ただで運ぶ
許可制の翌日から、仕事が止まった。
東亜のスポット配送の画面は、登録が消えて、白い画面になった。アプリの通知は、朝から一件も鳴らない。
残ったのは、以前からの取引先の、小さな荷物だけだった。段ボールと、通販の返品と、近所の店の配達。
軽バンの運転席に座って、ダッシュボードを見た。
無線機が、ついていた。
昨夜、部屋の隅に置いたはずのものを、今朝、気がつくと、ダッシュボードに付け直していた。
電源は、入らない。ランプも、点かない。
外せばいいものを、外せなかった。
道に迷ったとき、つい、手が伸びる。
そのたびに、何も言わない黒い箱に、指が触れる。
朝七時、コンビニの駐車場で、助手席のドアが開いた。
「おはよう」
真柴さんだった。
「どうしてここに」
「あんたの朝の場所、知ってる」
「ギルドの仕事は」
「傷病休暇。三日前から」
真柴さんは、シートベルトを締めた。
「素材の護衛は、なくなったけど、乗るなとは言われてない」
「護衛では、ありません」
「じゃあ、同乗者」
「軽バンは、二人乗りです」
「私が乗ったら、二人でしょ」
それ以上は、何も言えなかった。
真柴さんは、顎で、前を指した。
「出して」
◇
午前中の配達の途中で、府中の薬局に寄った。
五年来の取引先だ。小さな店で、白髪の女性薬剤師が、一人でやっている。
「ああ、早坂さん。ちょうどよかった」
薬剤師の三沢さんは、カウンターの奥で、困った顔をしていた。
「新宿の、朝霧団地。知ってる?」
「迷宮の西の」
「立入制限区域の縁のところ。大手の宅配が、先月で、撤退したのよ。保険が下りなくなったんですって」
「撤退」
「団地には、お年寄りが多くてね。高血圧の薬と、糖尿の薬。うちが、いつも、宅配で出してたの。それが、届かなくなって」
三沢さんは、棚から紙袋を取り出した。三つあった。
「あと三日分しか、手元にない人が、十七人。……運んでくださる業者が、どこにも、いなくて」
「運びます」
声が、先に出た。
「お代は」
「要りません」
「でも」
「素材ではないので、黒ナンバーで運べます。ガソリン代だけ、自分で持ちます」
三沢さんは、目を丸くして、それから、深く頭を下げた。
「……ありがとう」
助手席で、真柴さんが、小さく言った。
「ただで?」
「はい」
「あんた、仕事なくなったばっかりだよ」
「はい」
「馬鹿だね」
「そうですか」
「いい意味で」
真柴さんは、紙袋を、膝の上に載せた。
米も、一緒に運ぶことにした。
団地の理事長が、三沢さんに、米の相談をしていたらしい。スーパーが遠くなって、重い米を買いに行けない人が、増えているという。
府中の米屋の主人に、事情を話した。主人は、少し黙ってから、卸値より、さらに安い値を言った。
「ガソリン代にもならんが、ええわ」
主人は、そう言った。
十キロの袋を、三十四袋。
荷台の中央に、前寄りで積んだ。袋は、横に寝かせると、積みやすく、崩れにくい。袋と袋の間に、薄い毛布を挟んだ。
六分では終わらなかった。二十分、かけた。
◇
立入制限区域の手前には、検問があった。
警察官が二人と、ギルドの職員が一人。
「通行証は」
「ありません。荷物は、住民の方への、米と薬です」
警察官は、荷台をのぞいた。
「素材ではないんですね」
「はい」
「では、お通しします。長居は、しないでください」
ギルドの職員が、助手席の真柴さんを見た。
少しの間のあと、書類をめくっていた手が、止まった。
「……あ。始末書の、真柴さん」
「やめて」
「三枚目ですよね。いや、四枚目か」
「やめてって」
「ギルドの書庫に、もう、真柴さん専用の綴じ込みが」
「やめてってば」
真柴さんの耳が、赤くなった。
「名前の欄、もう、印刷してありますよ」
職員は、悪びれずに、通行を促した。
真柴さんは、窓の外を向いて、しばらく、黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……ほんとに、印刷してあんのかな」
「見に行きますか」
「行かない」
軽バンは、検問を抜けた。
◇
朝霧団地は、五階建ての古い棟が、十五、並んでいた。
迷宮のゲートの建屋が、遠くの屋根の向こうに、小さく見える。
人の気配は、あった。
一棟ごとの入口の前に、椅子が置かれていた。
椅子の上に、お年寄りが、座っていた。
十人。二十人。三十人。
全員が、こちらを見ていた。
軽バンが止まると、立ち上がった。
ゆっくり、一歩ずつ、近づいてきた。
誰も、声を出さなかった。
運転席から降りると、一番前にいた老人が、杖をついたまま、俺の前に立った。
小柄で、背筋が、まっすぐだった。
「理事長の、平井です」
「早坂です」
「あんたが、ただで運んでくれるっていう」
「はい」
「そうか」
平井さんは、荷台のほうを見た。
「兄ちゃん、これ、何キロ積んでる」
「三百四十キロです」
「……十キロ、余るな」
平井さんは、にやりと、笑った。
「軽の最大積載量は、三百五十だ」
「ご存じなんですか」
「元、トラック屋だ。四十年。大型だったがな」
真柴さんが、横で、小さく吹き出した。
エレベーターは、止まっていた。
去年から、部品が入らなくて、動かないという。
五階まで、階段だった。
台車では、上がらない。米袋は、一つずつ、肩に載せた。
十キロの袋を、肩に。
二十年、段ボールを運んできた。階段は、体が、覚えている。
足の置き方。体の傾け方。息を吐く間隔。
二階。三階。
お年寄りたちが、後ろから、ついてきた。手伝おうとして、止められるたびに、「いいから」と笑った。
真柴さんは、米袋を二つ、同時に担いでいた。
傷は、まだ、完全には治っていないはずだった。
「大丈夫ですか」
「うるさい」
「脇腹に」
「うるさい。あんたの、肩の角度、気持ち悪い」
「気持ち悪い」
「ぴくりとも、ぶれない。階段、上ってんだよ?」
「慣れています」
「それが、気持ち悪い」
上の階で、お年寄りが、笑った。
薬は、一軒ずつ、手渡した。
紙袋の名前を読み上げる。呼ばれた老人が、玄関から出てきて、両手で、受け取る。
「ありがとう。これで、今週は、持つ」
「ありがとう」
「ありがとう」
同じ言葉を、十七回、聞いた。
十七回目に、俺は、少しだけ、背中が、熱くなった。
大手にいたころ、いつも、荷物を渡すと、すぐに、次の荷物に向かった。
受け取った人の顔を、ゆっくり、見たことは、なかった。
◇
荷降ろしが終わったのは、昼を過ぎていた。
団地の中庭の、ベンチに、座らせてもらった。平井さんが、湯呑みを三つ、運んできた。
「お茶だ。ただで運んでもらったから、ただで出す」
「ありがとうございます」
熱い茶だった。
平井さんは、ベンチの端に腰を下ろして、杖を膝に立てた。
「去年も、ただで来てくれた業者が、いてな」
「去年」
「この団地の、地下の倉庫に、虫が湧いてな。何だか分からん、でかい虫だった。保健所も、ギルドも、来なかった」
「そうですか」
「そこへ、来てくれた。虫屋さんだった」
「虫屋」
「害虫駆除の、業者だ。若いのに、腕が良くてな。金は要らんと言って、一晩で、片づけていった」
平井さんは、ポケットから、一枚の名刺を取り出した。
少し折れていた。何度も、出し入れした跡があった。
「これは、持ってけ」
受け取った。
『加納防除サービス 代表 加納誠一』
「何かあったら、電話しな。変な虫が出たらな」
「虫は、専門では」
「いいんだ。持ってろ。あんたも、そういう顔だ」
「どういう顔ですか」
「ただで運ぶ顔だ」
真柴さんが、茶を飲みながら、小さく、笑った。
俺は、名刺を、財布の、免許証の隣に入れた。
帰る前に、水を、一杯もらった。
団地の、中庭の隅に、手押しポンプの、防災井戸があった。
水道が、時々、濁るので、洗い物には、井戸の水を使うという。
「飲み水は、ペットボトルだが。洗い物は、これだ」
年配の女性が、ポンプを押した。
出てきた水を、バケツに受けた。
手を、入れた。
温かかった。
風呂の、湯ほどではない。けれど、確かに、冷たくはなかった。
「……いつから」
「先月の、中ごろからだな」
平井さんが、答えた。
「最初は、気のせいだと思った。でも、日に日に、ぬるくなる」
「去年は」
「冷たかった。夏でも、手が痛いくらいにな」
胸ポケットから、温度計を出した。
大手で冷凍便を担当していたころから、持ち歩いている。
バケツの水に、差した。
しばらく、待った。
目盛りは、二十九度を指した。
十月の、井戸水の温度では、ない。
真柴さんが、後ろから、のぞき込んだ。
顔から、笑いが、消えていた。
「……迷宮の、地熱だ」
「地熱」
「下が、熱を持ってる。もっと深いところで、何かが、起きてる」
団地の向こうの屋根の上に、迷宮のゲートの建屋が、小さく、見えていた。
その下に、百メートルも、二百メートルも、岩の層が、積み重なっている。
その、ずっと下が、温まっている。
温度計を、もう一度、見た。
二十九度。
針は、少しも、動かなかった。
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