沈む過去
章末話
アリオンの地下施設は浸水し始めていた。絶たれた橋に急ぐユーヴェは通路を流れてきた木片を前に立ち止まる。木片をまとめて作った筏の様な物は綱が解けたためか、バラバラになってしまっていた。ユーヴェは来た道を引き返し魔術具が犇めく部屋に入った。そこには最新鋭の蒸留装置、小型培養器、ゆがみの無い硝子器具、秤と棚一杯の魔術触媒があり、壁にはアリの巣のような施設図がかけられていた。池へ繋がる道や屋敷への道が明記された施設図の余白には赤字で『アルケルスさんもう迷わないで下さい。地図の携帯は却下しました。』と書かれている。施設図を記憶したユーヴェは先ず水平台を確認し秤を乗せて校正を行い、次々と棚の乾燥した草や肉片等の魔術触媒を取り出してはナイフで切り出して重さを測る。切り出された魔術触媒をすり鉢へ移し、中へ腰のポーチから取り出した瓶の中身を振りかけ念入りにすり鉢ですり潰す。その間にも浸水は進み、水は膝下を覆い足元に木片が纏わり付く。すりつぶした物を濾機にかけたユーヴェは空の瓶へ中身を移しポーチにしまう。作業台から離れたユーヴェは通路へ出ると水に明らかな流れが加わっており泳いでオストルの屋敷に引き返すことが出来ず、彼は記憶を頼りに池へ繋がる道を辿る。水に押されてつんのめるように駆けるユーヴェは太股まで水に浸かっていた。いくつもの通路を通り抜け記憶の中にある池への出口に彼は辿り着いた。壁のランタンの灯りが水面を反射して部屋を橙赤色に染める中腰のポーチから先ほど作成した薬液が入った瓶を取り出したユーヴェは背中を掴まれて水に沈められた。ユーヴェは施設の石畳へ叩きつけられた衝撃で瓶を手放し水中で藻掻く。背中を押さえる何者かを蹴り飛ばしたユーヴェはずぶ濡れになって立ち上がった。
「まだ生きていたのか。」
左目血走る人狼が胸から血を滲ませユーヴェの前に立ちはだかっていた。人狼は荒い息を吐き、呼吸には引くような細い音が混じる。ユーヴェは腰のロングソードを抜き放ち人狼に躍りかかった。橙赤色を纏った一閃は躱されて白い爪がユーヴェの脇を掠める。薬液の影響で過敏になった知覚が痛みを増幅されたユーヴェは痛みによって足を縺れさせながら剣を振り払って尻餅をついた。剣の一撃は人狼の右手首を切り落とし、痛みに唸る怪物はのろのろと歩き、のしかかるようにユーヴェへ掴みかかった。右腕の手首でユーヴェの胸を押さえつけ、左手の爪で首を狙う。ユーヴェは剣を人狼の左手の手のひらへ突き刺して爪を押しとどめた。冷たい水がユーヴェから体温を奪い、彼の意識を薄れさせる。ユーヴェは首を回し取り落とした瓶を探し少し離れた。人狼に押さえつけられたまま左手で石畳の縁を掴み瓶へ近づく。藻掻くユーヴェへ人狼は声を張り上げた。
「私はユーヴェだ。俺は私を導く。怪物狩りを助けてやる。お前の人生を俺によこせ。俺がユーヴェになるんだ。」
瓶を掴んだユーヴェは妄想を話す人狼の左手に刺さった剣を捻って立ち上がり、傷口を広げられて苦痛に呻く人狼を水へ沈めた。人狼を水中に押さえつけたユーヴェは急ぎ瓶の手に持った瓶の薬液を飲み干すと、盛り返した人狼によって再び水中に沈められる。もつれ合った二人は何度も互いの背を水中へ叩きつけ合い、やがて部屋中が水で満たされていく。水面から顔を出す人狼は切り株となった腕を振り上げてユーヴェを何度も殴る。殴打によって頭を揺らすユーヴェはポーチを探る。なおも続く殴打にユーヴェの鼻は折れ鼻血を流し、両目は血走り口の端から泡が漏れる。人狼は大口を開けてユーヴェの首筋を狙う。狙いを澄ませたユーヴェは逆手に握った鏃を人狼の失明した目玉に突き刺し鋭い牙を反らす。大口はユーヴェの右肩を噛みついた。しかし、人狼の鋭い牙は外套の下に着込んだ鎖帷子で止まる。平時であれば容易く引き裂いてきた鎖帷子だったが弱った人狼では破れないどころか骨すら砕くことが出来なかった。ユーヴェは鏃を目玉から引き抜くと、何度も人狼の首へ突き立てた。刺しては抜かれランタンの灯りが消え、暗闇に包まれた部屋中の水が血に染まり地下で得た書類もその中を泳ぐ。水中でユーヴェは鏃を交換し抵抗を続ける人狼の首へ何度も突き刺し、遂に人狼の首を切断する。頭部を失った胴体は石畳へ静に横たわり。水に満たされた地下の一室で長年生きたアリオンの怪物は息絶えた。
ずぶ濡れになったユーヴェは小さな池から顔を出した。池に取り付けられた鈴が鳴り周囲に憲兵達が集まって来ており、彼らは池から這い上がったユーヴェの腰から下がる人狼の生首に怯えて後ずさる。ユーヴェは鎖帷子と外套を地下へ残しており、くたびれたシャツに空っぽの弾帯が巻き付いていた。額へ張り付いた髪をずらしユーヴェは肩の水を払いながら手近な憲兵に声をかける。
「馬をお願いします。怪物はこの通り討伐しました。」
大きく礼を取った憲兵は馬をユーヴェに渡し他の憲兵達が彼を街まで誘導する。門まで馬を進めた一行は門前で話し合うピルネウスの前で馬を止めた。ピルネウスもユーヴェを見て軽く二三言づてを部下へすると馬に乗った彼を見た。ユーヴェは馬から下りて彼へ近づき腰の革袋と生首を並べた。並んだ首に緊張したピルネウスはユーヴェへ語りかけた。
「確かに。怪物の生首を確認しました。魚人の販売についても目録を入手しましたので後は人間相手の専門家にお任せください。魔術師ユーヴェ殿、お疲れ様です。お湯を沸かしましょう。着替えられた方が宜しい。報酬は天幕へ持ってこさせましょう。」
ピルネウスは弱々しい笑みをユーヴェへ向ける。
「ありがとうございます。オストル殿はどうやら人狼、この狼の頭ですね。この怪物に残念ながら殺されてしまいました。証明書に関しては」
「必要ありません。屋敷の床から出て来た皮は人間の物でした。それも大量で床を覆うほどです。私はどうして気づけなかったのか。」
礼を取ったユーヴェへ沈痛な面持ちで呟くピルネウスは自責のためか顔に大きな陰を落とす。ユーヴェは肩をすくめる彼に提案した。
「この一件は王宮魔術師が関与しておりますので王都の問題になるでしょう。軍経由では無く先ずは領主閣下を頼り、国王陛下へご一報をお願いする方が良いでしょう。私はこれで失礼します。ご協力いただき、ありがとうございました。」
「こちらこそ、ありがとうございます。怪物を討伐出来て何よりです。またはお会いしたくないですが、王都で会った際は何か奢ります。」
ピルネウスへ挨拶をしたユーヴェは互いに笑みを浮かべ別れた。詰め所庭の天幕へ戻ったユーヴェは山盛りの金を受け取り、着替えて鹿革のジャケットを羽織ると荷を片付け始める。憲兵達も幾人か手伝いに天幕をくぐり、その中にはテレウスもいた。片付けはあっと言う間に終わり荷物は馬車へ運ばれる。
「ユーヴェ殿、こちらで宜しいでしょうか?」
テレウスが抱えた木箱の位置をユーヴェに確かめる。
「その場所でお願いします。」
返答したユーヴェは荷物の目録を確認し荷を点検する。全ての点検を終えたユーヴェは憲兵達に礼を取りながらアリオンの門から荷馬車を走らせ帰路に着いた。
馬車を走らせて三日経ち日が陰り始める頃、ユーヴェの目に遂に赤い屋根は森の合間から見えてきた。森を抜けるとセネスの妻ネレイエが玄関前に立っており、馬車に乗るユーヴェを見つけると皺が入った顔をほころばせた。その顔につられてユーヴェも笑みが顔からこぼれる。御者台に腰掛けるユーヴェへ近づいたネレイエは声を弾ませて言う。
「お帰りユーヴェ。今日は良い肉が有るから楽しみにね。今、坊やも家に居るから武器の調整をお願い出来るからね。」
「丁度良かった、空気銃が壊れまして新調したかった所です。」
ユーヴェは馬車から下りて荷台から鳥かごを持ち出したネレイエと並んで屋敷へ向かう。
「ただいま帰りました。今回は新しい魔術具に助けられました。幾つかの手を加えたので後で見て下さい。」
「勿論。その前に夕飯を食べないとね。どうせ狩りの間は碌に食べていなかったでしょう。」
「仰る通りです。」
ユーヴェは屋敷の扉を開けネレイエを先に中へ入れ、その後扉を閉めて鍵を掛けた。二人は暖かい屋敷へ入りユーヴェは応接間に、ネレイエは台所へ向かった。ランタンの灯りに目を細めるユーヴェが応接間に顔を出すとユーヴェよりも年が若い青年が椅子に座っていた。
「アルドルアスさん、お久しぶりです。」
ユーヴェは声をかける。アルドルアスは物思いにふけっていたのかユーヴェの声に驚き椅子の上で軽く仰け反った。向かい合う椅子へ座ったユーヴェへアルドルアスは人懐っこい笑顔を浮かべて語りかけた。
「お疲れ様ですユーヴェさん。ああ、左手の話は本当だったんですね。魔術具については如何でしょうか。不具合は有りましたか。」
アルドルアスはお土産の葡萄酒を机に置いて、ユーヴェと共に食器を並べる。
「完璧です。しかしながら怪物に破壊された物があるので注文をしたいですが、先ずは食事をしながら旧交を温めましょう。」
ユーヴェは皿を置きながらそう言うと奥から豚の煮込み、野菜と牛肉のスープ、煮卵を持ったネレイエが現れ次々に料理を机に並べた。料理を囲み喜ぶユーヴェ、アルドルアス、ネレイエの三人は仕事を忘れて一時の食事を楽しんだ。




