零下十五度
翌朝、六時に起きて、電話を一本かけた。
東亜マテリアルの、鷲尾の秘書が出た。
「専属のお話ですが、お断りします」
しばらく、返事がなかった。
「……鷲尾に、代わります」
電話が、少し保留になった。
「早坂さん」
鷲尾の声は、昨夜と同じ高さだった。
「理由を、うかがってもよろしいですか」
「一社の荷物だけ運ぶと、道を忘れます」
「道を」
「毎日、違うところへ、違うものを届けていると、道が頭に残ります。決まった倉庫と、決まった工場だけ行き来すると、その外側は、一年で忘れます。忘れた道は、いざというときに、使えません」
「三倍のお給料でも、ですか」
「はい」
そう言ってから、美緒の顔が、頭に浮かんだ。
学費の前払いはできなくなった。それでも、答えは、変わらなかった。
鷲尾は、一拍、置いた。
「そうですか。残念です」
怒っては、いなかった。
「許可制は、決まります。そうなったとき、お気持ちが変わったら、いつでも、ご連絡を」
「お気持ちは、変わりません」
「そうですか」
電話は、静かに切れた。
俺は、しばらく、スマートフォンを見ていた。
切れる前の、鷲尾の息が、少しだけ笑っていた気がした。
気のせいかもしれない。
◇
七時十五分。無線が鳴った。
「東亜物流部、水無瀬です」
「早坂です」
「今日の荷物は、氷竜の肝です」
「氷竜」
「江東区の解体所から、横浜の製薬工場まで。重さは十八キロ。冷凍帯で運んでください。マイナス十五度以下。解凍すると、薬効の層が壊れて、ただの肉になります」
「冷凍帯ですか」
「冷凍です」
助手席に座っていた真柴さんが、顔を上げた。
「魔物の肝を、冷凍で?」
「冷凍です。クール便の、冷凍と同じ扱いです」
「……魔物の冷凍便」
真柴さんは、呟いた。
「聞いたことない」
「今日が、初めてですね」
水無瀬さんが、淡々と言った。
「護衛の方は、道中で何かあったら、肝を最優先に。人より先に、です」
「人は?」
「自分で何とかしてください」
「ちょっと」
「冗談です」
真柴さんは、無線機をにらんだ。
水無瀬さんの冗談は、冗談に聞こえないところが、特徴だった。
◇
荷台には、冷凍ユニットが、後付けで載っていた。
大手にいたころ、冷凍便を担当していた。独立するとき、中古の小さなユニットを、荷台に積んだ。バッテリーで動く。出力は小さいが、荷台の中を、マイナス二十度まで冷やせる。
それを、前の晩から回して、荷台を冷やしておいた。
解体所で、氷竜の肝を受け取った。
青白く、半透明の肉の塊だった。大人の頭くらいの大きさで、霜をまとっている。厚い発泡の箱に、緩衝材と一緒に収められた。
「マイナス十八度で、凍らせてあります」
解体所の男が言った。
「温度計は、箱の中に」
「確認しました」
箱の中の温度計は、マイナス十八度を指していた。
荷台の壁の温度計は、マイナス二十度。
積み終えて、扉を閉めた。
江東区から横浜まで、一時間二十分。順調なら、八時五十分に着く。
走り出して四十分、湾岸線の手前で、荷台のほうから、音がした。
かたかた、と、小さな音。
それから、ぶうん、という低い音が、途切れた。
俺は、バックミラーを見た。
冷凍ユニットの音が、止まっていた。
車を、路肩に寄せた。
荷台を開けた。温度計は、マイナス十六度になっていた。
「どうしたの」
真柴さんが、後ろから顔を出した。
「ユニットが、止まりました。バッテリーが、落ちたようです」
「直せる?」
「ここでは、無理です」
マイナス十五度。
見ている間に、温度計が、一度、上がった。
無線機を取った。
「水無瀬さん。冷凍ユニットが、止まりました」
返事は、すぐに来た。
「状況を」
「荷台の温度は、マイナス十五度。上がっています。今、湾岸線の、大井の手前です」
「温度の上がる速さは」
「三分で、一度」
キーボードを叩く音が、聞こえた。
「マイナス九度を超えると、薬効が壊れます。あと、十分から十二分。三分ください。経路上で、冷凍庫を貸せる場所を、探します」
「三分」
「黙っていてください」
「待てるか!」
真柴さんが、無線機に叫んだ。
「あんた、三分もかかるの。こっちは、肝が」
「黙っていてください。気が散ります」
「何で、そんな言い方」
「一分二十秒です」
一瞬、静かになった。
水無瀬さんは、続けた。
「大井埠頭の手前、右へ。そこから国道へ入ります。道の右側に、民間の低温倉庫があります。昨日、一棟、空きが出ました。ここから、四分。運べます」
「三分って、言ったよね」
真柴さんが言った。
「一分二十秒で、見つかりました」
「じゃあ、最初から、一分半って言えばいいじゃん」
「余裕を持たせました。予定より早く終わった方が、気分がいいので」
「ずるくない?」
「効率的です」
俺は、ウインカーを出した。
右へ。
◇
低温倉庫は、国道沿いの、灰色の建物だった。
入口のシャッターが、半分開いていた。
受付に、中年の男が座っていた。紺の作業着。胸に、名札。
「すみません。東亜物流の水無瀬から、連絡が」
「ああ、聞いてます。冷凍庫、一区画ですね」
「お願いします」
男は、帳面を開いた。
「冷蔵ですか、冷凍ですか」
「冷凍です」
「品名は」
「氷竜の肝です」
男の手が、止まった。
男は、ゆっくり、顔を上げた。
「……魔物を、冷凍便で送る人、初めて見ました」
「私もです」
真柴さんが、横で小さく言った。
男は、ペンを持ち直した。
「うちは、冷凍庫は貸しますけど、魔物は預かったことが」
「預かりではなく、一時の冷却です。ほんの二十分で」
「はあ」
「温度は、マイナス二十度以下で」
「それなら、第三庫が空いています」
男は、鍵を取った。
箱を、台車で、第三庫へ運んだ。
重い扉が、開いた。冷気が、白い霧になって、床を這った。
庫内は、マイナス二十五度だった。
箱の中の温度計を確認した。マイナス十三度。
庫内に入れて、扉を閉めた。
十分間、待った。
その間に、荷台の冷凍ユニットを見た。接続のネジが、緩んでいた。バッテリーとの間の、小さな端子だ。
工具で、締めた。
ユニットを、もう一度、回した。
ぶうん、と、低い音が戻った。
荷台の温度計が、ゆっくり、下がり始めた。
扉を開けて、箱を戻した。
箱の温度は、マイナス十七度。
「間に合いました」
無線機に、そう言った。
「お疲れさまです」
水無瀬さんの声は、少しだけ、柔らかかった。
「経路は、このまま、横浜へ。四十分で着きます」
「ありがとうございます」
「いえ」
水無瀬さんは、一拍、置いた。
「早坂さんは、止まっても、慌てなかったので。判断が、早いです」
「慌てていないわけでは、ありません」
「そうですか」
それ以上は、何も言わなかった。
真柴さんが、横で、ぼそっと呟いた。
「あの人、褒めると、そっけないね」
「そうですか」
「あんた、鈍いから、分かんないでしょ」
「何がですか」
「いや、別に」
真柴さんは、窓の外を見た。
◇
横浜の製薬工場で、氷竜の肝を渡した。
受け取りの白衣の男は、箱の温度計を確認して、うなずいた。
「マイナス十七度。完璧です」
ハンコは、白衣の男の、胸ポケットの小さなものだった。
受領欄に、ちょうどいい大きさで、押された。
帰りの道は、順調だった。
夕方には、江東区に戻った。
真柴さんを、ギルドの前で降ろした。左腕の包帯が、まだ、取れていない。
「明日は?」
「分からない。水無瀬さんの連絡待ち」
「そ。じゃあ、また」
真柴さんは、そう言って、歩き出した。
途中で、振り返った。
「今日、吐かなかったよ」
「はい」
「冷凍ユニットが止まったときも」
「揺らしていないので」
「それ、もう、聞き飽きた」
真柴さんは、笑って、ギルドの扉の向こうへ消えた。
◇
夜の十時を過ぎて、坂下の家の前を通った。
坂下の家は、俺の家から、車で五分の距離にある。三階建ての、小さなアパート。一階が駐車場で、坂下は、そこに軽バンを止めている。
通りの向こうに、赤い光が、回っていた。
消防車だった。
二台。三台。
アパートの駐車場から、黒い煙が、夜空に向かって、立ち上っていた。
俺は、車を止めた。
駐車場の、一番端。
坂下の軽バンが、燃えていた。
屋根も、ガラスも、黒くなって、中は、橙色の炎で満ちていた。
その前に、坂下が立っていた。右腕のギプスは、真っ黒だった。
両脇に、子どもが、二人。パジャマ姿のまま、坂下のズボンを、握っていた。
上の子が、俺の顔を見て、声を出さずに、泣いていた。
「早坂」
坂下が、俺に気づいた。
「……来てくれたのか」
声は、乾いていた。
「何が、あった」
「分からない。寝ようとしたら、窓の外が、赤くて」
消防隊員が、ホースを引いて、炎に水を浴びせていた。
白い蒸気が、勢いよく、噴き上がった。
「ガソリンの匂いが、した」
坂下は、ぽつりと言った。
「誰かが、かけた」
俺は、何も言えなかった。
軽バンは、坂下の、仕事の道具だった。
それが、目の前で、骨だけになっていった。
昨日、鷲尾は、画面の中で言った。
個人事業者の方々には、大変心苦しいのですが。
その声が、頭の中で、いつまでも、消えなかった。
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