夜の番
坂下は、中古の軽バンを探していた。
放火では、保険は満額出ない。警察は「調べる」と言ったきり、何も言ってこない。子どもたちは、あれから夜に目を覚ますという。
「代わりが見つかるまで、仕事は休みだ」
電話の向こうで、坂下は、そう言った。
「何か、できることは」
「ない。でも、ありがとうな」
それだけだった。
電話を切ったあとで、スマートフォンを、しばらく手の中で回していた。
◇
二日後の夕方、無線が鳴った。
「東亜物流部、水無瀬です。高額素材の配送を、お願いします」
「何ですか」
「雷竜の角。四本。合わせて、二千四百万円です」
助手席の真柴さんが、小さく口笛を吹いた。
「重さは、三十二キロ。大田区の保管庫から、同じ区内の加工所へ。ただし、加工所は、明朝八時まで受け入れができません。東亜の保管庫は、事故の点検で、今夜から閉鎖されます。一晩、預かっていただきたい」
「車で、ですか」
「車で。最近、素材の盗難が増えています。値上がりのせいです。この角にも、追跡タグを付けました。位置は、こちらで見ています」
「分かりました」
「護衛の方は、夜通し、お願いします」
「元から、そのつもり」
真柴さんは、無線機に答えた。
無線の向こうで、水無瀬さんが、小さく言った。
「……お気をつけて」
角は、白い布で巻かれて、細長い木箱に収められていた。
箱ごと、荷台の床に固定した。毛布を二枚、ベルトを四本。
二千四百万円が、荷台に載っている。
積み方は、いつもと同じにした。
高い荷物だから、特別に積む、ということはない。高くても、安くても、箱は箱だ。
夜は、大田区の運河沿いの、月極駐車場の空き区画に、車を止めた。
街灯が、一本だけあった。周りは、工場の塀と、運河と、使われていない倉庫だった。見通しがいい。
時計を見た。午後十時。
◇
「寝ていいよ」
真柴さんが、助手席から言った。
「私が見る」
「規則ですので、休みます」
運転席の背もたれを、倒した。
「規則?」
「眠らずに走らない。運転する前の夜は、六時間、寝る。眠気と戦って走るのは、運転ではありません」
「へえ。それも、口癖?」
「事実です」
目を閉じた。
大手にいたころ、先輩から、教わった。
眠れるときに、眠る。眠れる姿勢を、体に覚えさせる。座ったまま、腕を組んで、首を少し傾けて、息をゆっくり吐く。二十年やっていれば、五分で眠れる。
真柴さんは、折りたたみの椅子を、持ってきていた。助手席の外に置いて、缶コーヒーを開けた。
その音が、遠くで、聞こえた。
そのあとの記憶は、ない。
二時過ぎに、一度だけ、目が覚めた。
無線機の小さなランプが、緑に点いていた。
助手席のドアが、少し開いていた。真柴さんは、その隙間から、手を伸ばして、無線機のマイクを持っていた。
小声で、何か言っている。
「……だから、気持ち悪いんだって」
まだ眠かった。目は、開けなかった。
「ぴくりとも動かない。腕を組んだまま、一時間。死んだのかと思って、息、三回確かめた」
「二十年、車の中で仮眠を取ってきた人の寝方です」
水無瀬さんの声が、返ってきた。
「動かないほうが、疲れが取れます。体が、そう覚えているんです」
「何で、知ってんの」
「……私は、配車係です。ドライバーの寝方は、全員分、知っています」
「全員分」
「早坂さんは、いつも、同じ寝方です。仮眠の指示を出すと、三分で、車が静かになります」
「へえ」
「それだけ、です」
水無瀬さんは、少し早口で、言った。
「あなたも、寝てください。私が、位置は見ています」
「いい。私が見る」
「明日、使い物にならないと、困ります」
「あんたこそ、徹夜でしょ」
「私は、慣れています」
俺は、また、眠った。
◇
三時十分。
何かが、車を揺らした。
目が、開いた。
助手席のドアが、開いていた。真柴さんは、もう、車の外にいた。
街灯の下に、三つの影が、立っていた。
黒い服の男が、三人。年は、三十前後。体が、大きい。一人が、バールを持っていた。一人は、腰に、解体用の長いナイフを下げている。
「どいてくれ」
真柴さんの前の、男が、言った。
「荷台に用がある。おとなしく、どいてくれ」
「その角は、預かりもの」
真柴さんの声は、低かった。
「通さない」
「三対一だぜ、姉ちゃん」
「元は?」
「ん?」
「あんたら、元冒険者でしょ。歩き方で分かる。C級?」
男たちが、顔を見合わせた。
「……察しがいいな」
「悪いけど、私は、B級」
その瞬間、バールが、振られた。
真柴さんは、一歩、下がった。バールが、空を切った。
剣が、動いた。バールの男の手首に、刃の腹が、当たった。男が、呻いて、バールを落とした。
二人目が、横から来た。真柴さんは、振り向かずに、肘を、後ろへ打ち込んだ。
男の腹に、入った音がした。
男は、膝をついた。
車の中から、俺は、見ていた。
見ていることしか、できなかった。
三人目が、動いた。
あの、ナイフの男だ。
男は、真柴さんではなく、運転席のほうへ、走ってきた。
ドアが、引かれた。
外の空気が、流れ込んできた。
襟首を、つかまれた。体が、運転席から、半分、引きずり出された。
喉に、冷たいものが、当たった。
「動くな」
ナイフだった。
「剣を、捨てろ」
男は、真柴さんに言った。
真柴さんの動きが、止まった。
男の背中の向こうで、真柴さんが、俺を見ていた。
目が、一瞬だけ、合った。
俺は、動けなかった。
動いたら、喉が、切れる。
ただ、右手だけが、自由だった。
ステアリングの、中央。
手のひらを、そこに置いた。
クラクションが、鳴った。
夜の運河に、長い、割れた音が、響いた。
男の体が、びくりと、跳ねた。
その一瞬に、真柴さんが、飛び込んできた。
男の腕を、つかんだ。
ナイフが、俺の喉から、離れた。
刃が、真柴さんの脇腹を、横に、薙いだ。
音は、しなかった。
布が、割れて、黒い染みが、広がった。
それでも、真柴さんは、止まらなかった。
額を、男の鼻に、叩きつけた。
男は、そのまま、崩れた。
残りの二人は、立ち上がろうとして、立ち上がれなかった。
一人が、這って、逃げた。もう一人も、続いた。
足音が、運河の向こうに、消えた。
静かになった。
街灯の下に、ナイフの男が、仰向けに倒れていた。
真柴さんは、車に背中を預けて、ずるずると、地面に座り込んだ。
右手が、脇腹を押さえていた。指の間から、赤いものが、流れていた。
◇
救急車を、呼んだ。
受付は、落ち着いた声だった。出動中の隊が、全部、出払っていると言う。到着まで、二十分。
「最寄りの救急病院は」
「大田総合病院です。ここから、五キロ」
「自分で運びます」
「止血を、続けてください」
電話を切った。
男の手首を、荷締めベルトで、縛った。ラチェットの音が、静かな夜に、響いた。
警察にも、電話した。場所を伝えた。
真柴さんを、助手席に、運んだ。背もたれを倒し、毛布を畳んで、脇腹に当てた。
「……重い?」
「軽いです」
「嘘つけ」
「三十二キロの角よりは、重いです」
「比べるなよ」
真柴さんは、笑おうとして、顔をしかめた。
運転席に乗った。
エンジンをかけた。
足は、いつもの、順番で動いた。
ブレーキの、三秒前。
ハンドルは、切るのではなく、置く。
夜の道は、空いていた。信号は、全部、頭に入っている。この時間は、青になるまで、四秒だ。
荷物を壊さない運転は、今まで、何千回もやってきた。
人間を乗せて、やったのは、初めてだった。
それも、自分の血で、座席を濡らしている人を。
「……揺れない」
真柴さんが、小さく言った。
「はい」
「吐いてない」
「吐いていません」
「ばか。こんなときに、言わなくていい」
「すみません」
「でも……助かる」
声が、細くなっていた。
俺は、アクセルを、ほんの少しだけ、緩めた。
揺れが、さらに、減った。
赤信号で、止まった。ブレーキの三秒前から、踏んだ。止まる瞬間に、緩めた。
真柴さんの、顔色が、紙のように、白かった。
「あんた、寝てたくせに」
「はい」
「起きるの、早かった」
「クラクションを、鳴らしただけです」
「あれが、なきゃ、死んでた」
「そうですか」
「そうだよ」
真柴さんは、目を閉じた。
「……角、無事?」
「無事です」
「そ。なら、いい」
信号が、青に変わった。
◇
病院で、真柴さんは、ストレッチャーに載せられた。
医者が、傷を見て、顔をしかめた。
「あと三センチ、深ければ、内臓でした」
「命は」
「手術をします。大丈夫です。……ただ、全治は、三週間は見てください」
三週間。
待合室の椅子に、座った。
手が、震えていた。止めようとしたが、止まらなかった。
先週の迷宮でも、同じように、震えた。
あのときは、助けられた。
今夜も、助けられた。
警察から、電話が入った。
ナイフの男は、確保された。その場で、何も話さないらしい。
駐車場に戻って、軽バンの荷台を、点検した。
角は、四本、無事だった。木箱の中の布も、乱れていなかった。
助手席のシートは、血で、濡れていた。
それを、タオルで拭いて、俺は、運転席に座った。
時計は、午前四時。
納品は、八時。
六時間の睡眠は、もう、取れない。
それでも、二時間は、眠らなければならない。目を閉じて、息を、ゆっくり吐いた。
◇
七時四十分に、加工所へ着いた。
角を渡した。受け取りの欄に、押印をもらった。
駐車場に戻って、運転席に座ったとき、無線が鳴った。
「東亜物流部、水無瀬です」
声が、ひどく、静かだった。
「真柴さんの容態を、ギルドから聞きました。……申し訳ありませんでした」
「水無瀬さんのせいでは」
「いえ」
水無瀬さんは、一度、言葉を切った。
「早坂さん。お伝えしなければならないことが、あります」
「何ですか」
「昨夜の、角の追跡タグの記録を、遡って確認しました」
キーボードの音が、聞こえた。
「あの角の位置を、昨夜の二十二時三十一分に、照会した端末があります。早坂さんが、駐車場に着いた、三十分後です」
「誰が」
「東亜の、大井倉庫の、端末です」
息が、止まった。
「あの場所に止めることを、知っていたのは、私と、早坂さんと、真柴さんだけでした」
「水無瀬さんは」
「私は、誰にも、言っていません」
声は、揺れていなかった。
揺れないように、水無瀬さんが、力を入れているのが、分かった。
「その端末を使える人間は、八人います。八人のうち、誰かが、あの三人に、位置を流しました」
窓の外で、朝の光が、軽バンのフロントガラスに、白く反射していた。
泥棒は、偶然、あの駐車場に来たのではなかった。
最初から、あの角を、狙っていた。
東亜の中から、誰かが、手を貸していた。
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