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バーロック・ワームズの供述書  作者: ダム底タヌキ
プライベート編
15/23

☆上級国獣イノシシ

「叫んでスッキリしましたか?

しましたね?では受け入れなさい

獣の命というのは時に、我々の尊厳より重いのだと


たとえ奴らが貴方の手足を食いちぎろうとも、許可なき反撃は行政に打たれる

我々が最も恐れるべきは、魔獣の牙ではなく、この国の行政手続きの煩雑さなのです」


「その通り」


私たちの会話をどう解釈したのか、老爺が忌々しそうに、足元のえぐられた土を蹴り飛ばしました。


「あいつらはなぁ…ただの獣やない。山から降りてくる、意志を持った厄災や

猟師の数も減って、法律で守られとるのをええことに、やりたい放題よ」


異世界の一端、この愛媛という土地においても、イノシシが理不尽で凶悪な存在であることに変わりはないのでしょう。


奴らは、ただ山に住んでいるだけではない。

夜な夜な斜面を駆け下り、精魂込めて積み上げた石垣をブルドーザーよろしく突き崩す。


さらには、数キロ離れた海すらも平然と泳いで渡り、離島の段々畑へと上陸してくる水陸両用の重装甲ミサイルなのです。


「しかもタチが悪いのはな…あいつら、美味いもんしか食わんのじゃ」


別の農家が、噛みちぎられた柑橘の残骸を拾い上げ、血を吐くような声で言いました。


「見ろ、これ…皮だけ綺麗に残して、糖度の一番高い真ん中の果肉だけを食い荒らしてやがる…ッ!人間様でもめったに食えねぇ“紅まどんな”を!

あいつら、鼻面に糖度センサーでも付いとんのか!?

酸っぱいみかんは見向きもせんくせに、一番高く売れるやつだけをピンポイントで狙い撃ちしやがる!!」


「クコッ…ォッオ」


なんという嫌がらせ。

飢えを満たすだけではなく、これみよがしに人間の努力と財産を一番効率よく踏みにじってくるグルメな悪食。


祖国は痩せた土地故に、そこまでの大作は存在しないのですが…あれば、私の精神もすり潰されていたことでしょうね。

現に、話を聞いただけでも肩のハトソンが引いています。


これはただの害獣ではない。

農家の精神をへし折るために特化した、悪魔の使い魔としか思えません。


「増えるスピードも尋常やない。人間様は少子化に悩まされとるっちゅうのに、一度に何匹もボコボコ産みよってからに、毎年倍々に増えてしもて…罠を仕掛けても、賢いからすぐに見破る…


夜中に車の前を横切られた日にゃあ、ブレーキ踏んでも間に合わん

こっちのバンパーがひしゃげて廃車になるのに、あいつらは『チッ』って顔して山に逃げていくんや…ッ!」


泳ぐ。増える。車も壊す。

高級フルーツは食い散らし、畑の土なんてボッコボコ。


「なるほど!理解しました」


私は深くため息をつき、ステッキ代わりの長傘を地面に突きました。


「これは確かに、敵国の尖兵よりもタチが悪い

彼らは法の鎧を身に纏った、自然界のテロリストだ」


「鈴木さん…!じゃあ、泣き寝入りするしかないんですか!?僕の…僕の彼女たちは…!」


「忘れましょう!次はもっといい実が成りますよ!!!」


「当然ですよ!!!!!僕が丹精込めて作るんですから最高糖度は更新します!!!


でもって、その手前の発言撤回してくれません?」


「しませんよ、悲しい思い出なんて捨ててしまった方が楽じゃないですか」


「無責任ですね。皆を背負って前に進んでこそ、最高のおみかんが出来るのに

そもそも、僕のまどんな達は皆がオンリーワンなんですよ

皮の表面でリモネンを閉じ込めた小宇宙の輝きを知っていますか?

知らないならその目に吹きかけて教えますよ、皮だけは残ってますから、イノシシが食い残しやがったせいで」


「そのように言われましても…みかんジュースの自販機で皮を混入する機体を見たことはありますか?ないでしょう

人間だって皮は捨てます。招かれざる客とはいえ、トラックに山積みにされて転売されるより、実を直接完食されただけいいのでは?」


「わかってませんね

洗剤、虫除け、入浴剤、料理、何でも使える無詠唱魔法、それが柑橘の皮です。まどんな達が精一杯誂えた一張羅、食べるのには確かに注意がいりますけど苦味が癖になるのに勿体ないことしますよね、ね、ねぇ?食えよ、皮。食って謝れ」


「清潔であれば喜んでお受けしますが、野生のお手付きで寄生虫リスクもある果実は、ちょっと…」


「汚されちゃいましたからね…可哀想に、僕のまどんなちゃん…ねぇ、鈴木さん。僕の彼女可哀想ですよね?非遇の果生に相応しい供養が必要だと思うんです


だから、みかんの個性を認めろ

一個どころかそこに内包される一房に至るまで記憶に残る個性の塊なんですから、忘れられないって訂正しろ、して、しないんですか?訂正しないなら呑み込んで。僕の最愛の彼女達の存在を、病院送りで刻んでください」


「…すみませんでした。後ほど、遺影をいただいても?」


あれば、の話ですが。


そう付け加えようとしたのも束の間、通知音が鳴りました。


みかんが写っている。


どれも同じに見えるが…画像の端に、何か…


『あい』『ひまり』『さくら』『さゆり』『めい』『えみ』『まいか』『みお』『つむぎ』『あおい』『ひなこ』『みか』『よしこ』『とおこ』『れい』『みつき』『ちさと』


名前が、写真が、みかんが、増えた。


同じに見えて、同じじゃない。

背景の枝ぶりや転向など多種多様なみかんが、目の前の彼のフリック操作に合わせて、私の携帯でシュココココココココと増え続ける


「何といいますか、どなたも魅力的ですね。目移り仕放題なもので三半規管が狂いました」


「そうでしょ?やっと話が合って嬉しいです、僕だけおかしくなっちゃったのかと思いました!」


「ええ、とても…私が正気になったついでに、これからの話をしましょうか」


「まだ忘れろって?」


「違います、未来の淑果たちを守る作戦ですよ

排除が法で禁じられているのなら、合法的な範囲で徹底的な防衛線を構築するまでです

明日から、ホームセンターで鉄のメッシュと有刺鉄線、それから忌避剤を大量に買い込みなさい。予算は…私のタイミーで稼いだ給料から、特別に経費として融資してあげます」


「ああ、なんだ!そういうことなら、鈴木さん…今言ってくれたこと、もうやってますッ!」


「成果は」


「なにも!!ありませんでした!アイツらには、なにも通じないんですよ!!!」


「んなっ!?」


思わず素の反応が漏れ出た私に、工作員は顔を覆って咽び泣きました。


「メッシュは下から持ち上げられ、有刺鉄線は毛皮の分厚さで無効化。忌避剤に至っては『ちょっと臭いけど、中のまどんなが美味いから我慢するか』くらいの感覚で突破されました…ッ!

なんならアイツら、化学薬品仕込みの毒餌も無視するチートですよ!!僕らホモサピの持ち駒なんて見飽きてるんですよ!きっと!」


私は絶句しました、そこまでするかと。

イノシシの執着も怖いが、農家の根気も理解できない。この国の農業従事者は作物を奪われる悲しみに見舞われながらも、日々こんな絶望的な防衛戦を続けているというのか。


「ちなみに、この島に猟師の方はいらっしゃらないのですか?」


あまりの恐ろしさに手のひらに爪を立て、落ち着きを取り戻して尋ねると、先ほどの老爺をはじめ、数人の農家が静かに手を挙げました。


「…おや。失礼しました

しかし、有資格者がこれだけ揃っていながら、なぜ…罠は?罠は仕掛けておられないのですか?」


私の問いに、老爺たちは一様に顔を歪め、忌々しそうに地面に唾を吐き捨てました。


「奴らは…学習した。佐藤くんが言ったように、毛のない哺乳類の手垢で脂ぎった知恵なんぞ鼻をこすりつけるまでもないらしい」


「ああ…理解しました」


「なら不要じゃろうが、気持ちの整理がつかんから聞いとくれ…最初はな、箱罠っちゅう檻でポンポン獲れとった


じゃが、奴らは群れの仲間が捕まるのを見て『あの棒の塊に入ると出られなくなる』と理解しおった。今じゃあ、中に美味いサツマイモをいくら置こうが、見向きもせん


ならば、くくり罠はどうだと、ワイヤーで足を縛るやつもやった

努力虚しく、長くは続かんかったがな

奴ら、土の匂いやわずかな不自然さで、地面に埋めた仕掛けを的確に見破りやがる


挙句の果てには、罠のギリギリ手前まで来て、見せつけるようにウンコして帰りやがった…人間様を舐め腐っとるんじゃ!!」


「…私でも、そこまで嫌らしい真似はしませんよ…ならば、猟銃は?

罠がダメなら、直接ぶち抜くしかないでしょう?他の地域から、凄腕の猟師を応援に呼ぶ手立てはないのですか?」


「…それができりゃあ、苦労はせん

前に、どこぞの行政がやらかしよってな

ヒグマが出た時に、猟師に『撃ってくれ』と頼んでおきながら、後になって『そこは発砲許可区域じゃなかった』とか何とか言って、猟師の銃を没収しよったんじゃ」


「あれですか…」


「あの事件のせいで、全国の猟師がすっかり及び腰になっとる

『誰かのために命がけで撃っても、後で責任を押し付けられて猟銃を取り上げられるかもしれん』ってな。ただでさえ猟師は高齢化で減っとるのに、あんな仕打ちを見せられたら、誰がリスク背負って他所の土地まで応援に行きたいと思うんじゃ。わしは嫌やぞ、全額自己負担で警察に捕まりに行く博打なんぞは」


危機を救った者を、後出しコンプライアンスで罰する行政。

結果として、現場の士気は下がり、誰も助けに行かなくなるのは当たり前です。


「…なるほど、引っ込みがつかなくなり見栄を優先した官僚主義の末路ですか

敵は学習する野生。対するこちらは、法と書類の鎖で雁字搦めにされた、いたいけな市民…終わりですね。この戦線、前提から崩壊しています」


コートを脱ぎ、白旗代わりにバサバサと振る。

完敗です、敗北宣言は傷の浅いうちにしましょう。


「まだだ!!」


その時、泥だらけの工作員こと佐藤が、血走った目で立ち上がりました。


「まだ終わってません!!誰も助けに来ないなら、僕がやります!!」


「ほう。貴方が?」


「ええ!!猟師になります!!狩猟免許を取って、猟銃を買って、アイツら全員ぶっ殺してやる!!

まどんなちゃんの恨み、一匹残らずジビエにして晴らしてやりますよォォォ!!」


復讐の炎に燃える佐藤。帝国軍人の誇りを取り戻したその姿は、一見すると美しいんですがね。


「無理でしょう。今からでは到底間に合いませんし、採算も合わない」


「なっ…なんでですか!?」


「狩猟免許の取得ハードルを舐めないでください

まず、講習会を受け、筆記試験と実技試験を突破しなければならない。それだけでも数ヶ月を要します


さらに猟銃を持つとなれば、警察による身辺調査、精神科医の診断書、射撃教習、そして銃砲所持許可の取得。これに半年から一年はかかります

貴方のまどんなは、とっくにイノシシの胃袋の中で発酵している頃でしょうね」


「い、一年…!?」


「それだけではありません。猟銃の購入費、ガンロッカーの設置費用、定期的な弾薬の購入とメンテ費用…莫大な初期投資が必要です


そして何より、苦労してイノシシを仕留めたところで、お肉はどうするおつもりですか?」


「売るんですよ!ジビエとして高く売って、被害額の穴埋めに…!」


「素人が何を寝言を。イノシシの肉を流通させるには、適切な放血と解体技術が必須です。失敗すれば臭くて食えないデカい生ゴミ、処分に困り果てることでしょう


さ、ら、に、販売するには保健所の許可を受けた食肉処理施設が必要で、徹底した衛生管理が求められます

極めつけに、その肉を飲食店に売り込むための営業力!

貴方にそれら全てのスキルを網羅する覚悟と時間があるというのですか?」


私の圧倒的な正論と現実の壁の前に、佐藤は膝から崩れ落ちました。


「な、なんで…なんでやる気削ぐようなことばっかり言うんですか、鈴木さん…っ!

つーか、なんでそんな狩猟に関する法律に、異常に詳しいんすか!?」


佐藤が涙目で抗議するのに対して、私は遠い目をしながら答えました。


「私もね…イノシシに、心底ムカついている類の人類なんですよ」


「え?」


「陛下の菜園はご存知ですね?農作業への配属時…私が手塩にかけて育てていた家庭菜園の芋が、あいつらに根こそぎやられましてね。おかげで大目玉を食らったのですよ

痛みの中で、私は元凶を駆逐してやると決意し、奴らを徹底的に調べ上げた時期があったのです」


過去の挫折が頭を過る。


「この国でもイノシシが存在すると知った時には、憎しみに燃えたものですが…調べれば調べるほど、“狩猟を縛る法規制”の多さと“初期投資の理不尽さ”に絶望しました

魔獣を倒すのに、なぜ警察の身辺調査と医師の診断書が必要なのか。なぜ自前でガンロッカーを買わねばならないのか


…私は、この国の過剰な制限の多さにブチギレて、途中で申請をぶん投げたのです。狩猟免許取得、断念宣言ですよ、笑いなさい」


「ぜんっぜん、笑えません…っ!!」


たった今私と同じ絶望を共有した同志が、足元で泣き崩れました。

農家のお爺さんたちも、「わかる、わかるぞお兄さん…」と、肩をポンポンと叩いて慰めてくれている。


「コッコココココココ…」


ハトソンだけが、狩猟免許から逃げた私を嘲笑うように嘴を鳴らしていました。


「この国の娯楽小説では、よく若者が馬車…ではなくトラックに撥ねられる作風が好まれるそうですね


神からチート能力を与えられて異世界転生。万難を解決して私のような美男、ならびに美女から持て囃され、腰痛にすら悩まされることのない健康体で幸せに過ごすという物語が人気を博しているのだとか」


なんて素晴らしい人生なのでしょうか。

ボコボコに掘り返され、無惨に食い散らかされた段々畑の惨状とは大違いだ。


「ですが、私が断言します

“隕石を降らせる大魔法”や“あらゆる人に好かれる魔性”といったチート能力が必要なのは、魔王のいるファンタジー世界などではない


法律という名の絶対防壁に守られ、農家の心をへし折る無敵害獣“イノシシ”が跋扈する、この極東の農村地帯にこそ、転生者が必要なのです

力を持った者がより良い環境へ流れるのは社会の摂理ですが、控えめに言って、クソですね。この国の生態系は」


「そうですよ!!僕は雑兵ですが!ゴブリンの群れを巣穴まで追い立てて、一人で殲滅したこともあるんですよ?!それが、豚の親戚一匹に手も足も出ないなんて…クソッ、クソォォォ!!」


「無理もありませんよ。母国ならなんでもありでも、こちらでは縛りだらけですし…」


私たちが、やり場のない徒労感と絶望の底に沈んでいた、その時でした。


「えー?イノシシだってお腹空いてるんだから、食べさせてあげればいいじゃん」


のどかな畑に、ひどく場違いで、無責任極まりない高い声が響きました。


「おや…?」


私が声の方へ視線を向けると、そこには見覚えのある半ズボンの少年が立っていました。


間違いない、ガチャガチャの空カプセルを使ってハトソンを突っつこうとしていた、あの時のガキ。


なぜ愛媛の離島にいるのか。春休みの家族旅行か、はたまた田舎への帰省か。いずれにせよ、最悪のエンカウント。


「イノシシが来るってわかってるのに、もっと沢山作って準備してないおじいちゃん達が悪いし

ていうか、ディフェンスしたいなら犬飼えばいいのに」


暴論だ、犬で防げるなら苦労なぞしないのです。


「うちも家庭菜園でトマトとか作ってるけど、そんなの全然来ないよ?」


「規模と出来が違うんだよ!!!」


佐藤が、血走った目で少年に向かって吠えました。


「お前の家のプランターと一緒にすんなァ!こっちのまどんなちゃんはな、一個で何千円もする超高級品なんだよ!

アイツら、その皮を残して一番美味くて甘い中心の果肉だけを食う、めんどくさがりのグルメなの!!!ご家庭の微笑ましい鈴なりトマトは優先度低いんだよ!!

腹減ってるだけのケダモノならどんだけ良かったか!マジで!!!その辺の芋でも食ってろってんだ!!!ぁあああ!!!」


その少年の『犬を飼えばいい』という言葉に反応したのは、佐藤だけではありませんでした。

先ほどまで悲しみに暮れていた農家たちが、一斉に顔色を変え、血相を変えて少年に詰め寄っていく。


「待て、坊主!!お前んち、犬飼ったんか!?」

「やめとけとあれだけ言うたのに!!うちの掟を知らんのか!!」


「え、なに…?」


突然、泥だらけの老人たちに囲まれ、凄まじい剣幕で詰め寄られた少年が、怯えて一歩後ずさります。


「外飼いじゃないだろうな!?ちゃんと家の中に入れとるんじゃろうな!?」

「夜は絶対に外に出すなよ!番犬代わりに庭に繋いでおくなんて、もってのほかじゃ!

まずいことになるぞ、本当にまずいことになる!!」


彼らの反応は大げさに見えますが、妥当です。

イノシシは、遠吠え程度で逃げていくような殊勝な生き物ではない。

外飼いの犬など、彼らにとっては鈍足のサンドバッグに過ぎないのです。


「な、なんだよ…離せよ!ママァーッ!!」


少年が叫んだ、その瞬間。


「ちょっと!!大人がよってたかって、うちの子に何してるんですか!!」


背後の斜面から、金切り声が響きました。

現れたのは、日傘を差し、片手にスマートフォンを握りしめたあの母親です。


不特定多数の人々が行き交い、いつ我が子が誘拐されてもおかしくない環境でスマホから目を離さず育児放棄していたあの女が、鬼の形相で駆け下りてきました。


「りくと!大丈夫!?

ちょっとあんたたち、うちの子に触らないでよ!田舎の人間はこれだから嫌だわ、野蛮で、常識がなくて!警察呼びますよ!!」


出た!伝家の宝刀『警察呼びますよ』

そこそこ強い防衛呪文ですが、今回ばかりはいまいちです。


「奥さん、違うんじゃ!犬を外に出しといたら危ねぇと…!」


「言い訳しないで!うちの子が何かしたっていうの!?ただ見に来ただけでしょ!」


ヒステリーを起こして聞く耳を持たない母親。困惑する老人たち。絶望して虚空を見つめている佐藤。

なんという地獄の縮図でしょうか。私はそっと長傘を杖のようにつき、この不毛な争いからフェードアウトしようと後ずさりました。


その時です。


「キャン!キャンキャンッ!」


軽快で、愛らしい鳴き声が、段々畑の上の道から聞こえてきました。

視線を向けると、そこには豆柴の仔犬が、短い尻尾を振りながら、トコトコと斜面を駆け下りてくるところでした。


コロコロとした丸いフォルム。つぶらな瞳。そして――その首元は、ノーリード。


「あーっ!コタロー!ダメでしょ、勝手に走っちゃ!」


母親が、急に声色を緩めました。


「もう、この子ったらすぐどっか行っちゃうんだからー!

自然の中だからのびのびしちゃったのねぇ!あぁーんもうう!!お転婆で可愛い子ぉ!!!!」


ハーネスも無し、首輪だけの半端な装備。

この、獣害最前線で?巨大な重戦車(イノシシ)が潜んでいるかもしれない危険地帯で?


その瞬間、農家たちと、佐藤と、そして私の思考が完全に一致したことでしょう。


『終わったわ、柴』と。


全員の顔から、サーッと血の気が引いていく。

無邪気に駆ける子柴、それを微笑ましく見つめる放置親。


「キャン!キャンキャンキャンッ!!」


のどかな段々畑で高らかに、ひどく神経に障る無駄吠えが響く。

ころんとした愛らしい見た目とは裏腹に、このチビにはとりあえず“自分より大きな相手にも喧嘩を売る”という、躾のなっていないダメ飼い主持ち特有の無駄なプライドが詰まっているようです。


「…よりによって、“ノーリード犬”ですか。しかも、気の強い個体

奥さん、一つ伺いますが、この子の餌皿は外置きですか?」


「は?なんでいきなりそんなこと…」


母親が怪訝そうに私を見た瞬間、その目が驚愕に見開かれました。

インバネスコート、たすき掛けのスマホ弾帯、そして肩の上のスーツを着た鳩。


「あッ!!あんた、福岡のスーパーにいた不審者!!なんでこんな所にいるのよ!?まさか、私たちをつけて…ストーカー!?」


「知り合いに!呼ばれて!来たんです!!!」


冗談じゃない。

私がストーカーなら、もっと社会的地位が高くて利用価値のある人間を狙ってネチネチ外堀から追い詰めますよ。わざわざこんな喧騒の塊みたいな親子を追いかけて、時間を浪費する趣味はありません。


「え、おじさん達、知り合い?

ていうか、犬の餌なんて、犬小屋の横以外で置くことある?」


母親の背後から顔を出したクソガキ…失礼、りくと君の答えに、胃液がこみ上げる。


外置き。なるほど。もうだめです。

その言葉を聞いた瞬間、農家の老人たちの顔色も、さらに一段階濃ゆい土気色へと沈みました。


「奥さん。うちらな、そろそろ収穫なんよ

果物一つ、地中のジャガ一つ残さない予定なんだわ」


「あら、そうなんですか、ご勝手にどうぞ

間違っても手伝えとか言わないでくださいよ?うちに余裕ないんで。ほら見て、子供の面倒で手一杯」


「違うんよ。山のもんを食い尽くした奴らは、次に里に降りてくる。畑に何もないと分かれば、アイツらの鼻が向かう先は…家の周りに置いてある、栄養満点のドッグフードじゃ

悪いこと言わん、今日から犬は“室内飼い”にしな。夜は絶対に、外へ出しといたらいかん」


「キャンキャンキャンッ!!!」


老爺の深刻な忠告の最中も、小柴がけたたましく吠え続ける。


賢い犬種と聞いていますが、飼い主の教育ネグレクトが深刻だ。結果として、危険察知能力のソフトウェアが正しくインストールされていない。


「家飼い?無理に決まってるじゃないですか!」


母親は、老爺の真剣な言葉を鼻で笑い飛ばしました。


「この子、豆柴じゃないんですよ?将来は立派な中型犬になるんですから、家の中で飼うなんて毛が落ちて不衛生だし、狭くて可哀想でしょ!

だいたい、なんで家に入れなきゃいけないんですか?理由は!?」


『豆柴ではなく、ただの柴』

そんなの私たちには関係なく。知らなかっであろう、りくと君が「え…」と親の暴露で肩を落とし、将来が約束された中型犬の無駄吠えが響く中、農家たちは重苦しい沈黙に陥りました。


イノシシが降りてきて、餌を横取りされた時、無駄に気の強い愚柴は、どうするか――。


私は、横にいる佐藤をチラリと見ました。

彼もまた、悲劇の結末を知識として、あるいは実体験として知っているのでしょう。泥まみれの顎がガタガタと鳴っています。


「…奥様。彼らが言いよどんでいる理由を、私が代わってご説明しましょう」


無知による死は哀れです。せめて、これからの凄惨な未来予想図を丁寧にプレゼンして差し上げるのが、大人の義務というもの。


「山を下りてきた空腹のイノシシが、ドッグフードを狙って貴女のお宅の庭に現れます


それに気づいたこの勇敢な小柴君は、当然、番犬としての矜持から…いえ、“自分の縄張りと飯を守るため”に、体重差十倍以上の剛毛ミサイルに向かって吠えかかり、噛み付こうとするでしょう


そうなれば、イノシシはどうするか?この子を“敵とみなして襲いかかる”のです

結果として、怒り狂ったイノシシの牙により、この子は柔らかい腹をプチっと――」


「ストォォォーーーップ!!!!」


私の解説が核心に触れようとした瞬間、佐藤が絶叫と共に私に飛びかかり、口を両手で塞いできました。


「むがっ!?」


「言うな!鈴木さん、それ以上はダメです!!ショッキング過ぎる!!

いくらムカつくじゃりン子でも、自分の犬がミンチにされる具体的なグロ描写を聞かせるのは教育上よくない!!情操教育が死にます!!」


「そちらの表現も中々ですね」


「やかましい!!!!」


私を押さえ込みながら、佐藤は必死の形相で母親へと向き直りました。


「あ、あの!りくと君のお母さん!!ここじゃあアレなんで、ちょっと向こうで、大人同士で大事なお話をしてもいいですか!?本当に、命に関わる話なんで!!」


泥だらけで、服は破れ、目は血走り、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした大男が、息を荒くしながら『向こうで二人きりで話そう』と迫ってくる。

客観的に見て、事案発生一秒前。


「…ひっ」


母親の顔が、嫌悪で引き攣りました。


「な、なによあんた!滅茶苦茶ばっか言って、私に気安く声かけないでよ!あ、わかったわ。あんたたち、このストーカーの仲間ね!?

言いがかりつけて、私からお金を取ろうって魂胆なんでしょ!騙されないわよ!!」


被害妄想がフルコンボしている。自分が悲劇のヒロインとでも思っているのでしょうか。


「違います!イノシシが来るんです!だから犬を――!」


「行くわよ、りくと!コタロー!!こんな頭のおかしい人たち、相手にするだけ時間の無駄よ!!」


母親はりくと君の手を乱暴に引き、コタローの首根っこをひっつかんで膝でリフトアップして抱き上げると、私たちを汚物を見るような目で睨みつけ、足早に坂道を登っていってしまいました。


「キャンキャンッ!キャウゥン!!ィイーーーン!!」


遠ざかっていく母親の腕の中で、コタローは最後まで私たちに向かって威勢よく吠え続けていました。

自分の背後に、死神が迫っていることも知らずに。


「あーあ…行っちゃった…」


佐藤が、私から手を離し、力なくその場にへたり込みました。

農家たちも、遠ざかる親子の背中を、まるで霊柩車を見送るような何とも言えない面持ちで眺めています。


「…どうしよう、鈴木さん」


佐藤が、すがりつくような目で私を見上げました。


「あのバカ親、絶対外飼い継続しますよ…数日後、あの家の庭で、首輪だけ残して無残に散らばったコタローが発見される未来しか見えない…ッ!」


「ええ。しかも、あの性格では逃げることもできず、イノシシの遊び道具にされて…ああ、いけませんね。これ以上は公序良俗に引っかかります」


私はインバネスコートの襟を正し、首を横に振りました。


「忠告はしました、拒絶したのは彼女たちです。我々にできることは、これ以上何もありません」


「でも…っ!ムカつくガキだけど、あの犬に罪は…!」


私は、静まり返った山林へと視線を向けました。風が吹き抜ける音の奥に、確かな獣の気配が潜んでる。


「…仕方ありませんね

ねぇ、佐藤殿。貴方は今、この島のどのあたりに住んでいるのですか?」


佐藤は、突然の質問に涙を袖で拭いながらキョトンとしました。


「え?あ、はい。ここから山を少し下ったところの、空き家だった古民家を借りてます…隙間風はひどいですが、味のある我が家ですよ」


「では、今夜はそこに泊めてもらっても?」


「えっ…?鈴木さんが、僕の家に?」


「ええ。イノシシの駆除は、先ほども申し上げた通り、国の法がそれを許しません。私だって、不法滞在の嫌疑で強制送還されるリスクは冒せませんのでね


ですが…あの親子の家へ出向き、再度説得を試みること。そして、無駄骨に終わるかもしれませんが、貴方の畑の忌避対策を手伝うことくらいなら、やって差し上げましょう」


私の提案に、佐藤の目にパァッと希望の光が宿りました。


「す、鈴木さん…っ!!」


「勘違いしないでくださいよ。あくまで、皇帝陛下に提出する書面を飾る追加データ、その実地調査のついでです」


私はあえて冷たく言い放ちましたが、彼は「ありがとうございます!ありがとうございます…ッ!」と、地面に頭を擦りつける勢いで拝み倒してくる。

本当に、我が帝国の工作員はいつからこんなに情けなく…いや、感受性豊かになってしまったのでしょうか。


「…あのう」


その時、私たちのやり取りを黙って聞いていた農家のお爺さんたちが、もじもじしながら一歩前に出てきました。


「もし、よろしければ…うちの畑も、ちょっとだけ見てもらえんじゃろか?」


「うちも!防獣ネットの張り方が甘いんかもしれん。お兄さんみたいな、都会の賢い人の知恵を貸してほしいんじゃ!」


おや、やってしまった。たまによくある、“こっちも手伝って”現象。

気がつけば、私を便利な助っ人としてロックオンし、わらわらと群がってきているではありませんか。


「ンッんー…プルルルルル」


肩のハトソンが、『また仕事が増えたな』と呆れたように喉を鳴らします。


「…やれやれ。これもまた、得難いフィールドワークの経験、ということにしておきましょうか」


本来であれば、私が現地民の農作業の面倒まで見る義理なんぞ一片たりともありません。


しかし…この島の人々が、私を“不審な来訪者”ではなく、“同じ厄災に立ち向かう同志”として受け入れようとしているこの空気。

ここで無下に断れば不興を買い、怪しまれることでしょう。


「わかりました。微力ながら、皆様の畑の防衛線に協力させていただきます」


「おおっ!ありがてぇ!」

「今日の夕飯は、うちで取れたアジの塩焼きをご馳走するけんね!」

「わしんとこは、イノシシに食われんかった無事な“甘平”を絞って、極上のジュースを飲ませちゃる!」


農家たちはパァッと顔をほころばせ、私のインバネスコートの袖やら背中やらをバンバンと叩いて喜びの爆撃を降らせました。


皇帝陛下にも見せてやりたいものですよ、土と汗の匂いにまみれた彼らの笑顔。

完全に、身内…しかも頼りになる若い衆として認定されたようです。


「…まったく。この国の人々は、どこまで行っても警戒心が薄く、お人好しすぎる

こんな調子では、いずれ帝国が侵略に本腰を入れたとき、あっという間に搾取されてしまいますよ…」


そう毒づきながらも、私の頭の中ではすでに、農機具やホームセンターの資材を使った“対応策”が、次々と組み上がり始めていました。


「さあ、そうと決まれば悪は急げです

日が沈む前に、まずは現場の視察と、防衛線の再構築に取り掛かるとしましょうか!」


「はいっ!!」


私は長傘を指揮棒のように高く掲げ、泥だらけの佐藤と、意気揚々とした農家たちを引き連れて、イノシシに蹂躙された段々畑の修復へと歩き出しました。

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