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10/30

積み方

 真柴さんが目を覚ましたのは、その日の夕方だった。

 個室の窓から、赤い光が斜めに入っていた。ベッドの脇に、点滴が二本。脇腹には、分厚いガーゼが当てられていた。

 真柴さんは、天井を見たまま、言った。

「……来たの」

「はい」

「角は」

「納品しました。無事です」

「そ」

 それだけ言って、真柴さんは、しばらく黙っていた。

「あんた、顔、ひどいよ」

「寝ていないので」

「寝なよ」

「はい」

「私なしでも、運べるでしょ」

「はい」

「無理は、しないでよ」

「しません」

 真柴さんは、ゆっくり、首だけをこちらに向けた。

「嘘つき」

 俺は、何も言い返せなかった。

 その夜は、病院の駐車場で、軽バンの運転席に座ったまま、眠った。

 眠った、というより、目を閉じていただけだった。

 助手席のシートは、拭いても拭いても、血の匂いが取れなかった。


         ◇


 午前五時。無線が鳴った。

「東亜物流部、水無瀬です」

 声が、いつもより、短かった。

「早坂さん、急ぎの荷物です」

「どこから、どこへ」

「茨城県北部の、迷宮付属の培養所から、都内の小児病院まで。月光苔の培養液。十二本。十二キロ」

「月光苔」

「難病の子どもの点滴の、原料です。満月の夜に採れた苔を、培養所で液にします。今回の分は、昨夜、仕上がりました。病院での投与は、午前十時半です。それに、間に合わなければ」

 水無瀬さんは、そこで、言葉を切った。

「次の苔が採れるのは、来月の満月です」

 息を、吸った。

「担当していた東亜のドライバーが、昨夜、事故で動けません。軽で動ける人が、他にいません」

「護衛は」

「ギルドに要請しましたが、車に乗れる護衛が、見つかりません。ただ、今回の荷物は、魔物ではなく、苔の培養液です。規則上、護衛は不要です」

「分かりました」

 声が、勝手に出ていた。

「受けます」

「……早坂さん」

「はい」

「睡眠は」

「取っています」

「どのくらい」

「三時間」

「規則は、六時間でしたね」

「今日は、仕方がありません」

 無線が、少し黙った。

「……お願いします」

 水無瀬さんは、そう言った。

 止めるべきだった、と、あとになって思った。

 あのとき、水無瀬さんは、止めようとした。

 それを、俺が、聞かなかった。


         ◇


 茨城の培養所には、七時半に着いた。

 山あいの、白い平屋だった。

 出てきた研究員は、青い顔をしていた。

「いつもの東亜さんの車が、来なくて。時間が、もう」

「すぐ積みます」

 培養液は、一リットルのガラス瓶に入っていた。十二本。それぞれ、緩衝材に包まれて、木枠の箱の中に立っている。

 積み方は、頭の中に、決まっていた。

 箱を二つに分け、荷台の中央に、前寄りで置く。箱の周りの隙間には、毛布を詰める。ベルトは、四本。前後に二本ずつ。

 作業は、二十分かかる。

「時間が、ありません」

 研究員が、時計を見た。

「お願いします。急いでください」

 手が、動いた。

 箱を置いた。ベルトを、前後に一本ずつ、掛けた。

 毛布は、一枚だけ、前に押し込んだ。

 四本のベルトのうち、二本が、残っていた。

 隙間の毛布は、あと三枚、あった。

 俺は、それを見た。

 見て、扉を閉めた。

 六分だった。

 二十年の間、一度も、しなかったことだった。

「いってらっしゃい」

 研究員が、頭を下げた。

「お願いします。あの子は、四歳なんです」

 運転席に乗った。

 後ろで、箱が、かたん、と、小さく鳴った。

 気のせいだ、と、思った。


         ◇


 常磐道に乗った。

 空は、薄い灰色だった。

 ハンドルを握った手が、重かった。

 眠気は、予定どおり、来た。

 九時二十分。朝からの運転は、四時間になった。

 大手にいたころから、ずっと守ってきた規則だった。

 四時間走ったら、三十分、休む。

 守らないやつから、死ぬ。

 先輩は、そう言った。

 道路脇に、パーキングエリアの看板が出た。

 あと二キロ。

 俺は、ウインカーを出さなかった。

 九時半。

 首都圏に入る手前で、渋滞が始まった。

 時計を見た。

 十時半まで、一時間。

 このまま、渋滞が続けば、間に合わない。

 無線が、鳴った。

「早坂さん」

「はい」

「連続運転が、四時間を超えています」

 水無瀬さんだった。

「次の休憩所で、止まってください」

「間に合わなくなります」

「割れたら、間に合っても、意味がありません」

「間に合わなければ、意味がありません」

 自分の声が、尖っているのが、分かった。

「三十分、休めば」

「あの子は、四歳です」

 無線が、途切れた。

 しばらく、何も聞こえなかった。

「……分かりました」

 水無瀬さんは、そう言った。

 その声は、小さかった。

 その小ささが、後で、胸に刺さった。


         ◇


 渋滞は、九時四十分に、抜けた。

 アクセルを、踏み込んだ。

 首都高に入る手前の、長い直線だった。

 両側の景色が、流れていった。

 まぶたが、重かった。

 目を開けているつもりだった。

 開けているつもりで、少し、閉じていた。

 視界の端が、白くなった。

 音が、遠くなった。

 それは、たぶん、一秒だった。

 目を開けたとき、前の車が、目の前にいた。

 ブレーキランプが、真っ赤に光っていた。

 足が、勝手に、動いた。

 ブレーキを、踏んだ。

 三秒前からではなかった。

 一秒前だった。

 踏み込んだ、というより、ペダルを、床まで押し付けた。

 タイヤが、鳴いた。

 車体が、前に、沈んだ。

 後ろで、音がした。

 箱が、前に滑った。

 ベルトが、二本しか掛かっていなかった箱が、緩衝のない毛布の上を、二十センチ、前に滑った。

 鉄の網に、ぶつかった。

 がしゃん、という音が、した。

 それから、ぱり、ぱり、ぱり、と、細かい音が、続いた。

 ガラスが、割れる音だった。

 何本も、割れていた。

 車は、前の車に、触れる直前で、止まっていた。

 周りの車が、クラクションを、鳴らしていた。

 俺は、ハンドルを握ったまま、動けなかった。

 二十年、一度も、荷物を壊したことがなかった。

 その音を、聞いた。

 荷台から、甘い、苔の匂いが、這い上がってきていた。


         ◇


 病院に着いたのは、十時十分だった。

 間に合っていた。

 玄関の前で、白衣の女性医師が、待っていた。看護師が、二人。その後ろに、小さな男の子を抱いた、若い母親が、立っていた。

 男の子は、四歳くらいだった。顔が、白かった。パジャマの袖から出た腕が、細かった。

 荷台の扉を、開けた。

 箱は、前に押し付けられていた。

 箱を、開けた。

 十二本の瓶のうち、十本が、割れていた。

 残りの二本にも、ひびが入っていた。

 緩衝材は、濡れて、青く、光っていた。

 苔の液が、箱の底に、溜まっていた。

 誰も、何も言わなかった。

 医師が、箱の中の瓶を、一本ずつ、取り出した。

 それから、静かに、言った。

「……全部、使えません」

「申し訳ありません」

 声が、出なかった。出たのは、空気のような音だった。

「申し訳ありません」

「顔を、上げてください」

「私が」

「早坂さん」

 医師は、俺の名前を、知っていた。

「事故は、起きます。次の苔が採れるのは、来月の満月です。それまで、今の治療を続けます。命に別状は、ありません。ただ、一か月、苦しい時間が、延びます」

 一か月。

 母親が、男の子を、抱え直した。

 泣いていなかった。

 泣かないように、唇を、噛んでいた。

「ありがとうございました」

 母親は、言った。

「遠くから、運んできてくださって」

「いえ」

「来月、また、お願いします」

 責められなかった。

 責められたほうが、楽だった。

 男の子が、母親の肩越しに、俺を見ていた。

 何も、分かっていない目だった。

 俺は、深く、頭を下げた。

 床の模様を、見ていた。

 長い間、頭を、上げられなかった。


         ◇


 駐車場に戻った。

 軽バンの運転席に座って、ドアを閉めた。

 ハンドルに、額を、押し付けた。

 手が、まだ、震えていた。

 ダッシュボードの無線機が、緑に点いた。

「……早坂さん」

 水無瀬さんの声だった。

「今、どちらですか」

「病院の駐車場です」

「納品は」

「しました。全部、駄目でした」

「……はい」

 水無瀬さんは、知っていた。

 タグで、位置も、衝撃も、全部、見ていたのだろう。

「休憩は、取りましたか」

「取っていません」

「取ってください」

「もう」

「三十分。私が、時間を数えます」

 それは、命令ではなかった。

「何も、考えなくていいです。座っているだけで」

 俺は、背もたれに、体を預けた。

 目を閉じた。

 無線の向こうから、小さな音が、聞こえてきた。

 時計の、秒針の音だった。

 何も、言葉は、なかった。

 ただ、数える音が、続いていた。


 二十分ほど、たったころだった。

 無線の向こうで、誰かが、水無瀬さんに、何か言った。

 水無瀬さんが、小さく、答えた。

 それから、ラジオの音が、混じった。

 ニュースだった。

 ――国土交通省は、本日、迷宮素材の輸送を許可制とする省令を、公布しました。施行は、三週間後。許可を受けられるのは、一定の保険、安全基準、運行管理者を備えた事業者のみとし、個人事業者による輸送は、原則として、認められなくなります。

 アナウンサーの声は、淡々としていた。

 三週間。

 その数字を、俺は、頭の中で、長い間、数えていた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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