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6/30

娘の日

 月に一度、第一土曜日の十時から十八時まで、娘に会える。

 離婚するとき、そう決めた。四年前のことだ。

 決めたのは、元の妻と弁護士だった。俺は、六時間か八時間かだけ、意見を言った。八時間になった。

 当日の朝は、いつもより早く起きる。

 軽バンを洗う。荷台を掃く。助手席の足元に残っていた、屍鴉の黒い羽を、ガムテープで取る。消臭剤を、一プッシュだけ吹く。吹きすぎると、娘は「くさい」と言う。

 美緒は、十七歳になった。高校二年。新宿区の学校に通っている。

 道は、すべて頭に入っている。

 娘との話し方だけが、四年たっても、入らない。


         ◇


 駅前のロータリーに、美緒は先に立っていた。

 制服ではなく、私服だった。長い髪を後ろで結んでいて、鞄を肩から斜めにかけている。

 軽バンを見つけると、手を軽く上げた。

 笑いはしなかった。いつものことだ。

「早かったね」

「十分前だ」

「いつも、ぴったりに着くのに」

「早く着いた」

 美緒は、助手席のドアを開けて、座った。

 それから、足元を見た。

「……座席、すごく後ろに下がってない? 私、足がつかないんだけど」

「ああ」

 真柴さんが、背が高いので、いつも後ろまで下げている。

 俺は、レバーを引いて、前に出した。

「誰か、乗せたの」

「護衛の人が」

「護衛」

「素材の配送に付く決まりで」

「お父さんが、素材を運んでるの?」

「ここ、一週間だけ」

 美緒は、少し黙った。

「女の人?」

「ああ」

「ふうん」

 それだけだった。

 ふうん、の意味は、分からなかった。分からないことが多すぎて、聞けなかった。


 最初の十分は、ずっと、前を見ていた。

 昼は、美緒が選んだ店で食べる。渋谷の、パンケーキの店だ。去年の夏から、毎月、同じ店に行く。

 話は、いつも、同じ順序になる。

 学校はどうだ。普通。部活は。やめた。成績は。まあまあ。母さんは。元気。

 美緒は、窓の外を見ていた。

 しばらくして、ぽつりと言った。

「お父さんの運転、昔から、揺れないね」

「仕事だからな」

「家の車のときも、そうだった」

 俺は、ハンドルを持ち直した。

「お母さんが、言ってた。お父さんの運転のときだけ、ぐっすり寝られたって」

 交差点の信号が、赤になった。

 俺は、止まる三秒前から、ブレーキを踏んでいた。

 美緒は、窓の外を見たまま、続けた。

「それだけ。別に、何でもないけど」

「……そうか」

「うん」

 信号が、青になった。

 アクセルを踏んだ。踏み方は、いつもと、同じだった。

 同じにするのに、少し、力が要った。


         ◇


 無線が鳴ったのは、十時二十分だった。

「東亜物流部、水無瀬です」

 美緒が、ダッシュボードを見た。

「……何、それ」

「無線」

「誰」

「配車の人だ」

「早坂さん。今日は、お休みと伺っています」

 水無瀬さんの声が、少しだけ、低くなった。

「それでも、お願いしたい荷物があります。世田谷の迷宮生態研究所から、杉並の大学へ。砂蜥蜴の卵が、六個。二十四キロ。納期は正午です。昨日の事故で、東亜の大型は全台、安全点検で止まっています。軽で動けるドライバーが、早坂さんしか、残っていません」

「今日は、面会日です」

 つい、声が尖った。

「娘がいます。助手席に」

 無線が、止まった。

「……そうですか」

 水無瀬さんは、そう言った。

 その声は、少し遠かった。

 美緒が、膝の上の鞄を、ぎゅっと握った。

「行きなよ」

「今日は、お前との日だ」

「知ってる。毎月、同じ店で、同じメニューで、同じ話をする日でしょ」

 口調は、静かだった。

「お父さんの仕事、私、見たことない」

 俺は、何も言えなかった。

「卵、運ぶんでしょ。誰かの役に立つんでしょ。……見たい」

 無線が、また、鳴った。

「お嬢さん」

 水無瀬さんの声だった。

「助手席のシートベルトを、お締めください。荷物は卵です。危険はありません。お父さんの運転は、揺れません」

 美緒は、顔を上げた。

「……誰」

「水無瀬と申します。配車をしています」

「声、かっこいい」

「恐れ入ります」

 小さく、そう答えて、水無瀬さんは、無線を切った。

 美緒が、ふふ、と笑った。今日、初めて見た笑いだった。

 俺は、ウインカーを出した。

 世田谷の研究所へ向かう道に、入った。


         ◇


 研究所は、住宅街の奥の、白い二階建てだった。

 門の前に、見覚えのある紺の上着が、立っていた。

 左腕には、新しい包帯が巻いてあった。髪を後ろで縛って、短い剣を腰に下げている。

 真柴さんは、軽バンを見ると、片手を上げかけて、止めた。

 助手席に、人が座っていたからだ。

「遅い」

 真柴さんは、運転席の窓まで来て、言った。

「誰、その子」

「娘です」

 美緒が、助手席の窓を開けた。

「早坂美緒です。父が、お世話になっています」

 声が、冷たかった。礼儀正しい、冷たさだった。

「真柴。護衛」

「……よろしくお願いします」

 美緒は、窓を閉めた。

 それから、俺のほうに体を寄せて、小さな声で言った。

「お父さん、この人と付き合ってるの」

「護衛です」

「護衛って、付き合うの」

「付き合いません」

「付き合わないよ」

 真柴さんが、窓の外から、同時に答えた。

 聞こえていたらしい。

 美緒は、真柴さんを一度見て、また、前を向いた。

「そう」

 それきり、何も言わなかった。


 研究員が、台車で、保温ボックスを運んできた。

 白い箱だった。二十四キロ。中に、卵が六個。

「温度は、十八度のまま、ください。孵るのは、早くて二日後です。揺らさなければ、大丈夫ですから」

 研究員は、そう言った。

「今朝までは、静かだったんですが。ここ数時間、少し、動きが活発になって」

「動いてる?」

「ええ。卵の中で」

 俺は、荷台を見た。

 積む場所は、助手席の背もたれの、すぐ後ろにした。

 運転席には、俺が座る。その分、荷台の右側は、重くなる。だから、軽い荷物は、左側に置く。そうすれば、左右の釣り合いが取れる。

 毛布を二枚。ボックスを置いて、ベルトを二本。

 これで、揺れても、箱は動かない。


 積み終わって、顔を上げた。

 真柴さんと美緒が、助手席のドアの両側に、立っていた。

「助手席は、私の席なんだけど」

「私が先に乗っていました」

「護衛は、荷に付くの。車に乗るのが決まり」

「荷台は、乗れないんですよね」

 美緒が、俺を見た。

「荷台に人は乗せられません。法律です」

「お父さん、固い」

「固くない。法律だ」

 真柴さんが、頭をかいた。

「……じゃあ、私、どうすんの」

「電車は?」

 美緒が言った。

 真柴さんの肩が、ぴくりと動いた。

「電車は、吐かない」

「車は?」

「車は、吐く」

「お父さんの車は?」

「あんたの……お父さんの車だけ、吐かない」

 美緒の目が、俺に向いた。

 その目に、何が浮かんでいるのか、分からなかった。

「……そう」

 美緒は、静かに言った。

「じゃあ、私が降ります」

「待て」

「いいよ。お父さんの車に乗れる人が、他にいるなら」

「違う」

 俺は、思わず、言った。

「今日は、お前の日だ」

 美緒の目が、少し、見開いた。

 真柴さんが、頭をかく手を、止めた。

「……分かった」

 真柴さんは、息を吐いた。

「届け先で待つよ。電車で行く。十分早く着く」

「規則は」

「始末書は、私が書く」

 真柴さんは、美緒のほうを見た。

「あんた、お父さんのこと、ちゃんと見てやんな。運転、見てるだけでも勉強になるから」

「……はい」

「じゃあね」

 真柴さんは、片手を振って、駅のほうへ歩き出した。

 背中が、すぐに角を曲がって、見えなくなった。

「変な人」

 美緒が、助手席に座り直して、言った。

「でも、悪い人じゃなさそう」

 そう言ってから、俺のほうを見た。

「……お父さん、嬉しそうだね」

「そうか」

「いつもより、顔が、動いてる」

 俺は、顔を前に向けた。


         ◇


 杉並の大学までは、二十分の道のりだった。

 環八は避けて、住宅街の裏道を走った。

 美緒は、シートベルトを胸の前でつかんで、前を見ていた。

「ねえ」

「ん」

「ブレーキ、いつから踏んでるの」

「三秒前だ」

「三秒前」

「止まる三秒前から、少しずつ踏む。止まる瞬間に、少しだけ、緩める」

「ふうん」

 美緒は、足元を見た。

「あの人、本当に、お父さんの車だけ、吐かないんだ」

「……ああ」

「お母さんと、同じだね」

 それ以上は、言わなかった。

 窓の外を、ゆっくり、街が流れていた。

 赤信号で止まったとき、美緒が小さな声で言った。

「来月の第二土曜に、うちの学校で、文化祭があるの。私、実行委員で」

「そうか」

「……見に来る?」

 信号が、青になった。

「行く」

 声が、少し、遅れた。

 美緒は、窓のほうを向いた。

 その肩が、少し、動いたように見えた。


         ◇


 住宅街の、細い一方通行に入ったときだった。

 後ろで、音がした。

 こつ。

 美緒が、顔を上げた。

「今、何か、鳴った」

「荷物が、少し揺れたんだろう」

 揺れていない。

 ミラーで、荷台を見た。ボックスは、動いていない。ベルトも、緩んでいない。

 こつ、こつ。

 音は、荷台の中から、聞こえた。

 美緒が、振り返った。

「お父さん」

「前を見ていろ」

「これ、箱の中から」

 こつ、こつ、こつ。

 はっきり、聞こえた。

 卵の中で、何かが、殻を叩いている。

 孵るのは、早くて二日後。そう、研究員は言った。

 二日も、待つ気はないらしい。

 箱が、一度、小さく、跳ねた。

 美緒の座席の背もたれに、内側から、どん、と、何かが当たった。

 美緒の肩が、一度だけ、揺れた。

 俺は、前を見たまま、言った。

「美緒」

「……なに」

「シートベルトは、締めたままだ。絶対に、外すな」

「お父さん、今、後ろ」

「分かっている」

 ブレーキを、止まる三秒前から踏んだ。

 車は、揺れずに止まった。

 後ろで、こつ、と、箱が答えた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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