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18/30

前夜

 病院の駐車場で、白いワゴン車が、エンジンをかけた。

 運転席には、若い男が、座っていた。

 宮本さん。二十七歳。小児科病棟の、事務職員だという。

 昨日の朝、俺は、この男に、半日かけて、教えた。

 積み方。運転の仕方。休む時間。

「ブレーキは、止まる三秒前から、踏み始めます」

「三秒前」

「はい」

「……三秒って、どのくらいですか」

「三秒です」

「三秒ですね」

 宮本さんは、真顔で、うなずいた。

 メモ帳に、書き込んでいた。

 メモ帳の頁には、すでに、びっしり、字が並んでいた。

 積み方の順番。毛布の枚数。ベルトの本数。

 四本。毛布は、三枚。

 隙間は、全部、埋める。

「四時間走ったら、三十分、休む。眠くなくても、休む」

「眠くなくても」

「眠くない時こそ、です。気づかないうちに、眠っているので」

「はい」

「守らないやつから、死にます」

 宮本さんの手が、止まった。

「……はい」

 それから、ゆっくり、メモ帳に、書いた。

 『守らないやつから、死ぬ』

 助手席の窓が、下りた。

 榊先生が、顔を出した。

「宮本さんを、よろしくお願いします。私も、乗っていきます」

「先生も」

「あの子の、薬ですから」

 車が、動き出した。

 前輪が、駐車場の段差を、越えた。

 止まる三秒前から、ブレーキを踏んでいる。

 宮本さんの足は、教えたとおりに、動いていた。

 車は、揺れずに、駐車場を出ていった。

「あんたの弟子だね」

 隣で、真柴さんが言った。

 三角巾は、もう、外れていた。左腕は、少しだけ、ぎこちなく動く。

「弟子では、ありません」

「じゃあ、何」

「荷物を、運ぶ人です」

「同じじゃん」

「違います」

 真柴さんは、小さく、笑った。

「あんたは、運ばないのに、運ぶんだね」

 その言葉の意味を、考えた。

 運ばない。けれど、運ぶ。

 許可制の、外側に、残された方法。

 それでいい、と、思った。


         ◇


 午後、大野さんから、電話が来た。

「全員に、連絡した」

「ありがとうございます」

「十一人、動ける」

「十一人」

「軽に乗れる六十一人のうち、明日の正午に、すぐ動けるのは、十一人だ。あとは、昼間、仕事がある」

「十分です」

「理由は、聞かん」

 大野さんは、言った。

「お前が、言うことは、本当だ。明日の正午、新宿で、何かが起きる。それだけ、分かれば、いい」

「所長」

「所長でいい」

「……ありがとうございます」

「礼は、いらん。俺は、自分が運びたいから、運ぶんだ」

 電話の向こうで、咳払いが、聞こえた。

「それと、徹」

「はい」

「久保田が、来る」

 息が、止まった。

「あいつも、名簿に、いる。四十一歳で、辞めてから、ずっと、機械工をやっていた。あの事故のあと、車には、乗っていない」

「久保田が」

「お前が、ただで運んでると、聞いて、自分から、電話してきた。『もう一度、運転席に、座りたい』と」

 窓の外の、夕方の光が、少し、滲んだ。

「明日、会ったら、何も、言うな」

「はい」

「ただ、横に、立ってやれ」

「はい」

 電話は、切れた。

 俺は、しばらく、携帯を、見ていた。


         ◇


 宮本さんの車が、病院に戻ってきたのは、午後五時十分だった。

 ワゴンは、夕日の中を、静かに、駐車場に入ってきた。

 ブレーキの音は、しなかった。

 止まる三秒前から、踏み始めていた。

 運転席のドアが、開いた。

 宮本さんが、降りてきた。

 顔は、疲れていた。

 けれど、目が、光っていた。

「持ってきました」

 後ろの扉を、開けた。

 木枠の箱が、荷台の中央に、きちんと、収まっていた。

 毛布が、隙間という隙間を、埋めている。

 ベルトが、四本。

 箱を、開けた。

 十二本の、ガラス瓶が、緩衝材の中で、静かに、並んでいた。

 一本ずつ、数えた。

 十二本。

 一本も、割れていない。

 一本も、ひび割れていない。

 緑がかった、淡い光が、瓶の中で、ゆらゆら、揺れていた。

「……全部、無事です」

 声が、勝手に、出ていた。

「途中で、四時間走ったときに、パーキングエリアで、三十分、休みました。眠くなかったんですが、先生が、休みなさいって」

「それで、いいです」

「はい」

「完璧です」

 宮本さんの目に、涙が、浮いた。

「早坂さん。ありがとうございました」

「運んだのは、宮本さんです」

「でも、教えてくれたのは」

「教えただけです」

 榊先生が、箱の隣に、立っていた。

「早坂さん」

「はい」

「少し、一緒に、来てもらえますか」


         ◇


 小児科病棟の、廊下だった。

 夕方の光が、窓から、斜めに、差し込んでいた。

 病室の前で、榊先生が、足を止めた。

「ここです」

 ガラス窓の向こうに、小さなベッドがあった。

 四歳くらいの男の子が、座っていた。顔色が、少しだけ、よくなっていた。

 隣に、若い母親が、立っていた。

 点滴の袋が、スタンドに、吊られた。

 袋の中の液が、淡い緑に、光っていた。

 看護師が、針を、男の子の腕に、そっと、刺した。

 男の子は、顔をしかめて、それから、笑った。

 母親が、気づいて、こちらを、見た。

 廊下の窓の前に立っている俺を、見つけた。

 母親が、深く、頭を、下げた。

 長い間、下げたままだった。

 母親は、窓際に、来た。

 ドアを、開けた。

「あの」

 声が、震えていた。

「あの日は、ありがとうございました」

「いえ」

「そして、今日も」

「運んだのは、私では」

「教えて、くださったと、聞きました」

 母親は、涙を、拭いた。

「来月、また、お願いします、と、言いました」

「はい」

「でも、一か月の間、ずっと、思っていました」

「何を、ですか」

「あの日、あなたは、自分を、責めていた。……私は、責めなかったのに」

 息が、止まった。

「それが、分かっていたから、あの時、あなたに、もう一度、運んでもらいたいと、言えませんでした」

 母親は、小さく、笑った。

「でも、今日、あなたは、来てくださった」

 男の子が、母親の袖を、引っ張った。

「ママ、このおじさん、だれ」

「お薬を、運んでくれた人」

「運んだ人?」

「そう」

 男の子は、ガラスの向こうの俺を、見た。

 そして、点滴の針の付いていない方の手を、ぱたぱた、と、振った。

 俺は、廊下の窓の前で、手を、上げた。

 手のひらを、ゆっくり、振った。

 胸の奥で、何かが、ほどけた。

 何か月も、固まっていたものが。

 あの朝から、ずっと。


         ◇


 夜の九時、携帯電話が、鳴った。

 美緒だった。

「お父さん」

「どうした」

「明日だよ」

「覚えている」

「来るよね」

「午後に、行く」

「約束だよ」

「約束だ」

 受話器の向こうで、美緒が、少し、笑った。

「それとね」

「ん」

「校庭の端、ロープ、張った」

 心臓が、少し、跳ねた。

「張った?」

「うん。実行委員長に、お父さんの勘だって、言った。足湯は、中止」

「……ありがとう」

「実行委員長が、がっかりしてたけど。お父さんの勘は、あたるから、って、言ったら、納得した」

「そうか」

「お父さんの勘、あたるの?」

「あたらないことを、祈っている」

「ふうん」

 美緒は、少し、黙った。

「お父さん」

「ん」

「気をつけてね」

「お前もな」

「うん。……じゃあ、明日」

 電話が、切れた。


         ◇


 コンビニの駐車場で、軽バンに、乗り込んだ。

 助手席には、先に、真柴さんが座っていた。

 膝の上に、寝袋が、載っていた。

「何ですか、それ」

「明日に備えて、泊まる」

「どこに」

「ここ」

「家は、狭いです」

「あんたの家に、泊まるとは、言ってない」

「では」

「車で、寝る」

「私の、車ですが」

「助手席は、私の席」

「寝袋で」

「そう」

「寝相が」

「あんたの寝相、気持ち悪いから、見張る」

「……見張る」

「ぴくりとも、動かないんだよ。毎回、息を確かめる羽目になる」

 真柴さんは、寝袋を、ぽんぽん、叩いた。

「今夜は、私が先に、寝るよ。あんたは、規則どおり、六時間」

「……はい」

「十時から、四時まで」

「はい」

「明日、四時に起きて、朝飯食べて、行く」

「はい」

 背もたれを、倒した。

 目を、閉じた。

 隣から、真柴さんの寝袋の、衣擦れの音が、した。

 それから、少し、静かになった。

 二分後。

「……ねえ」

「はい」

「もう、寝てる?」

「寝ます」

「寝てない」

「寝ます」

「……ぴくりとも、動かない」

「規則ですので」

「気持ち悪い」

「そうですか」

 真柴さんは、小さく、笑った。

 笑ってから、静かに、言った。

「……あの人、無事かな」

「はい」

「あんた、断言、しないね」

「断言は、できません」

「でも、無事だと、思ってる」

「はい」

「なら、いい」

 そのまま、真柴さんの声は、聞こえなくなった。

 俺は、腕を組んで、息を、ゆっくり、吐いた。

 眠りは、五分で、来た。


         ◇


 翌朝、四時に起きた。

 六時に、新宿の外れに着いた。

 東亜マテリアルの、搬出ヤードが見える、公園の裏手に、軽バンを止めた。

 ヤードには、大型トラックが、ずらりと並んでいた。

 四十台。

 エンジンが、一斉に、低い音を立てていた。

 運転手たちが、荷台の扉を、確認している。

 倉庫から、フォークリフトが、木箱を運び出してくる。

 木箱の側面に、焼き印があった。

 『第41層』

 遠くで、搬出ヤードの責任者らしい男が、指示を出していた。

 その隣に、背筋の伸びた男が、立っていた。

 鷲尾だった。

 六時間、待った。

 十一時五十八分。

 助手席の真柴さんが、剣の鞘を、確かめた。

 ダッシュボードの、無線機を、見た。

 黒い箱は、何も、言わなかった。

 十一時五十九分。

 搬出ヤードの、一番大きな、サイレンが、鳴った。

 四十台のトラックが、一斉に、動き出した。

 十二時ちょうど。

 足の下で、地面が、鳴った。


         ◇


(最終章は、十月十日(土)の正午から、一時間に一話、物語の時刻と同じ時刻に公開します。十二話・十二時間。最後の一話は、午後十一時に公開して、完結します。)

お読みいただき、ありがとうございます。

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