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バーロック・ワームズの供述書  作者: ダム底タヌキ
プライベート編
14/14

☆不測の事態と規則の板挟み

「さて…」


無事にスマホの交換、データ引き継ぎを終え、帝国の自室に戻った私は、深く、本当に深いため息を吐き出しました。

薄暗く、埃っぽく、そして致命的に空調の効いていない極寒の部屋。控えめに言って、ただの拷問です。


「あとはこの忌々しい羊皮紙の束に、あちらの世界の“報告書”とやらを適当にでっち上げて提出すれば、本日の業務は終了です。…それにしても、やはり帝国の夜は冷える。エアコンの“暖房機能”という名の奇跡、そして夏の茹だるような天候が、今この瞬間も恋しくてたまりません」


いや、こっちにもあるにはあるんですが、人間向けじゃないんですよね。

私はインバネスコートを脱ぎ捨て、デスクの上の粗末な椅子に腰を下ろしました。


そして、たすき掛けにしたスマホ弾帯の中から、プライベート用として愛用している端末を引き抜きます。


画面をタップすると、緑色の吹き出しアイコンに通知が一件。


『鈴木さん、元気にしてるか?

ハトちゃんにもよろしくな!陽太がまた会いたいって言ってるぞ』


それは、あの海で私を引き上げてくれた山下家のお父様からのメッセージでした。

別れてから日付すら跨いでいないのに、執拗に安否確認を重ねる類似メッセージ群の合間には、夕暮れの海岸で満面の笑みを浮かべる陽太君の姿が添付されている。


「…ええ、彼も元気ですよ。また近いうちに、そちらの国へお邪魔させていただきますとも」


私は肩で羽繕いをするハトソンの頭を指先でそっと撫でながら、頬を緩めました。


皇帝への報告からスマホ提出までの空白期間を詰められた後だと、闇を抱えた人物の親愛であっても五臓六腑に染み渡ります。


おっと、返信をしておかなければ。私は画面キーボードを開き、『大丈夫です、普段通りですよ。陽太君にも――』と打ち込みかけました。


その時です。


ブブブブッ!ブブブブッ!ブブブブッ!


静寂な部屋に、けたたましいバイブレーションと着信音が鳴り響きました。弾帯の端に差してある、データ引き継ぎ済の端末です。


「おや…?」


画面を見ると、見知らぬ番号。

しかし、番号からしてあちらの世界――日本からの着信のようだ。


「異世界から直電ですか。全く、非常識にも程がある」


私は舌打ちをし、着信拒否のボタンをスライドしました。


「そちらの世界の通信キャリアは優秀ですがね…次元の壁を超えれば海外扱い、通話料がどれほど馬鹿高いかご存じないのでしょうか。

どちら持ちの負担になるか分かりませんが、うっかり長電話でもしようものなら、私のタイミーで稼いだ尊い清掃の賃金が根こそぎ吹き飛びます」


用件があるなら文字で送れ。それが現代社会の基本マナーでしょうに。

私は通信料をケチり、メッセージアプリを開いて『ただいま電話に出られません。ご用件は――』とテキストを打ち込もうとしました。


しかし。


ブブブブッ!ブブブブッ!ブブブブッ!


「…チッ」


再び着信。切る。


ブブブブッ!ブブブブッ!ブブブブッ!


切る。


ブブブブッ!ブブブブッ!


「…ッ!!この、迷惑極まりない!消しても消しても上から降ってきやがって!着信画面が邪魔で文字が打てないでしょうが!!」


画面を占拠し続ける着信通知のせいで、フリック入力がことごとく阻害されます。五度目の着信が鳴り響いた時点で、私の紳士的な忍耐力は完全に限界を迎えました。


「ええい、どこのどいつですか!通話料はそちらの経費で落としてもらいますからね!」


私は業を煮やし、怒りに任せて緑の受話ボタンをスワイプしました。


「はい、もしもし!こちら第42号ワームズですが、何事ですか!私は今、貴重なプライベートを――」


『た、助けてくれぇぇぇぇっ!!』


私の小言を遮り、電話口から飛び出してきたのは、鼓膜が破れんばかりの半泣きの絶叫でした。


「…は?」


『42号ですよね!?日本(こっち)の総括担当!

お願いです、助けてください!!僕の大切なまどんなが殺される!!』


「落ち着きなさい。貴方はどちらの支部の…」


『愛媛だ!愛媛の離島支部だ!!早く来てください、喰われる!皆喰われちまう!!』


電話の向こうからは、ザッ、ザザッ、という荒い足音と、物をガチャガチャとかき分けるようなノイズが聞こえてきます。

電話口の向こうで何をしているのでしょうか。


「マドンナが喰われる…賊ですか?事件ならば、私に国際電話をかける前に、現地の“110番(けいさつ)”という優秀な治安維持機構を頼るのが筋でしょう?

彼らなら、数十分で武装した部隊が駆けつけて――」


『違う、違うんですよ!!あんなの、警察の手に負える生き物じゃない!!』


男の悲鳴は、もはや恐怖で完全に裏返っていました。


『アイツら、群れで…ッ!!原田さんちのまどかちゃんも、桜井さんちのはるみちゃんも…うっ!?うわぁぁぁあっ、また来た!!』


「おい、どうしたんです!状況を正確に――」


『ああああああっ!!来るな!寄るな!僕のまどんな達に手を出すなァァァアアアッ!!!』


ガシャンッ!ドサッ!ザザザザザッ…!!


電話口から、男が派手に転倒し、スマートフォンが地面を転がる嫌な音が響きました。


そのまま通話は切れることなく、男のくぐもった絶叫と慌ただしい足音が、スピーカー越しに伝わってきます。


私は、スマートフォンの画面を見つめたまま、無言で通話を切りました。


まどか、はるみ、まどんな達が喰われる?

女ばかり狙われるとは、この国にも賊が存在したようだ。


「クルックー?」


肩のハトソンが、『どうしたの?』と首を傾げます。


「どうやら、私の待機期間は、ここで終わりのようです」


処分歓迎、命令違反なぞ知ったものか。工作員には女も多いのだから、他人事ではいられない。

私はデスクから立ち上がり、先ほど脱ぎ捨てたばかりのインバネスコートを再び羽織りました。


愛媛の離島で、工作員をパニックに陥れるほどの魔獣の群れ…平和なはずのこの国で、そんな事態が起きるはずがない、起きるはずがないのですが。


この理不尽極まりない宇宙において、“絶対にあり得ないこと”など何一つ存在しないということを、私は嫌というほど学ばされてきた。


「さあハトソン。面倒ですが、出張です

あの愚か者が喰い殺される前に、少しばかり次元の穴を開けてやるとしましょう」


空間がゆらりと歪み、私が設定した座標――離島の闇夜へと繋がる、青白いワームホールが口を開ける。


私は長傘を握り直し、舌打ちを一つ残して、その穴の中へと足を踏み入れました。

空間の歪みを抜け、潮風の香りが鼻腔を突いた瞬間。


「ヒッ…うぅぅっ…!!」


私の耳に飛び込んできたのは、電話口で聞いたのと同じ、工作員の無様な嗚咽でした。


「おや…?」


ワームホールを抜けた私の視界に広がっていたのは、血みどろの惨劇の跡…ではありませんでした。


そこは、愛媛の離島に広がる、のどかな段々畑。

農道の中央で、いい歳をした成人男性が、地面にへたり込んでボロボロと大粒の涙をこぼしている。


そして、さらにマズいことに。

その工作員の周囲を、麦わら帽子を被り、首にタオルを巻いた“現地の農家”らしきカラス頭の老人たちが、ズラリと半円状に囲んでいたのです。


私は内心で舌打ちをし、全身の血の気が引くのを感じました。

焦りのあまり、座標の微調整を怠った。あろうことか、一般市民…しかも複数名が密集している白昼堂々の農地へ、ワームホールを直結させてしまったのです。


こんな決定的な瞬間を目撃されれば、SNSでの拡散はおろか、即座に政府の対テロ特殊部隊が派遣される事態になる。


今の心持ちを言語化するならば。

しまった、終わった、殺すしかない。


「ハトソン、“香水”流布の用意を。私の不手際ですから、安らかな夢を見せて差し上げま――」


私がワームホールから毒瓶を取り出そうとした、その時でした。


「辛いよなぁ、あんた…」


農家の老人の一人が、深く、重いため息を吐きながら、しゃがみ込む工作員の肩をポンと優しく叩いたのです。


「ああ…わかるぞ。丹精込めて育てた苗が、収穫の直前で全滅するあの絶望…うちの畑も、先週やられちまったからな」

「悔しいよな。防獣ネットも張って、電気柵も置いて…やれることは全部やったのによぉ…ッ!」


別の農家のお婆さんも、目頭をハンカチで拭いながら、工作員の悲痛な嗚咽に深く同調していました。


「…は?」


彼らの視線は、ワームホールから飛び出してきた私には一切向いていない。


主役は逆方向、工作員の目の前に広がる“畑”の惨状。


私は、彼らが悲しみに暮れている隙を突き、音もなくワームホールを解除し、自然な動作で“通りすがりの観光客”の顔を作って彼らの背後に混ざり込みました。


「…これは」


そして改めて、彼らの視線の先――畑の様子を見て、私は言葉を失いました。


本来であれば、瑞々しい作物が実っていたであろう段々畑。

しかし今は、まるでブルドーザーが暴走したかのように、土が深くえぐられ、至る所に巨大なクレーターのような穴がボコボコと空いていました。


作物は根こそぎ食い荒らされ、無残に噛み千切られた茎や葉が散乱している。

更に視線を巡らせると、農地を囲んでいたはずの強固な鉄線と黒いネットは無残に引き裂かれ、地面に打ち捨てられていました。


「な、なんてことを…僕の、僕の可愛い“まどんな”の苗木が…ッ!!」


工作員が、泥だらけの両手で顔を覆い、血を吐くような声で叫びます。


「毎日、朝夕欠かさず水をあげて、肥料の配合を計算し、台風の日には徹夜で風除けを補強したのに…!!

あと一ヶ月…あと一ヶ月で、極上の果実が収穫できたはずだったのにィィィッ!!」


「泣くな、あんたは悪くねぇ!悪いのは…あの、山の悪魔どもだ!」


農家の老爺が、憎々しげに山林の奥を睨みつけました。


私は、その惨状と彼らの会話から、一瞬で事の真相に辿り着いてしまいました。

震える指で、確信に至る最後の一歩を求め、スマホで検索をかける。


“みかん はるみ まどか まどんな”


そこから飛び出したのは、華麗なる柑橘一族の家系図。


「なんですと…」


まどんなこと、紅まどんなに至っては“果試28号”という妙な親近感を呼び起こす名がついている。

これで理解してしまった。

彼らを襲ったのは魔法でも、異界からの侵略者でもありません。


「…ウッ」


私は思わず、手で顔を覆い、天を仰ぎました。


イノシシ!!!!


そうです。電話口でこの工作員が魔獣呼ばわりして、パニックに陥っていた存在の正体。

それは、この世界と母国における共通の脅威が一つ――野生のイノシシによる、農作物被害だったのです。


「なんとも、お労しい惨状…」


私が天を仰ぐと、農家たちはハッと振り返りました。

奇抜な出で立ちを見て、一人の老爺が怪訝そうに眉をひそめます。


「おん?あんた、お外の人か?ここにおったら危ねぇぞ

あの土色ダンプが、まだ近くの茂みに潜んどるかもしれん

うっかり出くわして突進でもされたら、大人でも内臓ぶちまけて死ぬぞ」


「お心遣いどうも、気になさらず。自己責任で来ましたので

それにしても、ダンプカーとは…なるほど、的確な比喩だ」


私が頷いたその時、地面で泥まみれになっていた工作員が、バッと顔を上げました。


「よ、よんじゅうに…鈴木さぁぁん!!」


彼はすがるような目で私に這い寄り、私のスラックスの裾を泥だらけの手でガシッと掴みました。


「来てくれたんですね!ああ、アヒルよ…!天はまだ僕を見捨てちゃいなかった!!!鈴木さぁん!!アンタ本国じゃ暗殺のプロでしょ!?

頼む、その懐に仕込んでる得物で、あの剛毛の悪魔どもを首から下までミンチにしてやってくださいよォォ!!

僕の…僕の“まどんなちゃん”の仇をォォッ!!!!」


…この馬鹿。


「オオ゛あぁっ!?」


私は顔面をピクッと引き攣らせ、靴底で工作員の指先を。

極めて、自然に、踏み躙りました。


私のような死にたがりでもあるまいに、一般市民の前で暗殺のプロだの懐の得物だの、殺人鬼の自白も同然の言葉を喚き散らすな。

情報統制の基本も忘れたか、この農業従事スパイは。


「あはは、彼はショックで完全に錯乱しているようですね

私はただの通りすがりの、しがない観光客ですよ」


工作員が必死で靴底から逃れようと藻掻き、その手首にある、“SETOUCHI SHIMANAMI”と刻まれた反射素材のリストバンドがチカチカと瞬くのを見つめながら私が誤魔化すと、老爺は「あぁ、新入りの知り合いか」と深く追求することなく納得しつつも、「だども、暴力はいかん」とこちらを制しました。


「失敬失敬、足元がおぼつかないもので」


ぱっと足を離して向き直ると、彼らはそれ以上の追求をしませんでした。

この国の高齢者の、よそ者に対する適当な距離感には度々救われます。


「で?あんた、ミンチとか言われとったが…そのなりで狩猟免許は持っとるんか?」


「いえ、あいにくと。ですので、駆除は不可能です」


私が即答すると、工作員は涙と泥にまみれた顔でキョトンとしました。


「しゅりょう、めんきょ…?何ですか、それは。鈴木さんなら、免許なんかなくても素手でイケるでしょう!?

なんならワームホールからランチャーでも取り出して、ドカンと一発…」


「お黙り、間抜けポンポコが」


おお、怖い怖い。このザマでよくぞ離島の閉塞社会を生き抜いたものです。


「いいですか。貴方はまだ、この国の獣を取り巻く法体系の恐ろしさを理解していない。

あのイノシシたちはね、ただの野生動物ではないのです

【鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律】という、国家が定めた不可視の絶対防壁(シールド)によって守護された、特権階級の害獣なのですよ」


「ほご…?なんで!?アイツら税金払ってないんですよ!?あんな、人の畑を荒らすだけのバケモノが!?なんで!!」


そちらこそ納税こなしつつつのご健勝日和のようで何よりですが、潜入の心得が吹っ飛んでいる。


「答えを聞き逃すな、それがこの国のルールだからです」


いやはや、彼をいきなり第一次産業にぶち込んだ情報局は罪深い!

工作員の適切な配備のため、長官とは少しお話しませんとね!


「いいですか、仮に私がその辺の石ころで奴らを撲殺したとしましょう。それは“違法な狩猟行為”となり、私は書類送検され、最悪の場合、強制送還です…


どこに送られるかは知りませんがね、行き先を探る過程で、公にはされていない拷問を受ける可能性すらある


そのようなリスクを無視して奴らを合法的に殺すには、都道府県知事の認可を受け、厳難な試験を突破して“狩猟免許”を取得し、さらに指定された“猟期”の間に、定められた猟具を用いなければならない!


しかも、今は猟期外の筈です

殺したければ、役所に“有害鳥獣捕獲の許可”を申請し、何枚もの書類にハンコをついて、お偉いさんのお墨付きをもらう必要があるのですよ!」


「なんだその…頭のおかしいコンプライアンスは…人間守れよ…ッ!!」


工作員は頭を抱え、絶望の叫びを上げました。


「理不尽だッ…!!!目の前に、敵がいるのに!畑がめちゃくちゃにされてるのに!!!!お役所の許可がないと、殺しちゃいけないっていうんですか!!?


これ、そのまんま人間に置き換えてみてくださいよ!!一発で檻の中に定住する所業じゃないですか!!」


「いいえ、そんなことはありません」


「なんで!!?」


「日本の法で裁かれる、責任能力ある存在は、全裸で他人の畑を荒らさないからです

精神鑑定に掛ければおシャバにさようなら、厳しくとも減刑止まりが大概ですよ」


「そんな…有り得ない!到底受け入れられませんって、そんな理屈!!!!」


「平等な救済の精神です。ルールを守れない存在を守るのも、法ですから」


「それで僕らが救われないとか、バランスおかしいですって!!真っ当に法を守ってる人を守れよ、クソがァァアア!!!」

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