恐怖
元婚約者、ジョアナ=ミルフィディス。
ルイと同い年。
王家に嫁いだ女性もいるぐらい、由緒正しい家柄。
つまり、権力者。
ルイの脳裏に、数々の対処法が浮かび上がる。
不用意に接触するな。刺激をするな。回答をするな。迂闊に要求を飲むな。
笑うな。怒るな。
ただ従え。
そして逃げる。速やかに気づかれず。
・・・無理だ。
と、ルイは思った。
無理だ。店に現れた。扉の前にいる。座り込んでいる。
ルイを見つけた。
それから。
「ルイ。裏口に回ろう」
耳元で小さな声が聞こえた。
ハッと顔を上げる。
傍にクラウがいる。
クラウ。
彼女に目をつけられてはいけない。
迂闊に動いては。
「ルイ」
クラウが小さく袖を引っ張る。
答えられない。クラウに返事をすると、クラウに意識が注がれる。目を付けられる。
ジョアナは、気に入らない者をすぐに潰す。
両肩を後ろから抱き込まれるように掴まれた。グッと引かれて、ルイの身体が少し後ろに傾ぐ。
クラウがルイを庇うように前に出ようとしたのだ。
「待っ」
とっさに動いた腕とかすれた声でクラウの動きを制した。
それでもクラウが動こうとする。
体温が零れ落ちていくように冷える気分がする。
ジョアナがクラウに目をつけて、静かに口の端を上げた。
止めて。
「ルイ。忘れ物しちゃったよ。道を戻って良い?」
ルイを気遣うクラウの瞳が覗き込んでくる。ルイの状態に気づいている。
駄目だ。
あの人は嬉しそうにして、私の大切なものを私から取り除く。
ルイをただ自分の思う通りに動かそうとする。従える。それが正しい在り方だと決めている。
ジョアナが立ち上がったのが、音で分かった。
「ルイ様。ずっとお会いできなくてジョアナは心細かったのです。やっとお会いできて嬉しい。毎日手紙を送ってくださっているのを、ジョアナは心の支えにしてきましたけれど。お仕事がお忙しいって、でも、やっとお会いできました。もう一緒に国にお戻りくださいませ、旦那様」
ルイは細かく震えた。
クラウが、ジョアナの発言に理解しかねるというように眉をしかめる。
間違いは即時に正さないといけない。彼女は、意図的にルイの噂を流すのだ。
けれど、クラウに矢を向けてはならない。
「人違いです。私はあなたの旦那様ではありません」
ルイは声を張った。けれど底が震えてしまった。
彼女相手に長文は難しい。途中で割り込まれて最後まで発言させてもらえない。彼女の都合のいい言葉しか広まらないようにする。
「まぁ。旦那様ですわ。ルイ=ヴェンディクス様でしょう。先祖に魔法剣士レンを持つ、トリアナの代々の名家の、皆様から愛されておられる、末子の、ルイ様です」
集まっていた人たちからざわめきがあがった。
ルイの名前は皆が知っている。
ただし、家名はバートン以外には秘密にしてきた。祖先のレンが有名で、メリディアでもヴェンディクスの家名が有名だと知ったから。貴族だということも伏せてきた。
なのに、ジョアナがやすやすとルイの身元を明かす。
ルイが身分を伏せている事を、彼女は周囲の反応で掴んでいる。加えて、伏せた身分を広めた事で、このまま住みにくくさせた。
ゾッとする。
ジョアナが特別なのではない。
彼女は、生粋の貴族であり、正しい姿でいるだけだ。
むしろ良くできた娘だと評されていた。
「長い間、お勤めをお疲れさまでした。そちらの方は、お名前はごめんなさい、けれど長く旦那様を支えてくれてありがとう、私からも礼を言うわ。給金をたっぷり弾ませていただくわ」
クラウが口を開きそうなのを、ルイはつかむ手に力を込めて制した。
ジョアナはただ妄想を言っているわけではない。周囲に吹き込み、同時に、一方的なクラウの未来を示唆してきた。
耐えるのにまだ体は震えてくる。
今までは、逃げれば良かった。接触を避ければ。
でも違う。今はクラウがいる。ここで暮らしている。ここでの暮らしを守りたい。
クラウに言わせてはいけない。ルイが出なければ。
今までは、父が、家族が、ルイの前に立ってきてくれた。
これからは自分が守らなければ。
クラウを掴んだまま、ルイは前を向いた。笑みを作る。
身についた笑顔。いくら冷や汗が出ていても、表面に現れなければそれで良い。
ここは王宮。景色がただ違うだけ。
間違えてはいけないのは、ルイはここを逃げる気はない事。
ルイだけでなく、絶対に壊したくないものがここに揃っている事。
ただ、絶対に名前など、呼んでやるものか。
「私との婚約は8年も前に白紙です。トリアナの王も認めてくださった。お忘れですか。こちらはご旅行でー」
「まぁおかしい。解消は一時的で表面的なものでしたでしょう。変わらず心から愛しているとお手紙も」
「手紙は偽物だと証明済みです。国が認めた」
ルイの筆跡を盗み、手紙が出回った。ルイとの仲を捏造した。
ただし、彼女だけに限らない。それが貴族間で流行ったのだ。理解ができない。
騒ぎが大きくなりルイの名誉にも関わるので、家が全ての内容を整理した。祖父や祖母たちが出向き、文書の真偽を判定した。王のみに根拠を示し、王は判断を認めた。結果は記録され必要な範囲で通達された。
他の貴族がそうであるように、ヴェンディクス家も、真偽判別のための独特の手法を持っている。他家に易々と全て模倣されないよう工夫がある。
とはいえ、彼女が今胸に抱く様に握りしめている、あの張り紙は必ず回収しなくてはならない。
今の筆跡を盗まれる。
気軽に書いた。真偽判別の手法など用いていない。あれが正しいなら他の偽造文書も正しいと判定されてしまう。
回収しないと、動けない。
ルイは笑んだ。
「あなたには別に婚約者が。お戯れはやめてください。それから。お手持ちのその紙は店のもの。元にお戻しを。盗みになってしまいますよ。ここはメリディアです」
トリアナの貴族は、トリアナにおいて権力を持つ。メリディアでは直接の権力はない。それを示唆する。
実際には、国の中枢に近い貴族程、他国に置いても影響を与える事は知っている。
「勝手に掲示物を剥がさないで」
「落ちていたのを親切にも拾ったのです」
「ではお返しを。必要なので」
「嫌よ」
珍しい。単刀直入に拒否が来た。
ジョアナは美しく可憐に笑う。小首をかしげて、紙を胸に抱く。
「旦那様の文字ですもの。どうしてもというなら、ジョアナのもとにいらしてくだされば」
言葉通りに振る舞うはずはない。
「あなたのご主人はどこに?」
とルイは笑んで尋ねた。
ジョアナは笑んだまま。恐らくはルイが言い出した先をもう少し掴みたいから。
「確かオルディ家と縁を結ばれた。おめでとうございます。あなたにふさわしい。王宮にいるべきです」
ジョアナが表情を変えず見つめている。
しまったな、とルイは思った。この人の最近の動向を掴めていない。
ルイとの婚約をやっと解消してもらえた後、それでも彼女はルイに執着し続けた。
一方で、彼女は他家の年上の男性と婚約した。だから他国にまでは追ってこないと高を括ってしまった。
何か異変があったから、ルイをまた追ってきたのか?
他国にまで追ってくるとなると、現婚約者との関係に支障を起こすはずなのに。
または、現婚約者をやはりないがしろに振る舞っているだけなのか。
家の格に違いがあると格下は散々な振る舞いをされることが多い。ルイとジョアナに限った事ではない。
力のある家程、思う通りに物事を動かすことが当たり前だ。
その結果誰かが泣こうが痛もうが、それすらも楽しみ笑う。例えば、『あんなに痛がって、まぁおかしい』などという程度に。
格差があるほど下が虐げられるが、上の者はその自覚がない。共に楽しんでいると思い込む。なぜなら格下が抗議の声を上げず、ただ耐え笑うようにと教育されているからだ。
思い込みは正されない。苦言を受け付ける性格ならばいざ知らず、通常はそのような慣習はない。従って当然なのだから、格上が下の苦痛に気づく余地もなく、必要もない。
この世は、格上が納めている。
人の上に立つものが、広く公明正大で慈悲深いなどとは、嘘だ。
その判断基準がそもそも下々たちと異なっているのだから。
ところでジョアナの新しい婚約者は、ルイよりましだったがジョアナよりも格下だった。
・・・ひょっとして逃げた?
ルイは古い情報だけで推察を試みようとした。
そんな中で、ジョアナが曇りのない美しさで笑った。
「ルイ様しか選べませんの」
まるで、赤い帽子しか買いませんの、と言っている調子だった。
緑や青や黄色が用意されていても、用意されていない赤を買うと告げる。言えばすぐに用意されてきた人。それが当然の世界。
呼吸が止まる。
隣、ふっと動いた影を捉えた。ルイはハッとした。クラウだ。
クラウは敏感だ。ルイが隠そうとした心情でさえ見て取ることがある。
きっと、ルイが必死でしのごうとしている事を見抜いている。
ルイが怯えた事も。
だから、ルイを守ろうとしている。
ルイはまた震え、クラウを強く掴んで制した。
お願いだ。むざむざ相手に攻撃されに行かないで。
私が可愛いと褒めたら、そのリスを笑って犬に噛み殺させた。
私が堪えられず泣いたのを、嬉しそうに観察した。周囲に泣き顔が美しいと褒めさせた。
必死で抑える手にクラウは一瞬動きを止め、わずかな顔の動きと目の動きでルイの様子を確認した。
憮然とした表情だった。
彼女は、怒っている。
やはりルイを守ろうとしている。
ドクドクとルイの心臓が鳴る。
駄目だ、今ばかりは、クラウを立たせてはならない。
強い人だと知っている。勇気がある人だとも。
だけど、ジョアナは駄目だ。
特別な貴族。
他家から虐げられる経験を持たない、全てが思い通りになる人たちだ。
クラウを掴む手に力を入れて、必死で、『止まって』と伝える。
クラウは動かないでいてくれる。察しが良い人で、良かった。
そうでなければ、あっという間に引き離されているだろう。
言質を取られて、良いように大衆を丸め込み、別々に動きを封じられる。それが罪の意識もなくできるのだから。それが正しい事になるのだから。
周囲も緊張で様子を見守っている。
ジョアナの発言を変だと思っている人もいる。だけど、ルイが耐えている様子に、クラウが動こうとしながらも止まっている様子に、周囲も静かに止まっている。
何が起こっているのか、起こるのか、注目している。
「私はもうお選びいただけません。もう無いのです」
ルイは告げた。
あなたの手から零れ落ちたのです。
「目の前に」
ジョアナが誘うように微笑む。
「私とは生涯の者ではない。あなたとは何もなかった。儀礼的な接触しか持たない。求められても私は拒んだ。今後も変わりません」
「おかしな人。すっかり演技が身についていらっしゃいますのね」
ルイはクスクスと笑うジョアナから視線を外し、傍に控えている付き人たちを見た。他にもいるはずだが。
「私はヴェンディクスの家名を捨てる手続きを取る。あなたがたの主人には、由緒ある家柄の人こそふさわしい。早急に国に連れて帰られますように」
ルイの言葉に、男女の付き人2人は礼を取る。
「ルイ様」
ジョアナが手に持った紙をルイにわずかな動きで示してきた。
これが欲しいのでしょう、という意味だ。
あれは、回収しなくては。でもどうやって。
「手にキスをしてくだされば」
「断る」
ルイの血の気がザァと引いた。クラウがハッキリと即答したのだ。
「身の程知らずは困ったものね。契約はもうおしまいなのですよ。給金を持って里にお帰りなさいな」
余裕をもってジョアナが言った。
クラウがジョアナに向けて歩き出した。
「止めて」
ルイの声はまるで悲鳴のようになった。
クラウはチラリとルイを見て、ルイが掴んでいる手に手を重ねて外してしまった。
ルイが恐れに震えたのに構わず、クラウが力強くルイの手首をつかんだ。
「早く家に帰ろ」
強く真剣な眼差しだった。




