アリオンの怪物
血と魚の生臭さが屋敷中を漂う。悪臭と冷たい空気が屋敷へ入り込んだユーヴェを迎え入れた。柔らかな敷物が靴音すら吸い込み、屋敷の中は物音一つしなかった。ユーヴェは発射準備を整えた空気銃を右手に、仕切りに目を動かし警戒を怠らず薄暗い屋敷を進む。窓から差し込んだ細い日光が部屋内の装飾を鈍く照らす。ユーヴェは空いた左手でポーチから小さな鏡を取り出すと金色に光る点が一つ浮かんでいた。唇を舐めたユーヴェは再びポーチへ鏡を戻すと大きな声が屋敷を通り抜けた。
「おはよう。屋敷へようこそ魔術師ユーヴェ殿。私は食堂にいる。」
オストルの声だった。ユーヴェは声へ向かって銃を構えて廊下を進み曲がり角を右へ曲がるとそこは食堂だった。二つの黒く小さなドアストッパーによって開け放たれた両開きの扉奥には従者用の長く簡素な食卓が置かれオストルが食事を摂っていた。ナイフとフォークが大きなステーキを切り分けた。断面は桃色である。オストルはフォークを皿へ置くとしっかりと焼いた小ぶりな骨からナイフで骨髄をほじくり出して切り分けた肉へ丁寧に乗せる。大きな口を開けたオストルはとろける骨髄が乗る桃色の焼き肉を頬張り十数回の咀嚼の後飲み込み唇を舐めた。ユーヴェは左手で器用に銃を引き抜き空気銃の鏃をオストルへ向けた。オストルはチラリとユーヴェへ目を向けるが視線は肉へ戻る。続いてオストルはガラス細工が施された銀杯へなみなみ注がれている、燃えるような葡萄酒の香を楽しみ一口味わうように飲むと、ゆっくりと自分の頬を触り口火を切った。
「何を疑っているのかはわかる。オストルは西方産まれの人間だよ。」
無言のユーヴェにオストルは構わず話す。
「ところで私の『節約論』は読んだかな。」
ユーヴェは答えない。小さく頷いたオストルは思い起こすように右上を眺める。オストルの胸元へ銃を構えるユーヴェの腕にハエが止まった。
「あの時の私は一番生き生きとしていた。私は故郷では有名な商家の出で弟が一人居た。私は弟に事業を任せて独立して貴金属店を営んでいた。当然金も取り扱っていた私は魔術師とも知り合うようなって王都で妻に会えた訳ですな。そして今、長いアリオンの生活で俺は遂に一人になっている。ところでユーヴェ殿、妻は今どうしておりますかね。」
「お前の事を聞いた。」
ユーヴェは胡乱げに空へ微笑むオストルから目を離すことが出来ない。
「そうか死んだか、それは惜しい事をした。あれが手ずから作った料理は美味かったのだが。」
空気が冷える。僅かに獣臭が漂い、身じろぎするオストルの胸を鏃が追従する。
「あれらには随分と投資をしたものだ。最先端の器具、貴重な時間、無くてはならない高価な触媒どれが欠けてもあの下等生物共は黄金を産まなかっただろう。これも成果の一つだ。肥えて太った肉は黄金に匹敵する。憲兵隊を煽ったのはお前だろう。ひどいことをする。せっかくの美しい商品が台無しだ、気に入っていた人間は多かったのだがね。」
オストルは大きく切り分けた肉へ微笑みかけ、一口で頬張り噛まずに呑み込んだ。彼の口角はつり上がり前歯と唇の隙間からよだれが糸を引いて垂れる。ユーヴェは眉をひそめる。
「貴方は約十年前、王宮魔術師殿と魚人に関する取引をした。」
「そうだ、お前は間違っていない。今となっては遠い記憶だが、あれは良い買い物をした。私もきっと喜んでいるだろう。」
「地下で魚人の飼育をしていたのか。」
「飼育ね、確かにそうとも言える。だが、目的は違う。お前はもう解っているんじゃないのか?犬のような魚人の性質を理解しているのならな。」
瞬きをしたオストルの両目が金色へ変わる。冷たい黄金の目玉がユーヴェを見つめた。
「人狼か。」
「そうだとも。私は一度も負けたことが無い怪物だ。お前やセネスの系譜である鏡の魔術師も何人か殺した。」
ユーヴェの言葉へ人狼が答えた。ユーヴェの目には人の姿の人狼が一回り大きくなったように見え、その姿に呟いた。
「お前は、生きやすい世界を作りたかったのか。」
人狼は鷹揚に頷きフォークを皿へ置くと机の上で指を組んだ。
「俺は魚人で埋め尽くされた世界を謳歌したい。力が全ての世界であれば俺は皮を被らず俺で有り続けられる。下等生物共を下して神になれるだろうさ。」
組んだ指が組み換えられる。皿の肉へハエが止まり飛び去っていく。
「オストルはどうした?」
葡萄酒で口に残った脂を洗うオストルへユーヴェは目を細めて尋ねた。問を受けたオストルは直ぐに問へ答えず、口元を手拭きで拭いしげしげと手拭きが汚れた場所を眺めて匂いを嗅ぐと、小さく口を開いた。
「ああ。美味かった。一年前の事故が無ければこの味をもっと楽しめていたものを、惜しい事をした。」
そう言った人狼は葡萄酒を一気に飲み干しゆっくりと杯を置いて深く息を吐いた。
「魔術師、お前は俺が人狼だと言ったな。」
人狼は吐き捨てるように言う。続いて鋭い犬歯を立てて一言。
「違う。」
何度もそう呟く人狼とユーヴェの目が真っ直ぐに合った。金色の目玉にユーヴェの顔が映り込む。すると、人狼が悦に入った表情を浮かべてオストルの顔がゴム皮のようにゆがんだ。
「俺は今日からおまえだ。」
オストルの言葉を聞いたユーヴェは空気銃の引き金をオストルの胸目がけて引く。放たれた矢が空を切りオストルの胸へ迫るが、肥大化した黒い毛むくじゃらな右腕によって鏃は容易く受け止められた。ユーヴェは胸の四つの薬室を備えた魔術具の薬室を一つ空気銃の柄で押し込むと鏃が変形し、鏃の内部から飛び出した刃がオストルの手のひらを深く切り刻んだ。その間もオストルの体は変貌を続け、全身の筋肉が服を破って隆起し、両足の靴は安い藁袋のように破け、つま先からは鋭い乳白色の厚い爪が生え揃う。頭部は狼のように頬と鼻が引き延ばされ、犬歯が太く僅かに延び、尖った耳が逆立っていた。黒毛は頭部を覆っていたが、右側側頭部から右頬にかけては人肌のままゆがんでいる。その風貌は頬袋のある狼といったモノで不気味さを感じさせる。ユーヴェの左手に握られた銃が炎、煙を上げて弾を吐き出し、放たれた銃弾はオストルの右脇腹へめり込んだ。しかし、鏃の傷などちっぽけに見えるほどの巨体へ変貌を遂げたオストルは、弾の命中を意に介さず机を一飛びに飛び越し、天井を蹴ってユーヴェへ躍りかかった。ユーヴェは降下するオストルへ向かって左手の短銃を投げつけ、銃弾を当てた右脇側へ潜り込むように走る。走り抜けるユーヴェの頬をオストルの爪先が掠めた。木床を割る音へユーヴェは腰の短銃を振り返らず向けて撃つ。振り返ったユーヴェの目の前でオストルの、着地した跡と思われる木床は割れて初日に鏡で見た石畳が地下に備え付けられていたランタンに照らされている。背負い物を降ろしたユーヴェは頬の傷を消毒液で洗う。オストルに切られた傷はユーヴェの右眼窩下孔から右下顎角にかけて広がっていたが、幸いな事に傷口は浅かった。軟膏で傷口を覆ったユーヴェは腰のランタンの火を灯し腰へ装着する。
「この街で必ず仕留めなければ。」
軽い鞭打ちになった首を撫でてユーヴェは呟き、薬液で満たされた円柱状の装置を三つ腰の大きいポーチへ入れる。地下への穴歩み寄って中を覗いたユーヴェは破壊痕が残る穴へポーチ内の箱を一つ落とし、射出機を二本背負い物から取り出してそれぞれ異なる投射物を装填して腰に下げ、装填用の爆弾が収まる弾帯を肩に掛ける。続いて紐が括りつけられた鏡を左腕に取り付けたユーヴェは鏡の端を押すと無人の地下が映った。
「流石の出来栄えだ。」
腰に装填済みの短銃を三丁下げて装備を整えたユーヴェはロープを垂らし地下へ降りた。
地下へ降りたユーヴェは据えた匂いを含んだ腐臭に顔を歪めた。ユーヴェの靴が石畳へ当たり僅かな音が反響すし大きな音になる。射出機を構えたユーヴェは左腕の鏡で後方を確認しつつ薄暗い辻がいくつもある大きな通路を歩く。
「来ると思っていた。ユーヴェ、お前はそういう男だ。だからこそお前らをこの街へ呼ぼうと思ったのだ。これから殺しに行くから俺の趣味のために必死に戦え玩具。」
壁を爪で引っかく音と人狼の大声が空気を震わせて通路に響く。ユーヴェは箱をもう一つ前方へ投げ、箱を追うようにゆっくりと前進する。通路には檻の様な部屋と木札で作られた名札が各部屋に掛かっている。左腕を確認するユーヴェの目に黒い影が映った。振り返ったユーヴェは後方からゆったりと忍び寄る人狼を目に捉えた。人狼は風のように走り辻へ入った。前方へ振り返ったユーヴェは小走りに投げた箱へ近づくと鏡に人狼が再び現れ、ユーヴェの足音に合わせて走り彼へ迫る。ユーヴェは鏡を確認しつつ振り向かずに射出機で後方に爆弾を発射した。爆風によろめいたユーヴェは振り返ると人狼が炎を割って飛び出してきた。人狼の皮膚は焦げて剥がれ、膝や胸の肉がむき出しになっていた。もう一本の射出機を構えるユーヴェと人狼の間には既に馬一頭分の距離しかない。ユーヴェは射出機の引き金を引いた。射出物は人狼の胸へ当たった。ユーヴェは胸の薬室を一つ押し込み、射出機を手放して間一髪で辻へ入り人狼の体当たりを避けた。人狼は射出機を下敷きに倒れ痙攣しつつ肉や毛が焦げる臭いを立てて千鳥足に立ち上がろうと藻掻く。ユーヴェはその背へポーチの瓶を一本抜き取り、手に持った瓶を人狼の背へ投げつけた。背中には当った瓶は簡単に割れて中の薬液が黒毛の背中を包み込んだ。煙を上げる人狼の体中には黒い電撃傷がクッキリと浮かび、足元の石畳には体重で壊れた投射物が転がる。人狼の右目は電撃によって真っ白に焼けて失明しており、屈辱に怒る怪物の口元からは血の泡がこぼれ、背中には薬傷が大きく広がり背中の皮膚は縮み白煙を上げていた。その間にユーヴェは射出機へ弾帯から引き抜いた爆弾を装填しながら走り、地下牢のような一帯を抜けて地下に渡された手すりすら無い吊り橋へたどり着いていた。橋の足場は濡れた横木が等間隔に並び、木の中央はたわんでいる。天井の細工からは光が差し込み、橋の下一面に広がる地下湖を照らし出す。ユーヴェは腰に射出機を下げ、腰から取り出した細いロープを片手に橋を慎重に渡り始めた。
ユーヴェを追いかける人狼は匂いを辿り、彼が渡る橋へたどり着いた。ユーヴェは急ぎ足に橋の七割を渡っていたが、白煙を吹き上げて追い掛ける人狼の足には遠く及ばず忽ち追いつかれてしまうだろう。振り返ったユーヴェは揺れる橋の足場で座り、腰の短銃を引き抜いて撃鉄を起こし両手で銃を構える。銃を支える腕を太股へ付け人狼の眉間へ向けて引き金を引いた。人狼の目は飛来する弾丸を捉え、首を傾けて躱す。更に二人の距離が縮まる。ユーヴェは弾の無い短銃を取り落とし、肩に担いだ瓶が装填された空気銃を片手に胸の魔術具へ取り付けられた薬室を押し込んだ。橋が大きく揺れる。橋の中程が爆発で砕け橋が落ち始めた。
「使い魔か!」
空中に浮いた人狼は焦り、思考が口から漏れる。ユーヴェの腰帯には滑車を介して細い綱が結ばれていた。綱は幾分か離れた二枚の横木へ結ばれている。彼は焦る人狼を尻目に滑車から垂れる綱を軽く引っ張り、縄を縮めながら対岸へ向かって小走りに進む。ユーヴェ目がけて人狼は口から血のよだれを垂らし、満身の力を込めた爪は橋の横木を削り取り飛ぶように橋を渡る。傾いた橋は垂直に倒れ横木が岩肌へ打ちつけられた。ユーヴェは両足を横木へ軽く当て衝撃を殺そうと試みたが暴力的な衝撃に耐えきれず、空気銃を握る左腕を岩肌へ叩きつけた。左腕は力なく垂れ下がり力を失った指から空気銃がこぼれ落ち数秒後、水が跳ねる音が鳴る。ユーヴェは左腕を曲げようと力を込めたが腕は振り子のように垂れ下がるばかりである。宙吊りになったユーヴェの横木四十枚程下には片手で何とか横木にしがみついていた人狼が一枚一枚足元や手元を確認しつつユーヴェの命を狙って橋を登る。脂汗を額に流すユーヴェは腰の滑車を残った右手で操作し、両足を横木へかけて上を目指す。牛歩の歩みで登るユーヴェはしきりに下の人狼を観察しており、両者の間は更に詰まっていた。対する人狼は爆発や感電による耳鳴りと吐き気を覚え、視界がゆがんでいた。失明した右目は燃えるように熱く火照り彼の集中を削ぐ。橋を登るなか次の横木へ手をかけ身体を持ち上げると右足をかけていた横木が割れ、毛むくじゃらな巨体が下に傾く。脱力を覚えた人狼は足下へ目を落とし、その場で嘔吐する。刹那、風切り音が鳴る。ぎこちなく右足の足場を整えている人狼目がけて右手にロングソードを握ったユーヴェが落下してきていたのだ。陽光に輝くロングソードの切っ先は人狼の胸へ突き刺さり、銀色の切っ先は薬傷で弱った皮膚を突き破った。二人はもつれて一塊に落下し、傷口から噴き出した鮮血がユーヴェの顔と胸を赤く染める。木と綱が軋む音が鳴りユーヴェの落下が止まる。ロングソードが人狼の黒い胸から抜け、その最中人狼は苦し紛れに腕を振るった。鋭い爪はユーヴェの左頬を深く切りつけ人狼は陽光射す地下湖へ落下する。人狼の巨体は大きな水しぶきを上げ水面へ叩きつけられ、湖が浅かったのか同時に打ち付けられるような激突音も鳴った。青色の湖が人狼を中心にぼんやりと紅く染まる。
「新しい魔術具に助けられたな。」
人狼の死体を見下ろすユーヴェは剣を納めポーチから瓶を一本取り出し中の薬液を飲み干した。すると微かに左腕の指先が動きゆっくりと拳を握る。腕の調子を確かめたユーヴェは上を向き、橋をゆっくりとしかし確かな足取りで登り始めた。




