三百四十八キロ
「重さは」
「三百四十八キロです」
「……二キロ余りますね」
俺の軽バンの最大積載量は、三百五十キロだ。
その日、俺は竜の心臓を運んだ。
迷宮の素材を運ぶのは、生まれて初めてだった。
◇
日本に迷宮が出たのは、三十一年前だ。
最初は新宿の地面に穴が開いて、中から生き物が出てきた。今は全国に二百十二か所ある。
最初の数年は、それなりに混乱したらしい。俺は中学生で、学校が二か月休みになったことしか覚えていない。
だが、迷宮から取れるものが金になると分かると、世の中はあっという間に慣れた。
冒険者という仕事ができて、国が資格を作り、ギルドが等級を振った。倒した魔物の肉や骨や内臓は「素材」と呼ばれ、薬や燃料や工業製品になる。
三十一年たって、迷宮は少しずつ枯れ始めている。浅い層の素材が減って、値段が上がった。
そして、素材は生ものだ。
竜の心臓も、魔物の肝も、卵も、腐れば値段はゼロになる。
だから、ここ一、二年で、運ぶ速さに値段が付くようになった。
それまで、誰も気にしていなかった仕事だ。
早坂徹、四十五歳。軽貨物ドライバー。
大手の宅配で二十年配って、五年前に独立した。軽バン一台、黒ナンバー。黒いナンバープレートは、人の荷物を運んで金をもらう軽自動車の印だ。
一日に百五十個配る。担当区域の道は全部覚えている。信号が変わるタイミングも、だいたい覚えている。
運ぶのは段ボールだ。通販の服と、水の箱と、誰かの実家から届く米だ。
魔物の素材は、一度も積んだことがない。
◇
その日の午後二時十分。午後の便は、あと三個で終わるところだった。
電話が鳴った。知らない番号だった。
「東亜マテリアル物流部です」
女の声だった。低くて、早い。
「スポットの配送をお願いします。早坂さんの車は、今、府中市内ですね」
「……はい」
東亜マテリアルは、迷宮素材の最大手の商社だ。去年、そこのスポット配送に登録だけはしておいた。一度も声がかからなかった。位置は、登録したときに入れたアプリが送っているらしい。
「中央道の上り、調布インターの手前で、うちのトラックが横転しました。荷物は無事です。積み替えて、横浜の港北医科大学病院まで運んでください」
「荷物は」
「竜の心臓です」
俺は少し黙った。
「止まってから四時間で、薬になりません。残り一時間四十分です。受けますか」
「受けます」
「では」
電話は切れた。名前は言わなかった。
荷台には、まだ三個残っていた。
二丁目の田中さんは在宅。四丁目のアパートの二階は宅配ボックス。最後の一個は、角の美容院だ。
四分で配った。
美容院の奥さんが「今日は早いのね」と言った。「急ぎが入りまして」と答えて、ハンコをもらった。
◇
中央道の上りは、一車線ふさがっていた。
路肩で、東亜の四トントラックが横を向いて寝ていた。フロントガラスが真っ白に割れている。運転手は頭に包帯を巻いて、パトカーの後ろに座っていた。
「鳥です」
運転手は、俺の顔を見るなりそう言った。
「黒い鳥が、何羽も、ガラスに」
警官に誘導されて、トラックの後ろに軽バンをつけた。
ガードレールに、女が一人もたれていた。
ギルドの紺の上着。腰に短い剣。髪を後ろで一つに縛っている。二十代の後半くらいだろう。顔色が悪い。
「ギルドの護衛。真柴凛。B級」
女は、ガードレールから体を起こしもせずに言った。
「素材を運ぶときは、護衛を付ける決まりなんだよ。で、どの車」
「あれです」
真柴さんは、俺の軽バンを見た。
しばらく見た。
「……あれに乗るの」
「はい」
「私、車が駄目なんだよ。どの車でも吐く」
「窓は開きます」
「そういう話じゃない」
トラックの荷台から、東亜の作業員が三人がかりで箱を押し出してきた。
銀色の保冷ケースだ。大人が一人、膝を抱えて入れるくらいの大きさ。側面に「天地無用」と赤い字がある。
ケースの中から、低い音がしていた。
ど、と。少し間があって、また、ど、と。
止まってから四時間で薬にならない、と電話の女は言った。止まったのは、まだ全部ではないらしい。
「載りますか、軽で」
作業員が、軽バンとケースを見比べた。
「重さは」
「三百四十八キロです」
「……二キロ余りますね」
真柴さんが、ガードレールから顔を上げた。
「余るの、それ」
「余ります。二キロ」
積む場所は、見た瞬間に決まっていた。
前に寄せて、真ん中に、低く。
重いものが後ろにあると、前のタイヤが浮いてハンドルが効かなくなる。左右どちらかに寄ると、曲がるたびに車が傾く。前と後ろのタイヤの間、それも運転席の背中のすぐ後ろに置けば、車は荷物を積んでいることを忘れてくれる。
水の箱を、二十年そうやって積んできた。
床に毛布を二枚敷いた。作業員三人と真柴さんでケースを持ち上げた。三百四十八キロのうち、半分は真柴さんが持っていたと思う。B級というのは、そういうことらしい。
天地無用の矢印を上に向けて置いた。荷締めのベルトを四本、床の金具に掛けて締めた。
六分かかった。
「……慣れてますね」
作業員が言った。
「米の袋と、同じですので」
嘘ではない。
◇
残り一時間二十八分。
調布から環八を抜けて、第三京浜に乗る。混んでいなければ、五十分で着く。
真柴さんは助手席で、灰色の顔をしていた。両手で膝をつかんでいる。
「吐くときは言ってください。路肩に寄せます」
「寄せたら間に合わないでしょ」
「間に合います。そのための二十八分です」
真柴さんは何か言いかけて、やめた。
ブレーキは、止まる三秒前から踏み始める。カーブは手前で速度を落として、曲がっている間はアクセルを動かさない。車線を変えるときは、ハンドルを切るのではなく、置く。
荷物を壊さない運転だ。それしか知らない。
第三京浜に乗って十分ほどで、ミラーが黒くなった。
鳥だった。
カラスより一回り大きい。羽が濡れたように黒く、くちばしが長い。それが十何羽、軽バンの後ろについて飛んでいた。
「屍鴉」
真柴さんが言った。声が変わっていた。
「迷宮から漏れて、街に住み着いてるやつ。血の匂いを追う。……心臓だ」
トラックのガラスを割ったのは、こいつらだ。
どん、と後ろで音がした。リアガラスに白い蜘蛛の巣が広がった。
「入ってくるよ」
「荷物に、触らせないでください」
「注文が多いな」
真柴さんは、シートの間から荷台へ滑り込んだ。
二度目の音で、リアガラスが抜けた。
風が車の中に吹き込んできた。黒い羽が、運転席まで飛んできた。
俺は前を見ていた。
前を見ることしかできない。ここでハンドルを切れば、三百四十八キロが横に動く。ベルトは四本締めてあるが、四本で足りる保証はない。
速度は八十。車線の真ん中。アクセルは一定。
後ろで、短い音が続いた。刃物が肉を切る音と、鳥が床に落ちる音だ。
ミラー越しに、一瞬だけ見えた。
真柴さんは、ケースの横に片膝をついていた。剣は肘から先ほどの長さしかない。狭い荷台の中で、それを小さく振っている。大きく振れば、天井か、ケースに当たる。だから小さく、速く。
車の中で戦うための長さを、自分で選んでいるのだと分かった。
左の窓が割れた。
一羽が、助手席側から飛び込んできた。真っすぐ、俺の顔に。
くちばしが見えた。
俺は、ハンドルを離さなかった。
離したら、荷物が倒れる。
それだけを考えていた。怖いとか、そういうことを考える場所が、頭のどこにも残っていなかった。
耳の横を、風が通った。
鳥が、俺の膝の上に落ちた。首がなかった。
真柴さんの剣が、俺の耳の横から引っ込んでいった。
「……ハンドル、離さなかったね」
「離すと、荷物が倒れますので」
真柴さんは、しばらく黙っていた。
「あんた、変だよ」
手が震えているのに気づいたのは、それからだ。
ハンドルを握ったまま、指の先だけが細かく震えていた。止めようとしても止まらなかった。俺は、魔物というものを、こんなに近くで見たことがなかった。
真柴さんの左腕から、血が垂れていた。くちばしで裂けたらしい。
「大丈夫ですか」
「前見て」
前を見た。
◇
港北医科大学病院の搬入口に着いたのは、残り十二分のときだった。
白衣の人たちが、走って出てきた。ケースは台車に移され、そのまま奥へ消えた。
中の音は、まだ鳴っていた。ど、と。少し間があって、また、ど、と。
真柴さんは助手席から降りて、地面に立って、自分の手を見ていた。
「……あれ」
「どうしました」
「なんでもない」
受け取りのサインをもらうために、送り状を開いた。
ケースの横に貼ってあった、東亜の送り状だ。届け先は港北医科大学病院。品名は竜心臓。重量三百四十八キロ。
発送元の欄だけ、印字ではなかった。
鉛筆で、几帳面な字が書いてあった。
新宿迷宮 第41層
新宿の迷宮は、四十層までしか掘ってはいけないことになっている。
ニュースで、何度もそう聞いた。
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