娘の日
月に一度、第一土曜日の十時から十八時まで、娘に会える。
離婚するとき、そう決めた。四年前のことだ。
決めたのは、元の妻と弁護士だった。俺は、六時間か八時間かだけ、意見を言った。八時間になった。
当日の朝は、いつもより早く起きる。
軽バンを洗う。荷台を掃く。助手席の足元に残っていた、屍鴉の黒い羽を、ガムテープで取る。消臭剤を、一プッシュだけ吹く。吹きすぎると、娘は「くさい」と言う。
美緒は、十七歳になった。高校二年。新宿区の学校に通っている。
道は、すべて頭に入っている。
娘との話し方だけが、四年たっても、入らない。
◇
駅前のロータリーに、美緒は先に立っていた。
制服ではなく、私服だった。長い髪を後ろで結んでいて、鞄を肩から斜めにかけている。
軽バンを見つけると、手を軽く上げた。
笑いはしなかった。いつものことだ。
「早かったね」
「十分前だ」
「いつも、ぴったりに着くのに」
「早く着いた」
美緒は、助手席のドアを開けて、座った。
それから、足元を見た。
「……座席、すごく後ろに下がってない? 私、足がつかないんだけど」
「ああ」
真柴さんが、背が高いので、いつも後ろまで下げている。
俺は、レバーを引いて、前に出した。
「誰か、乗せたの」
「護衛の人が」
「護衛」
「素材の配送に付く決まりで」
「お父さんが、素材を運んでるの?」
「ここ、一週間だけ」
美緒は、少し黙った。
「女の人?」
「ああ」
「ふうん」
それだけだった。
ふうん、の意味は、分からなかった。分からないことが多すぎて、聞けなかった。
最初の十分は、ずっと、前を見ていた。
昼は、美緒が選んだ店で食べる。渋谷の、パンケーキの店だ。去年の夏から、毎月、同じ店に行く。
話は、いつも、同じ順序になる。
学校はどうだ。普通。部活は。やめた。成績は。まあまあ。母さんは。元気。
美緒は、窓の外を見ていた。
しばらくして、ぽつりと言った。
「お父さんの運転、昔から、揺れないね」
「仕事だからな」
「家の車のときも、そうだった」
俺は、ハンドルを持ち直した。
「お母さんが、言ってた。お父さんの運転のときだけ、ぐっすり寝られたって」
交差点の信号が、赤になった。
俺は、止まる三秒前から、ブレーキを踏んでいた。
美緒は、窓の外を見たまま、続けた。
「それだけ。別に、何でもないけど」
「……そうか」
「うん」
信号が、青になった。
アクセルを踏んだ。踏み方は、いつもと、同じだった。
同じにするのに、少し、力が要った。
◇
無線が鳴ったのは、十時二十分だった。
「東亜物流部、水無瀬です」
美緒が、ダッシュボードを見た。
「……何、それ」
「無線」
「誰」
「配車の人だ」
「早坂さん。今日は、お休みと伺っています」
水無瀬さんの声が、少しだけ、低くなった。
「それでも、お願いしたい荷物があります。世田谷の迷宮生態研究所から、杉並の大学へ。砂蜥蜴の卵が、六個。二十四キロ。納期は正午です。昨日の事故で、東亜の大型は全台、安全点検で止まっています。軽で動けるドライバーが、早坂さんしか、残っていません」
「今日は、面会日です」
つい、声が尖った。
「娘がいます。助手席に」
無線が、止まった。
「……そうですか」
水無瀬さんは、そう言った。
その声は、少し遠かった。
美緒が、膝の上の鞄を、ぎゅっと握った。
「行きなよ」
「今日は、お前との日だ」
「知ってる。毎月、同じ店で、同じメニューで、同じ話をする日でしょ」
口調は、静かだった。
「お父さんの仕事、私、見たことない」
俺は、何も言えなかった。
「卵、運ぶんでしょ。誰かの役に立つんでしょ。……見たい」
無線が、また、鳴った。
「お嬢さん」
水無瀬さんの声だった。
「助手席のシートベルトを、お締めください。荷物は卵です。危険はありません。お父さんの運転は、揺れません」
美緒は、顔を上げた。
「……誰」
「水無瀬と申します。配車をしています」
「声、かっこいい」
「恐れ入ります」
小さく、そう答えて、水無瀬さんは、無線を切った。
美緒が、ふふ、と笑った。今日、初めて見た笑いだった。
俺は、ウインカーを出した。
世田谷の研究所へ向かう道に、入った。
◇
研究所は、住宅街の奥の、白い二階建てだった。
門の前に、見覚えのある紺の上着が、立っていた。
左腕には、新しい包帯が巻いてあった。髪を後ろで縛って、短い剣を腰に下げている。
真柴さんは、軽バンを見ると、片手を上げかけて、止めた。
助手席に、人が座っていたからだ。
「遅い」
真柴さんは、運転席の窓まで来て、言った。
「誰、その子」
「娘です」
美緒が、助手席の窓を開けた。
「早坂美緒です。父が、お世話になっています」
声が、冷たかった。礼儀正しい、冷たさだった。
「真柴。護衛」
「……よろしくお願いします」
美緒は、窓を閉めた。
それから、俺のほうに体を寄せて、小さな声で言った。
「お父さん、この人と付き合ってるの」
「護衛です」
「護衛って、付き合うの」
「付き合いません」
「付き合わないよ」
真柴さんが、窓の外から、同時に答えた。
聞こえていたらしい。
美緒は、真柴さんを一度見て、また、前を向いた。
「そう」
それきり、何も言わなかった。
研究員が、台車で、保温ボックスを運んできた。
白い箱だった。二十四キロ。中に、卵が六個。
「温度は、十八度のまま、ください。孵るのは、早くて二日後です。揺らさなければ、大丈夫ですから」
研究員は、そう言った。
「今朝までは、静かだったんですが。ここ数時間、少し、動きが活発になって」
「動いてる?」
「ええ。卵の中で」
俺は、荷台を見た。
積む場所は、助手席の背もたれの、すぐ後ろにした。
運転席には、俺が座る。その分、荷台の右側は、重くなる。だから、軽い荷物は、左側に置く。そうすれば、左右の釣り合いが取れる。
毛布を二枚。ボックスを置いて、ベルトを二本。
これで、揺れても、箱は動かない。
積み終わって、顔を上げた。
真柴さんと美緒が、助手席のドアの両側に、立っていた。
「助手席は、私の席なんだけど」
「私が先に乗っていました」
「護衛は、荷に付くの。車に乗るのが決まり」
「荷台は、乗れないんですよね」
美緒が、俺を見た。
「荷台に人は乗せられません。法律です」
「お父さん、固い」
「固くない。法律だ」
真柴さんが、頭をかいた。
「……じゃあ、私、どうすんの」
「電車は?」
美緒が言った。
真柴さんの肩が、ぴくりと動いた。
「電車は、吐かない」
「車は?」
「車は、吐く」
「お父さんの車は?」
「あんたの……お父さんの車だけ、吐かない」
美緒の目が、俺に向いた。
その目に、何が浮かんでいるのか、分からなかった。
「……そう」
美緒は、静かに言った。
「じゃあ、私が降ります」
「待て」
「いいよ。お父さんの車に乗れる人が、他にいるなら」
「違う」
俺は、思わず、言った。
「今日は、お前の日だ」
美緒の目が、少し、見開いた。
真柴さんが、頭をかく手を、止めた。
「……分かった」
真柴さんは、息を吐いた。
「届け先で待つよ。電車で行く。十分早く着く」
「規則は」
「始末書は、私が書く」
真柴さんは、美緒のほうを見た。
「あんた、お父さんのこと、ちゃんと見てやんな。運転、見てるだけでも勉強になるから」
「……はい」
「じゃあね」
真柴さんは、片手を振って、駅のほうへ歩き出した。
背中が、すぐに角を曲がって、見えなくなった。
「変な人」
美緒が、助手席に座り直して、言った。
「でも、悪い人じゃなさそう」
そう言ってから、俺のほうを見た。
「……お父さん、嬉しそうだね」
「そうか」
「いつもより、顔が、動いてる」
俺は、顔を前に向けた。
◇
杉並の大学までは、二十分の道のりだった。
環八は避けて、住宅街の裏道を走った。
美緒は、シートベルトを胸の前でつかんで、前を見ていた。
「ねえ」
「ん」
「ブレーキ、いつから踏んでるの」
「三秒前だ」
「三秒前」
「止まる三秒前から、少しずつ踏む。止まる瞬間に、少しだけ、緩める」
「ふうん」
美緒は、足元を見た。
「あの人、本当に、お父さんの車だけ、吐かないんだ」
「……ああ」
「お母さんと、同じだね」
それ以上は、言わなかった。
窓の外を、ゆっくり、街が流れていた。
赤信号で止まったとき、美緒が小さな声で言った。
「来月の第二土曜に、うちの学校で、文化祭があるの。私、実行委員で」
「そうか」
「……見に来る?」
信号が、青になった。
「行く」
声が、少し、遅れた。
美緒は、窓のほうを向いた。
その肩が、少し、動いたように見えた。
◇
住宅街の、細い一方通行に入ったときだった。
後ろで、音がした。
こつ。
美緒が、顔を上げた。
「今、何か、鳴った」
「荷物が、少し揺れたんだろう」
揺れていない。
ミラーで、荷台を見た。ボックスは、動いていない。ベルトも、緩んでいない。
こつ、こつ。
音は、荷台の中から、聞こえた。
美緒が、振り返った。
「お父さん」
「前を見ていろ」
「これ、箱の中から」
こつ、こつ、こつ。
はっきり、聞こえた。
卵の中で、何かが、殻を叩いている。
孵るのは、早くて二日後。そう、研究員は言った。
二日も、待つ気はないらしい。
箱が、一度、小さく、跳ねた。
美緒の座席の背もたれに、内側から、どん、と、何かが当たった。
美緒の肩が、一度だけ、揺れた。
俺は、前を見たまま、言った。
「美緒」
「……なに」
「シートベルトは、締めたままだ。絶対に、外すな」
「お父さん、今、後ろ」
「分かっている」
ブレーキを、止まる三秒前から踏んだ。
車は、揺れずに止まった。
後ろで、こつ、と、箱が答えた。
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