前夜
病院の駐車場で、白いワゴン車が、エンジンをかけた。
運転席には、若い男が、座っていた。
宮本さん。二十七歳。小児科病棟の、事務職員だという。
昨日の朝、俺は、この男に、半日かけて、教えた。
積み方。運転の仕方。休む時間。
「ブレーキは、止まる三秒前から、踏み始めます」
「三秒前」
「はい」
「……三秒って、どのくらいですか」
「三秒です」
「三秒ですね」
宮本さんは、真顔で、うなずいた。
メモ帳に、書き込んでいた。
メモ帳の頁には、すでに、びっしり、字が並んでいた。
積み方の順番。毛布の枚数。ベルトの本数。
四本。毛布は、三枚。
隙間は、全部、埋める。
「四時間走ったら、三十分、休む。眠くなくても、休む」
「眠くなくても」
「眠くない時こそ、です。気づかないうちに、眠っているので」
「はい」
「守らないやつから、死にます」
宮本さんの手が、止まった。
「……はい」
それから、ゆっくり、メモ帳に、書いた。
『守らないやつから、死ぬ』
助手席の窓が、下りた。
榊先生が、顔を出した。
「宮本さんを、よろしくお願いします。私も、乗っていきます」
「先生も」
「あの子の、薬ですから」
車が、動き出した。
前輪が、駐車場の段差を、越えた。
止まる三秒前から、ブレーキを踏んでいる。
宮本さんの足は、教えたとおりに、動いていた。
車は、揺れずに、駐車場を出ていった。
「あんたの弟子だね」
隣で、真柴さんが言った。
三角巾は、もう、外れていた。左腕は、少しだけ、ぎこちなく動く。
「弟子では、ありません」
「じゃあ、何」
「荷物を、運ぶ人です」
「同じじゃん」
「違います」
真柴さんは、小さく、笑った。
「あんたは、運ばないのに、運ぶんだね」
その言葉の意味を、考えた。
運ばない。けれど、運ぶ。
許可制の、外側に、残された方法。
それでいい、と、思った。
◇
午後、大野さんから、電話が来た。
「全員に、連絡した」
「ありがとうございます」
「十一人、動ける」
「十一人」
「軽に乗れる六十一人のうち、明日の正午に、すぐ動けるのは、十一人だ。あとは、昼間、仕事がある」
「十分です」
「理由は、聞かん」
大野さんは、言った。
「お前が、言うことは、本当だ。明日の正午、新宿で、何かが起きる。それだけ、分かれば、いい」
「所長」
「所長でいい」
「……ありがとうございます」
「礼は、いらん。俺は、自分が運びたいから、運ぶんだ」
電話の向こうで、咳払いが、聞こえた。
「それと、徹」
「はい」
「久保田が、来る」
息が、止まった。
「あいつも、名簿に、いる。四十一歳で、辞めてから、ずっと、機械工をやっていた。あの事故のあと、車には、乗っていない」
「久保田が」
「お前が、ただで運んでると、聞いて、自分から、電話してきた。『もう一度、運転席に、座りたい』と」
窓の外の、夕方の光が、少し、滲んだ。
「明日、会ったら、何も、言うな」
「はい」
「ただ、横に、立ってやれ」
「はい」
電話は、切れた。
俺は、しばらく、携帯を、見ていた。
◇
宮本さんの車が、病院に戻ってきたのは、午後五時十分だった。
ワゴンは、夕日の中を、静かに、駐車場に入ってきた。
ブレーキの音は、しなかった。
止まる三秒前から、踏み始めていた。
運転席のドアが、開いた。
宮本さんが、降りてきた。
顔は、疲れていた。
けれど、目が、光っていた。
「持ってきました」
後ろの扉を、開けた。
木枠の箱が、荷台の中央に、きちんと、収まっていた。
毛布が、隙間という隙間を、埋めている。
ベルトが、四本。
箱を、開けた。
十二本の、ガラス瓶が、緩衝材の中で、静かに、並んでいた。
一本ずつ、数えた。
十二本。
一本も、割れていない。
一本も、ひび割れていない。
緑がかった、淡い光が、瓶の中で、ゆらゆら、揺れていた。
「……全部、無事です」
声が、勝手に、出ていた。
「途中で、四時間走ったときに、パーキングエリアで、三十分、休みました。眠くなかったんですが、先生が、休みなさいって」
「それで、いいです」
「はい」
「完璧です」
宮本さんの目に、涙が、浮いた。
「早坂さん。ありがとうございました」
「運んだのは、宮本さんです」
「でも、教えてくれたのは」
「教えただけです」
榊先生が、箱の隣に、立っていた。
「早坂さん」
「はい」
「少し、一緒に、来てもらえますか」
◇
小児科病棟の、廊下だった。
夕方の光が、窓から、斜めに、差し込んでいた。
病室の前で、榊先生が、足を止めた。
「ここです」
ガラス窓の向こうに、小さなベッドがあった。
四歳くらいの男の子が、座っていた。顔色が、少しだけ、よくなっていた。
隣に、若い母親が、立っていた。
点滴の袋が、スタンドに、吊られた。
袋の中の液が、淡い緑に、光っていた。
看護師が、針を、男の子の腕に、そっと、刺した。
男の子は、顔をしかめて、それから、笑った。
母親が、気づいて、こちらを、見た。
廊下の窓の前に立っている俺を、見つけた。
母親が、深く、頭を、下げた。
長い間、下げたままだった。
母親は、窓際に、来た。
ドアを、開けた。
「あの」
声が、震えていた。
「あの日は、ありがとうございました」
「いえ」
「そして、今日も」
「運んだのは、私では」
「教えて、くださったと、聞きました」
母親は、涙を、拭いた。
「来月、また、お願いします、と、言いました」
「はい」
「でも、一か月の間、ずっと、思っていました」
「何を、ですか」
「あの日、あなたは、自分を、責めていた。……私は、責めなかったのに」
息が、止まった。
「それが、分かっていたから、あの時、あなたに、もう一度、運んでもらいたいと、言えませんでした」
母親は、小さく、笑った。
「でも、今日、あなたは、来てくださった」
男の子が、母親の袖を、引っ張った。
「ママ、このおじさん、だれ」
「お薬を、運んでくれた人」
「運んだ人?」
「そう」
男の子は、ガラスの向こうの俺を、見た。
そして、点滴の針の付いていない方の手を、ぱたぱた、と、振った。
俺は、廊下の窓の前で、手を、上げた。
手のひらを、ゆっくり、振った。
胸の奥で、何かが、ほどけた。
何か月も、固まっていたものが。
あの朝から、ずっと。
◇
夜の九時、携帯電話が、鳴った。
美緒だった。
「お父さん」
「どうした」
「明日だよ」
「覚えている」
「来るよね」
「午後に、行く」
「約束だよ」
「約束だ」
受話器の向こうで、美緒が、少し、笑った。
「それとね」
「ん」
「校庭の端、ロープ、張った」
心臓が、少し、跳ねた。
「張った?」
「うん。実行委員長に、お父さんの勘だって、言った。足湯は、中止」
「……ありがとう」
「実行委員長が、がっかりしてたけど。お父さんの勘は、あたるから、って、言ったら、納得した」
「そうか」
「お父さんの勘、あたるの?」
「あたらないことを、祈っている」
「ふうん」
美緒は、少し、黙った。
「お父さん」
「ん」
「気をつけてね」
「お前もな」
「うん。……じゃあ、明日」
電話が、切れた。
◇
コンビニの駐車場で、軽バンに、乗り込んだ。
助手席には、先に、真柴さんが座っていた。
膝の上に、寝袋が、載っていた。
「何ですか、それ」
「明日に備えて、泊まる」
「どこに」
「ここ」
「家は、狭いです」
「あんたの家に、泊まるとは、言ってない」
「では」
「車で、寝る」
「私の、車ですが」
「助手席は、私の席」
「寝袋で」
「そう」
「寝相が」
「あんたの寝相、気持ち悪いから、見張る」
「……見張る」
「ぴくりとも、動かないんだよ。毎回、息を確かめる羽目になる」
真柴さんは、寝袋を、ぽんぽん、叩いた。
「今夜は、私が先に、寝るよ。あんたは、規則どおり、六時間」
「……はい」
「十時から、四時まで」
「はい」
「明日、四時に起きて、朝飯食べて、行く」
「はい」
背もたれを、倒した。
目を、閉じた。
隣から、真柴さんの寝袋の、衣擦れの音が、した。
それから、少し、静かになった。
二分後。
「……ねえ」
「はい」
「もう、寝てる?」
「寝ます」
「寝てない」
「寝ます」
「……ぴくりとも、動かない」
「規則ですので」
「気持ち悪い」
「そうですか」
真柴さんは、小さく、笑った。
笑ってから、静かに、言った。
「……あの人、無事かな」
「はい」
「あんた、断言、しないね」
「断言は、できません」
「でも、無事だと、思ってる」
「はい」
「なら、いい」
そのまま、真柴さんの声は、聞こえなくなった。
俺は、腕を組んで、息を、ゆっくり、吐いた。
眠りは、五分で、来た。
◇
翌朝、四時に起きた。
六時に、新宿の外れに着いた。
東亜マテリアルの、搬出ヤードが見える、公園の裏手に、軽バンを止めた。
ヤードには、大型トラックが、ずらりと並んでいた。
四十台。
エンジンが、一斉に、低い音を立てていた。
運転手たちが、荷台の扉を、確認している。
倉庫から、フォークリフトが、木箱を運び出してくる。
木箱の側面に、焼き印があった。
『第41層』
遠くで、搬出ヤードの責任者らしい男が、指示を出していた。
その隣に、背筋の伸びた男が、立っていた。
鷲尾だった。
六時間、待った。
十一時五十八分。
助手席の真柴さんが、剣の鞘を、確かめた。
ダッシュボードの、無線機を、見た。
黒い箱は、何も、言わなかった。
十一時五十九分。
搬出ヤードの、一番大きな、サイレンが、鳴った。
四十台のトラックが、一斉に、動き出した。
十二時ちょうど。
足の下で、地面が、鳴った。
◇
(最終章は、十月十日(土)の正午から、一時間に一話、物語の時刻と同じ時刻に公開します。十二話・十二時間。最後の一話は、午後十一時に公開して、完結します。)
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