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三百五十キロ

【二十時〇〇分】


 新宿北陵高校の、正門だった。

 門柱に、文化祭の看板が、まだ、立てかけてあった。

 手作りの、ベニヤ板。色とりどりのペンキで、『北陵祭』と書いてある。端が、少し、焦げていた。

 校庭の奥に、黄色と黒の、ロープが、見えた。

 ロープの内側の地面に、穴が、開いていた。

 直径、五メートルほど。縁から、薄い湯気が、上がっていた。

 足湯を、作るはずだった場所だった。

 体育館の扉が、開いた。

 中から、明かりが、漏れていた。

「お父さん」

 美緒だった。

 制服の上に、実行委員の、黄色い腕章を、つけていた。

 手に、クリップボードを、持っていた。

 走ってきた。

 途中で、止まった。

 軽バンの、割れた運転席の窓を、見た。助手席の、凛の、血のついた上着を、見た。

 それから、俺の顔を、見た。

「……来た」

「来ると、言った」

「午後って、言った」

「遅くなった」

「八時だよ」

「八時は、午後だ」

 美緒は、口を、開けた。

 閉じた。

 それから、少しだけ、笑った。

 目が、赤かった。


【二十時〇五分】


 体育館の中には、三十八人が、いた。

 生徒。先生。文化祭を見に来た、近所の年寄り。小さな子ども連れの、母親。

 壁際に、毛布が、並んでいた。

 体育館の床に、模造紙が、一枚、貼ってあった。

 手書きの、表だった。

「何だ、これは」

「名簿」

 美緒が、クリップボードを、見せた。

「避難してる人の。誰が、どこにいて、どこが悪いか。お昼から、作ってた」

 クリップボードの紙には、名前が、並んでいた。

 上から、順に。

 『一、田辺ゆうと 五歳 ぜんそく 発作あり』

 『二、石井キヨ 八十四歳 心臓の薬 残り一回分』

 『三、松本……』

 順番が、あった。

 持病のある人。小さな子ども。年寄り。

 それから、けが人。それから、大人。

 一番下に、生徒の名前が、並んでいた。

 生徒の、一番、最後。

 『三十八、早坂美緒』

 息が、止まった。

「……この順番は」

「お父さんの、積み方」

 美緒は、言った。

「先に、届けなきゃいけないものから、積むんでしょ」

「誰に、聞いた」

「見てた。ひと月前。卵を、運んだ日」

 美緒は、クリップボードを、胸に、抱えた。

「重いものからじゃない。先に、届けなきゃいけないものから。……そう、言ってた」

 言った覚えは、なかった。

 口に、出したことは、なかった。

 ただ、そうやって、積んでいた。

 美緒は、それを、見ていた。


【二十時〇八分】


 名簿の、一番上の名前を、見た。

 田辺ゆうと、五歳。

 壁際の毛布の上で、母親の膝に、頭を乗せていた。息が、ひゅうひゅう、鳴っていた。

 二番目。石井キヨ、八十四歳。

 小柄な、白髪の女性だった。椅子に、座っていた。

 俺は、二人を、見た。

 それから、名簿の、三番目の人を。四番目の人を。

 一人ずつ、見た。

 十九。三十九。五十二。六十八。四十七……。

 頭の中で、数字が、並んでいった。

「……お父さん」

 美緒が、横で、言った。

「今、私の体重、測ったでしょ」

「測っていない」

「測った。目が、そういう動き、してた」

「名簿の人を、見ていただけだ」

「私のとこで、目、止まった」

「止まっていない」

「止まった。一秒くらい」

 近くにいた、男子生徒が、ぷっ、と、吹き出した。

 美緒が、そっちを、にらんだ。

 男子生徒は、あわてて、目をそらした。

 この夜で、笑い声が、聞こえたのは、それが、最初で、最後だった。


【二十時十五分】


 荷台には、もう、五人が、乗っていた。

 二百九十キロ。

 最大積載量は、三百五十キロ。

 六十キロ、余る。

 名簿の、一番上から。

 田辺ゆうと、五歳。十九キロ。

 母親が、ゆうとを、抱えて、荷台まで、来た。

「お母さんは」

 母親の顔を、見た。

 五十キロは、あった。

 母親は、首を、振った。

「この子だけ、お願いします。私は、次の車で」

「……はい」

 ゆうとを、抱えて、荷台に、乗せた。

 毛布の、一番前。けが人の男の、隣に。

 けが人の男が、黙って、ゆうとの肩を、支えた。

 次。

 石井キヨ、八十四歳。三十九キロ。

 抱え上げた。

 軽かった。

 ゆうとの、隣に、座らせた。

 頭の中で、足した。

 二百九十。十九。三十九。

 三百四十八。

 二キロ、余る。

 ――重さは。

 ――三百四十八キロです。

 ――……二キロ、余りますね。

 竜の心臓を運んだ日と、同じ数字だった。

 あの日は、二キロが、余裕だった。

 今夜は。

 名簿の、三番目は、四十七キロの、年寄りだった。

 二キロでは、乗らない。

 一番下の、美緒は。

 四十五キロ。

 二キロでは、乗らない。


【二十時二十分】


 荷台の端に、手を、かけた。

 扉を、閉めるための、手だった。

 閉められなかった。

 四十五キロ。

 積めば、三百九十三キロ。

 四十三キロの、超過。

 軽バンは、それでも、走る。

 知っている。

 走れることは、二十年、知っている。

 過積載で、走っている車を、何度も、見てきた。

 ブレーキが、少し、遅れる。カーブで、少し、外に、膨らむ。それだけで、車は、走る。

 手が、荷台の縁を、強く、握った。

 頭の中で、音が、した。

 ぱり、ぱり、ぱり。

 ガラスの、割れる音だった。

 十二本の、瓶のうち、十本。

 あの朝、俺は、二つ、規則を、破った。

 積み方を、急いだ。休まずに、走った。

 それで、何も、得なかった。

 四歳の子の、一か月を、落とした。

 この荷台には、今、五歳の子が、乗っている。

 八十四歳の女性が、乗っている。

 足から、血を流した男が、乗っている。

 四十三キロを、足せば。

 ブレーキが、少し、遅れる。

 その少しで、何が、起きるか。

 俺は、知っていた。

 手を、荷台の縁から、離した。

 扉を、閉めた。

 振り返った。

 美緒が、立っていた。

「……次の車が、二十分で、来る」

 声が、喉で、引っかかった。

「後続が、三台。お前は、その車で」

「わかってる」

 美緒は、言った。

「お父さんの、仕事でしょ」

 クリップボードを、胸に、抱えていた。

 自分の名前を、一番下に書いた、名簿を。


【二十時二十五分】


 無線が、鳴った。

「早坂さん」

 水無瀬さんだった。

 声が、少しだけ、いつもより、遅かった。

「助手席は、三百五十キロに、入りません」

 俺は、黙った。

 知っていた。

 最大積載量は、荷台の重さだ。助手席と運転席は、乗車定員として、別に数える。二十年、知っていた。

 知っていて、言えなかった。

 助手席には、凛が、座っていた。

 凛が降りれば、美緒が、乗れる。

 凛が降りれば、凛は、ここに、残る。

 白牙の群れは、北西、八百メートル。

 後続の車は、二十分。

 脇腹から、血を流している人を、ここに、置いていく。

 言えなかった。

 頼めなかった。

 俺は、運転席のドアの前で、ただ、立っていた。


【二十時二十八分】


 助手席のドアが、開いた。

 凛が、降りてきた。

 脇腹を、押さえていた。

 ゆっくり、地面に、足を、ついた。

 俺は、何も、言っていなかった。

 凛は、俺のほうを、見なかった。

 美緒のほうを、見た。

「乗りな」

 美緒が、首を、振った。

「でも、あなたの」

「私の席」

 凛は、言った。

「……酔わない席です」

 声が、少しだけ、震えていた。

「大事に、座ってください」

 美緒の顔が、歪んだ。

 ひと月前、駅前のロータリーで、助手席の座席が後ろに下がりすぎていると、文句を言った。

 あれは、凛の席の、位置だった。

 この人と、付き合ってるの。

 そう、聞いた。

「……ごめんなさい」

「何が」

「最初に、会った日」

「気にしてないって、言ったでしょ」

「でも」

「いいから。乗って」

 凛は、助手席のドアを、押さえていた。

「あんたの親父、待ってる」

 美緒は、乗った。

 助手席の座席は、ずっと、後ろに下がったままだった。

 美緒の足は、床に、届かなかった。

 凛が、腰をかがめて、座席の下の、レバーを、引いた。

 座席を、前に、出した。

 美緒の足が、床に、ついた。

 凛は、ドアを、閉めた。


【二十時三十五分】


 運転席に、乗った。

 割れた窓の外に、凛が、立っていた。

「真柴さん」

「何」

 言葉が、出てこなかった。

 何か月も、隣に、乗っていた人に。

 今日だけで、何度も、命を、救われた人に。

「……後続は、二十分です」

「知ってる」

「無理は」

「してる」

 凛は、笑った。

 脇腹を押さえたまま、笑った。

「行きな。揺らさないで」

 キーを、回した。

 ブレーキを、離した。

 アクセルを、置くように、踏んだ。

 車は、揺れずに、動き出した。

 ミラーを、見た。

 校門の前に、凛が、立っていた。

 短い剣を、右手に、持っていた。

 紺の上着の、脇腹のところが、黒く、濡れていた。

 その後ろに、体育館の明かりと、三十六人の、人影があった。

 凛は、こちらを、見ていなかった。

 北西の、暗いほうを、見ていた。

 ミラーの中で、その姿が、小さくなっていった。

 角を、曲がった。

 見えなくなった。


【二十時四十分】


 車の中は、静かだった。

 荷台で、ゆうとの、ひゅうひゅうという息だけが、聞こえていた。

 美緒は、膝の上に、クリップボードを、載せていた。

 ずっと、前を、見ていた。

 しばらくして、美緒が、助手席のドアの、ポケットに、手を入れた。

 何かを、取り出した。

 白い、小さな、袋の束だった。

 十枚ほど。ゴムで、留めてあった。

 エチケット袋だった。

 凛が、最初の日に、どこかで買って、入れたのだろう。

 どの車でも、吐く人だったから。

 美緒は、その束を、しばらく、見ていた。

 一枚も、封が、切られていなかった。

 一枚も、折り目すら、なかった。

「……これ」

 美緒が、小さく、言った。

「一枚も、使ってないね」

「ああ」

「一回も、吐かなかったんだ。この席で」

「ああ」

「何か月も」

「ああ」

 美緒は、束を、元のポケットに、戻した。

 丁寧に。

 それから、窓の外を、見た。

「……お父さん」

「ん」

「あの人の席、温かい」

 俺は、前を見ていた。

 前を、見ることしか、できなかった。

 ブレーキを、止まる三秒前から、踏んだ。

 車は、揺れずに、止まった。

 信号が、青に、変わるのを、待った。

 視界が、少しだけ、滲んでいた。


【二十時五十八分】


 無線から、水無瀬さんの声がした。

「早坂さん。区域の外の、避難所まで、あと、十二分です」

「はい」

「後続の三台が、北陵高校に、着きました。十八人、乗せています」

「……真柴さんは」

「校門に、います。残りの十八人と、一緒に」

「はい」

「……早坂さん」

「はい」

 水無瀬さんは、少しの間、黙った。

 キーボードの音が、しなかった。

「少し、無線を、外します」

「何か、あったんですか」

「戻らなかったら、配車は、大野さんに。全員の経路は、共有の画面に、出してあります」

「水無瀬さん」

「はい」

「どこへ、行くんですか」

 答えは、なかった。

 かわりに、遠くで、扉の開く音が、した。

 それから、走る足音が。

 無線のランプが、緑から、消えた。

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