第39話 ノーチェ、数字の側につく
公開審問の法廷は、異様な熱気に包まれていた。
証言台に立ったロッタの「監視継続の宣誓」が、群衆に的外れな感動を呼び起こしてしまった直後。
検察席に座る保険会社の調査部長ベルディが、顔を真っ赤にして立ち上がった。
「裁判長! 先ほどから弁護人席で勝手な振る舞いをしているあの女、ノーチェは我が社の社員です! 彼女が提出したデータは、会社を陥れるために改竄されたものだ! 彼女を証言台へ!」
ベルディの怒号に、法廷の視線が一斉に俺の背後へと集まる。
ノーチェは灰色の瞳に一切の感情を浮かべず、ゆっくりと立ち上がって証言台へと歩み出た。
「ノーチェ! お前は自分が何をしているか分かっているのか!」
ベルディが証言台に身を乗り出し、声を荒らげて彼女を脅しつける。
「会社を裏切り、業界全体を敵に回して、この先まともに生きていけると思っているのか! 今すぐ先ほどのデータを撤回しろ! さもなくば懲戒解雇は当然として、損害賠償で一生日陰を歩かせてやるぞ!」
それは、巨大組織をバックにした絶対的な権力による圧力だった。
普通の人間なら、足の震えが止まらなくなるほどの露骨な恫喝。
だが、ノーチェは眼鏡を中指で静かに押し上げ、淡々とした声で言い放った。
「……数字はあなたの側にありません」
「なっ……!?」
「あなたが私をどう処分しようと、過去の理不尽追放と保険料率の不自然な連動、そしてダン氏による復讐被害の減少という事実は消去できません。私は査定員です。会社の利益ではなく、常に正しい数字の側につきます」
ノーチェの言葉は、氷のように冷たく、そして絶対的な説得力を持っていた。
「き、貴様ぁっ! 恩知らずの裏切り者め!」
ベルディが泡を食って激高する。
俺は被告席で深く座り直し、その光景をうっとりと眺めていた。
(素晴らしい。自分のキャリアを全て投げ打ってまで、俺を社会的に追い詰めるための真実を暴く。これぞ、究極に研ぎ澄まされた冷たい裏切りヘイトだ)
俺が極上の敵意に酔いしれていると、ノーチェがさらに手元のカバンから一つの魔導計算機を取り出した。
「裁判長。被告人ダン氏が社会の不満を吸収する『避雷針』として機能している決定的な証拠として、彼個人に向けられた『憎悪の観測値』のリアルタイムデータを提出します」
おお、ついに俺の集めてきたヘイトの総量が公的な数字として発表されるのか。
俺は胸を躍らせてノーチェの手元を見つめた。
ノーチェが計算機の起動ボタンを押し、表示された数値を読み上げようと口を開く。
――その瞬間だった。
ピタッ、と。
ノーチェの動きが、完全に凍りついた。
無表情だったはずの彼女の灰色の瞳が、微かに、だがはっきりと見開かれている。
計算機を持つ彼女の指先が、カタカタと不自然な痙攣を起こし、血の気が引くほど白く握り込まれていた。
「……証人? どうしましたか?」
グラデルが怪訝そうに尋ねるが、ノーチェは数秒間、彫像のように固まったまま動かなかった。
(……おや?)
俺は彼女の不自然な間合いを見て、ピンときた。
なるほど、そういうことか。
(今ここで俺のヘイト総量を発表しても、群衆の同情を煽るだけだと計算したんだな。だから、あえて今はデータを隠し、ここぞという最悪のタイミングで俺の息の根を止めるために『敵意の溜め』を作っているわけだ)
恐るべき査定員だ。憎悪の運用効率すら完璧に計算し尽くしている。
「……申し訳ありません。計算機に予期せぬエラーが発生しました」
やがて、ノーチェはパタンと計算機を閉じ、それをカバンの奥深くにしまい込んだ。
「本データの提出は、現時点では保留とさせていただきます」
「おいおい、もったいぶるなよ。俺は今すぐでも構わないんだぞ?」
俺が軽口を叩くと、ノーチェは無言のまま、ひどく冷ややかな視線を俺に向けてきた。
(いいぞ。その底知れない冷徹な眼差し。熟成された裏切りの味がする)
俺は彼女の沈黙を極上のヘイトと受け取り、法廷の空気がさらなる混沌へと向かっていくのを心地よく味わっていた。
【本日のヘイト評――裏切りの再熟成。冷たいのに胸に残る。★4.8】
◆
証言台から戻ったノーチェは、膝の上で組んだ両手が、微かに震え続けているのを自覚していた。
(……エラーです。致命的な、エラー)
先ほど、魔導計算機に表示されたダンの憎悪観測値。
それは、過去の教会の記録に残る『魔王変生』の閾値に、異常な速度で迫る絶望的な数字だった。
もしあの数字をこの法廷で公表していれば。彼は同情されるどころか、星を滅ぼす『人類の敵』として、審問庁と教会の手によって即座に処刑されていただろう。
だから、彼女は嘘をついた。
常に正しい数字の側につくと誓った査定員が、彼を生かすためだけに、初めて真実の数字を隠蔽したのだ。
(なぜ、私は……)
ノーチェは、きつく目を閉じる。
計算機を抱え込む彼女の胸の奥には、数字や論理では決して証明できない、熱くて苦しい感情が確かに根を下ろしていた。
それは、業務でも監視でもない。
ただ一人の男を失いたくないという、不器用で純粋な願いだった。
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