高架
【十六時〇〇分】
高架は、線路をまたぐ、古い陸橋だった。
長さ、百二十メートル。片側一車線。歩道は、片側だけ。欄干は、腰の高さのコンクリート。
北の端には、小さな公園と、商店街の入口がある。
そこに、人が、溢れていた。
北の地区から、歩いて逃げてきた人たちだった。年寄り。子ども。犬を抱いた人。リュックを背負った人。
二百人は、いた。
「北の端で、乗せて、南の端で、降ろします」
水無瀬さんの声が、全員のスマートフォンに、流れていた。
「南の端からは、区域の外まで、歩いて十五分です。軽バンは、高架の上だけを、往復してください。片道、二分」
十二台の軽バンが、高架の上に、並んだ。
一台に、六人か七人。
北の端で乗せて、橋を渡って、南の端で降ろす。
降ろしたら、空のまま、北へ戻る。
ベルトコンベアだった。
荷物の、仕分け場と、同じだった。
【十六時〇八分】
真柴さんは、北の端の、公園の入口に、立っていた。
剣を、抜いていた。
「白牙は、公園の、向こうから来る」
無線に、真柴さんの声が、入った。
「群れの先頭が、見えた。……多い」
「どのくらいですか」
「数えるの、やめた」
水無瀬さんが、言った。
「先頭まで、四百メートル。あと、十二分」
「十二分」
「北の端の人の、乗り終わりまで、二十二分、かかります」
十分、足りなかった。
「私が、十分、止める」
真柴さんが、言った。
「一人で、ですか」
「一人で。ギルドは、来ない。北の端は、ここしか、入口がない。公園の、植え込みの間。幅、四メートル」
真柴さんの声は、落ち着いていた。
「四メートルなら、一人で、止められる」
「真柴さん」
「あんたは、運転して。揺らさないで」
それ以上は、言わなかった。
【十六時十五分】
白牙が、来た。
高架の上の、運転席から、見えた。
公園の向こうの、商店街の屋根を越えて、白いものが、波のように、押し寄せてきた。
植え込みの間の、四メートル。
そこに、紺の上着が、一つ、立っていた。
波が、ぶつかった。
真柴さんの剣が、動いた。
小さく、速く。
一匹落ちる。二匹落ちる。
波は、止まらなかった。
けれど、植え込みの間を、抜けられなかった。
剣の届く範囲だけ、白牙が、消えていく。
その範囲に、入った順に。
北の端の人たちが、悲鳴を上げながら、軽バンの荷台に、乗り込んでいた。
大野さんが、怒鳴っていた。
「押すな! 乗れる! 全員乗れる! 順番だ!」
久保田が、子どもを、抱え上げて、荷台に乗せていた。
坂下が、年寄りの手を、引いていた。
俺の車の荷台に、七人が、乗った。
「前に、詰めてください。壁に、背中を」
扉を閉めて、運転席に戻った。
高架に、入った。
時速二十キロ。
揺らさない。
【十六時二十四分】
五往復目だった。
北の端から、七人を乗せて、高架の真ん中まで、来たときだった。
右の欄干の向こうから、何かが、上がってきた。
白かった。
けれど、白牙では、なかった。
大きかった。
大型犬の、三倍はあった。
四本の脚が、欄干のコンクリートを、掴んでいた。鉤爪が、コンクリートに、食い込んでいた。
牙が、長かった。
白牙の、成体だった。
線路の側から、陸橋の壁を、よじ登ってきたのだ。
真柴さんが守っている、公園の入口では、なかった。
橋の、横からだった。
成体が、欄干を、越えた。
俺の車の、真横に、降りた。
赤い目が、運転席の窓を、見た。
「早坂さん」
水無瀬さんの声が、した。
「止まらないでください。荷台に、七人」
分かっていた。
止まれば、荷台が、襲われる。
ハンドルを切れば、荷台の七人が、横に、倒れる。
アクセルを踏み込めば、荷台が、揺れる。
俺にできることは、時速二十キロのまま、真っすぐ、走ることだけだった。
成体が、跳んだ。
運転席側の、ドアに、体ごと、ぶつかった。
車体が、左に、傾いた。
ハンドルを、離さなかった。
傾きに、逆らわなかった。
逆らえば、横転する。
荷台の中で、誰かが、悲鳴を上げた。
車体が、戻った。
窓ガラスに、蜘蛛の巣のような、ひびが、入っていた。
その向こうで、成体が、もう一度、口を、開けた。
牙が、ガラスに、届いた。
ガラスが、割れた。
牙が、俺の顔の、十センチ前で、止まった。
怖かった。
怖いという言葉では、足りなかった。
それでも、足は、アクセルを、時速二十キロのまま、踏んでいた。
二十年、そうしてきた足だった。
屋根の上で、音がした。
どん、と、重いものが、落ちる音。
次の瞬間、成体の、頭の上から、短い剣が、垂直に、降りてきた。
剣は、成体の首の付け根に、深く、刺さった。
甲殻の継ぎ目だった。
成体の動きが、止まった。
牙が、俺の顔の前から、ずるりと、下に、落ちた。
成体の体が、ドアから、剥がれて、路面に、転がった。
ミラーの中で、それが、後ろへ、小さくなっていった。
屋根の上から、声がした。
「止まんな!」
真柴さんだった。
「そのまま、渡れ!」
【十六時二十九分】
高架の南の端で、車を止めた。
止まる三秒前から、ブレーキを、踏んだ。
荷台の七人を、降ろした。
誰も、怪我を、していなかった。
運転席に、戻った。
屋根から、真柴さんが、滑り降りてきた。
助手席の窓の外に、立った。
「……どこから、来たんですか」
「公園の入口から、あんたの車が、見えた。でかいのが、橋の横を、登ってた。走った」
「入口は」
「大野さんが、車を三台、横に並べて、塞いだ。年寄り、すごいね。その間に、走った。橋の上を、あんたの車まで」
「屋根に」
「後ろのバンパーから、よじ登った」
「法律です」
「知ってる」
真柴さんは、笑おうとした。
笑えなかった。
膝が、崩れた。
助手席のドアに、手をついて、そのまま、地面に、座り込んだ。
右手が、脇腹を、押さえていた。
紺の上着の、脇腹のところが、黒く、濡れていた。
指の間から、赤いものが、流れていた。
「……開いた」
真柴さんは、言った。
「運河の夜の傷。屋根に、登るとき。ひねった」
救急箱を、荷台の隅から、取った。
ガーゼを、当てた。
テープで、留めた。
手が、震えていた。
うまく、留まらなかった。
真柴さんが、俺の手の上から、自分の手で、押さえた。
「……あんたの手、震えてる」
「はい」
「運転中は、震えてなかったのに」
「運転中は、震えません」
「変なの」
真柴さんは、目を閉じた。
「……でも、助かった」
「助けられたのは、私です」
「知ってる」
「何度目ですか」
「数えてない」
真柴さんは、目を閉じたまま、笑った。
今度は、笑えていた。
【十六時四十分】
高架の上を、軽バンが、往復していた。
北の端の人は、残り、四十人になっていた。
大野さんの三台の壁は、まだ、持っていた。
俺の車の、運転席の窓は、なくなっていた。冷たい風が、吹き込んでいた。
助手席では、凛が、ガーゼの上から、脇腹を、押さえていた。
顔色は、白かった。それでも、剣を、膝の上から、離さなかった。
いつから、そう思うようになったのか、分からない。
ただ、高架の真ん中で、屋根の上から剣が降りてきたとき、俺の頭の中で、その人の名前が、変わった。
真柴さん、ではなく。
凛、と。
口には、出さなかった。
出せるとも、思わなかった。
「……何、見てんの」
「何でもありません」
「顔、変」
「窓がないので、寒いだけです」
「そ」
凛は、窓の外を、見た。
【十六時五十二分】
北の端の、最後の六人を、坂下の軽バンが、乗せた。
高架の上を、坂下の銀色の車が、渡ってきた。
公園の入口では、大野さんの三台が、白牙の群れを、最後まで、塞いでいた。
それから、三台が、一台ずつ、橋の上へ、下がってきた。
最後の一台が渡り終えたとき、水無瀬さんの声が、全員の端末に、流れた。
「北の端、完了です。橋の上に、残っている人は、いません」
大野さんが、無線のアプリに、怒鳴った。
「次は!」
「次は、北の、さらに奥です。新宿北陵高校の周辺。避難所が、三か所。経路を、出します」
キーボードの音がした。
速かった。
それが、ふいに、止まった。
「……おかしい」
水無瀬さんの声が、低くなった。
「北へ戻る経路の、二か所目の交差点が、三分前に、封鎖されました。通行止めの記録は、警察からではありません」
「どこからですか」
「東亜の、警備部門です」
喉が、乾いた。
「十二台にしか、送っていない経路です。その経路の、ちょうど、先回りの位置に、東亜の警備車両が、二台、止まっています」
凛が、目を開けた。
「……知ってたみたいに」
「はい」
水無瀬さんは、静かに、言った。
「知っていたみたいに、です」
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