無線の声
黒いワゴンは、高速を降りたあとも、二台後ろについてきた。
俺は、石神井の住宅街に入った。
宅配の大手にいたころ、三年担当した区域だ。一方通行が網の目になっていて、地図アプリの言うとおりに走ると、同じ交差点に三回戻ってくる。
右、左、左、一方通行の出口から逆に入らないように一本手前で右。
四つ目の角を曲がったところで、ミラーから黒いワゴンが消えた。
真柴さんが、助手席で目を開けた。
「……今、何かした?」
「道を一本、間違えました」
「あんたが?」
「たまには、間違えます」
真柴さんは、また目を閉じた。
ワゴンが何だったのかは、分からないままだった。
◇
二日後の朝、東亜から段ボールが一つ届いた。
中身は、無線機だった。携帯電話の電波を使う業務用のもので、車のダッシュボードに付けられる。説明書と一緒に、印刷した紙が一枚入っていた。
スポット登録ドライバーのうち、急ぎの案件を専任で回す方に貸与します。
取り付けて、電源を入れた。
三十秒もしないうちに、声がした。
「東亜マテリアル物流部、配車の水無瀬です」
あの声だった。低くて、早い。
三回目で、初めて名前を聞いた。
「今日から、無線で指示します。急ぎです。奥多摩の診療所へ、蛇毒の血清。冒険者が一人、迷宮蛇に噛まれました。投与までの限度は、噛まれてから四時間。残り二時間五分」
「受けます」
「では、まず青梅へ。道は走りながら言います」
血清は、小さな保冷箱に入っていた。八キロ。
軽い荷物だ。積み方で悩むことはない。助手席の足元に置いて、真柴さんの足で挟んでもらうことにした。
「私、今日も護衛なの」
「血清も素材から作るので、素材の扱いだそうです」
「……蛇の毒って、素材なんだ」
「水無瀬さんが、そう言っていました」
「誰」
「配車の人です」
真柴さんは、ダッシュボードの無線機を見た。
無線機は、何も言わなかった。
◇
青梅を過ぎて、国道を多摩川沿いに上った。
午前中に大雨が降ったせいで、川は茶色く膨らんでいた。
無線が鳴った。
「早坂さん。この先、二・三キロ地点で、道路が崩れました。橋の手前です。三分前の情報です。通れません」
俺は、速度を落とした。
この先の道は、一本しかない。川沿いの国道を上るか、引き返すか。俺の頭の中の地図には、それしか入っていない。奥多摩は、担当区域ではなかった。
「迂回は、三つあります」
水無瀬さんの声は、少しも変わらなかった。
「一つ目、対岸の吉野街道。ただし二か所で冠水しています。軽の車高では無理です。二つ目、手前の集落から入る林道。幅二・一メートル、重量制限二トン。すれ違いはできませんが、今、対向車の予定はありません。三つ目、旧道。落石で、昨日から閉鎖中。……二つ目です。三百メートル先、左。郵便局の角」
郵便局が見えた。
俺は、左に曲がった。
林道は、本当に二・一メートルだった。
軽バンの幅は一・四八メートルだ。左右に三十センチずつ余る。右は崖、左は杉の根元。舗装はひび割れていて、ところどころに落ち葉が溜まっている。
カーブが、いくつも続いた。
ハンドルを切るのではなく、置く。曲がっている間は、アクセルを動かさない。
「次のカーブの先、二百メートル、右側の路肩が崩れかけています。左に寄ってください。……三十センチでいいです」
左に三十センチ寄った。
右の路肩が、ミラーの中で、削り取られたように欠けていた。
「その先、分かれ道を右。左は行き止まりです。地図アプリには、左が載っています」
右に入った。
「……今、迷いませんでしたね」
無線の声が、少しだけ遅れて言った。
「迷う理由がありませんので」
「地図、見ていないでしょう」
「見ていません」
「なぜ、私の言うとおりに曲がるんですか。会ったこともないのに」
「道を知っている人の声だったので」
無線が、少し黙った。
「……そうですか」
それだけだった。
助手席で、真柴さんが無線機をにらんでいた。
「ねえ」
「はい」
「この人、何。さっきから、ずっと仕切ってるけど」
無線が答えた。
「配車です。あなたは」
「護衛」
「護衛の方は、少し黙っていてください。道の情報が聞き取りにくくなります」
「は?」
「早坂さん、次、右カーブのあと、急な下りです。ブレーキは早めに」
「ちょっと待ちなよ。顔も見せないで、何様」
「顔は、道案内に要りません」
「あんたねえ」
「下り、終わります。百メートル先、舗装が戻ります」
真柴さんは、無線機に向かって口を開けた。
それから、口を閉じた。
しばらくして、俺のほうを見た。
「……山道なのに、私、吐いてない」
「左カーブです」
「聞いてる?」
「聞いています。左カーブです」
無線機が、小さく咳をした。笑ったのかもしれなかった。
◇
林道は、崩れた橋の一キロ上流で、国道に戻った。
奥多摩の診療所に着いたのは、残り三十八分のときだった。
木造の平屋で、玄関の前に、ギルドの車が一台止まっていた。中から、白髪の医者が出てきた。
「血清?」
「血清です」
医者は、保冷箱をひったくるように受け取って、奥へ走っていった。
奥の部屋から、若い男のうめき声が聞こえていた。
しばらくして、うめき声が止んだ。
医者が、汗を拭きながら戻ってきた。
「間に合ったよ。……で、何か書くの?」
「受け取りのサインをお願いします」
「ハンコないよ。診療所のなら、あるけど」
「それで結構です」
医者は、送り状の受領欄に、診療所の角印をどんと押した。
受領欄の四倍くらいの大きさだった。
車に戻って、無線に報告した。
「納品しました。受領、もらっています」
「お疲れさまです。伝票番号を読み上げてください。こちらの記録と照合します」
俺は、送り状の番号を読んだ。
十二桁の数字だ。
無線は、しばらく黙っていた。
キーボードを叩く音が、かすかに聞こえた。
「……早坂さん」
「はい」
「その荷物の伝票番号、うちの会社の番号の付け方じゃありません」
声は、さっきまでと同じ高さだった。
ただ、少しだけ、ゆっくりになっていた。
「うちの番号は、頭の三桁が出荷した倉庫の番号です。この番号の頭の三桁に、該当する倉庫がありません」
「では、この血清は、どこから」
「分かりません」
水無瀬さんは言った。
「東亜の送り状で、東亜の配車で、東亜の誰も出荷していない荷物を、あなたは今、運んだことになります」
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