2:50の防衛戦
は
「…ここが、貴方の“城”ですか」
私が案内されたのは、集落の端、鬱蒼と茂る竹林の影に隠れるようにして建つ、一軒の古民家でした。
瓦は数枚剥がれ、縁側には得体の知れない農機具が山積みになり、たった一スペースだけ小綺麗だった玄関先には“紅まどんな”と書かれた化粧箱の山が、敗戦国の物資集積所のような悲壮感を漂わせて積み上げられていました。
「鈴木さん、どうぞ…狭いんで、服引っ掛けないように気を付けて」
「ご忠告痛み入ります…ハトソン、足元に気をつけなさい。この踏み込みの深さ、床板が腐っています」
私はインバネスコートの裾を気にしながら、埃っぽい座敷へと上がりました。
工作員――コードネーム“佐藤光吉”という男は、泥だらけの手で手際よくお茶。残念ながらポンジュースではなく玄米茶を淹れてくれました。
「それで、佐藤殿
貴方の報告によれば、この島の防衛網は既に突破され、敵の蹂躙を許しているとのことですが」
「ええ…奴らは夜な夜な、特殊部隊顔負けの連携を見せてきます。
先日は、私が設置した電気柵の電圧を、わざと他の仲間に体当たりさせてショートさせ、その隙に群れの中心部が畑に侵入するという、肉壁戦術すら披露してきました…っ!」
「え、なんですかそれ、怖…」
「奴らはただの豚じゃない、訓練されたゲリラですよ
見てください。これが奴らの通り道です」
彼が差し出したスマートフォンの画面には、監視カメラが捉えた赤外線映像が映し出されていました。
そこには、夜の闇を悠然と歩く、自転車ほどの巨体を持つイノシシの姿。
その鼻先は地面の匂いを嗅ぎ分け、土の中に埋められた忌避剤をピンポイントで掘り起こしては、嘲笑うように排泄物を引っ掛けていく。
「なるほど、これは優秀だ。こちらのイノシシよりも頭が良いとすら言える
佐藤殿。貴方は潜入工作員として、この敵の弱点をどう分析しましたか?」
「…ありません」
「でしょうね」
「むしろ弱点が、消えるんです!走れば100メートルを数秒で駆け抜け、泳げば島から島へと渡り、食べれば毒キノコ以外は何でも消化し、眠れば泥の中で気配を消す!!!」
「そこまではまぁ、普通ですね…?」
こっちには銃が撃てない、罠の設置にはハンコが要るというクソったれなハンデがありますが」
「それ!!!爺さん婆さんばっかりの島だから手が出せないのかなって、この日まで法律に守られてるとか知りませんでしたが…基本スペックと後ろ盾の二重苦で僕らがおいそれと手出しできないせいで、奴らは生き延びた!!!生きて、罠を学んで回避した!そうして一子相伝で積み上げた経験を共有する集合知が加わってるんです!
鈴木さん…!これはもう、戦争じゃない。一方的な虐殺なんですよ!
農家から日本を切り崩す大自然の尖兵だ!!!おかげで僕ってばここでは孫扱いですよ!同世代が次々出ていっちゃった末の希少性でね!!!チクショウ!!!!」
「分かりましたから、泣くのはおやめなさい
幸いにも、私は帝国が誇る兵器が一つ、“バーロック・ワームズシリーズ”の42号機です
そして、こちらの国では“鈴木誠”という名の、納税の義務を果たす市民だ
私なりの手段で法律の網の目を潜り抜け、奴らに『この畑は地獄へ直結している』と学習させて差し上げましょう」
私は立ち上がり、たすき掛けにしたスマホの一台でGoogleマップを起動しました。
「さあハトソン。夜が来る前に地形調査と、防衛トラップの設置ポイントを策定しますよ
殺してはいけません、傷つけてもなりません
ただ、奴らの豚鼻に絶望の芳香を、たっぷりと嗅がせてやるのです」
「…鈴木さん。具体的に、何をするつもりで?」
「この国にも食品衛生法や動物愛護法はありますが…
あまりにも音がうるさい玩具や、くっさい香水、そして、あまりにも生理的に不快な感触の敷物を庭に置くことを禁じる法律は、今のところ存在しません」
「はぁ…つまり?」
「現代日本のコンプライアンスの隙間を突く…名付けて、嫌がらせ防衛線です!
密猟船に乗ったつもりでお任せください!」
「縁起悪いな…」
「はは、我々にお似合いでしょう?」
夕闇が島を包み込み、段々畑に不気味な静寂が降りる頃。
私は、佐藤と共に最新の暗視ゴーグルを装着し、畑の隅に身を潜めていました。
「…来ましたよ」
佐藤が喉を鳴らし、山林の境界線を指差しました。茂みがガサガサと揺れ、地面を削るような低い鼻息が響きます。
現れたのは、先ほどの映像よりも一回り大きい、群れのリーダーと思わしき巨大な雄イノシシでした。後ろには、その妻子と思わしき数頭の個体が控えています。
奴らは、新しく設置された強固なメッシュ柵の前に辿り着くと、慣れた鼻つきで柵の継ぎ目を探り始めました。
「…ふん。やはりそこを突きますか。野蛮な突撃兵かと思えば、工兵のような精密な観察眼。ですが、甘いですよ」
私は懐からリモコンを取り出し、スイッチを入れました。
「発動なさい。トラップ第一号
精神汚染の芳香』」
シュッ、と微かな音を立てて、畑の周囲に設置された極小のスプレーノズルから、目に見えない霧が噴射されました。
これは、帝国の菜園には決して使用許可の降りないであろう、鼻をつんざくミナミコアリクイの糞をデパ地下でまとめ買いした香水ミックスに溶かしたものです。
「グガッ!?フルァンゴォォォッ!?」
先頭のイノシシが、まるで殴打を受けたかのようにのけ反りました。
奴らは一斉に激しく首を振り、嘔吐感を堪えるように地面に鼻を擦り付けます。
自然と化学のダブルパンチ、嗅覚の鋭い彼らにとっては、鼻腔内に直接毒ガスを流し込まれたも同然です。
「よし、効いてる…!さすが鈴木さんだ!」
「静かに。本番はここからです…ハトソン、第二フェーズへ」
「クルルッ!」
ハトソンが空中に舞い上がり、畑の中央に設置した、ジャンク品上がりの回転灯のスイッチを、嘴で叩きました。
「【視覚的狂気】」
オリオン座の左上、狩人の右肩に輝く赤色巨星の如く、闇夜に輝く回転灯。
それに連動したストロボライトが、激しく点滅を開始しました。
ただ光るだけと甘く見ることなかれ、網膜を焼く光の嵐は、奴らの平衡感覚を奪い取る。
「さらにダメ押しです。最終フェーズ
【2:50の聴覚拷問】」
テレテンデレレン!テレテンデレレン!テレテンデレレン!!デッデッデッデッ!!
『イェイイェイイェイイェイ!!!『ィイ゛ィイイィィィ!!』ヨッショヨッショヨッショヨイショォオオオオンオンオオオオン!!』
隠されていたスピーカーから響く、布袋のスリル。
そこに芸能界トップクラスにテンションの高い半裸戦士による、洛陽を告げる終末鳥のような笑い声が爆音で重なりました。
「オゴッ!?ンギィィィィッ!!」
悪臭、閃光、そして勇ましい怪音。
この世の地獄を凝縮したような畑の惨状に、無敵を誇ったイノシシの群れがパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように山林へと逃げ帰っていく。
「――見ましたか、佐藤殿!これが私のヤケクソと、法の隙間を突いた闇の防衛術だ!
無血開城ならぬ、無血撤退!いやはや、あまりの鮮やかさに私自身が恐ろしいですよ!」
私は地上の人工星雲を背に、泥だらけの佐藤に向かって誇らしげに両手を広げました。
「す、鈴木さぁぁん!!ありがとうございます!これで、僕の彼女達が…俺の、愛媛での努力が救われました!!」
佐藤は顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃにしながら、立ち上がって私に駆け寄ってくる。
普段なら軽々しい接触は避ける私ですが、共にひとつの農地を守り抜いたという奇妙な連帯感から、ハイタッチを交わそうと右手を高く掲げた、その時でした。
「んふんふッ」
私と佐藤の手が、空中で止まりました。
虫の鳴き声と、スピーカーからリピート再生される爆音に混じって、背後から、ひどく間の抜けた鼻息が聞こえたのです。
「…おんやぁ?」
私が敷設した強固なメッシュ柵。その網目の、ほんの十数センチの隙間をすり抜けて、畑の内側に侵入している“小さな影”がありました。
茶色い毛並みに、背中を走る瓜のような縞模様。
イノシシの幼獣――ウリ坊。
親イノシシたちが悪臭と爆音にパニックを起こして山へ逃げ帰ったというのに、このジャリ一匹だけが、呑気にも畑の中に居残っている。
私と佐藤が絶句して見下ろす中、ウリ坊は「ふんすふんすふんふんふん」と鼻を鳴らしながら、足元の土を掘り返し始めました。
そして、顔を出した佐藤の丹精込めた柑橘樹木の根っこを、あろうことか小さな牙でシャクシャクと齧り始めたではありませんか。
江頭2:50の雄叫びも、強烈な悪臭も、点滅する赤い光も、この幼獣にとっては“ちょっと賑やかなディナー会場の演出”程度にしか機能していないようです。
「嘘だろ…なんであいつ、平気で食ってるんですか」
「幼獣の、無知ゆえの無敵状態でしょう
大人たちが本能的な恐怖で撤退したというのに、奴は恐怖という概念すらご存知ないようだ…
異常事態だろうと知ったこっちゃなし、知識も経験もないどんくさ新世代は、単なる“新しい環境”として適応してしまうらしい。これが、新時代の悪魔…」
「す、鈴木さん…もう僕、蹴り殺してきます。あのサイズなら、僕でも…」
佐藤が震える足を踏み出そうとした瞬間、私は彼を腕で制止しました。
「やめなさい、佐藤殿。落ち着いてよく考えるのです」
私の脳裏に、かつて帝国の軍事教練で叩き込まれた、ある残酷な事実がフラッシュバックしていました。
「野生動物において、子供が危険地帯に無防備に取り残されている状況
それは“親がすぐ近くで、敵の出方を窺っている”という、死亡フラグです」
「え…?」
佐藤の顔が、さらに青ざめた。
私は奥歯を噛み締めながら、ゆっくりと、視線を山林の奥へと向ける。
暗闇の中。
先ほどパニックを起こして逃げ帰ったはずの茂みが、ガサリ、と確かに揺れました。
そこから、ぬっと顔を出したのは…先ほどよりもさらに目を血走らせ、口から白い泡を吹いた、巨大な雄イノシシ。
「プゥゥウウウギィィイイイイイイッ!!!!」
高く、生物が発したとは思えない唸り声。
その瞳は、明確に、茂みから乗り出して“我が子を脅かそうとする人間二匹”をロックオンしていました。
「…あ、ぁ、ああ…」
佐藤が膝から崩れ落ちました。
「やって、しまいましたね…」
彼らは逃げっぱなしではなかった。
驚き、距離を取ったものの、我が子が畑に残っていると気づき、即座に“未知への恐怖”を上書きして戻ってきたのです。
子供の危機という、理性を凌駕する暴力ブースターでね。
私が仕掛けたトラップは、結果として、彼らの闘争本能を最高潮へと引き上げてしまっただけでした。
「佐藤…我々霊長類の嫌がらせは、どうやら野生の理不尽には通用しなかったようです」
「す、鈴木さん!法律とかどうでもいいんで、今すぐワームホールで大砲かダムダム弾出してくださいィィィッ!!」
「無理ですね、手続きに1年かかります」
嘘ですが、あの辺持ち出すのは事後処理が面倒なのです。
「この期に及んで役所仕事かよォォォッ!!」
ドッドドドドドッ!!!
重装甲のダンプカーは加速する、私たちに向かって突進する気だ。
「ハトソン、緊急退避です!」
「クックックゥゥゥッ!!」
私はステッキ代わりの長傘を放り投げ、佐藤の首根っこを掴むと、這うようにして段々畑の斜面を転がり落ちていきました。
背後で、私が苦労して設置した回転灯とスピーカーが、無残に粉砕される音が響く。
「あああ!まどんなちゃんが!鈴木さんの嫌がらせセットがァァ!」
「泣いている暇があったら走りなさい!さもないと、次に粉砕されるのは私たちの内臓ですよ!」
「うわぁぁああああ!!!!」
スリルはBGMでなく現実の脅威として我々を包み込み、江頭2:50は沈黙。
そうして環境音に取り残された、愛媛の夜の段々畑に、私たちの情けない悲鳴が響き渡っていた。
「ぁあ、あ、あ゛ーーー〜!!!!!!
もう我慢できねぇ!!やってられっか!!」
翌朝、佐藤光吉の血を吐くような絶叫が響き渡った。
彼の目には、昨夜のイノシシ襲撃による恐怖や疲労は微塵もありません。
あるのは、徹夜で思考を巡らせた結果辿り着いた、何時紙が金ピカに逆立ってもおかしくない超ブチギレ状態でした。
「あの親子が、事の重大さに気づいて柴を安全な場所に避難させるまで、俺が畑を盾にして耐え忍ぼうと思ってましたけどね!もう無理だ!やめた!!
だいたいここ、災害大国ですよ!?台風が来たらどうせ家に入れるんでしょ!?だったらイノシシ相手に犬をしまえなくて、何が犬飼いですか!!
責任感の欠如にも程がある!!」
佐藤は怒りに任せて、まだ収穫には数日早いと思われる柑橘類をも次々とハサミで切り落とし、コンテナへと猛スピードで放り込んでいく。
ヤケクソ収穫祭、開幕です。
「素晴らしい判断力です、佐藤殿
無駄な防衛戦で資源を浪費するより、焦土作戦で敵の兵站を断つ。戦術の基本ですね」
私もインバネスコートの袖をまくり上げ、手袋をはめて収穫を手伝いました。そして、上空では私の優秀な相棒が活躍しています。
「クルックゥー!」
特注スーツを着たハトソンが、ドローンのように畑の上空を旋回し、果実の影や葉の裏を鋭い視力でスキャン。見落としがあれば、的確にホバリングしてその位置を私に知らせてくれます。
航空支援と地上部隊の完璧な連携。
スペックの無駄遣いですが、作業効率は異常なほど跳ね上がりました。
「おい…見ろ、あの兄ちゃんたち、もう全部獲り切る気だぞ!」
「馬鹿な!?まだ糖度が乗り切っとらん玉もあるじゃろ!?」
その異常な収穫スピードに、周囲の畑の農家たちがざわめき始めました。
しかし、彼らも長年この地でイノシシと戦ってきた歴戦の勇士。佐藤の行動の“真の恐ろしさ”に気付くのに、時間はかかりませんでした。
「…待て。あそこの畑が空っぽになったら、山の連中の餌場が減るってことじゃよな?」「ってことは、あぶれたイノシシが、全部うちらの畑に集中するってことか!?」
「優先度があがっちまう!ええい、うちらも獲れ!全部収穫じゃ!!」
パニックは伝播します。佐藤のヤケクソ収穫を皮切りに、近隣の農家たちが一斉にカゴとハサミを持ち出し、雪崩を打つように前倒しの収穫作業を始めました。
結果として、半日もしないうちに、その一帯の斜面から柑橘類の姿が完全に消え去るという、蝗害さながらの光景が広がったのです。
一通りの作業が落ち着き、コンテナの山を軽トラックに積み終えた昼過ぎ。
「さて、これで奴らの前菜は消滅しました
残るは、あの家に放置されている“メインディッシュ”のみですね」
私がタオルで汗を拭いながら言うと、佐藤は重々しく頷きました。
「ええ。最後通告に行きましょう。川上家です」
「おや…佐藤殿。私、あのヒステリックな母親や少年の名前は聞きましたが、苗字までは聞いていませんよ
どうして貴方は彼らの家名や居場所をピンポイントで知っているのですか?」
「ああ、近所の寄り合いで聞きました。あの親子、最近越してきたばっかりらしくて、近所でも『挨拶がない』『ゴミの出し方が悪い』って浮いてるみたいで。家の場所から旦那の職業まで、お爺ちゃん達が全部教えてくれましたよ」
「…それ、ちょっと怖いんですけど」
田舎の情報網、恐るべし。防犯カメラもGPSもないのに、ただの井戸端会議で個人の特定から身辺調査まで完了してしまうとは。
「田舎の相互監視システムって点では、帝国の秘密警察と変わんないでしょ」
佐藤が自嘲気味に笑います。確かに、物理的な監視よりも、ご近所の目というソーシャルな監視の方がよほど逃げ場がありませんね。
我々は軽トラックに乗り込み、教えられた川上家へと向かいました。
立派な戸建ての庭先には、真新しい犬小屋と、鎖に繋がれた豆柴のコタローの姿がありました。キャンキャンと無駄吠えする犬の横を通り抜け、インターホンを鳴らします。
「はい、どちらさま…って、あなた達!」
ドアを開けた母親は、私たちの顔を見るなり、汚物を見るような顔に引き攣りました。
「昨日のストーカー!なんでうちの場所を知ってるの!?警察呼びますよ!」
「落ち着いてください。私たちはただ、最後のお願いに上がっただけです」
佐藤が深く頭を下げ、必死に訴えかけました。
「お願いです、犬を家の中に入れてあげてください!畑の作物はもう全部収穫されました!腹を空かせたイノシシが、間違いなくここに降りてきます!
コタロー君が死んじゃいます!!」
しかし、母親の反応は冷ややかなものでした。
「はぁ?何言ってるんですか。だいたい、あんた達が勝手に畑を空っぽにしたのが悪いんでしょ?逆恨みでうちの犬を脅かすなんて、最低ですね」
「逆恨みって…!違っ…!」
「もういいです!これ以上付きまとったら本当に通報しますからね!二度と来ないで!!」
バタンッ!!
問答無用。ドアは私たちの目の前で、無情にも閉ざされました。佐藤は閉まったドアの前で、肩を震わせて立ち尽くしています。
「…十分でしょう、佐藤殿」
私は踵を返し、淡々と告げました。
「忠告はしました。彼らはそれを自らの意思で拒絶した。あとは彼らの自己責任です。…愛犬を失ってから気づくのも、人生における一つの学びですよ。少々代償が高くつきますがね」
「…それが、嫌なんですよ」
佐藤の低い声が、私の足を引き止めました。
「失ってから気づくなんて、そんなの…犬が可哀想すぎるじゃないですか」
「情に流されすぎです。我々は帝国の工作員。現地の犬一匹の生死に、そこまで心を痛める必要がどこにありますか。それこそ、任務の支障になりますよ」
私が冷たく言い放つと、佐藤はゆっくりと振り返りました。その顔は、いつも見せている人の良い青年のそれではありせんでした。
「…鈴木さん。僕ね、帝国生まれじゃないんですよ」
「ほう?」
「元は、万国育ちの獣人です」
そう言うと、佐藤は自らの両耳を両手で覆いました。
そして、パッと手を開いた瞬間――彼の人間の耳があった場所には、ふさふさとした丸い耳が現れていたのです。
「…おや」
「僕ら、手品が大得意でして…隠してたんです。どうですか、立派な耳でしょう?」
「タヌキですか。なるほど、愛嬌がありますね」
私が素直な感想を述べると、佐藤は心底嫌そうな顔をして耳をピクピクと動かしました。
「よくわかりましたね…。僕ら、万国に現れた『勇者アララギ』って奴が広めた変な絵本のせいで、人間たちからよく『ラスカル』呼ばわりされるんですけど。あれ、アライグマですよね?
自分たちは肌の色や血液型の違いでギャーギャー騒ぎ立てるくせに、僕らを別物と一緒くたにして、ふざけんなって話ですよ」
アララギ・シンヤ。“剣道”の始祖たる勇者ですか…まさか、そんな余計な小ネタまで異世界に持ち込んでいたとは。
生活に馴染み過ぎて気付きませんでした。
「それは災難でしたね。ですが、タヌキの獣人というのは、帝国では非常に希少な生物だ
報奨金狙いの、私のようなハイエナ達はバッチリ見分けられますよ」
「ええ、そうでしょうね。そのせいで僕、拉致られましたもん」
佐藤は自嘲するように笑い、獣耳を隠すように再び手で覆い、人間の耳へと戻しました。
「万国で田舎暮らししてた時に、帝国の奴らに攫われて、気づいたら工作員に仕立て上げられてました。
…離れ離れになって、実家で飼ってたわんたろーの生死もわからないし、妹の顔すらもう、曖昧にしか思い出せないんですけどね」
「自分が家族と犬を理不尽に引き離された過去があるから、他者の家族喪失を見たくない…という話ですか?随分と、お優しいことですね」
私は一歩、佐藤に近づきました。
「ちなみに、佐藤殿。貴方…現在の『帝国』への帰属意識は、ございますか?」
私は長傘を手放し、一瞬の隙も与えずに佐藤の首に腕を回し、強烈なヘッドロックを極めました。
「ぐぇッ!?」
「お答えください。貴方は今、誰のために働いているのです?万国の家族ですか?それとも、帝国ですか?」
ギリィッ、と首を絞め上げながら、私は耳元で低く囁きました。殺意こそありませんが、工作員としての踏み絵を突きつける、圧倒的な圧力。
「あ、あります、あります!!帝国バンザイ!!」
佐藤は顔を真っ赤にして、私の腕をバシバシと叩きながら叫びました。
「万国に戻ったって、もう帰るとこないし!!今更戻っても戸籍抹消されてるかもしれないし!!帝国で働くしか生きる道ないんで!!帰属意識、バリバリあります!!」
「ほう。よろしい」
私はヘッドロックの力を少し緩め、さらに問いを重ねました。
「では、佐藤殿。…『ここ』は?」
「…え?」
「この国、日本に対する貴方の意識は、どうなのですか?」
私の問いに、佐藤は言葉に詰まりました。首を絞められているからではありません。彼の中で、明確な答えが出せなかったからです。
拉致され、使い捨ての工作員として扱われ、ようやく見つけた平穏な生活と、柑橘への偏愛。
彼は完全に、この日本の風土と生活に骨抜きにされ、愛着を持ってしまっている。
数秒の沈黙の後、私はふっと腕を解き、佐藤を解放しました。
「ゲホッ、ゴホォッ…!鈴木、さん…」
咳き込みながら私を見上げる佐藤に、私は落とした長傘を拾い上げ、コートの埃を払いました。
「どのような感情を持とうと、そちらの自由ですがね
くれぐれも、皇帝陛下と、我々親衛隊の前では“ボロ”を出さないように気をつけてくださいね…この通り、器がちっさいんで」
佐藤は目を見開き、そして頷きました。
「はい…肝に銘じます」
帝国のクローン体である私と、他国から拉致されてきた獣人の彼。
生まれも境遇も違いますが、この“カラス頭の楽園”の不便な居心地の良さに毒されてしまったという点では、どうやら同じ穴のムジナのようです。
「さあ、帰りましょうか
明日は農家の方々に約束した、防衛線の再構築の続きがありますからね」
「クルックー!」
肩に乗ったハトソンが同意するように鳴き、私たちは夕暮れの迫る島の道を、軽トラックへと向かって歩き出しました。
その日の深夜。
借り受けた古民家の客間にて、私が薄い布団にくるまり、帝国の暗殺者時代に培った浅い眠り――いわゆる“レム睡眠と覚醒の反復横跳び”で休息をとっていた時のことです。
「キャン!キャンキャンキャンッ!!ギャウゥゥン!!」
闇夜の静寂を切り裂くように、切羽詰まった小動物の絶叫が響き渡りました。
「…おや」
私がゆっくりと目を開けるのと同時に、隣の部屋でガバッ!と布団を跳ね除ける激しい音がしました。
続いて、ドタドタという足音と共に、寝巻き姿の佐藤が襖を乱暴に開け放ちます。
「鈴木さん!コタローの声です!!川上家の方向からだ!!」
彼の顔は暗がりでも分かるほど蒼白で、目には確かなパニックが宿っていました。
「…やれやれ。セコムでもないのに、深夜の緊急出動ですか
本来であれば深夜割増で金貨三枚は吹っ掛けるところですがね。ハトソン、お留守番をお願いしますよ」
「クプィ…」
眠そうに片目を開けた相棒を鳥籠に残し、私はインバネスコートを羽織りました。
佐藤はすでに玄関を飛び出し、夜の段々畑の斜面を狂ったような速度で駆け上がっています。獣人の脚力に物を言わせた、なりふり構わぬダッシュ。
私が長傘を肩に担いで後を追うと、川上家の立派な庭先には、まさに最悪の光景が展開されていました。
「フゴォォォ…ッ!」
手入れの行き届いた芝生を無残に踏み荒らし、鼻息を荒くしているのは、夕方に見かけたあの巨大な雄イノシシでした。
そして、その数メートル先。
真新しい犬小屋を背にして、鎖に繋がれたコタローが、全身の毛を逆立て、震えながらも必死に虚勢を張って吠え立てる。
イノシシは、小さな犬の咆哮など全く意に介していません。
むしろ『前菜として、少しうるさいアラームを黙らせるか』とでも言うように、ゆっくりと、確実な殺意を持ってその巨体を沈め込もうとしていました。
突進の予備動作です。
「させるかァァァァッ!!!」
その瞬間、佐藤が絶叫と共に庭の生垣を飛び越えました。
彼は手に持っていた農具――サビだらけの鍬を頭上で振り回し、自らの命を投げ出すような勢いで、イノシシと犬の間に割って入ったのです。
「オラァァァッ!失せろ化け物ォォォッ!!」
「ンゴッ!?」
突然、奇声を上げながら突っ込んできた“縦に大きな障害物”に対し、イノシシの動きが一瞬ピタリと止まりました。
奴は目を細め、佐藤と、その後ろで悠然と歩み寄ってくる私を交互に見比べると、『チッ、邪魔が入ったか』とでも言うようにプフッと鼻を鳴らす。
そして、巨体を翻すと、驚くほど身軽な動きで庭の奥の茂みへと消えていったのです。
「…はぁっ、はぁっ…!助かっ、た…っ」
佐藤は鍬を投げ捨て、へなへなと芝生の上に座り込みました。コタローも、張り詰めていた糸が切れたのか、クゥーンと情けない声を漏らして佐藤の足元に擦り寄ります。
「お見事な突撃でしたよ、佐藤殿
ですが、勘違いなさらぬように」
私はゆっくりと近づき、イノシシが先ほどまで立っていた場所――深く抉られた芝生の跡を長傘の先で指し示しました。
「あの獣は、決して犬の吠え声や、貴方の気迫に怯んで逃げたわけではありません
自分より“縦に大きい”未知の生物が二体同時に現れたことで、一時的なリスク計算をやり直したに過ぎない
…奴は学習しましたよ。『この家には、たまに大きな邪魔者が来る』とね
ならば、次はどうするか
邪魔者が寝静まっている時間帯を狙うか、あるいは、邪魔者ごと轢き殺すだけの助走距離を取って突っ込んでくるか、です」
「…ッ」
佐藤も、野生の勘を持つ獣人です。私の言葉が事実であることを理解しているのでしょう。彼の顔がさらに青ざめました。
「外じゃノーリードのくせに、危険な夜は鎖に括られ、逃げ場がないなんて笑えますね
次に奴が来た時、この負けん気の強いおチビさんは、間違いなく終わります」
私がそう断言した、まさにその時でした。
「ちょっと!なんなのよ、夜中に大声出して!!」
ガラッ!と、川上家の立派な玄関ドアが開き、パジャマ姿の上にカーディガンを羽織った母親が、怒り心頭の顔で飛び出してきました。
その後ろからは、目をこすりながらりくと君もついてきます。
「あんた達、また来たの!?
なんでうちの庭に勝手に入ってきてるのよ!警察呼ぶわよ!!」




