


佐藤は不安げに眉を寄せ、彼らが消えた獣道を見つめています。


「まあ、日が暮れる前には腹を空かせて帰るでしょう

子供の冒険心など、空腹と暗闇の前には無力ですから」


私がぼんやりと彼らの背中を見送っていた、その時でした。


――ガサッ、ブツッ。


風の音とは違う、硬い枝が無理やりへし折られるような、重く鈍い音が、山林の少し奥まった方向から私の耳に届く。


普通の人間なら聞き逃す程度の微かな異音。しかし、幾度となく死線を潜り抜けてきた私の聴覚は、それがただの自然現象ではないことを正確に告げていました。


(…おや)


私は視線を鋭くし、音の発生源である山の斜面へと意識を集中させます。


「…佐藤殿。少々、野暮用ができました」


「え?鈴木さん、どうしたんです?」


「少し気になることがありましてね。ちょっとした散歩に行ってきます」


私はステッキ代わりの長傘を拾い上げると、肩に留まっていたハトソンに向かって短く指示を出しました。


「ハトソン、上空から対象の追尾を。姿は見せず、気配だけを追うのです。

いざという時は、例の手段で知らせなさい」


「クルックゥ」


ハトソンは音もなく羽ばたき、特注スーツを夕日に溶け込ませるようにして、上空高くへと舞い上がっていきました。


「鈴木さん?まさか、あの子供を追いかけるんですか?」


「いえ、あのお子様方は放っておいてもすぐに音を上げて帰るでしょう。私が追うのは…もっと『手応えのある相手』ですよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。