名簿
翌々日の朝、コンビニの駐車場で待っていたのは、真柴さんではなかった。
軽バンの横に、大柄な老人が立っていた。
背が高く、肩幅が広い。短く刈った白髪。紺のジャンパー。腕を組んで、仁王立ちだった。
「遅い」
「七時ちょうどです」
「二分前に着いてるのが、礼儀だ」
大野源三。六十八歳。
大手宅配の、営業所の所長だった人だ。俺を二十年、使った人でもある。
「所長」
「もう、所長じゃない」
「では、大野さん」
「いや、所長でいい」
「どっちですか」
「どっちでもいい。助手席に、乗せろ」
大野さんは、返事を待たずに、助手席のドアを開けた。
携帯電話が、鳴った。
真柴さんからの、メッセージだった。
『始末書の面談。夕方まで。助手席、空けといて。明日は乗る』
空けておく必要は、なくなった。
俺は、運転席に座った。
◇
「聞いたぞ」
大野さんは、シートベルトを、わざと、胸の前で引っぱった。
「ただで、運んでるそうだな。朝霧団地の、平井から聞いた」
「平井さんをご存じなんですか」
「昔の、同業だ。大型のな。四十年、顔を合わせた」
「そうですか」
「三日分しか薬がなかった年寄りに、お前が、持っていったと」
「運んだだけです」
「運んだだけ、か」
大野さんは、鼻から、息を吐いた。
「相変わらずだな。お前は」
それ以上は、言わなかった。
ダッシュボードの無線機に、目が行った。
「何だ、それ」
「無線機です」
「点いてないぞ」
「止まっています」
「何で付けてる」
「……癖です」
大野さんは、しばらく、それを見ていた。
それから、何も言わずに、足元の鞄を、膝の上に載せた。
古い革の鞄だった。ファスナーの引き手が、取れて、紐で、代わりを付けてある。
中から、分厚い手帳が、出てきた。
表紙が、ぼろぼろだった。付箋が、何十枚も、挟まっている。
「これを、見ろ」
開いた。
びっしり、名前が書いてあった。
住所。電話番号。得意な区域。運転できる車種。
「名簿だ」
「何の」
「辞めた連中の、名簿だ。大手を、定年で辞めた者。体を壊して、辞めた者。俺と同じ、居場所がなくなった者」
大野さんは、ページをめくった。
「全部で、八十三人」
「そんなに」
「みんな、まだ、運転できる。八十三人のうち、軽に乗れるのは、六十一人」
六十一人。
その数字を、頭の中で、置いた。
「十年かけて、集めた。年賀状の、やりとりでな。毎年、俺は、全員に、ハガキを出した」
「何のために」
「いつか、使えると思ってな」
大野さんは、手帳を、静かに閉じた。
「お前が、ただで運ぶと聞いて、確信した。今が、いつかだ」
◇
その日は、四か所を回った。
新宿の東側の、取り残された町。薬と、乾電池と、紙おむつ。名簿の、六人が、情報をくれた場所だった。
大野さんは、助手席で、ずっと、しゃべっていた。
「俺はな、昔、一日に、三百個、配った」
「二百八十七個です」
「ん?」
「ある年の、年末の、一番多かった日。二百八十七個でした。三百個は、達成していません」
「……細かいな」
「記録を、覚えています」
「あの日の山越えは、雪だった」
「雨でした」
「雪だ」
「雨です。気温は、四度。傘を、三本、使いました」
「……そんなことまで、覚えてんのか、お前は」
「所長が、毎年、同じ話をするので」
大野さんは、窓の外を向いて、しばらく、黙っていた。
それから、小さな声で、言った。
「……やっぱり、お前は、変わんねえな」
笑っているようにも、見えた。
三か所目を終えて、四か所目へ向かう途中だった。
大野さんが、助手席で、ぽつりと言った。
「徹」
下の名前で、呼ばれた。
大手にいたころ、大野さんは、よく、そう呼んだ。
「何で、辞めた」
車は、赤信号で、止まっていた。
「あの年の、秋だ。お前は、突然、辞表を出した。俺は、理由を、聞かなかった」
「はい」
「今、聞く」
フロントガラスの向こうを、通学の高校生が、自転車で、通り過ぎていった。
「同期に、久保田という男がいました」
俺は、言った。
「知ってる」
「十月の、金曜日でした。夕方の、時間指定の荷物が、重なっていました。本部から、全員に、時間内に配れと、通達が出ていました」
「ああ」
「久保田は、休憩を取らずに走っていました。四時間を、超えていた。あいつは、四時間半、ハンドルを握っていました」
喉が、乾いた。
「交差点で、自転車の高校生を、巻き込みました」
「……」
「骨折でした。ただ、後遺症が、残りました」
「久保田は」
「次の週に、辞めました」
信号が、青になった。
アクセルを、踏んだ。
踏み方は、いつもと、同じだった。
「あの日、俺は、同じ道を、走っていました。久保田の、一本、隣の道を。守れと言われた時間は、二分、短かった」
「二分」
「俺は、その二分を、守りませんでした。信号の前で、止まりました」
大野さんは、何も言わなかった。
「でも、久保田は、守りました」
言葉が、少し、遅れた。
「守らないやつから、死ぬ、と、先輩に、教わりました。休憩は、四時間で、三十分。それが、俺の規則です」
「……ああ」
「会社は、それを、守らせてくれなかった。本部が、時間内にと、言い続けた」
大野さんは、窓の外を、見ていた。
長い間、黙っていた。
それから、静かに、言った。
「俺が、言い続けた」
「所長は」
「営業所の所長は、本部の命令を、現場に降ろす役だ。俺は、あの通達を、毎朝、お前たちに読み上げた」
大野さんは、拳を、膝の上で、握った。
「久保田の事故のあと、俺は、本部に、掛け合った。通達の撤回を、求めた。……聞いてもらえなかった」
「そうでしたか」
「お前が、辞表を出した日、俺は、止めなかった」
「はい」
「止められなかった。お前が正しいのは、分かっていた」
大野さんの声が、少し、割れた。
「三か月後に、俺も、辞めた」
俺は、何も、言えなかった。
「だから、名簿を作った」
大野さんは、言った。
「辞めた連中は、みんな、どこかで、悔しい思いをしてる。もう一度、荷物を運ばせてやりたい。……今度は、時間内にじゃない。誰かのために、だ」
その言葉が、胸に、静かに、落ちた。
◇
四か所目の手前で、青梅街道に入った。
新宿の西側を、東西に走る、広い道だ。
二十年、配達で通った道だった。
車線が、片側三つ。信号の間隔は、四百メートル。街路樹の、一本一本の位置まで、頭に入っている。
その道の、中ほどだった。
前輪が、何かに、乗り上げた。
どん、と、車体が、突き上げられた。
大野さんの頭が、天井に、当たった。
「痛え! 何だ!」
ブレーキを、踏んだ。
止まる三秒前から、ではなかった。
一秒だった。
軽バンは、路肩で、止まった。
エンジンを、切った。
降りた。
道路を、見た。
アスファルトが、盛り上がっていた。
車線を、三つとも、横切るように、一本の、細い山脈のように。
高さは、およそ、五センチ。
長さは、道の端から端まで。
両側の、歩道の縁石まで、割れていた。
ひびの内側から、薄い、湯気が、上がっていた。
「……地震か?」
大野さんが、降りてきた。
「いいえ」
「じゃあ、何だ」
「昨日、この道を、通りました」
喉が、鳴った。
「この場所に、段差は、ありませんでした」
俺は、道の端に、しゃがんだ。
手を、アスファルトに、当てた。
温かかった。
足の下で、何かが、ゆっくり、動いているような、気がした。
大野さんが、後ろで、小さく言った。
「……迷宮の、せいか」
答えられなかった。
遠くで、新宿の迷宮のゲートの建屋が、薄い靄の向こうに、白く、浮かんでいた。
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