積み方
真柴さんが目を覚ましたのは、その日の夕方だった。
個室の窓から、赤い光が斜めに入っていた。ベッドの脇に、点滴が二本。脇腹には、分厚いガーゼが当てられていた。
真柴さんは、天井を見たまま、言った。
「……来たの」
「はい」
「角は」
「納品しました。無事です」
「そ」
それだけ言って、真柴さんは、しばらく黙っていた。
「あんた、顔、ひどいよ」
「寝ていないので」
「寝なよ」
「はい」
「私なしでも、運べるでしょ」
「はい」
「無理は、しないでよ」
「しません」
真柴さんは、ゆっくり、首だけをこちらに向けた。
「嘘つき」
俺は、何も言い返せなかった。
その夜は、病院の駐車場で、軽バンの運転席に座ったまま、眠った。
眠った、というより、目を閉じていただけだった。
助手席のシートは、拭いても拭いても、血の匂いが取れなかった。
◇
午前五時。無線が鳴った。
「東亜物流部、水無瀬です」
声が、いつもより、短かった。
「早坂さん、急ぎの荷物です」
「どこから、どこへ」
「茨城県北部の、迷宮付属の培養所から、都内の小児病院まで。月光苔の培養液。十二本。十二キロ」
「月光苔」
「難病の子どもの点滴の、原料です。満月の夜に採れた苔を、培養所で液にします。今回の分は、昨夜、仕上がりました。病院での投与は、午前十時半です。それに、間に合わなければ」
水無瀬さんは、そこで、言葉を切った。
「次の苔が採れるのは、来月の満月です」
息を、吸った。
「担当していた東亜のドライバーが、昨夜、事故で動けません。軽で動ける人が、他にいません」
「護衛は」
「ギルドに要請しましたが、車に乗れる護衛が、見つかりません。ただ、今回の荷物は、魔物ではなく、苔の培養液です。規則上、護衛は不要です」
「分かりました」
声が、勝手に出ていた。
「受けます」
「……早坂さん」
「はい」
「睡眠は」
「取っています」
「どのくらい」
「三時間」
「規則は、六時間でしたね」
「今日は、仕方がありません」
無線が、少し黙った。
「……お願いします」
水無瀬さんは、そう言った。
止めるべきだった、と、あとになって思った。
あのとき、水無瀬さんは、止めようとした。
それを、俺が、聞かなかった。
◇
茨城の培養所には、七時半に着いた。
山あいの、白い平屋だった。
出てきた研究員は、青い顔をしていた。
「いつもの東亜さんの車が、来なくて。時間が、もう」
「すぐ積みます」
培養液は、一リットルのガラス瓶に入っていた。十二本。それぞれ、緩衝材に包まれて、木枠の箱の中に立っている。
積み方は、頭の中に、決まっていた。
箱を二つに分け、荷台の中央に、前寄りで置く。箱の周りの隙間には、毛布を詰める。ベルトは、四本。前後に二本ずつ。
作業は、二十分かかる。
「時間が、ありません」
研究員が、時計を見た。
「お願いします。急いでください」
手が、動いた。
箱を置いた。ベルトを、前後に一本ずつ、掛けた。
毛布は、一枚だけ、前に押し込んだ。
四本のベルトのうち、二本が、残っていた。
隙間の毛布は、あと三枚、あった。
俺は、それを見た。
見て、扉を閉めた。
六分だった。
二十年の間、一度も、しなかったことだった。
「いってらっしゃい」
研究員が、頭を下げた。
「お願いします。あの子は、四歳なんです」
運転席に乗った。
後ろで、箱が、かたん、と、小さく鳴った。
気のせいだ、と、思った。
◇
常磐道に乗った。
空は、薄い灰色だった。
ハンドルを握った手が、重かった。
眠気は、予定どおり、来た。
九時二十分。朝からの運転は、四時間になった。
大手にいたころから、ずっと守ってきた規則だった。
四時間走ったら、三十分、休む。
守らないやつから、死ぬ。
先輩は、そう言った。
道路脇に、パーキングエリアの看板が出た。
あと二キロ。
俺は、ウインカーを出さなかった。
九時半。
首都圏に入る手前で、渋滞が始まった。
時計を見た。
十時半まで、一時間。
このまま、渋滞が続けば、間に合わない。
無線が、鳴った。
「早坂さん」
「はい」
「連続運転が、四時間を超えています」
水無瀬さんだった。
「次の休憩所で、止まってください」
「間に合わなくなります」
「割れたら、間に合っても、意味がありません」
「間に合わなければ、意味がありません」
自分の声が、尖っているのが、分かった。
「三十分、休めば」
「あの子は、四歳です」
無線が、途切れた。
しばらく、何も聞こえなかった。
「……分かりました」
水無瀬さんは、そう言った。
その声は、小さかった。
その小ささが、後で、胸に刺さった。
◇
渋滞は、九時四十分に、抜けた。
アクセルを、踏み込んだ。
首都高に入る手前の、長い直線だった。
両側の景色が、流れていった。
まぶたが、重かった。
目を開けているつもりだった。
開けているつもりで、少し、閉じていた。
視界の端が、白くなった。
音が、遠くなった。
それは、たぶん、一秒だった。
目を開けたとき、前の車が、目の前にいた。
ブレーキランプが、真っ赤に光っていた。
足が、勝手に、動いた。
ブレーキを、踏んだ。
三秒前からではなかった。
一秒前だった。
踏み込んだ、というより、ペダルを、床まで押し付けた。
タイヤが、鳴いた。
車体が、前に、沈んだ。
後ろで、音がした。
箱が、前に滑った。
ベルトが、二本しか掛かっていなかった箱が、緩衝のない毛布の上を、二十センチ、前に滑った。
鉄の網に、ぶつかった。
がしゃん、という音が、した。
それから、ぱり、ぱり、ぱり、と、細かい音が、続いた。
ガラスが、割れる音だった。
何本も、割れていた。
車は、前の車に、触れる直前で、止まっていた。
周りの車が、クラクションを、鳴らしていた。
俺は、ハンドルを握ったまま、動けなかった。
二十年、一度も、荷物を壊したことがなかった。
その音を、聞いた。
荷台から、甘い、苔の匂いが、這い上がってきていた。
◇
病院に着いたのは、十時十分だった。
間に合っていた。
玄関の前で、白衣の女性医師が、待っていた。看護師が、二人。その後ろに、小さな男の子を抱いた、若い母親が、立っていた。
男の子は、四歳くらいだった。顔が、白かった。パジャマの袖から出た腕が、細かった。
荷台の扉を、開けた。
箱は、前に押し付けられていた。
箱を、開けた。
十二本の瓶のうち、十本が、割れていた。
残りの二本にも、ひびが入っていた。
緩衝材は、濡れて、青く、光っていた。
苔の液が、箱の底に、溜まっていた。
誰も、何も言わなかった。
医師が、箱の中の瓶を、一本ずつ、取り出した。
それから、静かに、言った。
「……全部、使えません」
「申し訳ありません」
声が、出なかった。出たのは、空気のような音だった。
「申し訳ありません」
「顔を、上げてください」
「私が」
「早坂さん」
医師は、俺の名前を、知っていた。
「事故は、起きます。次の苔が採れるのは、来月の満月です。それまで、今の治療を続けます。命に別状は、ありません。ただ、一か月、苦しい時間が、延びます」
一か月。
母親が、男の子を、抱え直した。
泣いていなかった。
泣かないように、唇を、噛んでいた。
「ありがとうございました」
母親は、言った。
「遠くから、運んできてくださって」
「いえ」
「来月、また、お願いします」
責められなかった。
責められたほうが、楽だった。
男の子が、母親の肩越しに、俺を見ていた。
何も、分かっていない目だった。
俺は、深く、頭を下げた。
床の模様を、見ていた。
長い間、頭を、上げられなかった。
◇
駐車場に戻った。
軽バンの運転席に座って、ドアを閉めた。
ハンドルに、額を、押し付けた。
手が、まだ、震えていた。
ダッシュボードの無線機が、緑に点いた。
「……早坂さん」
水無瀬さんの声だった。
「今、どちらですか」
「病院の駐車場です」
「納品は」
「しました。全部、駄目でした」
「……はい」
水無瀬さんは、知っていた。
タグで、位置も、衝撃も、全部、見ていたのだろう。
「休憩は、取りましたか」
「取っていません」
「取ってください」
「もう」
「三十分。私が、時間を数えます」
それは、命令ではなかった。
「何も、考えなくていいです。座っているだけで」
俺は、背もたれに、体を預けた。
目を閉じた。
無線の向こうから、小さな音が、聞こえてきた。
時計の、秒針の音だった。
何も、言葉は、なかった。
ただ、数える音が、続いていた。
二十分ほど、たったころだった。
無線の向こうで、誰かが、水無瀬さんに、何か言った。
水無瀬さんが、小さく、答えた。
それから、ラジオの音が、混じった。
ニュースだった。
――国土交通省は、本日、迷宮素材の輸送を許可制とする省令を、公布しました。施行は、三週間後。許可を受けられるのは、一定の保険、安全基準、運行管理者を備えた事業者のみとし、個人事業者による輸送は、原則として、認められなくなります。
アナウンサーの声は、淡々としていた。
三週間。
その数字を、俺は、頭の中で、長い間、数えていた。
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