声のない日
鷲尾は、軽バンの窓の前に、立ったままだった。
背後で、黒いスーツの男たちが、倉庫の中に、消えていった。
鉄の扉の鍵の音が、もう一度、聞こえた。
誰かが、扉を、叩いた。
何も、返事はなかった。
「水無瀬は、当社の社員です」
鷲尾が、静かに、言った。
「社内の処分は、社内で行います。あなたが、口を出す問題では、ありません」
「その卵は」
声が、かすれていた。
「今、マイナス十二度で、止まっています。扉を開ければ、三千個が、同時に、孵ります」
「存じています」
「対処できますか」
「当社には、当社の方法があります」
鷲尾は、少しも、動じなかった。
「ただ、今夜、あなたが運んだ六箱は、そのまま、大井の倉庫に置いてください。明朝、こちらで、回収します」
「なぜ」
「争いは、お互いに、得にならないからです」
男は、助手席の真柴さんを、見た。
真柴さんの左腕は、だらりと、膝に垂れていた。右手が、剣の柄を、握ったままだった。
「真柴さん。お怪我を、されていますね。うちの社員が、搬送いたしましょうか」
「いらない」
「そうですか」
鷲尾は、微笑んだ。
「彼女に、危害は、加えません。当社の、大切な、社員ですから」
その言葉の何が、信用できて、何が、できないのか。
分からなかった。
けれど、一つだけ、分かった。
今夜、ここで、動けば、真柴さんが、死ぬ。
「……行きます」
俺は、ギアを入れた。
「それが、賢明です」
鷲尾は、一歩、下がった。
路地を、ゆっくり、バックで、出た。
ミラーの中で、鉄の扉の、磨りガラスに、影が、一つ、貼りついていた。
動かなかった。
影は、ずっと、こちらを、見ていた。
◇
翌朝。
水無瀬さんの番号に、かけた。
呼び出し音が、一度も、鳴らなかった。
『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていない』
十回、かけた。
ダッシュボードの無線機を、見た。
黒い箱は、何も、言わなかった。
助手席には、真柴さんが、座っていた。
左腕を、三角巾で、首から吊っている。
「毒は、三日で、抜けるって」
「そうですか」
「三日間、左は、使えない」
「剣は」
「右で、振る」
「無理は」
「あんたに、言われたくない」
真柴さんは、フロントガラスを、見た。
「……あの人、大丈夫かな」
「分かりません」
「鷲尾、手荒なこと、しないよね」
「しないと、思います」
「思います、じゃなくて」
「分かりません」
真柴さんは、それ以上は、聞かなかった。
俺は、エンジンをかけた。
今日は、第一土曜日だった。
◇
駅前のロータリーに、美緒は、先に、立っていた。
私服。長い髪。肩から斜めにかけた鞄。
軽バンを見て、手を上げた。
そのまま、助手席の真柴さんを、見て、動きを止めた。
「……あの人も、乗ってるの」
「怪我をしている」
「腕」
美緒は、窓の前に、回った。
真柴さんが、窓を開けた。
「こんにちは」
「こんにちは。……大丈夫ですか」
「うん。三日で治る」
「何と戦ったんですか」
「ちっちゃいトカゲ」
「ちっちゃい」
「数が、多かった」
美緒は、少し、考えた。
「後ろ、乗れますか」
「荷台は、乗れないって、お父さんが」
「法律ですので」
「固い」
「固くない」
真柴さんが、窓から、顔を引っ込めて、言った。
「降りるよ。電車で、帰る」
「いえ」
美緒が、首を振った。
「今日は、お父さんと、二人で。……すみません」
「いいって」
真柴さんは、軽く笑った。
「楽しんできな」
助手席のドアが、開いた。
真柴さんが、降りた。三角巾の下の、左腕が、小さく揺れた。
「あんた、ちゃんと、親父の運転、見てやんな」
「はい」
「じゃあね」
真柴さんは、片手を上げて、駅のほうへ、歩き出した。
美緒は、その背中を、しばらく、見ていた。
それから、助手席に座って、小さく、言った。
「……いい人だね」
「そうだな」
「付き合ってないんだよね」
「付き合っていない」
「ふうん」
その、ふうん、の意味が、少しだけ、分かった気がした。
昼は、渋谷の店ではなく、新宿の裏通りの喫茶店に入った。
美緒の学校の近くだった。
窓から、校舎の屋根が、見えた。
「文化祭の準備で、毎日、遅いんだ」
「そうか」
「来週の、土曜だよ。覚えてる?」
「覚えている」
「約束だよ」
「約束だ」
美緒は、コーヒーに、ミルクを、入れた。
「あとね。うちの校庭の、端っこ」
「ん」
「先週から、湯気が出てるの」
手が、止まった。
「地面から。うっすら。男子が、温泉が出たって、大騒ぎしてる」
「……温泉」
「足湯を作ろうって、実行委員長が言い出して」
「やめさせなさい」
「やめないよ。人気のイベントになると思う」
美緒は、笑った。
俺は、笑えなかった。
団地の井戸の、二十九度を、思い出した。
青梅街道の、五センチの隆起を。
「美緒」
「なに」
「校庭に、入らないように」
「え?」
「近づかないように。ロープを、張ってもらいなさい」
「どうして」
「……お父さんの、勘だ」
美緒は、じっと、俺を見た。
「お父さん、今日、ずっと、携帯を見てる」
「ああ」
「誰か、待ってる?」
「待っている電話が、ある」
「彼女?」
「違う」
「じゃあ、誰」
「……道を、教えてくれる人」
「道?」
「お父さんは、道を、全部、知っていた。でも、今は、毎日、変わる。その人が、いつも、教えてくれていた」
美緒は、しばらく、黙っていた。
それから、静かに、言った。
「お父さんの道、お父さんが、一番、知ってるじゃん」
「知っていた。昨日までは」
「ふうん」
美緒は、窓の外を、見た。
「でも、お父さんが、今日、私を迎えに来る道は、迷わなかった」
「それは、毎月、通る道だ」
「私の学校までの道も、分かる?」
「分かる」
「じゃあ、大丈夫」
美緒は、コーヒーを、一口、飲んだ。
「その人の電話が、来なくても。お父さんは、大丈夫」
何か、言い返したかった。
言葉が、出なかった。
◇
声のない五日間が、始まった。
水無瀬さんの電話は、通じなかった。
無線機は、ダッシュボードで、黙っていた。
道は、毎日、変わった。
新宿の周りの道が、一日ごとに、隆起し、割れ、湯気を上げた。
昨日まで通れた道が、今日は、通れない。
三車線が、一車線に。一車線が、通行止めに。
大野さんの名簿を使った配送が、毎日、あった。
団地。町。独り暮らしの老人の家。
一件ごとに、道が、変わった。
頭の中の地図が、一日で、古くなる。
そのたびに、無意識に、ダッシュボードに、手が伸びた。
何も言わない箱に、指が、触れた。
「次の角、右です」
三日目、真柴さんが、助手席から、言った。
「……右ですか」
「右」
右に曲がった。
行き止まりだった。
「……あれ?」
「真柴さん」
「ちょっと待って。三百メートル先、左」
「左」
左に曲がった。
工事中の、壁だった。
「おかしいな。あの人は、こうやって、言ってたよ」
「水無瀬さんは、言う前に、全部、調べています」
「そっか」
「道が、変わったことも、毎朝、確認している」
「……当たり前みたいに、言うなあ」
真柴さんは、肩をすくめた。
「あの人、本当に、全部、知ってたんだね」
「はい」
「悔しい」
「悔しいですか」
「うん」
真柴さんは、窓の外を、見た。
「声の、真似しても、全然、当たらない」
笑ってしまった。
助手席の真柴さんも、少し、笑った。
その笑いは、すぐに、消えた。
四日目の夜、携帯電話が、鳴った。
水無瀬さんではなかった。
「早坂さんですか。大田総合病院の、小児科の、榊です」
あの日の、女性医師だった。
「ご無沙汰しています」
「お忙しいところ、すみません。明後日の、金曜日に、月光苔の、培養液が、仕上がります」
喉が、動いた。
「あの子の、治療を、再開できます」
「……よかった」
「ただ、許可制で、事業者には、運んでもらえなくなりました。培養所から、直接、病院へ。病院の職員が、自分たちの車で、取りに行くしか、ありません」
「分かります」
「でも、職員は、運び方を、知りません」
声が、少し、震えていた。
「あの日の、荷崩れのことは、早坂さんの、せいではありません。でも、あの子のために、もう一度、お力を、貸していただけませんか」
俺は、息を吸った。
「……運ぶのは、できません」
「はい」
「でも、教えることは、できます」
「教える」
「積み方と、運転の仕方を。明日、病院に伺います。職員の方に」
電話の向こうで、榊先生が、息を、吐いた。
「ありがとうございます」
「今夜中に、車の積み込みスペースの、写真を、送ってください」
「はい」
電話を、切った。
手が、軽かった。
◇
五日目の夜、十一時を過ぎていた。
部屋で、一人、無線機を見ていた。
電源が入らないと、分かっていた。
それでも、見ていた。
その時、携帯電話が、鳴った。
非通知だった。
出た。
「……早坂さん」
低くて、早い声だった。
ひどく、小さかった。
「水無瀬さん」
「長くは、話せません。資料室から、掛けています。見張りが、一人」
「無事ですか」
「はい。異動は、資料室勤務に、変わりました。……鷲尾は、私を、手元に、置くことにしたようです」
「怪我は」
「ありません」
一拍、あった。
「……ありがとうございます。あの夜」
「何も、できませんでした」
「できていました」
水無瀬さんは、言った。
「あの冷凍庫は、三千個を、外に出さずに、止められました。あなたが、いたから」
何か、言い返そうとした。
声が、また、遅れた。
「早坂さん。お願いが、あります」
「はい」
「明後日の、土曜日の、正午。新宿に、来てください」
「正午」
「東亜は、その時刻に、深層で掘った素材を、大型トラック四十台で、一斉に、運び出します。ここの、予定表に、書いてありました」
紙をめくる音が、した。
「許可制の、施行日から、ずっと、準備していた作戦です。許可を持つ、東亜だけが、深層素材を、独占できる」
「四十台」
「見届けてください。何が、起きるのか」
「何が、起きるのですか」
「分かりません」
水無瀬さんは、静かに、言った。
「でも、あの冷凍庫の卵が、深層の卵なら。それを、掘った場所は」
声が、切れた。
足音が、近づいたらしい。
「……切ります」
「水無瀬さん」
「はい」
「無事で」
一拍、あった。
「……はい」
電話が、切れた。
部屋が、静かになった。
窓の外で、地面が、低く、鳴った。
足の裏で、確かに、感じた。
遠くで、新宿の方角の空が、うっすらと、赤く、見えた。
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