溢出
【十二時〇〇分】
最初に、公園の鳥が、黙った。
さっきまで、植え込みの中で、雀が騒いでいた。それが、一斉に、止んだ。
次に、音が来た。
どん、と、腹の底を叩くような音だった。耳ではなく、座席の下から、来た。
軽バンが、一度、揺れた。
俺は、ブレーキを踏んでいなかった。エンジンも、止まっていた。
車が、揺れたのではなかった。
地面が、揺れていた。
「……今の」
真柴さんが、剣の鞘から、手を離さずに言った。
「発破です」
自分の口から、その言葉が、出た。
ひと月半ほど前、市川の倉庫の前で、聞いた音だった。震爆石が、爆ぜる音。
採掘用の、発破の原料。
「どこで」
「下です」
搬出ヤードの、真ん中を、見た。
コンクリートの地面に、黒い線が一本、走っていた。
線は、見ている間に、太くなった。
ヤードの端から端まで。四十台のトラックの、ちょうど真ん中を、割るように。
線の中から、白い湯気が、噴き上がった。
【十二時〇四分】
サイレンが、もう一度、鳴った。
さっきの、出発の合図とは、違う音だった。短く、何度も、切れ切れに。
トラックが、止まった。
先頭の何台かは、もう、ヤードの門を出ていた。後ろの何台かは、裂け目の手前で、動けなくなっていた。
運転手たちが、運転席から、飛び降りた。
フォークリフトが、木箱を載せたまま、横倒しになった。
木箱が、割れた。
中から、白い卵が、転がり出た。
『第41層』の焼き印の箱だった。
卵は、湯気の中を、転がった。
ひとつ、またひとつ、殻が割れた。
「……孵った」
真柴さんの声が、低かった。
拳ほどの、青白い、爬虫類のような生き物。四本の足。赤い目。異様に長い牙。
路地裏の倉庫で、真柴さんの左腕を噛んだのと、同じものだった。
「白牙」
真柴さんが、言った。
「ギルドが、昨日、名前をつけた。あの倉庫のやつ」
白牙は、湯気の中から、次々に、這い出してきた。
卵の箱からだけでは、なかった。
裂け目の中から。
地面の、下から。
【十二時〇九分】
裂け目の奥で、何かが、鳴いた。
鳴いた、というのが、正しいのかどうか、分からない。
低い、長い、地鳴りのような音だった。それが、足の裏から、膝に、腹に、上がってきた。
胃が、ひっくり返りそうになった。
ヤードの向こうで、人が、走っていた。
黒いスーツの男たちが、本部の建物に、駆け込んでいく。
その真ん中に、背筋の伸びた男が、いた。
鷲尾は、走っていなかった。
歩いて、建物に入っていった。
一度も、振り返らなかった。
ハンドルを、握った。
握ったまま、動けなかった。
フロントガラスの向こう、百メートル先で、白牙の群れが、ヤードのフェンスを、越えた。
何十匹。何百匹。
道路に、溢れた。
信号待ちの車の屋根に、跳び乗った。
歩道の人が、悲鳴を上げた。
俺の指は、ハンドルに、貼りついていた。
迷宮の三十八層で、そうだったように。
あのときは、真柴さんが、俺を引きずり出した。
今日は、ここが、迷宮だった。
息が、吸えなかった。
肺が、また、石になった。
「早坂」
真柴さんの声が、遠かった。
「早坂。エンジン」
指が、動かない。
頭の中で、勝手に、声がした。
――お父さんの道、お父さんが、一番、知ってるじゃん。
――その人の電話が来なくても。お父さんは、大丈夫。
美緒の声だった。
先週の土曜の、新宿の喫茶店の、窓際の声だった。
美緒は、今、この先にいる。
文化祭の、校舎の中に。
ここから、北へ、二・八キロ。
指が、動いた。
キーを、回した。
エンジンが、かかった。
「……ごめん」
真柴さんが、小さく、言った。
「今日は、引きずり出さなくて、よかった」
「すみません」
「謝んなくて、いい」
【十二時十五分】
携帯電話で、美緒にかけた。
つながらなかった。
呼び出し音すら、鳴らない。
『ただいま、回線が、大変、混み合っております』
三回、かけた。
三回とも、同じ声だった。
ラジオを、つけた。
――新宿区に、避難指示が出ました。新宿迷宮の周辺、半径三キロの区域にお住まいの方は、ただちに、区域の外へ避難してください。繰り返します――
半径三キロ。
美緒の学校は、二・八キロ。
区域の、内側だった。
軽バンを、公園の裏から、出した。
青梅街道に出ようとして、止まった。
出られなかった。
交差点を、東亜の大型トラックが、塞いでいた。
一台ではない。三台、四台。ヤードを出たばかりのトラックが、白牙に追われて、交差点の真ん中で、斜めに止まっていた。
運転手は、いなかった。逃げたのだろう。
荷台の扉が、開いたままになっていた。
中の木箱が、半分、道路に崩れていた。
『第41層』の焼き印が、こちらを、向いていた。
「迂回」
「はい」
バックした。
一本、裏の道に入った。
そこにも、大型がいた。幅いっぱいに、止まっていた。
また、バックした。
次の道も。その次の道も。
四十台のトラックが、新宿の西側の、太い道を、全部、塞いでいた。
残っているのは、細い道だけだった。
俺の頭の中の地図は、十日前までの、新宿だった。
この十日で、道は、毎日、変わった。
どの細い道が、今、通れるのか。
分からなかった。
【十二時三十一分】
白牙が、フロントガラスに、跳び乗った。
ガラス越しに、赤い目が、俺を見た。
牙が、ガラスを、引っかいた。
きいい、と、嫌な音がした。
真柴さんが、窓を開けて、身を乗り出した。
剣が、フロントの上の白牙を、払い落とした。
二匹目が、真柴さんの右腕に、跳びついた。
真柴さんは、そのまま、窓の枠に、白牙の頭を、叩きつけた。
「左が、まだ、ちょっと、遅い」
「無理は」
「してる」
真柴さんは、窓を閉めた。
息が、荒かった。
「……どっち行くの」
「分かりません」
「分かんないの?」
「道が、変わっています」
真柴さんは、黙った。
それから、ダッシュボードの、黒い箱を、見た。
俺も、見た。
二週間、何も言わなかった箱だった。
付け直したまま、外せなかった箱だった。
【十二時五十八分】
白牙の群れを、三回、避けた。
路地を、四本、引き返した。
時計は、もうすぐ、一時になろうとしていた。
美緒の学校まで、まだ、二・五キロあった。
一時間で、三百メートルしか、近づけていなかった。
また、行き止まりだった。
工事用の、鉄の柵が、道を塞いでいた。
ハンドルを、握りしめた。
その時だった。
ダッシュボードで、ぷつ、と、小さな音がした。
黒い箱の、ランプが、点いた。
緑色だった。
ざあ、という雑音が、した。
雑音の向こうで、誰かが、息を、吸った。
「……早坂さん」
低くて、早い声だった。
二週間ぶりに、その箱から、聞こえた。
「聞こえますか。東亜物流部、配車の、水無瀬です」
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