許可制
一方通行を抜けて、大学の門が見えるまで、三分だった。
その三分間、後ろの箱は、三回、鳴った。
どん。
間があって、どん。
もう一度。
美緒は、シートベルトを両手でつかんだまま、動かなかった。
助手席と荷台の間には、鉄の網の仕切りがある。大手を辞めたときに、自分で付けた。荷物が前へ滑ったとき、人間に当たらないようにだ。
その網の向こうで、白い箱が、小さく跳ねていた。
「お父さん、蓋が」
「見えている」
蓋が、少し浮いていた。ベルトに押さえられて、隙間ができている。
隙間の奥で、何かが動いた。
黄色い、細い目だった。
搬入口に、紺の上着が立っていた。
真柴さんだ。電車で来たというのに、顔色は、車に乗っている日と変わらない。
俺は、搬入口の手前で、ゆっくり止めた。
「早かったね」
「孵ります」
それだけ言った。
真柴さんは、運転席のほうへ来なかった。荷台の後ろへ、回った。
「ドア、開けて」
「はい」
俺は、車を降りて、後ろの扉を開けた。
箱の蓋が、跳ね上がった。
出てきたのは、猫ほどの大きさの、砂色のトカゲだった。四匹。目が黄色い。口の中が、赤い。
一匹が、荷台の床を蹴って、飛んだ。
真柴さんの剣が、空中で、小さく動いた。
トカゲは、荷台の床に落ちて、動かなくなった。
残りの三匹が、同時に、散った。
一匹は、荷台の奥へ。一匹は、扉の外へ。一匹は、真柴さんの足元へ。
真柴さんは、足元の一匹を踏んだ。踏んだまま、剣を振った。扉の外の一匹が、搬入口の壁に当たって、落ちた。
荷台の奥の一匹が、俺の顔に向かって飛んだ。
真柴さんの左手が、俺の肩を引いた。
右手の剣が、俺の頭の横を、通った。
最後の一匹が、地面に落ちた。
静かになった。
箱の中には、まだ、白い卵が、二つ残っていた。
真柴さんは、息を吐いた。
「……全部、孵ったわけじゃないね」
「はい」
「卵は、割ってない」
「分かっています」
助手席のドアが、開く音がした。
美緒が、降りてきていた。
顔は、白かった。足は、少し震えていた。それでも、美緒は、地面に落ちたトカゲと、荷台の中の卵と、血の付いた剣を、順番に見た。
目をそらさなかった。
「……あの」
美緒は、真柴さんに言った。
「さっき、すみません。失礼な言い方を、しました」
「何が」
「付き合ってるの、とか」
真柴さんは、ちょっと目を丸くしてから、笑った。
「気にしてない。……怖かったでしょ」
「怖かったです」
「だよね」
真柴さんは、剣の血を、紺の上着の裾で拭った。
「でもあんた、座席から動かなかった。それが一番、助かる」
美緒は、うなずいた。
それから、俺を見た。
「お父さん、ハンドル、離さなかったんでしょう」
「……ああ」
「あの人が、そう言ってる」
美緒は、真柴さんを見た。
「言ってない」
「顔に書いてある」
真柴さんは、そっぽを向いた。
◇
研究員が、駆けつけてきた。
孵ったのは四匹。卵は二つ残った。二つは、予定どおり、あと二日で孵るかもしれない、と研究員は言った。
「どうして、こんなに早く」
研究員は、首をかしげていた。
「普通は、孵るまで二週間なんですけど。この卵は、出所が違うので」
「出所?」
「東亜さんから、検体として、いただいたものです」
それ以上、研究員は、言わなかった。
俺は、受け取りの欄に、研究員のサインをもらった。大学の事務室の、角のハンコが押された。
美緒は、事務室の前のベンチで、水を飲んでいた。
真柴さんは、少し離れた壁にもたれて、左腕をさすっていた。
二人は、一言も、話していない。
けれど、一度だけ、目が合った。
美緒が、小さく、頭を下げた。
真柴さんも、小さく、頭を下げ返した。
◇
昼は、予定どおり、渋谷のパンケーキの店に行った。
一時間遅れた。美緒は、何も言わなかった。
生クリームの山を、フォークで崩しながら、ぽつりと言った。
「お父さん、仕事、嫌いじゃないんだね」
「好きかどうかは、考えたことがない」
「そう」
「荷物を、壊さずに届ける。それだけだ」
「それが、好きってことじゃないの」
俺は、コーヒーを飲んだ。
味が、よく分からなかった。
駅まで送った。
改札の前で、美緒は、少しだけ立ち止まった。
「来月の第一土曜も、同じ店でいいよ」
「分かった」
「あと」
「ん」
「文化祭、来てよ。来月の第二土曜」
「行く」
「約束だよ」
「約束だ」
美緒は、手を上げて、改札の向こうへ消えた。
長い髪が、人混みの中で、見えなくなるまで、俺は立っていた。
◇
三日後、坂下から電話が来た。
「早坂、悪い。助けてくれ」
坂下勇。四十二歳。同じ区域で、軽貨物をやっている。個人事業主。子どもは、小学生が二人。
大手を辞めたあと、最初に口をきいてくれた同業者が、この男だった。
コンビニの駐車場で会った。坂下は、右腕を白いギプスで吊っていた。
「荷下ろしで、台車に挟まれた。三週間、運転はできるが、荷物が持てない」
「それで」
「小口の配送が、十二件ある。同じ方向だ。助手席に乗って、荷物を渡してくれないか。報酬は、半分やる」
「構わない」
坂下の軽バンの助手席に乗った。
助手席の足元に、コンビニの白い袋が、五つ置いてあった。中は、レシートと領収書だった。
「何だ、これ」
「確定申告」
「五つも」
「一年分だ。ガソリン代は、全部ここに入ってる」
「月ごとに、封筒を分けておけば」
「几帳面すぎるんだよ、お前は」
坂下は、笑った。
「ガソリン、また上がったな」
「一リットル、百九十円」
「ひと月、五万円。ふた月で、十万円。この袋の中身は、半分、ガソリンで消える」
「そうだな」
「確定申告の時期だけは、人が変わるぜ、俺。昨日、嫁にも言われた」
「何と」
「領収書の袋を抱えて寝るな、って」
俺は、少し笑った。
個人事業主は、そういうものだ。
誰かが決めた枠の中で、自分の荷物を、自分の車で運ぶ。時間も、道も、休みも、全部、自分の責任だ。
十二件のうち、七件目を届け終えたとき、坂下のスマートフォンが鳴った。
ニュースの速報だった。
「見ろ」
坂下が、画面を俺に向けた。
記者会見の映像だった。
東亜マテリアルの名前が、画面の隅に出ている。
壇上に、スーツ姿の男が一人、座っていた。五十代前半。背筋が伸びていて、声は、大きくなかった。
「物流本部長の、鷲尾でございます」
男は、深く頭を下げた。
「先日の、当社運送車両の事故では、周囲の皆さまに、多大なご迷惑とご心配をおかけしました。心より、お詫び申し上げます」
記者が、何か質問した。
鷲尾は、うなずいた。
「事故の原因は、現在、調査中です。ただ、迷宮素材の輸送は、一歩間違えれば、人命に関わります。そこで、当社は、国に対し、迷宮素材の輸送を、許可制とするよう、要望いたします」
画面の下に、字幕が出た。
『迷宮素材の輸送は許可制に 東亜マテリアル 国へ要望』
「許可制」
坂下が、呟いた。
「許可を受けられるのは、一定の保険と、安全基準と、運行管理者を備えた事業者のみとします。個人事業者の方々には、大変心苦しいのですが」
鷲尾は、もう一度、頭を下げた。
画面の中の鷲尾は、少しも、心苦しそうに見えなかった。
「……あの事故は、東亜の車の事故だろうが」
坂下の声が、低くなった。
「そうだ」
「なんで、俺たちが、締め出されるんだ」
返事は、できなかった。
あの事故は、箱の間に砂を挟まなかった積み方が原因だ。個人の軽貨物は、関係ない。
けれど、大きな事故が起きると、規則ができる。
規則は、小さい車から、先に、削る。
「早坂」
「ああ」
「お前も、素材を運んでるんだろ。俺の耳にも入ってる」
「ここ、二週間だけだ」
「東亜の仕事か」
「ああ」
「気をつけろよ」
坂下は、画面を消した。
「大手は、使い捨てだ。必要なときだけ、呼ぶ。要らなくなったら、締める」
俺は、うなずくしかなかった。
◇
その夜、帰宅してすぐに、スマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
「早坂徹さんですか」
男の声だった。静かで、よく通る声だ。
昼間、画面の中で、聞いた声だった。
「東亜マテリアルの、鷲尾です」
息が、止まった。
「先日の事故では、うちの車が、目の前で。大変なご迷惑を」
「いえ」
「お怪我は、ありませんでしたか」
「はい」
「それは、何よりです」
鷲尾は、一度、言葉を切った。
「実は、早坂さんの運転について、物流部の水無瀬から、報告を受けています。揺らさない、壊さない、遅れない。うちが、ずっと探していた運転手です」
喉が、乾いていた。
「許可制の施行後、素材の輸送は、うちの専属ドライバーが、中心になります。早坂さんには、その一人になっていただきたい。月給は、今のお仕事の、三倍をお出しします」
三倍。
去年の確定申告の袋の中身を、頭の中で、数えた。
三倍あれば、美緒の学費を、全部、前払いできる。
「考える時間を、いただけますか」
「もちろんです」
鷲尾の声は、穏やかだった。
「ただ、許可制が決まれば、専属の枠は、すぐに埋まります。早めに、お返事を」
電話が、切れた。
俺は、画面を見つめていた。
三倍という数字が、頭の中で、いつまでも、動かなかった。
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