揺れない車
翌朝の七時に、また同じ番号から電話が来た。
「東亜マテリアル物流部です」
同じ声だった。低くて、早い。
「今日もスポットをお願いします。江東区の当社冷蔵倉庫から、埼玉県川越市の明成製薬の工場まで。灰喉鳥の卵、六百十二個。ワクチンの原料です」
「温度帯は」
「冷蔵です。二度から六度。十五度を超えると、孵り始めます」
「孵ると、どうなりますか」
「ワクチンになりません」
そういうことを聞いたのではなかった。
「受けます」
「では」
また、名前は言わなかった。
卵からワクチンを作るのは、迷宮が出る前からあるやり方だ。昔は鶏の卵を使っていた。今は、迷宮から出る熱病には、迷宮の鳥の卵が一番よく効くらしい。
生ものの中でも、卵はとくに生ものだ。
◇
倉庫の前に、真柴さんが立っていた。
昨日と同じ紺の上着。左腕に包帯を巻いている。
「……なんでいるんですか」
「護衛。素材を運ぶときは付ける決まりだって、昨日言ったでしょ」
「ギルドの人は、毎回変わるものだと思っていました」
「変わるよ。普通は」
真柴さんは、それ以上言わなかった。助手席のドアを自分で開けて、自分で乗った。
昨日、割れたガラスは、夜のうちに直した。修理代は東亜が持つと、電話の女が言った。
卵は、発泡スチロールの箱に十二個ずつ入っていた。五十一箱。箱ごとに保冷剤が二つ。全部で百二十キロほどだ。
軽い。だが、軽いから楽というわけではない。
卵は、上から押されると割れる。横から押されても割れる。箱と箱の間に隙間があれば、ブレーキのたびに箱が動いて、中で卵がぶつかる。
重さではなく、形で積む荷物だ。
五十一箱を、三段、隙間なく組んだ。最後の隙間には、たたんだ段ボールを差し込んだ。
箱の一つに、温度計の針を刺した。クール便を配っていたころからの癖だ。冷蔵と書いてある荷物が、本当に冷えているかどうかは、送り状には書いていない。
四度だった。
◇
首都高から外環に入ったところで、事故渋滞にぶつかった。
ラジオが、トラック同士の追突で二車線ふさがっていると言った。抜けるまで一時間半。
予定では、九時半に着くはずだった。
温度計を見た。七度。
保冷剤は、二時間分しか入っていない。倉庫の人間は、渋滞のことまでは考えていない。東亜の大型トラックには冷凍機が付いているから、考えたことがないのだろう。
冷房を一番強くした。
真柴さんが、助手席で上着の前を合わせた。
「寒いんだけど」
「卵が暑がっていますので」
「私は卵より下なの」
「今日は、そうです」
渋滞は、なかなか動かなかった。
前の車が五メートル進むたびに、こちらも五メートル進む。ブレーキを踏んで、離して、また踏む。
真柴さんが、ふと言った。
「……吐いてない」
「はい?」
「昨日も、吐かなかった。今日も、まだ吐いてない。渋滞なのに」
真柴さんは、自分の膝を見ていた。
「渋滞が一番駄目なんだよ、私。止まって、進んで、止まって。三十分もしたら絶対に吐く。自衛隊のころ、トラックの荷台で毎回吐いてた。なんで」
「揺らしていないので」
「揺らしてない?」
「ブレーキは、止まる三秒前から踏み始めます。止まる瞬間に、少しだけ緩めます。そうすると、最後にがくんとならない」
前の車が止まった。俺も止まった。がくん、とはならなかった。
「荷物を壊さない運転です。卵を積んでいるときと、同じです」
「……私は卵か」
「今日は、そうです」
真柴さんは、口を開けて、閉じて、窓の外を見た。
耳が少し赤かった。冷房が強すぎたのかもしれない。
◇
十時を過ぎても、渋滞は抜けなかった。
温度計は十一度になっていた。
冷房は、もう一番強い。これ以上は冷えない。軽バンの冷房は、人間を冷やすためのものだ。百二十キロの卵を冷やすようにはできていない。
次の出口で、外環を降りた。
最初に見えたコンビニに入った。
「氷、ありますか。袋の」
店員は、冷凍庫を指さした。ロックアイスが十二袋並んでいた。
「全部ください」
店員の手が止まった。
「……バーベキューですか」
「卵です」
店員は、それ以上聞かなかった。
氷は、箱の上に並べた。
冷たい空気は、下に落ちる。下に置いた氷は、床しか冷やさない。上に置けば、冷気が箱の間を通って、一番下の段まで降りていく。
クール便の荷台で、二十年見てきたことだ。冷凍機が壊れた夏の日に、先輩がそうやっていた。
ドアを閉めようとしたとき、音がした。
こつ、と。
箱の中からだった。
こつ、こつ。ぴし。
何かが、内側から殻を叩いている。
「真柴さん」
「聞こえた」
真柴さんは、もう荷台に上がっていた。
孵ったのは、一番上の段の、日が当たる側の箱だった。
真柴さんが蓋を開けた瞬間、灰色のものが跳ねた。
ひよこではなかった。鳩くらいの大きさで、羽がまだ濡れている。くちばしだけが、生まれたばかりとは思えないほど黒く、硬そうだった。
それが、真柴さんの手の甲を突いた。血が出た。
真柴さんは、声も出さなかった。
右手の剣が、ほとんど動かなかったように見えた。灰色のものが、箱の中に落ちた。
「隣も来るよ」
真柴さんは、隣の箱の蓋に手を置いたまま言った。
「卵は割らないでください」
「分かってる」
蓋を開ける。孵ったものだけを刺す。蓋を閉める。次の箱。
狭い荷台の中で、真柴さんは膝をついたまま、それを繰り返した。孵っていない卵には、一度も刃が触れなかった。昨日と同じだ。小さく、速く。
全部で十四羽だった。
真柴さんの両手の甲は、細かい傷でいっぱいになっていた。
「……卵、何個割った」
「ゼロです」
「そ」
真柴さんは、手の血を上着で拭いて、助手席に戻った。
◇
明成製薬の工場に着いたのは、十一時四十分だった。
受け取りに出てきた白衣の男は、箱を一つずつ開けて、温度を測って、卵を数えた。
「五百九十八個。孵化したのが十四」
「すみません。渋滞で」
「いえ」
男は首を振った。
「去年、東亜さんの大型で運んでもらったときは、半分孵りました。冷凍機は付いていたんですが、揺れで孵るんです。卵が揺れると、外に出る時期だと思うらしくて」
男は、俺の軽バンを見た。
「……これで、九十七パーセントですか」
「積み方です」
俺は、それだけ答えた。
帰りは、関越から外環に乗った。
渋滞は、もう解けていた。真柴さんは、助手席で眠っていた。両手に、工場でもらった絆創膏を何枚も貼っていた。
練馬の料金所を過ぎたところで、ミラーを見た。
黒いワゴン車が、二台後ろにいた。
さっきの信号でも、その前の信号でも、同じ車がいた。行きの江東区の倉庫を出たときにも、たしか見た。
同じ車が、三回、同じミラーに映ったら、偶然ではない。
宅配を二十年やると、そういうことは分かるようになる。
次の出口で、俺は高速を降りた。
黒いワゴンも、ウインカーを出した。
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