証拠
【二十一時〇〇分】
区域の北の外の、避難所は、区立の小学校だった。
体育館の前に、救急車が、二台、止まっていた。
やっと、入れるところまで、来ていた。
荷台の扉を、開けた。
救急隊員が、ゆうとを、抱え上げた。
息の音を、聞いて、すぐに、酸素のマスクを、当てた。
「あと十分、遅かったら」
隊員は、それ以上、言わなかった。
石井キヨさんが、毛布の上で、俺の手を、握った。
「揺れなかったよ」
「はい」
「八十四年で、一番、揺れない車だった」
「ありがとうございます」
「……あの、腕章の子の、お父さん?」
「はい」
「いい子だね。名簿の、自分の名前、一番下に、書いてた」
「知っています」
キヨさんは、笑って、俺の手を、離した。
足を怪我した男も、担架で、運ばれていった。
荷台が、空になった。
【二十一時〇八分】
助手席から、美緒が、降りた。
クリップボードを、抱えていた。
体育館の入口で、先生らしい人が、美緒の名前を、呼んでいた。
「北陵の、早坂さん。ここに、名前、書いて」
「はい」
美緒は、そっちへ、一歩、歩いた。
止まった。
振り返った。
「お父さん」
「ん」
「戻るんでしょ」
俺は、答えなかった。
答えなくても、分かったらしい。
「凛さんを、迎えに、行って」
美緒は、言った。
凛さん、と。
初めて、名前で、呼んだ。
「あの人の席、私が、ずっと、座ってちゃ、だめだから」
「……ああ」
「それと」
美緒は、クリップボードを、ぎゅっと、抱えた。
「無事で、帰ってきて」
「規則は、守る」
「規則のことは、聞いてない」
美緒の目から、涙が、一筋、落ちた。
美緒は、それを、拭かなかった。
「帰ってきて」
「帰ってくる」
「約束」
「約束だ」
美緒は、うなずいた。
それから、走って、体育館に、入っていった。
黄色い腕章が、扉の中に、消えた。
【二十一時十五分】
運転席に、一人で、座っていた。
助手席は、空だった。
座席は、美緒の位置まで、前に、出ていた。
レバーを、引いた。
座席を、一番、後ろまで、下げた。
凛の、位置だった。
キーを、回そうとした。
ダッシュボードの、黒い箱を、見た。
ランプは、消えたままだった。
水無瀬さんは、どこへ、行ったのか。
無線のアプリから、大野さんの声が、流れていた。
「……八号、十一号、北陵の残りへ。おい、水無瀬さんがいないと、俺の言うこと、誰も聞かんな」
「所長、その道は、二時間前に、割れてます」
「……知っとるわ」
知らない声だった。百台の、誰かだ。
そこへ、別の声が、割り込んだ。
「大野さん。坂下は、どこですか」
久保田の声だった。
「さっきから、坂下の車が、見当たらない」
大野さんが、少し、黙った。
「……行った」
「どこへ」
「水無瀬さんが、無線を外すと言った、すぐあとだ。あいつ、俺の胸のポケットから、自分の携帯を、取り返して、走っていった。……東亜の、本社だと、言っていた」
息が、止まった。
「なんで、坂下が、本社を」
「久米と、会っていた場所だそうだ。本社の、地下の、搬入口。新車の鍵を、そこで、受け取った」
【二十一時二十二分】
ダッシュボードの、黒い箱が、ぷつ、と、鳴った。
ランプが、点いた。
緑色だった。
「……早坂さん」
水無瀬さんの声だった。
息が、上がっていた。
足音が、混じっていた。階段を、降りる音。硬い靴の、速い音。
「聞こえますか」
「聞こえます。どこですか」
「本社の、非常階段です。七階から、降りています。……今、四階」
「なぜ」
「資料室に、戻りました」
水無瀬さんは、息を、切らしながら、言った。
「許可制の夜に、話した、紙の原本です。棚卸しのとき、私が、別の箱に移した。第四十一層の、採掘伝票。資料室に、異動になったとき、私が、自分で、運びました。誰も、紙を、気にしなかった」
「それを」
「持っています。段ボール一箱。それと、今日の、正午の発破の、指示書の控えと、四十台の、搬出の記録。配車室の端末から、取りました」
段ボールの、擦れる音がした。
「今日の溢出は、自然の地殻変動ではありません。東亜が、底を、割りました。その証拠が、この箱に、全部、入っています」
「誰かに、追われていますか」
「……はい」
声が、少しだけ、細くなった。
「配車室に、警備の人が、戻ってきました。私が、端末を、触っていたのに、気づいた。……鷲尾の、指示だと、思います」
階段の上のほうで、怒鳴る声が、した。
水無瀬さんの足音が、速くなった。
「三階」
「水無瀬さん」
「二階」
「降りたら、どこへ」
「地下の、搬入口です。車は、ありません。でも、搬入口から出れば、裏の路地に」
「路地は」
「分かりません。そこまで、地図は、見ていません」
水無瀬さんが、道を知らない、と、言った。
初めて、聞いた言葉だった。
【二十一時三十分】
「地下、一階」
重い扉の、開く音。
コンクリートに、反響する、足音。
「搬入口です。シャッターは、開いています。……外に」
水無瀬さんの声が、止まった。
エンジンの音が、した。
低い、大きな、エンジンの音。
「……黒い、ワゴンです」
水無瀬さんは、言った。
「二台。搬入口の、出口を、塞いでいます」
喉が、冷たくなった。
黒いワゴン。
あの日、竜の心臓を運んだ翌日、練馬の料金所から、ずっと、俺の車を、尾けてきた車。
ミラーに三回映った、同じ車。
「……あの車だ」
「知っているんですか」
「一度、尾けられました。最初の、週に」
ワゴンのドアが、開く音がした。
男の声がした。
「水無瀬さん。箱を、渡してください」
穏やかな、声だった。
「本部長が、お待ちです」
「お断りします」
水無瀬さんの声は、震えていなかった。
「荷物の運搬に、本部長は、要りません」
俺は、ハンドルを、握りしめていた。
ここから、東亜の本社まで、九キロ。
どう走っても、二十分は、かかる。
間に合わなかった。
【二十一時三十四分】
そのとき、別のエンジンの音が、した。
軽い、高い音。
軽バンの、エンジンだった。
搬入口の、反対側。スロープの、上から。
タイヤが、コンクリートを、鳴らした。
男たちの、怒鳴り声。
「誰だ!」
それから、聞き覚えのある声が、無線の向こうで、叫んだ。
「乗れ!」
坂下だった。
「乗れ、水無瀬さん! 助手席!」
「……どなたですか」
「坂下! 早坂の、同業! あんたの道で、昼間、六人運んだ!」
ドアが、開く音。
段ボールが、座席に、投げ込まれる音。
ドアが、閉まる音。
「掴まってろ!」
軽バンのエンジンが、唸った。
「搬入口の出口は、ワゴンが」
「出口からは、出ない!」
坂下が、叫んだ。
「ここの裏に、荷物用の、細いスロープがある! 幅、一・九! ワゴンは、入れない! 軽なら、ぎりぎりだ!」
「なぜ、知って」
「新車の鍵を、ここで、受け取った! 久米に、こっちから出ろって、言われたんだよ! 人目に、つかないように!」
壁を、擦る音が、した。
ぎゃりぎゃり、と、金属の、悲鳴。
「ミラー! 左のミラー、飛んだ!」
「構うな!」
坂下が、笑った。
泣いているような、笑い声だった。
「どうせ、あいつらに、もらった車だ!」
ワゴンのエンジンが、後ろで、唸っていた。
スロープに、入れずに、止まった音がした。
タイヤの音が、地上に、出た。
夜の、空気の音が、無線に、入った。
「……出た」
坂下の声だった。
「出たぞ」
水無瀬さんの、深い、息の音が、聞こえた。
【二十一時四十二分】
「早坂」
坂下が、言った。
「お前に、言われたこと、考えた」
「……ああ」
「俺の車を、焼いたやつから、俺は、新車を、もらった」
「ああ」
「だから、この車で、そいつらの、証拠を、運ぶ。それで、少しは、釣り合うだろ」
何か、言い返したかった。
釣り合いなんて、どうでもいい、と。
お前は、昼間、六人を運んだ、と。
「……積み方は」
口から、出たのは、それだった。
「箱は、助手席の、足元。水無瀬さんの、両足で、挟んでもらえ。紙は、湿気に弱い」
坂下が、笑った。
「相変わらずだな、お前は」
水無瀬さんの声が、した。
「……挟みました」
「それで、いい」
「早坂さん」
「はい」
「行き先は」
「区域の、北の避難所。小学校です。私も、今、そこにいます。……警察も、救急も、テレビも、来ています」
水無瀬さんは、少し、黙った。
「……テレビ」
「はい」
「分かりました」
声に、少しだけ、力が、戻った。
「坂下さん。経路を、言います。首都高は、使えません。山手通りを、北へ」
「おう」
「三本目を、左。そのあと」
二人の声が、無線の中で、重なっていった。
俺は、運転席に、座ったまま、聞いていた。
水無瀬さんの声が、道を言う。
坂下が、曲がる。
疑わずに。
【二十一時五十八分】
キーを、回した。
エンジンが、かかった。
北陵高校まで、三・二キロ。
後続の三台は、十八人を、運び終えていた。
大野さんの声が、無線のアプリに、入った。
「北陵、残り、十二人。それと、真柴」
「行きます」
「お前、一人でか」
「一人です」
「……分かった。止めん」
助手席は、空だった。
座席は、一番、後ろまで、下がっていた。
ミラーを、直した。
そのとき、アプリから、別の声が、入った。
聞き慣れた声だった。
息が、荒かった。
「……早坂」
凛だった。
「聞こえてる?」
「聞こえます」
「北西の、群れ。……違った」
「何がですか」
「群れじゃない」
凛の声の、向こうで、地面が、鳴っていた。
十二時に聞いた、あの音だった。
低い、長い、地鳴りのような音。
それが、今は、ずっと、近かった。
「でかいのが、一匹」
凛は、言った。
「……来た」
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