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17/30

声のない日

 鷲尾は、軽バンの窓の前に、立ったままだった。

 背後で、黒いスーツの男たちが、倉庫の中に、消えていった。

 鉄の扉の鍵の音が、もう一度、聞こえた。

 誰かが、扉を、叩いた。

 何も、返事はなかった。

「水無瀬は、当社の社員です」

 鷲尾が、静かに、言った。

「社内の処分は、社内で行います。あなたが、口を出す問題では、ありません」

「その卵は」

 声が、かすれていた。

「今、マイナス十二度で、止まっています。扉を開ければ、三千個が、同時に、孵ります」

「存じています」

「対処できますか」

「当社には、当社の方法があります」

 鷲尾は、少しも、動じなかった。

「ただ、今夜、あなたが運んだ六箱は、そのまま、大井の倉庫に置いてください。明朝、こちらで、回収します」

「なぜ」

「争いは、お互いに、得にならないからです」

 男は、助手席の真柴さんを、見た。

 真柴さんの左腕は、だらりと、膝に垂れていた。右手が、剣の柄を、握ったままだった。

「真柴さん。お怪我を、されていますね。うちの社員が、搬送いたしましょうか」

「いらない」

「そうですか」

 鷲尾は、微笑んだ。

「彼女に、危害は、加えません。当社の、大切な、社員ですから」

 その言葉の何が、信用できて、何が、できないのか。

 分からなかった。

 けれど、一つだけ、分かった。

 今夜、ここで、動けば、真柴さんが、死ぬ。

「……行きます」

 俺は、ギアを入れた。

「それが、賢明です」

 鷲尾は、一歩、下がった。

 路地を、ゆっくり、バックで、出た。

 ミラーの中で、鉄の扉の、磨りガラスに、影が、一つ、貼りついていた。

 動かなかった。

 影は、ずっと、こちらを、見ていた。


         ◇


 翌朝。

 水無瀬さんの番号に、かけた。

 呼び出し音が、一度も、鳴らなかった。

 『おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていない』

 十回、かけた。

 ダッシュボードの無線機を、見た。

 黒い箱は、何も、言わなかった。

 助手席には、真柴さんが、座っていた。

 左腕を、三角巾で、首から吊っている。

「毒は、三日で、抜けるって」

「そうですか」

「三日間、左は、使えない」

「剣は」

「右で、振る」

「無理は」

「あんたに、言われたくない」

 真柴さんは、フロントガラスを、見た。

「……あの人、大丈夫かな」

「分かりません」

「鷲尾、手荒なこと、しないよね」

「しないと、思います」

「思います、じゃなくて」

「分かりません」

 真柴さんは、それ以上は、聞かなかった。

 俺は、エンジンをかけた。

 今日は、第一土曜日だった。


         ◇


 駅前のロータリーに、美緒は、先に、立っていた。

 私服。長い髪。肩から斜めにかけた鞄。

 軽バンを見て、手を上げた。

 そのまま、助手席の真柴さんを、見て、動きを止めた。

「……あの人も、乗ってるの」

「怪我をしている」

「腕」

 美緒は、窓の前に、回った。

 真柴さんが、窓を開けた。

「こんにちは」

「こんにちは。……大丈夫ですか」

「うん。三日で治る」

「何と戦ったんですか」

「ちっちゃいトカゲ」

「ちっちゃい」

「数が、多かった」

 美緒は、少し、考えた。

「後ろ、乗れますか」

「荷台は、乗れないって、お父さんが」

「法律ですので」

「固い」

「固くない」

 真柴さんが、窓から、顔を引っ込めて、言った。

「降りるよ。電車で、帰る」

「いえ」

 美緒が、首を振った。

「今日は、お父さんと、二人で。……すみません」

「いいって」

 真柴さんは、軽く笑った。

「楽しんできな」

 助手席のドアが、開いた。

 真柴さんが、降りた。三角巾の下の、左腕が、小さく揺れた。

「あんた、ちゃんと、親父の運転、見てやんな」

「はい」

「じゃあね」

 真柴さんは、片手を上げて、駅のほうへ、歩き出した。

 美緒は、その背中を、しばらく、見ていた。

 それから、助手席に座って、小さく、言った。

「……いい人だね」

「そうだな」

「付き合ってないんだよね」

「付き合っていない」

「ふうん」

 その、ふうん、の意味が、少しだけ、分かった気がした。


 昼は、渋谷の店ではなく、新宿の裏通りの喫茶店に入った。

 美緒の学校の近くだった。

 窓から、校舎の屋根が、見えた。

「文化祭の準備で、毎日、遅いんだ」

「そうか」

「来週の、土曜だよ。覚えてる?」

「覚えている」

「約束だよ」

「約束だ」

 美緒は、コーヒーに、ミルクを、入れた。

「あとね。うちの校庭の、端っこ」

「ん」

「先週から、湯気が出てるの」

 手が、止まった。

「地面から。うっすら。男子が、温泉が出たって、大騒ぎしてる」

「……温泉」

「足湯を作ろうって、実行委員長が言い出して」

「やめさせなさい」

「やめないよ。人気のイベントになると思う」

 美緒は、笑った。

 俺は、笑えなかった。

 団地の井戸の、二十九度を、思い出した。

 青梅街道の、五センチの隆起を。

「美緒」

「なに」

「校庭に、入らないように」

「え?」

「近づかないように。ロープを、張ってもらいなさい」

「どうして」

「……お父さんの、勘だ」

 美緒は、じっと、俺を見た。

「お父さん、今日、ずっと、携帯を見てる」

「ああ」

「誰か、待ってる?」

「待っている電話が、ある」

「彼女?」

「違う」

「じゃあ、誰」

「……道を、教えてくれる人」

「道?」

「お父さんは、道を、全部、知っていた。でも、今は、毎日、変わる。その人が、いつも、教えてくれていた」

 美緒は、しばらく、黙っていた。

 それから、静かに、言った。

「お父さんの道、お父さんが、一番、知ってるじゃん」

「知っていた。昨日までは」

「ふうん」

 美緒は、窓の外を、見た。

「でも、お父さんが、今日、私を迎えに来る道は、迷わなかった」

「それは、毎月、通る道だ」

「私の学校までの道も、分かる?」

「分かる」

「じゃあ、大丈夫」

 美緒は、コーヒーを、一口、飲んだ。

「その人の電話が、来なくても。お父さんは、大丈夫」

 何か、言い返したかった。

 言葉が、出なかった。


         ◇


 声のない五日間が、始まった。

 水無瀬さんの電話は、通じなかった。

 無線機は、ダッシュボードで、黙っていた。

 道は、毎日、変わった。

 新宿の周りの道が、一日ごとに、隆起し、割れ、湯気を上げた。

 昨日まで通れた道が、今日は、通れない。

 三車線が、一車線に。一車線が、通行止めに。

 大野さんの名簿を使った配送が、毎日、あった。

 団地。町。独り暮らしの老人の家。

 一件ごとに、道が、変わった。

 頭の中の地図が、一日で、古くなる。

 そのたびに、無意識に、ダッシュボードに、手が伸びた。

 何も言わない箱に、指が、触れた。


「次の角、右です」

 三日目、真柴さんが、助手席から、言った。

「……右ですか」

「右」

 右に曲がった。

 行き止まりだった。

「……あれ?」

「真柴さん」

「ちょっと待って。三百メートル先、左」

「左」

 左に曲がった。

 工事中の、壁だった。

「おかしいな。あの人は、こうやって、言ってたよ」

「水無瀬さんは、言う前に、全部、調べています」

「そっか」

「道が、変わったことも、毎朝、確認している」

「……当たり前みたいに、言うなあ」

 真柴さんは、肩をすくめた。

「あの人、本当に、全部、知ってたんだね」

「はい」

「悔しい」

「悔しいですか」

「うん」

 真柴さんは、窓の外を、見た。

「声の、真似しても、全然、当たらない」

 笑ってしまった。

 助手席の真柴さんも、少し、笑った。

 その笑いは、すぐに、消えた。


 四日目の夜、携帯電話が、鳴った。

 水無瀬さんではなかった。

「早坂さんですか。大田総合病院の、小児科の、榊です」

 あの日の、女性医師だった。

「ご無沙汰しています」

「お忙しいところ、すみません。明後日の、金曜日に、月光苔の、培養液が、仕上がります」

 喉が、動いた。

「あの子の、治療を、再開できます」

「……よかった」

「ただ、許可制で、事業者には、運んでもらえなくなりました。培養所から、直接、病院へ。病院の職員が、自分たちの車で、取りに行くしか、ありません」

「分かります」

「でも、職員は、運び方を、知りません」

 声が、少し、震えていた。

「あの日の、荷崩れのことは、早坂さんの、せいではありません。でも、あの子のために、もう一度、お力を、貸していただけませんか」

 俺は、息を吸った。

「……運ぶのは、できません」

「はい」

「でも、教えることは、できます」

「教える」

「積み方と、運転の仕方を。明日、病院に伺います。職員の方に」

 電話の向こうで、榊先生が、息を、吐いた。

「ありがとうございます」

「今夜中に、車の積み込みスペースの、写真を、送ってください」

「はい」

 電話を、切った。

 手が、軽かった。


         ◇


 五日目の夜、十一時を過ぎていた。

 部屋で、一人、無線機を見ていた。

 電源が入らないと、分かっていた。

 それでも、見ていた。

 その時、携帯電話が、鳴った。

 非通知だった。

 出た。

「……早坂さん」

 低くて、早い声だった。

 ひどく、小さかった。

「水無瀬さん」

「長くは、話せません。資料室から、掛けています。見張りが、一人」

「無事ですか」

「はい。異動は、資料室勤務に、変わりました。……鷲尾は、私を、手元に、置くことにしたようです」

「怪我は」

「ありません」

 一拍、あった。

「……ありがとうございます。あの夜」

「何も、できませんでした」

「できていました」

 水無瀬さんは、言った。

「あの冷凍庫は、三千個を、外に出さずに、止められました。あなたが、いたから」

 何か、言い返そうとした。

 声が、また、遅れた。

「早坂さん。お願いが、あります」

「はい」

「明後日の、土曜日の、正午。新宿に、来てください」

「正午」

「東亜は、その時刻に、深層で掘った素材を、大型トラック四十台で、一斉に、運び出します。ここの、予定表に、書いてありました」

 紙をめくる音が、した。

「許可制の、施行日から、ずっと、準備していた作戦です。許可を持つ、東亜だけが、深層素材を、独占できる」

「四十台」

「見届けてください。何が、起きるのか」

「何が、起きるのですか」

「分かりません」

 水無瀬さんは、静かに、言った。

「でも、あの冷凍庫の卵が、深層の卵なら。それを、掘った場所は」

 声が、切れた。

 足音が、近づいたらしい。

「……切ります」

「水無瀬さん」

「はい」

「無事で」

 一拍、あった。

「……はい」

 電話が、切れた。

 部屋が、静かになった。

 窓の外で、地面が、低く、鳴った。

 足の裏で、確かに、感じた。

 遠くで、新宿の方角の空が、うっすらと、赤く、見えた。

お読みいただき、ありがとうございます。

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