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14/30

名簿

 翌々日の朝、コンビニの駐車場で待っていたのは、真柴さんではなかった。

 軽バンの横に、大柄な老人が立っていた。

 背が高く、肩幅が広い。短く刈った白髪。紺のジャンパー。腕を組んで、仁王立ちだった。

「遅い」

「七時ちょうどです」

「二分前に着いてるのが、礼儀だ」

 大野源三。六十八歳。

 大手宅配の、営業所の所長だった人だ。俺を二十年、使った人でもある。

「所長」

「もう、所長じゃない」

「では、大野さん」

「いや、所長でいい」

「どっちですか」

「どっちでもいい。助手席に、乗せろ」

 大野さんは、返事を待たずに、助手席のドアを開けた。

 携帯電話が、鳴った。

 真柴さんからの、メッセージだった。

 『始末書の面談。夕方まで。助手席、空けといて。明日は乗る』

 空けておく必要は、なくなった。

 俺は、運転席に座った。


         ◇


「聞いたぞ」

 大野さんは、シートベルトを、わざと、胸の前で引っぱった。

「ただで、運んでるそうだな。朝霧団地の、平井から聞いた」

「平井さんをご存じなんですか」

「昔の、同業だ。大型のな。四十年、顔を合わせた」

「そうですか」

「三日分しか薬がなかった年寄りに、お前が、持っていったと」

「運んだだけです」

「運んだだけ、か」

 大野さんは、鼻から、息を吐いた。

「相変わらずだな。お前は」

 それ以上は、言わなかった。

 ダッシュボードの無線機に、目が行った。

「何だ、それ」

「無線機です」

「点いてないぞ」

「止まっています」

「何で付けてる」

「……癖です」

 大野さんは、しばらく、それを見ていた。

 それから、何も言わずに、足元の鞄を、膝の上に載せた。

 古い革の鞄だった。ファスナーの引き手が、取れて、紐で、代わりを付けてある。

 中から、分厚い手帳が、出てきた。

 表紙が、ぼろぼろだった。付箋が、何十枚も、挟まっている。

「これを、見ろ」

 開いた。

 びっしり、名前が書いてあった。

 住所。電話番号。得意な区域。運転できる車種。

「名簿だ」

「何の」

「辞めた連中の、名簿だ。大手を、定年で辞めた者。体を壊して、辞めた者。俺と同じ、居場所がなくなった者」

 大野さんは、ページをめくった。

「全部で、八十三人」

「そんなに」

「みんな、まだ、運転できる。八十三人のうち、軽に乗れるのは、六十一人」

 六十一人。

 その数字を、頭の中で、置いた。

「十年かけて、集めた。年賀状の、やりとりでな。毎年、俺は、全員に、ハガキを出した」

「何のために」

「いつか、使えると思ってな」

 大野さんは、手帳を、静かに閉じた。

「お前が、ただで運ぶと聞いて、確信した。今が、いつかだ」


         ◇


 その日は、四か所を回った。

 新宿の東側の、取り残された町。薬と、乾電池と、紙おむつ。名簿の、六人が、情報をくれた場所だった。

 大野さんは、助手席で、ずっと、しゃべっていた。

「俺はな、昔、一日に、三百個、配った」

「二百八十七個です」

「ん?」

「ある年の、年末の、一番多かった日。二百八十七個でした。三百個は、達成していません」

「……細かいな」

「記録を、覚えています」

「あの日の山越えは、雪だった」

「雨でした」

「雪だ」

「雨です。気温は、四度。傘を、三本、使いました」

「……そんなことまで、覚えてんのか、お前は」

「所長が、毎年、同じ話をするので」

 大野さんは、窓の外を向いて、しばらく、黙っていた。

 それから、小さな声で、言った。

「……やっぱり、お前は、変わんねえな」

 笑っているようにも、見えた。


 三か所目を終えて、四か所目へ向かう途中だった。

 大野さんが、助手席で、ぽつりと言った。

「徹」

 下の名前で、呼ばれた。

 大手にいたころ、大野さんは、よく、そう呼んだ。

「何で、辞めた」

 車は、赤信号で、止まっていた。

「あの年の、秋だ。お前は、突然、辞表を出した。俺は、理由を、聞かなかった」

「はい」

「今、聞く」

 フロントガラスの向こうを、通学の高校生が、自転車で、通り過ぎていった。

「同期に、久保田という男がいました」

 俺は、言った。

「知ってる」

「十月の、金曜日でした。夕方の、時間指定の荷物が、重なっていました。本部から、全員に、時間内に配れと、通達が出ていました」

「ああ」

「久保田は、休憩を取らずに走っていました。四時間を、超えていた。あいつは、四時間半、ハンドルを握っていました」

 喉が、乾いた。

「交差点で、自転車の高校生を、巻き込みました」

「……」

「骨折でした。ただ、後遺症が、残りました」

「久保田は」

「次の週に、辞めました」

 信号が、青になった。

 アクセルを、踏んだ。

 踏み方は、いつもと、同じだった。

「あの日、俺は、同じ道を、走っていました。久保田の、一本、隣の道を。守れと言われた時間は、二分、短かった」

「二分」

「俺は、その二分を、守りませんでした。信号の前で、止まりました」

 大野さんは、何も言わなかった。

「でも、久保田は、守りました」

 言葉が、少し、遅れた。

「守らないやつから、死ぬ、と、先輩に、教わりました。休憩は、四時間で、三十分。それが、俺の規則です」

「……ああ」

「会社は、それを、守らせてくれなかった。本部が、時間内にと、言い続けた」

 大野さんは、窓の外を、見ていた。

 長い間、黙っていた。

 それから、静かに、言った。

「俺が、言い続けた」

「所長は」

「営業所の所長は、本部の命令を、現場に降ろす役だ。俺は、あの通達を、毎朝、お前たちに読み上げた」

 大野さんは、拳を、膝の上で、握った。

「久保田の事故のあと、俺は、本部に、掛け合った。通達の撤回を、求めた。……聞いてもらえなかった」

「そうでしたか」

「お前が、辞表を出した日、俺は、止めなかった」

「はい」

「止められなかった。お前が正しいのは、分かっていた」

 大野さんの声が、少し、割れた。

「三か月後に、俺も、辞めた」

 俺は、何も、言えなかった。

「だから、名簿を作った」

 大野さんは、言った。

「辞めた連中は、みんな、どこかで、悔しい思いをしてる。もう一度、荷物を運ばせてやりたい。……今度は、時間内にじゃない。誰かのために、だ」

 その言葉が、胸に、静かに、落ちた。


         ◇


 四か所目の手前で、青梅街道に入った。

 新宿の西側を、東西に走る、広い道だ。

 二十年、配達で通った道だった。

 車線が、片側三つ。信号の間隔は、四百メートル。街路樹の、一本一本の位置まで、頭に入っている。

 その道の、中ほどだった。

 前輪が、何かに、乗り上げた。

 どん、と、車体が、突き上げられた。

 大野さんの頭が、天井に、当たった。

「痛え! 何だ!」

 ブレーキを、踏んだ。

 止まる三秒前から、ではなかった。

 一秒だった。

 軽バンは、路肩で、止まった。

 エンジンを、切った。

 降りた。

 道路を、見た。

 アスファルトが、盛り上がっていた。

 車線を、三つとも、横切るように、一本の、細い山脈のように。

 高さは、およそ、五センチ。

 長さは、道の端から端まで。

 両側の、歩道の縁石まで、割れていた。

 ひびの内側から、薄い、湯気が、上がっていた。

「……地震か?」

 大野さんが、降りてきた。

「いいえ」

「じゃあ、何だ」

「昨日、この道を、通りました」

 喉が、鳴った。

「この場所に、段差は、ありませんでした」

 俺は、道の端に、しゃがんだ。

 手を、アスファルトに、当てた。

 温かかった。

 足の下で、何かが、ゆっくり、動いているような、気がした。

 大野さんが、後ろで、小さく言った。

「……迷宮の、せいか」

 答えられなかった。

 遠くで、新宿の迷宮のゲートの建屋が、薄い靄の向こうに、白く、浮かんでいた。

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