三十分
【十八時〇〇分】
エンジンを、切った。
高架の南の端の、空き地だった。
北へ向かう、十二号車の経路の、出発点だった。
凛が、助手席で、こちらを見た。
「……止めるの」
「止めます」
「今?」
「四時間です」
「娘さん、一・一キロ先だよ」
「知っています」
キーを、抜いた。
ダッシュボードの上に、置いた。
「三十分、休みます」
無線から、水無瀬さんの声がした。
「……十八時〇〇分から、休憩、と、記録します」
「お願いします」
大野さんが、自分の軽バンの運転席の窓から、身を乗り出した。
「おい、徹」
「はい」
「今、休むのか」
「休みます」
「お前の娘が」
「はい」
「北に、千人、残ってるんだぞ」
「はい」
「三十分あれば、二往復できる」
「できます」
「なら」
「休まずに走った日に、荷を、全部、落としました」
大野さんが、黙った。
「四歳の子の、薬でした。全部、割れました」
誰も、何も、言わなかった。
年寄りたちが、運転席の窓から、こちらを見ていた。
何人かは、知っていた。名簿の連絡網で、回ったのだろう。
「今、走れば、北で、千人のうち、何人かを、乗せられます。でも、三十分後に、俺は、また、居眠りをします。あの朝と、同じように」
背もたれを、少しだけ、倒した。
「その時、荷台に乗っているのが、娘だったら」
声が、そこで、止まった。
続きは、言えなかった。
言わなくても、分かったらしい。
大野さんは、窓の中に、頭を引っ込めた。
それから、もう一度、顔を出した。
「……三十分だな」
「三十分です」
「一秒も、延ばすなよ」
「延ばしません」
【十八時〇三分】
目を、閉じた。
腕を、組んだ。
首を、少しだけ、傾けた。
息を、ゆっくり、吐いた。
眠れるはずが、なかった。
北で、何かが、鳴いていた。遠くで、サイレンが、何本も、重なっていた。
それでも、体は、覚えていた。
二十年、車の中で、休んできた体だった。
肩から、力が、抜けた。
運転席の窓の外に、誰かが、立った。
窓ガラスは、高架の上で、なくなっていた。
冷たい空気と一緒に、気配が、すぐ近くに、あった。
目は、開けなかった。
開けなくても、誰か、分かった。
久保田だった。
何も、言わなかった。
ただ、横に、立っていた。
三時間前、俺が、久保田の運転席の横に、立っていたように。
【十八時〇六分】
「真柴さん」
無線から、水無瀬さんの声がした。
目を閉じたまま、聞いていた。
「三百メートル北の、学習塾の、二階に、十二人、残っています。小学生が九人と、講師が三人。建物の前の道に、白牙が、十匹ほど。車は、入れません」
「……行く」
凛の声だった。
助手席のドアが、開く音がした。
「真柴さん。傷は」
「開いてる」
「では」
「歩いて、行く」
凛の声は、落ち着いていた。
「走らない。歩く。蜘蛛のときと、同じ」
「……はい」
「あんたが、道を言って」
「はい」
「最初の角は」
「右です」
「どっちの右」
「あなたの右です」
凛が、小さく、笑った気がした。
足音が、遠ざかっていった。
一定の、速さだった。
【十八時十一分】
無線から、二人の声が、流れ続けていた。
「その先、二十メートル。左の塀の陰に、三匹」
「見えた」
「止まらずに、塀から、一メートル、離れて」
「離れた」
「そのまま」
「……一匹、こっち見てる」
「見ているだけです。歩いてください」
「あんた、本当に、知ってんの」
「白牙は、動くものの、速さを、見ます。蜘蛛と同じです。午後から、四十件の目撃記録を、見ました」
「四十件」
「四十件、全部、走った人が、追われていました」
「……そ」
しばらく、足音だけが、聞こえた。
「塾の、入口。ガラスの扉」
「二階へ。階段は、右奥です」
凛の息が、上がっていた。
脇腹のせいだ。
「いた」
凛の声が、少しだけ、柔らかくなった。
「……大丈夫。お姉さん、ギルドの人」
子どもの、泣き声がした。
講師らしい、大人の声もした。
「真柴さん。帰りは、子どもを、真ん中に。講師の方は、両端に。全員、手をつないで。歩く速さは、一番小さい子に、合わせて」
「分かった」
「白牙が、前に出たら、止まらずに、私の言う方向へ、曲がってください」
「分かった」
凛は、言った。
「……あんた、いつも、そうやって、運転手を、連れて帰ってたの」
「はい」
「七年」
「七年です」
「すごいね」
「……今、褒めました?」
「褒めてない」
「褒めましたね」
「褒めてないって。前、見て」
「前は、あなたが、見てください。私は、画面です」
目を閉じたまま、俺は、少しだけ、口元が、動いたのを、感じた。
【十八時十九分】
どこかで、剣の音が、した。
短く、二回。
「……一匹、出た。落とした」
「子どもは」
「全員、手、つないでる。泣いてるけど、歩いてる」
「あと、百五十メートルです」
「百五十」
凛の声に、混じって、小さな声が、した。
子どもが、何か、歌っていた。
泣きながら、歌っていた。
童謡だった。歌詞は、聞き取れなかった。
凛が、それに、合わせて、小さく、歌っていた。
音程が、ひどく、外れていた。
無線の向こうで、水無瀬さんが、言った。
「……真柴さん。音程が」
「うるさい」
「歩く速さは、合っています」
「なら、いいでしょ」
「はい」
【十八時二十八分】
足音が、近づいてきた。
たくさんの、小さな足音だった。
目は、まだ、開けなかった。
あと、二分あった。
荷台の扉が、開く音がした。
「前のほうに、詰めて。壁に、背中。……そう」
凛の声だった。
「大きい子は、奥。小さい子は、手前。……お兄さん、あんたは、こっちの車」
「十二人、全部は」
大野さんの声だった。
「無理。この車、三百五十キロまで」
「数えたのか」
「数えた」
「お前が?」
「子どもが、九人で、二百四十キロくらい。先生が三人で、百八十キロくらい。合わせて、四百二十。……七人と、五人に、分ける」
「なんで、分かる」
「隣で、何か月も、見てた」
凛の声は、当たり前のことを言うように、平らだった。
「この人が、荷物を受け取るとき、相手の腕の重さで、荷物の重さを、読むの。人間も、同じ。……先生二人と、子ども五人が、こっち。残りは、大野さんの車」
「お前、いつの間に」
「いつの間にか」
荷台の扉が、閉まる音がした。
ベルトの、ラチェットの、音がした。
四本。
【十八時三十分】
「十八時三十分です」
水無瀬さんの声がした。
「休憩、終わりです」
目を、開けた。
運転席の窓の外に、久保田が、まだ、立っていた。
久保田は、俺の顔を、見た。
「……あの日も、お前は、止まったな」
久保田が、言った。
「信号の前で。俺の、一本、隣の道で」
「はい」
「俺は、止まれなかった」
「はい」
「今日、見られて、よかった」
久保田は、それだけ言って、自分の車に、戻っていった。
俺は、ミラーで、荷台を、見た。
子どもが、五人。講師が、二人。
毛布の上に、前から、壁に背中をつけて、座っていた。
小さい子が、手前。大きい子が、奥。
ベルトは、四本。前後に、二本ずつ。
俺の、積み方だった。
助手席に、凛が、座っていた。
脇腹を押さえる手が、赤かった。
それでも、顔は、少し、得意そうだった。
「……どう」
「完璧です」
「でしょ」
「重さは」
「二百五十五。……九十五、余る」
「そうですね」
キーを、回した。
エンジンが、かかった。
頭が、軽かった。
三十分前より、ずっと、前が、よく見えた。
その時、無線から、水無瀬さんの声がした。
速かった。
いつもより、ずっと。
「早坂さん。大野さん。……全員、聞いてください」
何か、画面を、見ているらしかった。
「名簿の、連絡網に、今、返事が、来ています。十二台の、知り合い。そのまた、知り合い。昔の同僚。同業者。個人の、軽貨物」
キーボードの音が、止まった。
「……区域の外に、集まっています」
「何台だ」
大野さんが、聞いた。
水無瀬さんは、一度、息を、吸った。
「百台、来ます」
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