黒ナンバー
許可制の施行日の前の晩、同業者たちが、居酒屋の座敷に集まった。
「最後の素材配送、お疲れさま会」
幹事の宮田さんが、そう言った。六十二歳。軽貨物歴三十年。座敷の真ん中に座って、ジョッキを持っていた。
来ていたのは、七人だった。
若い北川さん。四十代の小林さん。無口な大久保さん。それに、坂下。俺と、護衛の真柴さん。
真柴さんは、頼まれもしないのに、来ていた。ジョッキは、早い者勝ちで、一番最初に空になった。
「では、乾杯の音頭を。許可制に」
「いや、許可制には、乾杯しない」
小林さんが、すぐ言った。
「じゃあ、何に」
「ガソリン代に」
「ガソリン代に、乾杯」
「高いな」
「高いなあ」
七つのジョッキが、鳴った。
乾杯の理由が、情けなかった。けれど、全員、本気で乾杯していた。
「一番ひどかった荷物は、何だ」
宮田さんが、焼き鳥を、串ごと頬張った。
「俺は、巣です」
北川さんが、手を挙げた。
「巣?」
「迷宮蟻の巣に、荷物を届けに行ったんです。受取人が、蟻の研究者で。ところが、誰もいない。留守でした」
「留守」
「仕方ないので、不在票を入れて、帰ってきました」
「どこに」
「ポストがなかったので、巣の入り口の、石に挟んで」
「それで」
「翌日、石ごと、食われてました」
座敷が、静かになった。
それから、爆発するように、笑い声が、起きた。
「不在票を、食われた」
「再配達の連絡、来ないぞ」
「来るわけないだろ」
小林さんは、箸を持ったまま、肩を震わせていた。
「俺は、迷宮の中で、午前中指定、受けた」
俺は、思わず、言った。
みんなが、こちらを向いた。
「迷宮の中で、午前中指定」
「第三十八層」
「それで、ハンコは」
「もらいました」
「もらったのかよ」
大久保さんが、ぼそっと、言った。
無口な大久保さんが、座敷で、初めて口を開いた。
それから、全員が、俺の肩を、順番に、叩いた。
「それ、日本で、お前だけだ」
「早坂は、ハンコの男だな」
「ハンコの男」
真柴さんが、横で、焼酎のお湯割りを持ったまま、首を振った。
「こいつ、迷宮の中で、本気で、ハンコ要求したんだよ。魔物が、車を食ってる横で」
「やめてください」
「事実」
「事実だけど」
また、笑いが、起きた。
誰かが、言った。
「でも、これも、今日までだな」
笑い声が、少し、小さくなった。
誰も、それ以上、言わなかった。
宮田さんが、ジョッキを、静かに置いた。
「三十年、迷宮の素材を運んできた。最初は、誰も、運んでくれと言わなかった。誰も、運ぶ方法を知らなかった。俺たちが、手探りで、運び方を作ったんだ」
「そうですね」
「それが、明日から、許可がなけりゃ、運べない」
「許可を、取れなかった」
「保険は、一億円。運行管理者は、国家資格。一人でやってる俺らに、取れるわけがない」
小林さんが、静かに、焼酎を飲んだ。
真柴さんが、俺のほうを、見た。
何か言いたそうだった。
言わなかった。
坂下は、その間、ほとんど、しゃべらなかった。
ビールを、ゆっくり、飲んでいた。
途中で、座敷の全員に、新しいビールを、ごちそうした。
「いいのか」
「保険が、降りたんだよ」
坂下は、笑った。
降りない、と、聞いていた。
満額は出ない、と、坂下自身が、言っていた。
けれど、あの夜から、三週間が、たっていた。事情が、変わったのかもしれない。
それ以上、聞かなかった。
九時過ぎに、坂下の携帯電話が、鳴った。
坂下は、画面を見て、立ち上がった。
「ちょっと、電話」
座敷の外へ、出ていった。
戻ってこなかった。
三十分後、真柴さんが、座敷を見回して、言った。
「坂下さんは?」
「帰ったらしい」
「財布は」
「置いていった」
坂下の財布が、座布団の下に、置いてあった。
勘定は、すでに、済んでいた。
領収書の袋を抱えて眠っていた男が、全員のビールを、現金で、前払いしていた。
◇
翌朝。
七時に、スマートフォンの通知が、鳴った。
国土交通省の、運送事業の電子窓口からだった。
三週間前に出した、許可申請の結果だった。
件名は、短かった。
『申請の結果について』
開いた。
三行しか、なかった。
『貴殿の申請は、以下の要件を満たさないため、不許可とします。
一、対物賠償保険(一億円以上)の未加入
二、運行管理者の未選任』
あと、事務的な、挨拶があった。
二行目と三行目に、挟まれた余白が、やけに、広かった。
軽バンの、運転席に座って、ダッシュボードの無線機を見た。
緑のランプが、点いた。
「東亜物流部、水無瀬です」
「早坂です」
「本日付で、早坂さんの、スポット登録は、抹消されます。許可制の施行に伴う、措置です」
「分かりました」
「無線機は……」
「返却ですね」
「はい。ただ、今日は、このまま、お使いください」
それ以上は、言えなかった。
真柴さんが、助手席に、乗り込んできた。
「聞いた」
「はい」
「私も、今日から、素材の護衛は、なくなる」
「そうですか」
「あんたが運べないなら、私も、護衛できない」
「はい」
「……仕事、なくなったね」
真柴さんは、フロントガラスを、見ていた。
「黒ナンバーは、生きています」
「素材は、運べないでしょ」
「米と、薬と、段ボールは、運べます」
「ふうん」
「それで、食べていきます」
「私は?」
「ギルドに、戻ってください」
「やだ」
真柴さんは、即座に、言った。
「あんたの車の助手席が、私の席」
「護衛の仕事が」
「関係ない」
真柴さんは、前を向いたまま、小さく、言った。
「勝手に、乗る」
俺は、何も、言わなかった。
言えなかった。
◇
夜の十一時。
部屋で、携帯電話が、鳴った。
無線ではなく、普通の着信だった。
「早坂さん」
水無瀬さんだった。
声が、今までと、違って聞こえた。無線の向こうの声ではなく、すぐ耳元で、聞こえたからかもしれない。
「今日、お昼に、社内の、コンプライアンス窓口に、伝票を、出しました」
「第四十一層の」
「はい。写真と、原本の控えと、棚卸しの記録を、添えて」
「それで」
水無瀬さんは、一度、息を吸った。
「夕方、鷲尾本部長に、呼ばれました」
部屋の灯りが、少し、暗く思えた。
「本部長は、伝票を、手に取って、言いました。これは、誤記だと。担当者の、手書きの、間違いだと」
「そんな」
「その場で、システム管理者に、電話をかけました。私の目の前で。古い伝票のデータは、全部、消されました」
息が、止まった。
「……全部、ですか」
「はい。倉庫の旧システムの、過去三年分です」
「写真は」
「社用の携帯は、その場で、回収されました」
水無瀬さんの声は、淡々としていた。
「ただ、私物の携帯の写真は、残っています。それと、紙の原本が」
「原本が」
「倉庫の、資料室に、まだ、あります。本部長は、紙の存在を、知りません。棚卸しのとき、私が、別の箱に、移しました」
「水無瀬さん」
「明日から、私は、物流部の配車を、外れます」
水無瀬さんは、続けた。
「倉庫勤務です。路地裏の、古い倉庫の、荷役の担当に」
それが、何を意味するのか、すぐに、分かった。
配車の端末が、触れなくなる。
道が、見えなくなる。
「異動、ですか」
「処分ではありません。人事の、通常の、異動です」
「そう、言われた」
「はい」
水無瀬さんは、少し、笑ったようだった。
笑っているのかどうか、分からないほど、小さな声だった。
「早坂さんの無線機は、今夜で、停波します。貸与も、今日までです」
「返却は」
「必要ありません。差し上げます」
「……」
「それと」
水無瀬さんは、言った。
「私は、早坂さんの運転を、前から、知っていました」
初めて、聞く話だった。
「七年前から、大手の配車センターにいました。あなたの区域の配車を、画面で見ていました。画面の中の、あなたの車の点を、毎日、見ていたんです」
「そう、だったんですか」
「遅延が、一度もなかった。再配達も、ほとんどなかった。私が出した道を、疑わずに、曲がってくれる点でした」
声が、少しだけ、早くなった。
「あなたが辞めたと聞いて、悔しかった。去年、東亜のスポット登録の名簿に、あなたの名前が出たとき、すぐに電話をしたかった。でも、電話をする理由が、ありませんでした」
「……あの日」
「トラックが、横転しました。やっと、理由ができたんです」
俺は、何も、言えなかった。
「ありがとうございました」
電話は、静かに、切れた。
部屋の隅に置いた、ダッシュボードから外した、無線機を、見た。
緑のランプが、点いていた。
三十秒、見ていた。
一分。
ランプが、ふっと、消えた。
部屋の中が、急に、静かになった。
あの低くて、早い声を、二度と、聞けないかもしれない。
そのことに、俺は、初めて、気づいた。
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