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8/30

零下十五度

 翌朝、六時に起きて、電話を一本かけた。

 東亜マテリアルの、鷲尾の秘書が出た。

「専属のお話ですが、お断りします」

 しばらく、返事がなかった。

「……鷲尾に、代わります」

 電話が、少し保留になった。

「早坂さん」

 鷲尾の声は、昨夜と同じ高さだった。

「理由を、うかがってもよろしいですか」

「一社の荷物だけ運ぶと、道を忘れます」

「道を」

「毎日、違うところへ、違うものを届けていると、道が頭に残ります。決まった倉庫と、決まった工場だけ行き来すると、その外側は、一年で忘れます。忘れた道は、いざというときに、使えません」

「三倍のお給料でも、ですか」

「はい」

 そう言ってから、美緒の顔が、頭に浮かんだ。

 学費の前払いはできなくなった。それでも、答えは、変わらなかった。

 鷲尾は、一拍、置いた。

「そうですか。残念です」

 怒っては、いなかった。

「許可制は、決まります。そうなったとき、お気持ちが変わったら、いつでも、ご連絡を」

「お気持ちは、変わりません」

「そうですか」

 電話は、静かに切れた。

 俺は、しばらく、スマートフォンを見ていた。

 切れる前の、鷲尾の息が、少しだけ笑っていた気がした。

 気のせいかもしれない。


         ◇


 七時十五分。無線が鳴った。

「東亜物流部、水無瀬です」

「早坂です」

「今日の荷物は、氷竜の肝です」

「氷竜」

「江東区の解体所から、横浜の製薬工場まで。重さは十八キロ。冷凍帯で運んでください。マイナス十五度以下。解凍すると、薬効の層が壊れて、ただの肉になります」

「冷凍帯ですか」

「冷凍です」

 助手席に座っていた真柴さんが、顔を上げた。

「魔物の肝を、冷凍で?」

「冷凍です。クール便の、冷凍と同じ扱いです」

「……魔物の冷凍便」

 真柴さんは、呟いた。

「聞いたことない」

「今日が、初めてですね」

 水無瀬さんが、淡々と言った。

「護衛の方は、道中で何かあったら、肝を最優先に。人より先に、です」

「人は?」

「自分で何とかしてください」

「ちょっと」

「冗談です」

 真柴さんは、無線機をにらんだ。

 水無瀬さんの冗談は、冗談に聞こえないところが、特徴だった。


         ◇


 荷台には、冷凍ユニットが、後付けで載っていた。

 大手にいたころ、冷凍便を担当していた。独立するとき、中古の小さなユニットを、荷台に積んだ。バッテリーで動く。出力は小さいが、荷台の中を、マイナス二十度まで冷やせる。

 それを、前の晩から回して、荷台を冷やしておいた。

 解体所で、氷竜の肝を受け取った。

 青白く、半透明の肉の塊だった。大人の頭くらいの大きさで、霜をまとっている。厚い発泡の箱に、緩衝材と一緒に収められた。

「マイナス十八度で、凍らせてあります」

 解体所の男が言った。

「温度計は、箱の中に」

「確認しました」

 箱の中の温度計は、マイナス十八度を指していた。

 荷台の壁の温度計は、マイナス二十度。

 積み終えて、扉を閉めた。

 江東区から横浜まで、一時間二十分。順調なら、八時五十分に着く。


 走り出して四十分、湾岸線の手前で、荷台のほうから、音がした。

 かたかた、と、小さな音。

 それから、ぶうん、という低い音が、途切れた。

 俺は、バックミラーを見た。

 冷凍ユニットの音が、止まっていた。

 車を、路肩に寄せた。

 荷台を開けた。温度計は、マイナス十六度になっていた。

「どうしたの」

 真柴さんが、後ろから顔を出した。

「ユニットが、止まりました。バッテリーが、落ちたようです」

「直せる?」

「ここでは、無理です」

 マイナス十五度。

 見ている間に、温度計が、一度、上がった。

 無線機を取った。

「水無瀬さん。冷凍ユニットが、止まりました」

 返事は、すぐに来た。

「状況を」

「荷台の温度は、マイナス十五度。上がっています。今、湾岸線の、大井の手前です」

「温度の上がる速さは」

「三分で、一度」

 キーボードを叩く音が、聞こえた。

「マイナス九度を超えると、薬効が壊れます。あと、十分から十二分。三分ください。経路上で、冷凍庫を貸せる場所を、探します」

「三分」

「黙っていてください」

「待てるか!」

 真柴さんが、無線機に叫んだ。

「あんた、三分もかかるの。こっちは、肝が」

「黙っていてください。気が散ります」

「何で、そんな言い方」

「一分二十秒です」

 一瞬、静かになった。

 水無瀬さんは、続けた。

「大井埠頭の手前、右へ。そこから国道へ入ります。道の右側に、民間の低温倉庫があります。昨日、一棟、空きが出ました。ここから、四分。運べます」

「三分って、言ったよね」

 真柴さんが言った。

「一分二十秒で、見つかりました」

「じゃあ、最初から、一分半って言えばいいじゃん」

「余裕を持たせました。予定より早く終わった方が、気分がいいので」

「ずるくない?」

「効率的です」

 俺は、ウインカーを出した。

 右へ。


         ◇


 低温倉庫は、国道沿いの、灰色の建物だった。

 入口のシャッターが、半分開いていた。

 受付に、中年の男が座っていた。紺の作業着。胸に、名札。

「すみません。東亜物流の水無瀬から、連絡が」

「ああ、聞いてます。冷凍庫、一区画ですね」

「お願いします」

 男は、帳面を開いた。

「冷蔵ですか、冷凍ですか」

「冷凍です」

「品名は」

「氷竜の肝です」

 男の手が、止まった。

 男は、ゆっくり、顔を上げた。

「……魔物を、冷凍便で送る人、初めて見ました」

「私もです」

 真柴さんが、横で小さく言った。

 男は、ペンを持ち直した。

「うちは、冷凍庫は貸しますけど、魔物は預かったことが」

「預かりではなく、一時の冷却です。ほんの二十分で」

「はあ」

「温度は、マイナス二十度以下で」

「それなら、第三庫が空いています」

 男は、鍵を取った。


 箱を、台車で、第三庫へ運んだ。

 重い扉が、開いた。冷気が、白い霧になって、床を這った。

 庫内は、マイナス二十五度だった。

 箱の中の温度計を確認した。マイナス十三度。

 庫内に入れて、扉を閉めた。

 十分間、待った。

 その間に、荷台の冷凍ユニットを見た。接続のネジが、緩んでいた。バッテリーとの間の、小さな端子だ。

 工具で、締めた。

 ユニットを、もう一度、回した。

 ぶうん、と、低い音が戻った。

 荷台の温度計が、ゆっくり、下がり始めた。

 扉を開けて、箱を戻した。

 箱の温度は、マイナス十七度。

「間に合いました」

 無線機に、そう言った。

「お疲れさまです」

 水無瀬さんの声は、少しだけ、柔らかかった。

「経路は、このまま、横浜へ。四十分で着きます」

「ありがとうございます」

「いえ」

 水無瀬さんは、一拍、置いた。

「早坂さんは、止まっても、慌てなかったので。判断が、早いです」

「慌てていないわけでは、ありません」

「そうですか」

 それ以上は、何も言わなかった。

 真柴さんが、横で、ぼそっと呟いた。

「あの人、褒めると、そっけないね」

「そうですか」

「あんた、鈍いから、分かんないでしょ」

「何がですか」

「いや、別に」

 真柴さんは、窓の外を見た。


         ◇


 横浜の製薬工場で、氷竜の肝を渡した。

 受け取りの白衣の男は、箱の温度計を確認して、うなずいた。

「マイナス十七度。完璧です」

 ハンコは、白衣の男の、胸ポケットの小さなものだった。

 受領欄に、ちょうどいい大きさで、押された。

 帰りの道は、順調だった。

 夕方には、江東区に戻った。

 真柴さんを、ギルドの前で降ろした。左腕の包帯が、まだ、取れていない。

「明日は?」

「分からない。水無瀬さんの連絡待ち」

「そ。じゃあ、また」

 真柴さんは、そう言って、歩き出した。

 途中で、振り返った。

「今日、吐かなかったよ」

「はい」

「冷凍ユニットが止まったときも」

「揺らしていないので」

「それ、もう、聞き飽きた」

 真柴さんは、笑って、ギルドの扉の向こうへ消えた。


         ◇


 夜の十時を過ぎて、坂下の家の前を通った。

 坂下の家は、俺の家から、車で五分の距離にある。三階建ての、小さなアパート。一階が駐車場で、坂下は、そこに軽バンを止めている。

 通りの向こうに、赤い光が、回っていた。

 消防車だった。

 二台。三台。

 アパートの駐車場から、黒い煙が、夜空に向かって、立ち上っていた。

 俺は、車を止めた。

 駐車場の、一番端。

 坂下の軽バンが、燃えていた。

 屋根も、ガラスも、黒くなって、中は、橙色の炎で満ちていた。

 その前に、坂下が立っていた。右腕のギプスは、真っ黒だった。

 両脇に、子どもが、二人。パジャマ姿のまま、坂下のズボンを、握っていた。

 上の子が、俺の顔を見て、声を出さずに、泣いていた。

「早坂」

 坂下が、俺に気づいた。

「……来てくれたのか」

 声は、乾いていた。

「何が、あった」

「分からない。寝ようとしたら、窓の外が、赤くて」

 消防隊員が、ホースを引いて、炎に水を浴びせていた。

 白い蒸気が、勢いよく、噴き上がった。

「ガソリンの匂いが、した」

 坂下は、ぽつりと言った。

「誰かが、かけた」

 俺は、何も言えなかった。

 軽バンは、坂下の、仕事の道具だった。

 それが、目の前で、骨だけになっていった。

 昨日、鷲尾は、画面の中で言った。

 個人事業者の方々には、大変心苦しいのですが。

 その声が、頭の中で、いつまでも、消えなかった。

お読みいただき、ありがとうございます。

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